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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

エルサレム会議

使徒の働きシリーズ20

使徒の働き15章13節〜22節

(2025年5月4日)

異邦人が救われるためには、福音を信じるだけでなく、割礼を受けてモーセの律法を守る必要があるという主張の是非について、エルサレムで教会会議が行なわれました。

礼拝メッセージ音声

参考資料

続きを読む13節の「ヤコブ」は、イエスさまが処女降誕なさった後、ヨセフとマリアの間に生まれた弟。詳しくは2022年9月4日のメッセージ「主の兄弟ヤコブ」をご覧ください。

14節の「シメオン」は、使徒シモン・ペテロのこと。

16-18節の引用元はアモス9:11-12です。「その後」とは、全世界とイスラエルに対するさばきの時(大患難時代)が終わった後です。そのとき、キリストが再臨して理想的な王国である千年王国(神の国、天の御国)が実現します。

22節の「バルサバ」は、安息日の子という意味があります。「シラス」はラテン語名ではシルワノです。シラスはパウロの第2回伝道旅行に同行し(使徒15:40)、ペテロの第一の手紙の書記も務めました(第1ペテロ5:12)。

イントロダクション

19節で、ヤコブは「私の判断では」と語っています。私たちが物事(特に信仰生活に関すること)を判断するとき、どんな基準で判断したらいいのでしょうか。ヤコブの判断材料を参考にしましょう。

1.エルサレム会議

会議の発端

偽教師たちの教え
時は紀元49年のことです。パウロとバルナバが指導者として活動していたシリアのアンティオキア教会に、ユダヤから教師たちがやってきます。そして、教会の人たちにある教えを語ります。それは次のような内容です。

(1節)さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
もちろん、この主張は間違いです。ユダヤ人であっても異邦人であっても、人が救われる条件は恵みの福音を信じることです。

恵みの福音とは、「この自分の罪を赦すためにイエス・キリストが十字架にかけられた。そして、死んで葬られ、3日目に復活した」という内容です(第1コリント15:1-8参照)。これが本当のことだと信じ受け入れるなら、その人はすぐその場で救われ、クリスチャンとなります。
対立とパウロたちのエルサレム派遣
そこで、パウロとバルナバは偽教師たちの教えを真っ向から否定して、激しい対立が起こりました。そして、この問題についてエルサレムにいる使徒たちや長老たちと話し合うことになります。こうして、パウロとバルナバ、そして数名の人たちがエルサレムに向かいました。

パウロたちは、地中海沿いのフェニキア地方や、ユダヤとガリラヤの間にあるサマリア地方を通ってエルサレムを目指しました。その途中の町々にある教会で伝道旅行の報告をし、割礼を受けていない異邦人が救われた話をすると、クリスチャンたちは大いに喜びました。

それはエルサレム教会でも同じでした。ところが……

(5-6節)ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。そこで使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。

会議の進展

ペテロの証しと主張
多くの人々が自分の主張を述べた後、ペテロが立ち上がりました。そして、異邦人が自分の語る福音を聞いて救われた話をしました。

ペテロは神さまから幻を見せられて、「神がきよめたものを、あなたがきよくないと言ってはならない」と教えられました。ユダヤ人は伝統的に異邦人のことを汚れた存在だと考え、接触を避けてきましたが、イエスさまが十字架にかかったことによって時代が変わり、異邦人と接触しても問題がなくなったことを示しています。

その時、ローマ人であるコルネリウスという百人隊長から使いが来て、ペテロを家に招きました。幻によって教えられていたペテロは、迷わずコルネリウスの家に向かいます。

そして、イエスさまによる救いの話をしていると、それを聞いていたコルネリウスたちが聖霊さまに満たされ、異言で神さまをほめたたえ始めました。異言というのは、習ったことのない言葉を語ることで、聖霊なる神さまがクリスチャンに与えてくださる特別な能力、御霊の賜物の一種です。

すべての人に異言の賜物が与えられるわけではありませんが、このときは聖霊さまに満たされたしるしとして現われました。それは、使徒2章に記されている、ペンテコステの日の出来事と同じでした。120人ほどのイエスさまの弟子たちが、一箇所に集まって祈っていたとき、聖霊さまが下ってきて彼らを満たしましたが、その時も満たされた人たちは異言を語りました。
ペテロはその時のことを語って、割礼を受けていない異邦人の救いに関して、次のように言います。

(10-11節)そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」
パウロとバルナバの証し
それから、バルナバとパウロが、伝道旅行の間に多くのしるしと不思議、すなわち奇跡が異邦人の間で行なわれたという話をしました。

もしも、割礼を受けずモーセの律法に従う生活もしていない異邦人が、ただ恵みの福音を信じて救われるというのが間違いなら、神さまはパウロたちの働きを祝福せず、そのような奇跡を行なわれなかったはずです。

ヤコブの発言と会議の結論

ヤコブの発言
(13節)二人が話し終えると、ヤコブが応じて言った。「兄弟たち、私の言うことを聞いてください。

バルナバとパウロの発言が終わると、ヤコブが発言を始めました。このヤコブは、4人いるイエスさまの弟の一人です。

イエスさまは処女マリアから産まれましたが、その後生まれた兄弟たちはヨセフとマリアの間に生まれました。イエスさまの弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダの4人で、他に複数の妹たちがいました(マタイ13:55-56)。

ヤコブはイエスさまが公に活動していたときにはイエスさまのことを救い主だと認めていませんでしたが、復活のイエスさまに会って回心したようです(第1コリント15:7)。そして、やがてエルサレム教会の長老として人々を指導するようになりました。
ペテロの発言への支持
(14節)神が初めに、どのように異邦人を顧みて、彼らの中から御名のために民をお召しになったかについては、シメオンが説明しました。

シメオンというのは、使徒ペテロの本名です(ペテロは、石という意味のあだ名)。他の箇所ではシモンと出てきますが、シモンはシメオンのギリシア語風の読み方です。ヤコブはペテロのことをヘブル語風に呼ぶことで、ペテロが生粋のユダヤ人だということを強調しているのでしょう。

そんなペテロが神さまから幻を見せられ、さらにコルネリウスたちが聖霊さまに満たされる様子を目撃したのだから、異邦人も福音を信じるだけで救われるというのが神さまのみこころだと主張しようとしているのです。
預言の引用
(15節) 預言者たちのことばもこれと一致していて、次のように書かれています。

ヤコブは異邦人の救いについて、旧約聖書も教えているといって、その一部を引用します。ヤコブがこれから引用するのは、アモス書9:11-12です。
イスラエルの回復
(16節)『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。

この前の箇所でアモスが預言しているのは、やがて起こるイスラエルを含む全世界に神さまがさばきを下される時代、7年間続く大患難時代についてです。

大患難時代の終わりに、生き残ったユダヤ人はすべてイエスさまを信じて救われます。そして、イエスさまが再臨なさって地上の悪をすべて滅ぼし、理想的な王国である神の国(天の御国、千年王国)をお建てになります。それが16節で引用されていることです。
異邦人の救い
(17-18節) それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。──昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。』

「残りの者」とは、本当の信仰を持っているユダヤ人のことです。彼らはイエスさまを救い主だと信じる信仰によって救われ、神の国に招き入れられます。彼らだけではありません。イエスさまを信じる異邦人もまた、救われて神の国に住むようになります。

そして、それは昨日今日決まったことではなく、昔から知らされていたこと、すなわち永遠の昔に神さまがお立てになった計画に基づいています。
結論
(19節)ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。

ヤコブは結論を述べます。彼が語ったのは、異邦人信者や信者になろうとしている異邦人を悩ませないようにということ、すなわち恵みの福音を信じる以外の条件、たとえば割礼を受けろとかモーセの律法を守れとかいった条件を押しつけないようにしようということです。
異邦人信者への指示
(20節)ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。

信仰による救いの確認に加えて、ヤコブは異邦人信者に対して4つのことを避けることをお願いしようと提案しました。

1つ目が「偶像に供えたもの」。外国の町には異教の神殿があって、肉などの食べ物がささげられていました。その一部は神官たちが消費しましたが、残ったものは市場に回されて売られました。そのような食べ物が「偶像に供えたもの」で、ユダヤ人たちはそのような食べ物を口にしないよう気をつけていました。

2つ目は「淫らな行ない」です。これはいわゆる不倫、すなわち配偶者以外との性的な関係だけではありません。モーセの律法では、親子・兄弟・おじと姪の結婚を認められていません。しかし、異邦人たちの間では、三親等以内の結婚がしばしば行なわれていました。たとえばエジプトの王家では、親子やきょうだいの間の結婚は当たり前のことでした。

また、異教の神殿には娼婦や男娼がいて、参拝者の礼拝行為の一つとして性的な関係を持っていました。モーセの律法では汚れた行為とされて忌み嫌われていたものが、異邦人の間では神聖な行為とされて抵抗なく行なわれていたわけですね。

3つ目が「絞め殺したもの」。これは血抜きしていない肉や生肉のことを指します。モーセの律法では、獣の肉は完全に血抜きして調理しなければ食べてはならないとされていました。

4つ目は「」です。これは血を直接飲むことを指します。これもモーセの律法で禁じられていました。
ヤコブは、恵みの福音を信じる以外の救いの条件はないことを認めました。にもかかわらず、どうしてこの4つの禁止事項を提案したのでしょうか。それについて、ヤコブは次の節で語っています。
配慮の理由
(21節)モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」

ヤコブがここで語っていることは、外国の町にも多くのユダヤ人が住んでいて、彼らはモーセの律法を大切にしているということです。

ただし、今やモーセの律法は役割を終えました。

(ガラテヤ3:24-25)こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。

いつからそうなったかというと、イエスさまが全人類の罪の罰を身代わりに負って、十字架にかけられたときです(エペソ2:14-16)。

私たちクリスチャンには、モーセの律法の代わりに新しくキリストの律法が与えられました(第1コリント9:21)。そこでは偶像にささげた肉や血抜きしていない肉を食べたり、血を直接飲んだりすることを禁じていません。つまり、今の時代は何を食べてもよくなったのです。

(マルコ7:19)こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。

もっとも、配偶者以外との性的な関係については、新しく与えられたキリストの律法でも引き続き禁じられていますから行なってはなりません。日本では三親等以内の結婚は法律で認められておらず、キリストの律法は私たちが国の法律を守るよう教えていますから、近親結婚もダメです。

それでも、救いに必要な条件は、あくまでも恵みの福音を信じるだけです。良い行ないは救いの条件ではありません。私たちがキリストの律法を守る生活をするのは、それが救いの条件だからではなく、一方的に救ってくださったイエスさまへの感謝の故です。

しかし、すべてのユダヤ人がこういった知識を持っているわけではありません。異邦人クリスチャンが平気で偶像にささげた肉を食べたり血を飲んだりしていると、まだ救われていないユダヤ人たちだけでなく、多くのユダヤ人クリスチャンが生理的にそれを忌み嫌うでしょう。

そうなると、ユダヤ人の救いが邪魔されたり、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に分裂が起こったりするかもしれません。

そこで、ヤコブはユダヤ人の未信者や信者のために、配慮としてこの4つのことを避けてほしいとお願いしているのです。ヤコブが示した4つの禁止事項は、救いの条件ではありません。ユダヤ人への配慮です。

この提案は、エルサレム会議に参加した人たちに受け入れられました。
決定の通知
(22節)そこで、使徒たちと長老たちは、全教会とともに、自分たちの中から人を選んで、パウロとバルナバと一緒にアンティオキアに送ることに決めた。選ばれたのはバルサバと呼ばれるユダとシラスで、兄弟たちの間で指導的な人であった。

エルサレム教会の指導者たちは、会議で確認されたことを、争いの発端となったアンティオキア教会に通達することにしました。手紙を運び、口頭で説明する役割を担ったのがユダとシラスの2人です。

エルサレム教会からの手紙の宛先は、「アンティオキア、シリア、キリキアにいる異邦人の兄弟たち」となっています(23節)。ですから、アンティオキアからシリア地方やキリキア地方(今のトルコ南部)にもエルサレム会議の内容が伝わることが期待されていました。

間違ってならないことは、信仰によってのみ救われるという教えは、今回のエルサレム会議で決定したものではなく、教会が誕生したときからあったということです。それどころか、モーセの律法が有効だった旧約時代もそうでした。律法は、信仰によって救われたユダヤ人に対して、救われた者としての生き方を示すために与えられたものです。

会議ではそれを改めて確認しました。私たちは、恵みの福音を信じるだけで罪を赦され、神さまの子どもとされ、永遠に祝福されます。アーメン!
それでは、ここから私たちクリスチャンの判断基準について整理してみましょう。

2.私たちの判断基準

起こっている客観的事実

ヤコブは、ペテロの体験を取り上げて、異邦人も信仰によってのみ救われるのだということを確認しました。さらに、バルナバとパウロが報告した、異邦人の間で奇跡が起こったという事実もそれを後押ししていると考えたでしょう。

私たちは、けっこう自分勝手な思い込みで、自分自身や、他の人や、世界や、神さまのことを考えてしまうものです。しかも、否定的な解釈をして、慌てたり落ち込んだり腹を立てたり絶望したりしてしまいます。しかし、その考え、その解釈は、本当に事実に即しているでしょうか。

Aさんがひどく落ち込んで取り乱しているので、理由を尋ねました。すると、メールを送ったのに彼氏がすぐに返事をくれないといいます。そして、自分は嫌われて無視されているに違いない、自分は捨てられるといってひどく悲しんでいるのです。

そこでお尋ねしました。「彼はこれまであなたのことが嫌いだとか、もうやっていけないとかいう発言をしましたか?」「彼が今でもあなたのことを大切に思ってくれている証拠はまったくありませんか?」

自分の勝手な思い込みを事実だと信じて疑わなかったAさんは、実際に起こっていることに目を向けると少し落ち着いてきました。

さらに私は尋ねました。「あなた自身、他の人からもらったメールにすぐ返信できないことがなかったでしょうか。その場合、相手のことが嫌いで関係を断ち切りたいときだけでしたか?」

疲れていてすぐ返信できないことがあるでしょう。仕事などで忙しくしていてつい後回しになってしまうこともあるでしょう。あるいは、どんなふうに返事をしたらいいか迷ってなかなか書けないこともあるでしょう。内容的に返事は必要ないと判断することだってあるでしょう。

私たちも、否定的な気持ちや破壊的な気持ちに陥ってしまうことがあります。そしてそんな気持ちに基づいて行動してしまうと、自分や周りの人に否定的な影響を与えてしまうでしょう。

否定的な気持ちになったときは、自分が勝手な決めつけをしていないか立ち止まって考えましょう。そして、起こっている事実に目を向けることで思い込みに気づき、軌道修正することができます。

聖書の教え

私たちが判断を下すとき、周りで何が起こっているかも大事だし、常識も、個人的な好みも、過去の経験も、人の意見も、伝統も習慣も大事です。しかし、私たちの判断は、最終的には聖書のフィルターを通し、聖書によってチェックされなければなりません。
宗教改革者ルターは、当時の教会の伝統に反することを主張したために批判を浴びました。そのとき彼は、批判者たちに対してこう答えました。「聖書によって私の誤りを示してくれ。私が『これは神のみこころだ』と信じていることは、神のみことば自身によって誤りだと示されるのでない限り、曲げることはできない」。

私たちも、神のみことばである聖書の教えを、最終的に優先させる態度を身につけましょう。
聖書を調べよう
聖書の教えを優先させるためには、聖書の言葉を知らないといけませんね。ですから、折に触れて聖書を読みましょう。

読みやすいところだけをつまみ食い式に読むのもいいですが、一度、創世記から黙示録までを通して読んでみてください(通読といいます)。1日1章ずつ読めば、約3年で読み通すことができます。やり遂げると、きっと新しい発見をなさいますよ。

聖書を読むとき、感動したり、心を揺さぶられるような体験をしたりすることがありますね。でも、無味乾燥で、何も感じないときもあるでしょう。それでも、読むのです。

その時は何も感じなくても、ある日ある時、心の中に蓄えられていたみことばがあなたに何かを教え、あなたを支え、励まし、導くのです。あるいは、そうやって蓄えられたみことばの束が、心の中で有機的に結びついて、あなたに大切なメッセージを伝えてくれます。

ですから、聖書を読みましょう。特に、通読にチャレンジを!

ヤコブは、救いは無条件であって良い行ないに対するごほうびではないと認めました。ただし、ユダヤ人たちが安心して教会に集えるよう、配慮してやってくれと言いました。

すなわち、「救いは無条件」という真理を、愛の原則で生活に適用しようということです。
真理は人を傷つける
真理は大切です。ないがしろにしてはいけません。しかし、真理は人を傷つけることがあります。たとえば、「最近太ったね」……事実かも知れませんが、そんなことを言われたら、ムッとしますね。

私自身、深く考えずにズバズバものを言ったり言葉足らずの発言をしたりして、他の方たちを混乱させたり悲しませたりしてきました。誰しもが配慮に欠けた発言によって傷つけられた経験、逆に傷つけてきた経験を持っていることでしょう。

そんな私たちに、聖書は次のように語りかけます。

(第1コリント8:1)知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。

大切なことは「人を育てる」こと、すなわち、相手の成長に役立つ行動をすること。何か発言するときも、相手の成長に役立つかどうかを考える必要があります。

真理を語ることで、相手が傷つく場合もあるでしょうが、もしもそれが本当に相手の成長に役立つなら、あえてズバッと伝えることも必要でしょう。

場合によっては、伝えないでじっと見守ることが相手のためになることもありますし、伝え方をいろいろ工夫する必要がある場合もあるでしょう。

また、相手に対する親切も、かえって相手を依存的にさせてしまい、自立を邪魔する場合があります。誰かのために何かをしてあげたいと思うこと自体はすばらしいことですが、「本当に相手のためになるのだろうか」という問いは、いつも自分に語り続けましょう。

自分がどう思われるかを気にするのではありません。本当に相手のためになるかを考えるのです。
ヤコブは自分が書いた手紙の中で、次のように語っています。

(ヤコブ3:8)しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。

しかし、私たちの内には聖霊なる神さまが住んでくださっています。そして、私たちを日々造り変え、言葉においても行動においてもイエスさまに似た者に成長させてくださいます。

聖霊さまが、今週も私たちの心に他の人に対する愛を増し加え、愛に基づいた言動をすることができるよう助けてくださいますように。

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福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

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