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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

獄中の讃美

使徒の働きシリーズ23

使徒の働き16章11節〜34節

(2025年5月25日)

使徒パウロと預言者シラスが第二回伝道旅行でピリピに来たとき、逮捕されてムチ打たれましたが、獄中で賛美をささげました。すると地震が起こって牢の扉が開きます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

16節の「祈り場」は、ユダヤ人が礼拝のために集まった場所。13歳以上のユダヤ人男性が10人以上いれば、その町に「会堂」(シナゴーグ)が建てられましたが、ピリピにはそれだけの数のユダヤ人男性がいなかったようです。

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(画像引用:聖書 新改訳2017)

イントロダクション

クリスチャンは、嬉しいときだけでなく、悲しく苦しいときにも神さまを賛美します。むしろ、悲しく苦しいときこそ、かえって賛美をしなければなりません。なぜでしょうか。

1.ピリピでの伝道と苦難

リディア一家の救い

前回の復習
使徒パウロと預言者シラスは、シリアのアンティオキア教会から第二回伝道旅行に遣わされました。途中、リステラでテモテが助手として加わります。

その後、パウロたちは小アジア西部のアジア属州や北部のビティニア属州での伝道を聖霊さまに禁じられ、北東部のトロアスという港町に来ます。そして、そこでこの使徒の働きを書いたルカが一向に加わりました。

そして、そこでマケドニア人の幻を見せられ、海を渡ってマケドニア(ギリシア北部)に行くことになりました。
ピリピへの到着
トロアスを船出したパウロたちは、サモトラケという島を経由して、マケドニアのネアポリスという港町に到着します。そして、陸路でピリピに入りました。

(12節)この町はマケドニアのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。

「植民都市」(コロニア)とは、ローマ人が入植するために帝国の支配地域に造られた都市で、軍事的・政治的・文化的に重要な役割を果たしました。ここの住民の多くにはローマ市民権が与えられました。

新約聖書に登場するピリピ以外の植民都市には、コリント、リステラ、イコニオン、ピシディアのアンティオキア、トロアス、プトレマイス、シラクサなどがあります。
祈り場での伝道
通常パウロは、新しい町に到着すると、まずユダヤ人の会堂(シナゴーグ)に行って、ユダヤ人に伝道しました。しかし、ピリピにはあまりユダヤ人が住んでいなかったため、会堂がありません。聖書の神さまを礼拝する人たちは、川岸などに集まっていました。そこを「祈り場」と呼びます。

パウロは祈り場を見つけて、そこに集まってきた女性たちにイエスさまの話をしました。すると……
リディアの救い
(14-15節)リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。そして、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。

その祈り場に、ティアティラ出身の紫布の商人である、リディアという女性がいました。この人は元々「神を敬う人」でした。すなわち異邦人で、正式にユダヤ教に改宗していたわけではありませんが、聖書の神さまを信じて礼拝していた人です。

このリディアと家族がパウロの語る恵みの福音を信じます。そして、洗礼を受けました。感激したリディアは、パウロたちを自分の家に招きます。パウロたちは、ピリピに滞在していた数日間、この家を拠点にして伝道することになります。

逮捕と投獄

占いの霊につかれた女奴隷
(16-17節)さて、祈り場に行く途中のことであった。私たちは占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させていた。彼女はパウロや私たちの後について来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています」と叫び続けた。

ある日、パウロたちは占いをする若い女奴隷に出会いました。この女奴隷は、パウロたちの後について来て、パウロたちの正体について叫び続けました。

そんなことが数日間続いて、パウロは困り果てたと書かれています(18節)。しかし、この女奴隷が語ったことは、嘘ではなく本当のことですね。どうしてパウロたちは困ったのでしょうか。

それは、女奴隷の占いが、悪霊の力によって行なわれていたものだったからです。悪霊の行動の目的は、神さまの働きを邪魔することです。そのためなら、一見良いものや正しいものを私たちに提供することがあります。女奴隷の言葉も正しいものでした。

しかし、ぴったりとパウロたちに付いてきて大声で叫び続けたら、町の人々はパウロたちの話ではなく、女奴隷の言動の方に注目してしまいます。その結果、人々は救いについてのすばらしいメッセージに耳を傾け、落ち着いてじっくりとそれについて考えることができなくなってしまったのです。

私たちは、サタン(悪魔)と、その配下である悪霊が行なう、偽物の正しさ、偽物の喜び、偽物の祝福に注意しなければなりません。モーセの律法でも新約聖書でも、占いやまじないの類いは禁止されていますが、それは背後に悪霊の力が働いているからです。

クリスチャンは、たとえ遊びのようなものであっても、あるいはどんなに当たるものであっても、決して占いに手を出すべきではありません。
悪霊追い出し
(18節)何日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り向いてその霊に、「イエス・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出て行け」と言った。すると、ただちに霊は出て行った。

困り果てたパウロは、悪霊と対決することにしました。そして、イエス・キリストの名によって、悪霊に出て行けと命じました。

イエスさまのお名前には、とてつもない権威、威光があります。悪霊はイエスさまに逆らう霊ですが、それでもイエスさまに勝利することはできません。イエスさまの威光をバックに命じたパウロの言葉を聞き、悪霊は女奴隷から離れていきました。
主人による告訴
(19-21節)彼女の主人たちは、金儲けする望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人たちのところに引き立てて行った。そして、二人を長官たちの前に引き出して言った。「この者たちはユダヤ人で、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、受け入れることも行うことも許されていない風習を宣伝しております。」

占いを行なわせていた悪霊が出て行ったので、この女奴隷は占いができなくなってしまいました。そこで、雇い主が怒ってパウロとシラスを捕まえ、無実の罪で町の長官に訴えました。
むち打ちと投獄
(22-24節)群衆も二人に反対して立ったので、長官たちは、彼らの衣をはぎ取ってむちで打つように命じた。そして何度もむちで打たせてから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人を奥の牢に入れ、足には木の足かせをはめた。

裁判を任されている町の長官は、ろくな取り調べをせず、裁判も開かないままパウロとシラスをむち打ちの刑にし、厳重に足かせをした上で投獄してしまいました。

当時のむちは、ひもの先に金属片や動物の骨などが取り付けてあり、叩かれると背中が裂けてひどい傷になります。パウロとシラスは、獄中でも眠れないほどの痛みに苦しんだことでしょう。

奇跡と看守一家の救い

獄中で讃美するパウロとシラス
(25節)真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。

人権を無視した理不尽な扱い、そして激しい痛み。とてもではないけれど、賛美なんかできないような状況です。

しかし、パウロとシラスは、じめじめした真っ暗な獄中で、ひどい痛みの中で、これから先どうなっていくか分からない不安な状況の中で、静かに、そして平安と喜びに顔を輝かせながら神さまに向かって祈り、賛美の歌を歌いました。

エブリン・スチュアート・ハーディ作「獄中で喜ぶパウロとシラス」
(画像引用:Meisterdrucke)
その時、他の囚人たちは驚いたはずです。あんなひどい傷を負わされ、足かせで牢獄につながれているのに、こんなにも平安と喜びに満ちて祈り、歌っているなんて……。

彼らは「うるさい! 眠れねぇから静かにしやがれ!」と怒鳴るのも忘れて、二人の祈りや歌に聴き入っていました。二人の様子に、何か神々しいものを感じ取ったからに違いありません。
地震と解錠
(26節)すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。

パウロとシラスの賛美に耳を傾けていたのは、囚人たちだけではありません。神さまもその歌に耳を傾けておられました。

ある人がこの場面をこんなふうに描写しています。賛美の歌に耳を傾けておられた神さまは、思わず足で拍子を取られた。すると、大きな地震が起こった……。足で拍子を取られたかどうかは別として、とにかく地震が起こって牢獄の扉が開きました。

それだけなら地震が起こったせいだと説明することができるでしょう。しかし、そこにいたすべての囚人をつないでいた鎖がすべて解けてしまうというのは、自然現象では説明できません。つまり、ただの地震ではなく、神さまの力が働いたということですね。

もちろん、パウロとシラスをつないでいた足かせも外れました。
自殺しようとする看守と止めるパウロ
(27-28節)目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。

地震に驚いて目を覚ました看守は、牢の様子を見に行きます。すると、扉が全部開いているのを発見しました。真夜中でほとんど光がない状態だったため、看守は囚人たちが逃げてしまったと誤解しました。

ローマの法律では、囚人を逃がしてしまった看守はその囚人が受けるはずだった罰を受けることになっていました。おそらく、囚人の中に死刑囚がいたのでしょう。このままではさらし者になった挙げ句に殺されてしまいます。そんな辱めを受けるくらいならと、看守は自ら命を絶とうとしました。

するとそれに気づいたパウロは、「自分たちはここにいる」と叫んで、自殺するのを止めました。

パウロたちだけでなく、他の囚人たちもその場を離れようとしなかったのは不思議です。おそらく彼らは、パウロとシラスの祈りや賛美の様子を見聞きし、その後地震が起こって扉が開き鎖が解けるという奇跡を体験して、神さまの偉大さに圧倒されていたのでしょう。
ひれ伏す看守
(29-30節)看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。

看守は牢の中に駆け込んで、パウロとシラスの前にひれ伏しました。それから、二人を牢の外に連れ出しました。そして、救われるために何をすべきか尋ねます。

この看守は、パウロたちがどうして鞭で打ち叩かれ、牢に入れられたか知っています。パウロたちがユダヤ人であること、そして彼らが信じる救い主の名によって女奴隷から悪霊を追い出しこと、そのために雇い主に恨まれて訴えられたことです。

そして、このたびの地震と囚人たちが逃げなかったことを通して、パウロたちが語る神こそまことの神だと悟りました。そこで、まことの神に救われ、このお方と仲良くなるために必要なことを尋ねました。
主イエスを信じなさい
(31-32節)二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。

どうすれば救われるのかという問いに対して、パウロとシラスは「主イエスを信じなさい」と答えました。そして、主イエスを信じるとはどういうことか、さらに詳しく語りました。それを聞いたのは看守だけでなく、看守の家族もです。おそらく看守が呼び寄せたのでしょう。

私たちが救われるための条件は、恵みの福音を本当のことだと信じ受け入れることです。恵みの福音とは、「この私の罪を赦すために、イエス・キリストが十字架にかけられた。そして、死んで葬られ、3日目に復活した」ということです(第1コリント15:1-8参照)。

なお、「あなたもあなたの家族も救われます」という部分については、時々誤解されています。誰かが福音を信じて救われると、その家族の救いも保障されるという意味ではありません。家族が救われるには、家族も福音を信じる必要があります。すなわち、
  • 誰かが福音を信じたら、その人が救われます。
  • その人の家族が福音を信じたら、その家族が救われます。
看守と家族の救い
(33-34節)看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。それから二人を家に案内して、食事のもてなしをし、神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ。

パウロたちから福音を聞いた看守とその家族は、福音を信じて救いを体験しました。それから、看守たちは救われた者として神さまへの信仰を行動で表します。
  • パウロとシラスを家に招きました。
  • パウロとシラスが受けた傷の手当てをしました。
  • 救いのしるしとして洗礼を受けました。
  • パウロとシラスを再び家に招いて、食事を共にしました。
こうして、ピリピでは迫害が起こりましたが、リディアとその家族、また看守とその家族が少なくとも信仰に導かれます。この2つの家族は、今後ピリピ教会の核となったことでしょう。

そして、ピリピのクリスチャンたちは迫害の中でも喜びに満たされ、困っている人のために喜んでささげて援助をする教会へと成長していきました。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.苦しいときに賛美する理由

(1) 賛美は平安や喜びを引き出すから

賛美とは、神さまのご性質のすばらしさを表現し、「すばらしい」とほめたたえることです。

たとえば、神さまは全知全能です。神さまは深い愛に満ちておられます。神さまは約束したことを徹底的に守るお方です。神さまは私たちの行ないによらず、一方的に愛してくださる恵みの神です。神さまは私たちを孤独にせず、いつも一緒にいてくださいます……。

これらを言葉にするだけで、すでに賛美です。「ああ、神さま。あなたは全知全能のお方です」「神さま。あなたは約束を守られる、誠実なお方です」というふうに。

賛美というのは、必ずしも音楽でなくてかまいません。祈りや詩や絵画、彫刻、文章など、どんな方法であっても、神さまのご性質のすばらしさを表現するなら、それは賛美です。
感謝するのは、神さまのしてくださったことに対して「喜ばしい」と感じていなければ、なかなか難しいです。しかし、神さまが全知全能であり、愛にあふれ、誠実なお方であることは、私たちの感情や状況がどうであれ、決して変わることがありません。ですから、それを信じてさえいれば、賛美はいつでも、そしてどんな場合でもできるのです。

そして、賛美することで私たちは神さまのすばらしさを思い出し、次第にはっきりと認識させられていきます。その結果、私たちの目は問題の大きさにではなく、神さまの大きさに向けられるようになります。

「ああ、そうだった。神さまは何でもすることができるんだった」「ああそうだ、私は一人じゃなかったんだ」「神さまは私の幸せを本気で考えてくださる方だった」と。こうして、私たちは賛美を通して励ましを受けます。

すると、まだ喜ばしいことが起こっていなくても、私たちは神さまに先取りの感謝をささげることができるようにもなります。賛美することで、私たちは喜びや平安を回復することができるのです。ですから、つらいとき、苦しいとき、悲しいときこそ、神さまのご性質を思い出し、賛美しましょう。

(2) 賛美は他の人を励ますから

パウロとシラスが賛美したとき、他の囚人たちはその歌に聴き入り、地震で逃げられる状況になっても誰も逃げませんでした。パウロたちの態度に、神々しいものを感じ取ったからです。同様に、私たちクリスチャンが賛美するとき、他の人たちを励ましたり、良い影響を与えたりします。

人々は、「こうしたら幸せになれるよ、救われるよ」というメッセージに飽き飽きしています。テレビやネットを通じて、いくらでもそういうメッセージを聞くことができますからね。「この車を買えば、幸せになれるよ」「これを食べたら幸せになれるよ」……と。

だから、「キリストを信じたら救われるよ」と言っても、「間に合ってます」と言われてしまうのです。

人々が求めているのは、救いについての説明ではなく実体です。メニューはいいから、料理を味わいたいと思っています。

順風満帆の時に喜んだり、神さまに感謝したりするのは誰でもできます。人々は、クリスチャンが困難に直面したときにどのように振る舞うか、見たいと思っています。クリスチャンが困難の中で、愚痴や弱音を垂れ流すのではなく、賛美している姿は、周りの人々に新鮮なインパクトを与えます。それが、人々をキリストへと接近させていくのです。

あなたは、苦しみや悲しみを味わったとき、人々に愚痴を聞かせますか? それとも神さまへの賛美を聞かせますか?

愚痴や弱音は神さまに聞いていただきましょう。神さまは、あなたがどんな愚痴をこぼしても、つまずいたりしません。そして、神さまへの賛美を口にしましょう。

もちろん、苦しみの中で、パウロたちのように喜びや平安に満たされるというのは難しいことです。でも、最初は泣きながらでいいから賛美しましょう。そうすることで、あなた自身が神さまのご性質を思い出して励まされ、平安や喜びをだんだんと獲得していくことができるようになります。また、そういう姿が、他の人たちの励ましにもなるのです。

賛美は奇跡を引き起こすから

賛美は、「私は、神さまをこういうお方だと信じています」という信仰告白と同じです。この信仰告白が、あなたの人生に奇跡を引き起こします。

聖書が一貫して教えていることは、「神さまの祝福は、神さまが祝福すると約束なさったことを、信仰によって受け取ることで自分のものになる」ということです。イエスさまも、病人をいやされるとき、「あなたの信じたとおりになるように」とおっしゃいました(マタイ8:13、9:29参照)。

賛美が奇跡を引き起こすというのは、賛美に何か魔術的な力があるからではありません。賛美を通して、あなたの信仰が明らかになり、神さまがその信仰をごらんになって、その信仰に応えてくださるからです。

パウロとシラスは「良いことをしたのに、どうしてこんなひどい目に遭わなければならないのだろう」というような、とまどいや不満などは一旦脇に置きました。そして、とにかく神さまのすばらしさに目をとめて、神さまを信頼し、神さまを賛美しました。

すると、神さまは彼らの信仰に応え、地震を起こし、それがきっかけで看守一家を救いへと導かれました。

賛美は神さまのご性質についての信仰告白です。ですから、賛美するとき、特に賛美の歌を歌うときには歌詞を良く味わいましょう。そして、この歌は神さまのどんな性質について歌っているか、それをじっくりと考えましょう。そうするなら、賛美の歌はあなたを励まし、さらにそのご性質にふさわしい奇跡をも引き起こします。

あなたは今、問題に直面していますか? だとすれば知ってください。これは、あなたが神さまのすばらしいご性質をほめたたえるチャンス、そしてそのご性質についての信仰が正しいことを証明するチャンスです。

あなたが今直面している問題は何ですか? あなたはその問題の中で、神さまについて何を信仰告白しなければなりませんか? 神さまのどんなご性質を思い出さなければならないでしょうか。
  • あなたは今、罪責感にさいなまれていますか? ならば、赦してくださいと祈る前に、神さまが赦しの神であること、無条件に愛する恵みの神であることを賛美しましょう。
  • あなたは今、病に苦しんでいますか? ならば、神さまにいやしの力があることを賛美しましょう。
  • あなたは今、五里霧中で悩んでおられますか? ならば、神さまはすべてをお見通しであり、また私たちの人生に最善を計画しておられる方だということを賛美しましょう。
賛美するためには、神さまについて知らなければなりませんね。聖書や書籍、メッセージなどから、神さまのご性質についての情報を豊かに集めましょう。

そして、紙に書き出してみましょう。頭の中であれこれ考えるより、書き出した方が絶対にいいです。それを声に出して読み上げましょう。その声が、あなたの耳にフィードバックされ、あなたの神さまに対する信頼(すなわち信仰)は、さらに強められるはずです。

まとめ

苦しみの中の賛美は、
  1. 私たちに喜びや平安をもたらします。
  2. 他の人を励まします。
  3. 奇跡を引き起こします。
この話をお読みください。
生涯で9千を越える賛美歌を作詞した、ファニー・クロスビーという女性がいます(1820-1915年)。日本でも、「イエス、君(きみ)。イエス、君。み救いに」や「罪とがをゆるされ」などの賛美歌が有名です。

彼女は、生後6週間の時に目に腫れ物ができましたが、間違った治療を受けて失明してしまいます。ファニーの母親は、神さまにいやしを祈り、様々な医者に診せて娘を治そうとしました。しかし、ついに高名な眼科医から、ファニーは回復することはないと宣告されてしまいます。

藪医者に診せて娘を失明させたことで、自分を責める母親に対して、祖母はこう言いました。「必死に祈っても主が解決を与えてくださらない問題は、あなたが背負わなくて良いことなのです。神さまは、たとえファニーが一生失明したままだとしても、必ず素晴らしい人生を用意してくださっていますよ」。

その後、ファニーは見えないながらも、馬に乗ったり、木に登ったり、母が読んでくれる聖書を暗記したりしました。そして、8歳の時にこんな詩を書きました。
私の魂は幸せでいっぱい
私には何も見えないけれど
この世を必ず満足して生きていく
私には幸せがいっぱいある
ほかの人たちにはない幸せが
目が見えないからといって泣いたり、ため息をついたり
そんなことはできないし、するつもりもない
晩年、ファニーはこんな言葉を残しています。
誤って私の視力を奪ってしまった医者は、いつまでも謝っていたそうです。しかし、もし今彼に会えたのなら、私は言いたいのです。ありがとう。ありがとう。私の視力がなくなったのがあなたのせいだとしたら、私はあなたに本当に感謝します。本心からそう言います。

もし、明日から完全に見えるようにしてやろうと言われても、私はお断りするでしょう。医者の側に誤りがあったとしても、神の誤りは何一つないからです。「闇の中で生きなさい」ということが神のみこころだったに違いないからです。それは、主をたたえ、主を歌い、聞く人の心に同じ気持ちを起こさせる日に備えてのことです。

視力があってあれこれ気が散っていたら、私は何千もの賛美歌を書けなかったことでしょう。
まさに、祖母の言葉通りの人生を、ファニー・クロスビーは歩んだのですね。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
今週、私たちの口も、神さまをほめたたえる賛美で満ちあふれますように。

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