(2025年6月22日)
パウロが第二回伝道旅行で最も長く滞在した、コリントでの伝道が始まると、キリストは幻によってパウロを励まします。
礼拝メッセージ音声
参考資料
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1節のコリントは、アテネから西南西に約80キロほど離れたところにある町です。ペロポネソス半島の付け根、西のアドリア海に面したレカイオン港と、東のエーゲ海に面したケンクレア港を結ぶ、8キロほどのくびれの部分にあるため、交通の要所として栄えました。一方道徳的には退廃しており、アフロディテ神殿に仕える1000人の巫女は、公認の売春婦でもありました。当時「コリント人のように振る舞う」とは、不品行を指す言葉でした。
2節の「ポントス」は、黒海南岸のうち東側の地域。
9節の「マケドニア」はギリシアの北部。

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(画像引用:聖書 新改訳2017)
2節の「クラウディウス帝」は、ローマ帝国第4代の皇帝(在位41-54年)。ユダヤ人をローマから追い出す命令を出したのは紀元49年のことです。ただ、ユダヤ人に対しては概ね寛容な政策をとりました。そして、それまでローマから遣わされた総督が治めていたパレスチナのユダヤ、サマリヤ、イドマヤの各地方を、ヘロデ王家のアグリッパ1世(使徒12章に登場するヘロデ)に任せました。
クラウディウスは毒キノコにあたって死にますが、実は4番目の妻である小アグリッピナによって毒殺されたという説があります。そして、次の皇帝になったのが、小アグリッピナの連れ子であり、やがてパウロやペテロを死に追いやることになるネロです。
4節の「安息日」は、今の暦でいうと金曜日の日没から土曜日の日没まで(ユダヤでは日没で日が変わりました)。モーセの律法では、安息日には仕事をしないで休むことが命じられていました。紀元前586年に神殿がバビロンによって破壊されて以降、ユダヤ人は、安息日に会堂(シナゴーグ)で礼拝をささげ、律法を学ぶようになりました。
7節の「神を敬う人」は、ユダヤ教に正式に改宗はしていないが聖書の神を信じる異邦人のこと。
8節の「会堂司」は、長老たちの合議や選挙によって選ばれ、会堂に関するさまざまな業務を行ないました。礼拝の進行(説教者の指名など)、礼拝や共同体の秩序維持、建物や巻物の維持管理、財務などです。大きな会堂では、業務が膨大になるため複数人置かれました。
イントロダクション
私たちは、期待していたことがうまくいかなかったり壁にぶつかったりして、意気消沈してしまうことがありますね。あるいはひどい未来を想像して恐れてしまい、身動きが取れなくなってしまうこともあります。
しかし、パウロは神さまから大きな励ましを受けました。私たちにも、神さまからの励ましが用意されています。神さまは、どのようにして私たちを励ましてくださるのでしょうか。
1.コリント伝道の始まり
コリントでのユダヤ人伝道
アテネからコリントへ
(1節) その後、パウロはアテネを去ってコリントに行った。
アテネを去ったパウロは、同じアカイア属州にあるコリントという町に入ります。このコリントはアカイア属州の首都で、非常に繁栄していました。人口はアテネが奴隷を合わせても2万人程度だったのに対して、8万人から10万人。それどころか20万人いたという説もあります。
伝道地としては非常に見込みがありそうです。
アキラとプリスキラとの出会い
(2節前半)そこで、ポントス生まれでアキラという名のユダヤ人と、彼の妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じたので、最近イタリアから来ていたのである。
コリントに入ったパウロは、アキラとプリスキラというユダヤ人夫妻に出会いました。彼らは元々はローマで暮らしていましたが、皇帝クラウディウスによるユダヤ人追放令の影響でコリントに移住してきたのです。

ハイリゲン作「アキラとプリスカ」
(画像引用:Bible History Daily)
この二人は、この後もたびたび登場しますし、パウロも手紙の中で触れています。その際、ほとんどの場合、「プリスキラとアキラ」というふうに妻の方が先に呼ばれています。男性優位の古代においては珍しいことですが、おそらく、プリスキラの方が熱心に奉仕して諸教会にその名が知られていたからでしょう。
ちなみに、プリスキラは愛称で、正式な名前はプリスカと言います。使徒の働きでは愛称のプリスキラですが、パウロの手紙の中では正式名称のプリスカと呼ばれています。
アキラ夫妻宅への滞在
(2節後半-3節)パウロは二人のところに行き、 自分も同業者であったので、その家に住んで一緒に仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。
アキラとプリスキラは、テント作りの職人でした。パウロも同じ仕事をしていたので、家に泊めてもらう代わりに二人の仕事の手伝いをします。
現在、キリスト教に対して閉鎖的な国には、宣教師や牧師という立場の人はなかなか入国することができません。そこでそのような国では、非宗教的な一般の仕事をしているクリスチャンが労働者や技術指導員として入国し、その国の中で働きながら空き時間に密かに伝道するスタイルを取ります。
そのような伝道者のことを、今回の箇所から「
テントメーカー」と呼ぶことがあります。
会堂での伝道
(4節)パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人を説得しようとした。
パウロによる伝道は、まずユダヤ人に伝道し、それから異邦人に伝道するという順番で行なわれました。それが神さまの救いのご計画だからです。コリントでも、パウロはこの原則に従って、ユダヤ教の会堂でユダヤ人に伝道しました。
なお、この箇所で「ギリシア人」と書かれているのは、「神を敬う異邦人」のことです。すなわち、正式にユダヤ教に改宗してはいないけれど、聖書の神さまを信じている異邦人です。同じ会堂で礼拝していたので、パウロがユダヤ人に向かって福音を語れば、当然彼らもそれを聞くことになります。
伝道への専念
(5節)シラスとテモテがマケドニアから下って来ると、パウロはみことばを語ることに専念し、イエスがキリストであることをユダヤ人たちに証しした。
第二回伝道旅行に同行していたシラスとテモテは、マケドニア属州のベレアという町にとどまって、そこの教会を指導していました。その二人がコリントでパウロと合流したのです。
使徒の働きだけを読むと、コリントで初めてパウロは二人と合流したかように思えますが、聖書の他の箇所をよく調べてみると、どうやらシラスとテモテはアテネですでに一度パウロと再会しているようです。
二人と合流したパウロでしたが、ベレア以外のマケドニア属州の教会、たとえばテサロニケやピリピといった町のクリスチャンたちのことをパウロは心配しました。迫害が非常に激しい地域だったからです。
アテネ伝道が思わしい結果を出していなかったこともあって、パウロはアテネで再会したばかりのテモテをテサロニケへ、そして続けてシラスを他の町(たとえばピリピ)に派遣しました。
まず、テモテがアテネからテサロニケに遣わされたことは、次の箇所から分かります。
(第1テサロニケ3:1-2)そこで、私たちはもはや耐えきれなくなり、私たちだけがアテネに残ることにして、私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。
「私たち」とありますから、テモテがテサロニケに向かったときには、シラスはパウロと一緒にいたことが分かります。そして、シラスもどこかに派遣されて、パウロはコリントでシラスとテモテに再会することができました。
なお、コリントにやってきたシラスとテモテは、ピリピ教会からの献金を携えていたと思われます。そのことは直接は聖書に書かれていませんが、次の箇所から推察できます。
(ピリピ4:15)ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。
(第2コリント11:9)また、私があなたがたのところ(註:コリント)にいたとき、必要に困ったが、だれにも迷惑をかけませんでした。マケドニアから来た兄弟たちが、私の欠乏を補ってくれたからです。
この献金は、テサロニケを訪問したテモテがピリピまで足を伸ばしたか、ピリピ教会の人がテサロニケにいるテモテの所に持ってきたか、シラスがピリピを 訪問したかして受け取ったのでしょう。
ピリピ教会を始めとするマケドニア属州の諸教会からの献金は、この後もたびたび行なわれてパウロの伝道を支え続けます。
こうして、生活に余裕ができたパウロは、テント作りの仕事を手伝わなくても住むようになりました。そして、パウロは伝道の働きに専念することができるようになりました。
ユダヤ人伝道から異邦人伝道へ
ユダヤ人による反抗
(6節)しかし、彼らが反抗して口汚くののしったので、パウロは衣のちりを振り払って言った。「あなたがたの血は、あなたがたの頭上に降りかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のところに行く。」
会堂で伝道し、ナザレのイエスこそ聖書が登場を約束してきた救い主だということを示そうとするパウロに対して、多くのユダヤ人が抵抗を示しました。そして、パウロのことを口汚くののしります。
そこでパウロは、自分の働きを異邦人伝道に切り替えることを宣言します。もちろんこれは、コリントでの話で、別の町ではパウロはまたユダヤ人伝道から始めます。
6節のパウロの言葉は、「自分は語るべきことを語った。それを受け入れなかった結果、世の終わりに神さまによってさばきを受け、永遠の苦しみを味わうことになったとしても、それは聞こうとしなかったあなたたちの責任であって、私の責任ではない」という意味です。
ティティオ・ユストの家へ
(7節)そして、そこを去って、ティティオ・ユストという名の、神を敬う人の家に行った。その家は会堂の隣にあった。
異邦人伝道に切り替えることを宣言したパウロは、拠点をアキラ夫妻の家からティティオ・ユストの家に移しました。このユストは、もともとは神を敬う異邦人で、イエス・キリストを信じるようになった人です。
引っ越しの理由は、別にアキラ夫妻がユダヤ人だからではなく、家の広さの問題だと思われます。それまで使えていた会堂が使えなくなったので、大勢が集まるスペースが必要になったのです。
ところが、アキラとプリスキラはローマから移住してきたばかりの人たちで、家に作業場はあったとしても大勢が集まるスペースはなかったでしょう。その点、ユストの家は申し分なく広かったと思われます。
会堂司一家お多くのコリント人の回心
(8節)会堂司クリスポは、家族全員とともに主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。
ユダヤ人がみんなイエス・キリストを拒否したわけではありません。パウロのメッセージを聴いて信じるユダヤ人もいました。特に、会堂の維持管理をする会堂司クリスポの一家が救われたことがここに記録されています。
また、それまで聖書とは無縁の生活をしていた一般のコリント人の中にも、イエスさまの恵みの福音を信じて救われ、洗礼を受ける人がたくさん現われました。
神からの励まし
語り続けなさい
(9節)ある夜、主は幻によってパウロに言われた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
ある夜、パウロはイエス・キリストの幻を見せられました。幻の中のイエスさまは、パウロに命じました。それは、恐れず語り続けなさいという言葉でした。
おそらく、このときのパウロは恐れに襲われていたのでしょう。後にパウロは、コリント教会に宛てた手紙の中で次のように語っています。
(第1コリント2:3)あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。
ヨーロッパに渡ってからのパウロは、伝道活動で苦労続きでした。ピリピではムチ打たれて投獄されました。テサロニケやベレアではユダヤ人による激しい妨害に遭いました。アテネではほとんどの人に無視されました。
そして、コリントはたくさんの人が住んでいて繁栄していた町ですが、道徳的には非常に退廃していました。「コリント人のように振る舞う」という言葉が、不品行を行なうという意味の婉曲表現になっていたほどです。
またこのコリントでも迫害に遭ったり、拒否されたりするのではないかとパウロが考えても仕方がありません。おまけに、案の定ユダヤ人たちからは口汚く罵られてしまいます。表面上は気丈に振る舞っていましたが、パウロの心の中には恐れが渦巻いていたのです。
そんなパウロに、イエスさまは「黙っていてはいけない。恐れず語り続けよ」とお命じになりました。
保証
(10節)わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」
以前も申し上げましたが、神さまの命令には約束が伴っています。恐れず語り続けよとお命じになった神さまは、恐れなくてよい理由も説明して励まされます。それは、
- 主イエスさまが共にいてくださる。
- パウロを襲って危害を加える者はいない。
- コリントには、イエスさまの民がたくさんいる。
イエスさまがおっしゃる「わたしの民」とは、イエスさまが救いに定めていらっしゃる人たちという意味です。つまり、恐れず語り続けるなら、たくさんの人が信じて救われるとイエスさまはパウロに保証なさいました。
一年半のコリント伝道
(11節)そこで、パウロは一年六か月の間腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。
イエスさまの幻によって励まされたパウロは、コリントにとどまって伝道し、教会を教え続けました。第二回伝道旅行は紀元49年から52年にかけての約2年半実施されたと考えられていますが、その半分以上をコリントで過ごしたことになります。
こうしてコリントでは多くの人が救われ、教会が成長していきました。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.主は私たちを励ましてくださる
主イエス様は、私たちをどのように励ましてくださるのでしょうか。
(1) 仲間によって
パウロがアテネを離れてコリントに到着したとき、シラスとテモテは同行していませんでした。たった一人で活動しなければならないというのも、パウロの気分を落ち込ませていた理由の一つでしょう。
しかし、そこで彼は、アキラとプリスキラに出会います。
アキラとプリスキラが前々からクリスチャンだったのか、それともパウロの伝道によって救われたのかは分りませんが、彼らはすぐにパウロの同労者になります。テント作りの同労者だけでなく、伝道の働きの同労者です。
(ローマ16:3-4)キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。
アキラとプリスキラの存在は、孤独なパウロをどれほど励ましてくれたことでしょうか。
仲間の存在
以前、うつ病の家族や恋人や友人に対して、どんなふうに関わったらいいかを解説した本を出版していました(現在は販売終了し、
動画講座にしています)。精神的な病気を抱えている本人がつらいのは当然ですが、それを支える人たちも様々な痛み、苦しみを味わいます。その方々のお手伝いがしたくて書いた本です。
しかし、どう関わったらいいかという知識は得られても、それを実際に行なうエネルギーがわいてこないのが問題だという話をたくさん聞きました。そこで、購入者の皆さんが交流するためのネット上のサークルを立ち上げ、互いに弱音を吐いたり、質問をしたりできるようにしました(現在は閉鎖)。
すると、別に私が何かをしたわけでもないのに、購入者の皆さんたちが、互いに励まし合い、支え合うことで、勇気ややる気が生まれ、患者さんに向き合っていけるようになっていったのです。
じっと話を聴いてくれる人がいる。痛みを分ってくれる仲間がいる。同じ目標を持った同志がいる。それは私たちにとって大きな慰めであり、励ましです。ですから、イエスさまも、弟子たちを伝道に使わすとき、2人一組になさったのでしょう。
三つ撚りの糸
箴言の中にこんな言葉があります。私が大好きな言葉です。
(箴言4:9-12)二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。
神さまは、そういう仲間をあなたにも用意してくださっています。周りを見渡してみましょう。ほら、そこにいます。勇気を出して、「どうか私の話を聞いてください。私のために祈ってください」と、口に出してみましょう。
そして、あなたも隣の人の同労者になりましょう。
(2) 過去の成功体験によって
シラスとテモテの合流
パウロの元に、伝道者中まであるシラスとテモテがやってきました。彼らは、マケドニア属州の諸教会からの献金を携えてくると共に、彼らの近況も知らせてくれました。
マケドニア地方での伝道はどうだったでしょうか。
- 最初に訪れたピリピで救われたのは、紫布の商人であるリディアとその一家、そして、牢獄の看守とその一家などごく少数です。その後、パウロたちは町の長官に促されてピリピを後にしなければなりませんでした。
- 次に訪れたテサロニケでは、多くのギリシア人が救われましたが、ユダヤ人による反対と暴動が起こり、パウロたちは滞在3週間でそこを脱出しなければなりませんでした。
- その次のベレヤでは、たくさんのユダヤ人とギリシア人が救われましたが、テサロニケから来たユダヤ人が暴動を起こし、すぐに立ち去らなければなりませんでした。
生まれたばかりの教会を、わずかな期間しか滞在できず、十分に教育・訓練する間もなく、しかも迫害が激しい中に残していかなければならない。伝道者であり牧師であるパウロにとって、それはどんなにか心配なことだったでしょうか。
マケドニア諸教会の成長
しかし、そんなマケドニアの諸教会は、貧しさと迫害の中でも成長し続け、パウロの働きを支えたいと献金を送ってさえくれました。神さまは、マケドニアでの働きがしっかり実を結んでいることをパウロに教えてくださいました。
ですから、パウロは期待したことでしょう。ほんの数人しか救われなかったアテネも、人間的には働きがうまくいかなかったように見えるけれど、きっと神さまが実を結ばせてくださる。
そして、このコリントでも、どんなに問題が大きくてもきっと乗り越えることができる。いや、たとえ人間的には乗り越えることができず挫折したように見えたとしても、神さまはそれでも実を結ばせてくださると。
パンを水の上に投げよ
旧約聖書にこんな言葉があります。
(伝道者11:1)あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。
神さまが求めておられること、喜ばれることを、ひたすら行ない続けましょう。短期的には意味がないように見えることでも、それでもひたむきに続けていくとき、時折神さまはその果実を見せてくださって私たちを励ましてくださいます。
(3) 神のことばによって
幻による励まし
テサロニケで、パウロはユダヤ人による迫害を経験しました。彼らはベレヤにまでやってきてパウロを攻撃しました。
ユダヤ人による迫害ではありませんが、ピリピではある人たちがパウロとシラスを町の長官に訴え、そのために彼らはむち打たれて一晩牢につながれ、最終的に町を出て行かなければならなくなりました。
同じようなことがこのコリントでも起こるかも知れません。こんなに伝道活動が祝福されているのに、また救われたばかりのクリスチャンたちを残して、この町を離れる事態に陥ってしまうかも知れません。
しかし、神さまは幻の中で、そんなことにはならないから安心して語り続けなさいと励まされました。
実際、この後ユダヤ人たちがパウロに反対し、アカイア属州を治める総督ガリオの元にパウロを引っ張っていくという事件が起こります。しかし、ガリオは「宗教的な問題に自分は関与しない」と宣言します。
そんなわけで、パウロたちはコリントに1年半にわたって腰を据えて伝道することができました。神さまの約束通りです。
みことばと祈りによる励まし
現代も、神さまは様々な方法で私たちに語りかけてくださいます。パウロが今回経験したように、幻や夢や天使を通して語られることもあります。ただ、当時もそんなに頻繁に起こっていた訳ではないようですし、これは現代でも同じです。
現在、神さまが私たちに対して語られる主な方法は、第一に聖書です。そして、祈りの中で平安を伴って繰り返し示される神さまの語りかけです。イエスさまは、みことばによって私たちを励ましてくださいます。
ソウル・サーファー
ベサニー・ハミルトンという13歳のハワイの少女は、将来を期待されたサーファーでした。子どもの頃から波に親しみ、数々の大会で優勝する実力の持ち主。多くのスポンサー企業から注目されて、着々とプロの舞台に近づいていました。
しかし、2003年10月、彼女の人生は一変します。サーフィン中にサメに襲われ、左腕を肩から失うという大事故に遭ったのです。
サーファーにとって、両腕はバランスを保つ上で不可欠です。片腕を失った彼女には、サーフィンを続けるのは不可能に思えました。大きな喪失感とともに、将来への希望も見えなくなってしまいました。
そんな苦しみの中、彼女に寄り添ったのが、通っていた教会学校の先生でした。先生は聖書の言葉を読み聞かせました。
(エレミヤ29:11)わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
この聖書の言葉にベサニーさんは心を打たれました。「失ったことで終わりなのではなく、神さまはこの出来事さえも用いて、特別な目的をもってくださるのかもしれない」と思い至ったのです。
「自分の経験が他の誰かの助けになるなら」と、彼女は体験を人々に語るようになりました。サメによる障がいやその後の葛藤、そして信仰による回復の道のりを、多くの人に分かち合うようになります。

(画像引用:Amazon)
そればかりではありません。 希望を取り戻したベサニーさんは、事故からわずか1か月後には海に戻り、再びサーフボードの上に立ちました。そして4か月後には大会にも出場、さらに事故の2年後アマチュアのトップリーグで年間優勝を果たします。こうしてついにプロサーファーとして活躍するようになりました。
ベサニーさんの体験は、2004年に「ソウル・サーファー」というタイトルで自叙伝が出版され、2011年には映画化もされました。
ベサニーさんの人生は、「困難の中でも、神さまが用意なさった希望の計画は生きている」ことを、多くの人に証ししています。そんな人生を可能にしているのは、本人の血のにじむような努力もさることながら、ベサニーさんを励まし続ける神さまのみことばです。
イエスさまは、あなたにも聖書を通して大きな励ましを語ってくださっています。