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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

パウロのエペソ伝道

使徒の働きシリーズ29

使徒の働き19章8節〜20節

(2025年7月6日)

パウロ第三回伝道旅行の働きは、エペソを拠点としてアジア属州で行なわれました。パウロはさまざまな奇跡を行ないながら伝道し、多くのユダヤ人や異邦人が救われました。

礼拝メッセージ音声

参考資料

続きを読む今回の記事は、パウロが第三回伝道旅行(紀元53〜57年)の途中で、エペソを訪れたときの話です。「エペソ」は、小アジア(今のトルコ)西部にあった港町です。様々な陸路・海路の要衝として栄え、エジプトのアレキサンドリア(アポロの出身地)、シリアのアンティオキア(パウロを伝道旅行に遣わした教会がある町)と並んで、東地中海三大都市の一つに数えられています。

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(画像引用:聖書 新改訳2017)

エペソ滞在中に、パウロはコリント人への第一の手紙を書きました。また、今は残っていない「涙の手紙」(第2コリント2:3-4)もエペソで書かれたと思われます。

9節の「この道」はキリスト教のこと。

9節の「ティラノ」は個人名。詳細は不明ですが、講堂の所有者、あるいはそこで人々を教えていた哲学者の名前でしょう。

14節の「祭司長スケワ」についてもよく分っていません。祭司長とは、大祭司を補佐するリーダー格の祭司のこと。大祭司は一人ですが、祭司長は何人もいます。

19節の「銀貨」はドラクマ銀貨。1ドラクマは1デナリと同価で、労働者一日分の日当に相当しますから、銀貨5万枚は5万日分の日当に相当する大金です(日当8千円で計算すると4億円)。

(画像引用:World Coin Gallery

イントロダクション

第三回伝道旅行に出かけたパウロは、エペソに腰を据えて伝道活動を行ないました。そこでは、さまざまな驚くべき奇跡のわざが行なわれ、たくさんの人たちが救われました。

私たちも、ワクワクするような神さまのみわざを体験したいですね。そのために必要な態度を、今回の箇所から教えていただきましょう。

1.エペソでの働き

エペソの会堂と講堂での伝道

会堂での伝道
(8節)パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、人々を説得しようと努めた。

紀元53年、パウロは3回目の伝道旅行に出発しました。パウロは小アジアのガラテヤやフリュギアの諸教会を巡って、すでにクリスチャンになっていた人たちを力づけました(18:23)。こうして、パウロはエペソの町に入ります。

エペソには第二回伝道旅行の帰りにも寄っていますが、短期間での滞在でした。このたびは2年3カ月の長期間滞在することになります。

いつものように、パウロはまずユダヤ人の会堂(シナゴーグ)に行きました。そして、ユダヤ人に向かって伝道します。

パウロが語った主なテーマは神の国でした。ユダヤ人は、将来救い主(メシア、キリスト)が現れて神の敵を滅ぼし、理想的な王国である神の国を地上に実現して、世界中を愛と正義によって統治なさると信じていました。
パウロは、その救い主はすでに現れて、その救い主はナザレのイエスというお方だと語ります。しかし、イスラエルの国はこのお方を公に拒否し、十字架につけて殺してしまいました。ところが、救い主は3日目に復活し、天にお帰りになりました。そして、いつかもう一度この地上に戻ってこられて、その時こそ神の国が実現します。

救い主が十字架にかけられたのは、神さまのご計画でもあります。神の国が実現する前に、救い主は神の敵を滅ぼしてしまいます。ですから、ユダヤ人も異邦人も、まず罪を赦されなければなりません。イエスさまが罪人の身代わりに神さまのさばきを受けて血を流し、死ぬことによって、罪の罰が人間に及ばないようにしてくださったのです。

そこで、人は恵みの福音、すなわち「この私の罪を赦すためにイエス・キリストが十字架にかけられ、死んで葬られ、3日目に復活なさった」ということを真実だと信じ受け入れるだけで、本当に罪を赦され、それどころか神の子どもとされ、将来神の国に招かれる権利を手に入れることができます。

こういったことを、パウロは旧約聖書の預言を引用しながら解説していったのでしょう。

これが3カ月続きました。反対も迫害もなく、これほど長期間会堂で伝道できたのは珍しいことです。パウロが来る前にアポロが伝道を行なっていましたから、福音に対してある程度心が開かれているユダヤ人が多かったのでしょう。
ティラノの講堂での伝道
(9節)しかし、ある者たちが心を頑なにして聞き入れず、会衆の前でこの道のことを悪く言ったので、パウロは彼らから離れ、弟子たちも退かせて、毎日ティラノの講堂で論じた。

しかし、ついに反対運動が起こります。パウロの伝道の言葉を受け入れない一部のユダヤ人が、あからさまにキリストの教えを罵り始めたのです。

そこで、これまたいつものようにパウロは異邦人伝道に切り替えます。ティラノという人が所有していた講堂を借りて、毎日伝道メッセージを語りました。
アジア属州での伝道
(10節)これが二年続いたので、アジアに住む人々はみな、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞いた。

これが2年間続きました。会堂での3カ月を含めると、2年3カ月、足かけ3年にも及びます。

その間、パウロはエペソを中心に活動しますが、アジア属州のあちこちの町にも弟子たちを遣わして伝道したと思われます。たとえば、コロサイ教会は、パウロの同労者であるエパフラスの伝道によって誕生しました(コロサイ1:7)。

アジア属州には、コロサイの他にもペルガモンやティアティアなど黙示録に登場する7つの教会のある町があります。そういった町にも弟子を派遣して伝道を行なったかもしれません。また、パウロ自身も、短期間他の町に訪問したかもしれません。

こうして、アジア属州に福音が広まっていきました。

神の奇跡

奇跡による証明
(11節)神はパウロの手によって、驚くべき力あるわざを行われた。

神さまは、パウロがさまざまな奇跡を行なうようにしてくださいました。病気や怪我のいやしや悪霊追い出しなどです。これは、パウロが語る伝道メッセージを確かなものだということを証明するためのものです。

奇跡を間のあたりすることによって、ユダヤ人もギリシア人もパウロが語る福音の言葉が本当なのだと知って、続々と救われていきました。
奇跡の例
(12節)彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを、持って行って病人たちに当てると、病気が去り、悪霊も出て行くほどであった。

第二回伝道旅行でコリントに滞在していたとき、パウロは自分の生活費を賄うためにテント職人だったアキラとプリスキラ夫妻と一緒に働きました。アキラ夫妻はこのときエペソにいましたから、パウロはエペソでも同様にテント作りの仕事をしたのでしょう。そのための手ぬぐいや前掛けやを身につけていました。

その手ぬぐいや前掛けを当てると、病人がいやされたり悪霊が追い出されたりしました。これは手ぬぐいや前掛けに魔術的な力が宿っていたからではなく、神さまのお働きです。
巡回祈祷師たちの実験
(13-14節)ところが、ユダヤ人の巡回祈祷師のうちの何人かが、悪霊につかれている人たちに向かって、試しに主イエスの名を唱え、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。このようなことをしていたのは、ユダヤ人の祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。

祭司長スケワの7人の息子たちは、パウロが力強い奇跡のわざを行なっているのを見て感銘を受けました。そして、自分たちも同じような奇跡を行ないたいと思います。

彼らは、パウロがイエス・キリストの名によっていやしや悪霊追い出しを行なっていることに注目しました。そして、自分たちもイエスという名前を唱えたら、同じようにできるのではないかと考えました。イエスという名前に、何か魔術的な力が宿っているのだと思ったわけです。

そこで試しに、悪霊つきの人たちに向かって「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみました。
悪霊の返答
(15節)すると、悪霊が彼らに答えた。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。」

人々に取り憑いていた悪霊たちは、スケワの息子たちに答えました。イエスやパウロのことは知っているが、お前たちは何者だ」。これは、「お前たちは何様のつもりだ」という侮蔑の言葉です。

悪霊たちは、スケワの息子たちが用いるイエスさまの名前をまったく恐れていません。というのは、彼らにはイエスさまに対する真実の信仰がなかったからです。

ユダヤの文化において、名前というのはその名前を持つ人そのものを指します。スケワの息子たちは、イエスというお方のことを神が人となってこられたお方だとは信じていませんし、神の国の王だとも信じていません。ただ、イエスという名前に魔術的な力が宿っていると考えただけです。

悪霊たちはイエスさまの権威と力には恐れおののいていました。そして、イエスさまのお名前も恐れていました。しかし、信仰が伴わないでただイエスという名前を使われても、それは単なる記号に過ぎません。悪霊たちはまったく恐れを感じなかったのです。
悪霊による暴行
(16節)そして、悪霊につかれている人が彼らに飛びかかり、皆を押さえつけ、打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家から逃げ出した。

悪霊に取りつかれた人たちは、スケワの息子たちに襲いかかりました。そして、散々に暴行を加え、着物も剥ぎ取ってしまいました。こうして、スケワの息子たちは傷を負わされて、裸のまま逃げ出していきました。

エペソ伝道の成果

巡回祈祷師事件の結果
(17節)このことが、エペソに住むユダヤ人とギリシア人のすべてに知れ渡ったので、みな恐れを抱き、主イエスの名をあがめるようになった。

スケワの息子たちの話は、エペソ中に広まりました。そして、イエスというお名前、さらにはイエスさまご自身に対して厳粛な思いを抱くようになります。
罪の告白
(18節)そして、信仰に入った人たちが大勢やって来て、自分たちのしていた行為を告白し、明らかにした。

こうして、たくさんの人たちが救われました。この人たちは、パウロの所にやってくると、かつて自分たちが行なっていた罪深い行ないを告白しました。

他の人の前で罪を告白することは、救いの条件ではありません。彼らは、自分が救われたことを証しするために、罪を告白したのです。
魔術書の焼却
(19節)また魔術を行っていた者たちが多数、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を合計すると、銀貨五万枚になった。

特に、エペソは魔術が盛んだったようで、多くの魔術師がいました。聖書は魔術、占い、まじないの類いを禁じています。そこで、大勢の魔術師が高価な魔術書を持ってきて、皆の前で焼いてしまいました。その額、銀貨5万枚。日当8千円で計算すると4億円にもなります。

もったいない話ですが、それだけ救われた元魔術師たちがイエスさまに従いたいという熱心な思いに満たされていたのです。
拡大するみことば
(20節)こうして、主のことばは力強く広まり、勢いを得ていった。

こうしてエペソ、そしてアジア属州での伝道は力強く進み、たくさんの人たちが救われ、成長していきました。

ここから、私たちもエペソで行なわれたような神さまによる力強いみわざを体験するために、どんな態度が必要なのか教えていただきましょう。

2.イエスと人格的存在として接する

人格的存在であるとは

イエスさまが人格的存在であるとはどういうことでしょうか。

それは、他のもので取り替えが不可能だということです。たとえば愛する家族や友人から、「あなたなんかいなくても、他に代わりはいくらでもいる」と言われたり、そういういう接し方をされたりしたら、きっとあなたは傷つき、悲しむことでしょう。それはイエスさまも同じです。

そして、イエスさまが人格的存在だということは、意志を持ち、願いを持ち、計画を持っておられるということです。そして、他の人格的存在に、ご自分の思い、ご自分の願いを理解してもらいたいと思っておられます。
スケワの息子たちの態度
スケワの息子たちは、イエスさまのお名前を唱えて悪霊を追い出そうとしました。しかし、イエスさまというお方を人格的存在として接していたわけではありません。

スケワの息子たちは、イエスさまの願いやご計画については無頓着でした。彼らが欲しかったのは奇跡を行なう力であって、イエスさまというお方にはまったく関心を持っていなかったのです。

「イエスの名によって」と唱えてはいますが、それはイエスさまに対する尊敬、イエスさまに対する共感、イエスさまに対する信頼から語られた言葉ではなくて、ただの呪文のようなものでした。それは、イエスさまを人格的存在としてではなく、呪文が記された魔術書やオカルトグッズのように扱うことです。
イエスさまは人格的存在ですから、感情を持っておられます。そして、利用されると嫌な気持ち、悲しい気持ちになられます。利用されるということは、もの扱いされるということですから。
パウロの態度
しかし、パウロはスケワの息子たちとは違いました。イエスさまを唯一無二のお方として愛していました。そして、イエスさまの思い、すなわち命をかけても人を救いたいという思いに共感し、自分も同じ思いになっていました。

この話をお読みください。
先日、別の教会の役員さんと話す機会がありました。その方は、心や体の病気、経済的問題、人間関係の問題などを抱えて教会に来る人が多く、それをきっかけとして福音を信じ救われる人が多いけれど、問題が解消した途端に来なくなると嘆いておられました。

もちろん、救いのメッセージに触れるきっかけとして、問題を解決したいと願うことは間違いではありませんし、実際多くの教会で問題をきっかけとして救われる人がいます。

しかし、イエスさまのことを、私を愛し私を導いてくださる唯一無二のお方、人格的存在として受け入れておらず、単なる問題解決のためのツール扱いしてしまっていたならどうでしょう。問題を解決してくれるなら、別にイエスさまでなくてもいいということになるでしょう。そして、問題が解決してしまえば不要になってしまいます。

イエスさまは利用されたいと思っておられるのではなく、愛されたいと願っておられます。私たちは、イエスさまにどれだけ愛されているでしょうか。ご自分の命をささげても惜しくないと思われるほどに、です。

それを確認するとき、私たちはイエスさまのことを唯一無二のお方として愛し、従うことができるようになります。そして、イエスさまが愛しておられる他の人のことも愛せるようになります。

(第1ヨハネ4:19)私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
(当サイト「ショートエッセイ」より)

エペソの人々は、呪文の書かれた魔術書を焼き捨てました。私たちもイエスさまを魔術書扱い、問題解決のための道具扱いするのではなく、人格を持った大切なお方として接しましょう。

では、人格的な接し方とは、どういう接し方でしょうか。注意すべき点を3つ挙げておきましょう。

イエスと人格的存在として接するために必要な態度

(1) いつもコミュニケーションを取る
人格的存在だということは、無視されると悲しいということです。人格は、他の人格との交流を求めます。ですから、神さまは、いつも私たちとコミュニケーションを取りたいと願っておられます。

私たちは聖書を読み、祈ることを通して、神さまと語り合い、交わることができます。

あなたは、これまでイエスさまとどんなふうにコミュニケーションを取ってこられたでしょうか。そして、これからどんなふうにとっていかれるでしょうか。
(2) イエスの願いや計画を知る
人格的存在だということは、自分を理解して欲しいという願いを持っているということです。コミュニケーションは、ただこちらが喋るだけのものではありません。相手の話に耳を傾け、相手を理解することも大切な側面です。

イエスさまは、ご自分の思い、ご自分の気持ち、ご自分の計画をお持ちです。そして、それを私たち神の子どもたちにも知ってほしいと願っておられます。あなたは、これまでどのようにイエスさまの願いや計画を知ろうとしてきたでしょうか。

自分の願い、自分の計画を神さまに申し上げ、その実現を祈り求めるのはすばらしいことです。神さまは私たちが神さまの子どもとして幸せになることを願っておられます。そして、私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。

しかし、願いを一方的に申し上げるだけでなく、「神さまのみこころが何なのか教えてください」と祈ることも大切にしましょう。
(3) みこころが実現することを求める
そして、ただみこころを知るだけでなく、その実現をあなた自身も願ってきたでしょうか。

そして、ただ傍観者として願うだけでなく、パウロのように、あるいはペテロや他の弟子たちのように、自分もその実現のためにできることをしようと努めてきたでしょうか。

イエスさまは、ご自分の働きに私やあなたも参加してほしいと願っておられます。そして、一緒にその成果を喜びたいと願っておられます。

今、イエスさまがあなたに手伝って欲しいと願っておられること、イエスさまの思いを実現するためにあなたにできることは何でしょうか? それを教えていただき、実行しましょう。

私たちがこのようなことに注意し、イエスさまと人格的な交わりを深めていくとき、力強い神さまのみわざを体験することができるようになっていきます。

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