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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

誓願を終える信者への出資

使徒の働きシリーズ34

使徒の働き21章17節〜26節

(2025年8月10日)

第三回伝道旅行の最後にエルサレムに立ち寄ったパウロは、主の兄弟ヤコブたちの勧めに従って、誓願を終える儀式をするユダヤ人信者たちのために費用を出してやることにしました。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

私たちは生き生きとした人生を送りたいと願っています。そして、自分自身だけでなく、他の人たちと共にそういう人生を味わいたいと願っています。そのために必要な心構えを、エルサレム教会の指導者たちやパウロの行動から教えていただきましょう。

1.ヤコブたちの勧めに従うパウロ

エルサレム到着

歓迎されるパウロ一行
(17節)私たちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。

時は紀元57年、ペンテコステの祭り(七週の祭り、五旬節)の頃です。この年のペンテコステは、5月26日前後と推定されています。第三回伝道旅行を終えたパウロはエルサレムに到着しました。エルサレム教会の人たちは、パウロ一行を大歓迎しました。
ヤコブの元への訪問
(18節)翌日、パウロは私たちを連れて、ヤコブを訪問した。そこには長老たちがみな集まっていた。

エルサレム到着の翌日、パウロたちはヤコブと長老たちの元を訪れました。

このヤコブは、イエスさまの兄弟の一人です。イエスさまが十字架にかかる前は、イエスさまのことを救い主だとは信じていませんでしたが、復活したイエスさまに会いました(第1コリント15:7)。それがきっかけで信仰を持ったのでしょう。
その後、エルサレム教会の中心人物の一人として活動するようになりました。このとき十一使徒(ヨハネの兄弟ヤコブはすでに殉教しています。12:2)は、各地に散らばって伝道していたようです。
長老たちへの宣教報告
(19節)彼らにあいさつしてから、パウロは自分の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ説明した。

パウロは、エルサレム教会の長老たちに、伝道旅行の成果を説明しました。それはパウロたちだけの働きではなく、神さまお働きです。パウロは自分の働きを誇ったのではなく、神さまに栄光を帰しました。それがこの19節の表現から分かります。

長老たちの勧め

律法に熱心なユダヤ人信者
(20節)彼らはこれを聞いて神をほめたたえ、パウロに言った。「兄弟よ。ご覧のとおり、ユダヤ人の中で信仰に入っている人が何万となくいますが、みな律法に熱心な人たちです。

パウロの報告を聞いて神さまをほめたたえた長老たちは、ユダヤ人信者について話し始めます。この頃、すでに何万人ものユダヤ人がイエス・キリストの恵みの福音(第1コリント15:1-8)を信じていました。彼らはモーセの律法の教えを熱心に守っていました。

モーセの律法は、出エジプトの後、神さまがユダヤ人にお与えになった命令体系です。異邦人には関係がありませんが、ユダヤ人であれば守る義務がありました。

といっても、律法を守ることは救いの条件ではありません。モーセの律法は、出エジプトという祝福をすでに味わったユダヤ人が、神さまの民としてどのような生き方をすればいいか教えられたものです。

(出エジプト20:1-2)それから神は次のすべてのことばを告げられた。 「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、【主】である。
そして、イエスさまが十字架にかけられたとき、モーセの律法は役割を終えました。

(エペソ2:14-16)実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのもの(註:ユダヤ人と異邦人)を一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

ですから、たとえユダヤ人であっても守る義務はありません。しかし、逆に守ってはいけないということもありません。救いの条件にしたり、他人にも押しつけたりしない限り、ユダヤ人の伝統としてモーセの律法に沿った生き方をするかどうかは自由です。

多くのユダヤ人クリスチャンたちにとって、モーセの律法に沿ったライフスタイルを続けることはごく自然なことでした。そのようなわけで、多くのユダヤ人クリスチャンが、モーセの律法の教えに従った生き方を続けていました。
パウロについての誤解
(21節)ところが、彼らがあなたについて聞かされているのは、あなたが、異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習にしたがって歩むなと言って、モーセに背くように教えている、ということなのです。

長老たちは、パウロに関する誤解について口にしました。それは、パウロがモーセの律法に従うなと教えているというものです。

これは誤解です。パウロはモーセの律法を救いの条件にしない限り、モーセの律法に沿った生き方をすることを禁じていません。それどころか、パウロ自身も律法に沿った生き方をしています。
  • 伝道に効果的だと考えて、ユダヤ人の母とギリシア人の父の間に生まれたテモテに割礼を施しています(16:1-3)。
  • ナジル人の誓願という、律法に記されている誓願を行なっています(18:18)。
  • 律法に記されている祭りであるペンテコステに間に合うよう、エルサレムに向かいました(20:16)。
そして、長老たちもパウロが律法に従うなと教えていたと誤解していたわけではありません。間違った風聞が、ユダヤ人クリスチャンたちの間に広まっているということを報告したまでです。
長老たちの心配
(22節)それで、どうしましょうか。あなたが来たことは、必ず彼らの耳に入るでしょう。

長老たちは、パウロがエルサレムにやってきたという話は、誤解しているユダヤ人クリスチャンたちの間にすぐに広まるだろうと言いました。

彼らが心配しているのは、誤解に基づいてユダヤ人クリスチャンたちがパウロを非難したり、それが元で教会が分裂したりすることです。そして、この誤解が広まれば、新しく信仰を持とうとするユダヤ人たちが躊躇してしまうかもしれません。

また、 パウロが律法を守るなと教えているというフェイクニュースをエルサレム教会に広めたのは、パウロの伝道活動を苦々しく思っていた、イエスさまを信じていないユダヤ人たちでしょう。

過越の祭り、ペンテコステ、そして仮庵の祭りの時には、世界中からたくさんのユダヤ人が祭りを祝うためにエルサレムに集まりました。その中には、小アジアやギリシアでパウロを迫害したユダヤ人たちも含まれていたことでしょう。その人たちの耳に入れば、パウロの身が危なくなります。

そこで、長老たちはパウロに次のような提案をしました。
長老たちの提案
(23-24節)ですから、私たちの言うとおりにしてください。私たちの中に、誓願を立てている者が四人います。この人たちを連れて行って、一緒に身を清め、彼らが頭を剃る費用を出してあげてください。そうすれば、あなたについて聞かされていることは根も葉もないことで、あなたも律法を守って正しく歩んでいることが、皆に分かるでしょう。

長老たちは、エルサレム教会の中に誓願を立てている人が4人いると言いました。

誓願とは、
  • 神さまに何かをお願いし、それがかなえられたらこうしますと約束すること。
  • あるいはすでにかなえられたことに対する感謝の表現として、何かをすることを約束すること。
  • または、自発的に神さまの働きのために、一定期間自分の身を特別にささげる誓いを立てること。
特にこの場合には、モーセの律法で定められている「ナジル人の誓願」(民数6:1-21)のことです。ナジル人の誓願の期間中は、以下のことを守りました。
  • ぶどうの木から生じるもの(皮やジュースも含む)とアルコールを摂取しない。
  • 髪の毛を剃らない。
  • 親族といえども死体に触れない。
そして、誓願の期間が終わると、髪の毛を剃りました(24節)。
先ほども少し触れましたが、パウロもナジル人の誓願を行なっていて、第三回伝道旅行の帰りに、ケンクレアという町で髪の毛を剃っています(18:18)。

長老たちは、パウロがナジル人の誓願をしている人たちのために、費用を援助するよう勧めました。これは、ナジル人の誓願が満了したとき、神さまにささげるべきいけにえの費用を負担するという意味です。

ナジル人の誓願を終えるときにささげるいけにえについて、モーセの律法には次のように記されています。

(民数6:13-15)これはナジル人についてのおしえである。ナジル人としての聖別の期間が満ちたときは、彼を会見の天幕の入り口に連れて行く。彼は次のささげ物を【主】に献げる。すなわち、全焼のささげ物として傷のない一歳の雄の子羊一匹、罪のきよめのささげ物として傷のない一歳の雌の子羊一匹、交わりのいけにえとして傷のない雄羊一匹、さらに穀物のささげ物として、種なしパン一かご、油を混ぜた小麦粉の輪形パン、油を塗った種なしの薄焼きパンを、それぞれに添える注ぎのささげ物とともに献げる。

これを4人分負担するとなると、労働者1年分の給料に相当するお金が必要だと言われています。大変な額ですね。しかしそれだけに、パウロがモーセの律法をないがしろにしているわけではないということをユダヤ人たちに示すことができます。
エルサレム会議の決定事項の再確認
(25節)信仰に入った異邦人に関しては、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けるべきであると決定し、すでに書き送りました。」

長老たちは、紀元49年に行なわれたエルサレム会議で決まったことを再び語りました。

この会議では、異邦人が救われるのに、ユダヤ人のように割礼を受けてモーセの律法を守る必要はないことが確認されました。ただ、イエスさまの恵みの福音を信じるだけで、ユダヤ人も異邦人も救われます。

ただし、異邦人信者に4つのことを避けるようお願いすることになりました。これは救いの条件ではありません。

これらの行動はユダヤ人たちが忌み嫌っていることなので、異邦人信者が平気で行なっているとユダヤ人が福音を信じるのを邪魔してしまったり、教会内にユダヤ人信者と異邦人信者の分裂を引き起こしたりしかねません。ですから、この4つの禁止事項は、ユダヤ人に配慮してほしいというお願いです。
  • エルサレム会議についての詳しい解説は、こちらの記事をご覧ください。
今回、長老たちがパウロに誓願満了の儀式の費用を負担するよう提案したのも、モーセの律法を守ることが義務だということではなく、教会全体の一致やパウロの安全のため、すなわち愛を実現するためです。

勧めに従うパウロ

勧めの実行
(26節)そこで、パウロはその人たちを連れて行き、翌日、彼らとともに身を清めて宮に入った。そして、いつ、清めの期間が終わって、一人ひとりのためにささげ物をすることができるかを告げた。

パウロは、長老たちの勧めに納得してその通りにしました。まず必要なのはきよめの儀式です。これに7日間必要でした(27節)。その期間が満了すると、いけにえをささげることになります。
この後のこと
この後のことを少し解説しておくと、今回の長老たちやパウロの思惑はうまく実現しませんでした。

エルサレム神殿は、異邦人も入れる外庭と、ユダヤ人しか入れない内庭に分かれています。小アジアから巡礼に来ていたユダヤ人の一部が、パウロが異邦人を内庭に連れ込んだと誤解しました。その結果大騒ぎになり、民衆はパウロを神殿の外に引きずり出して暴行を加えました。

エルサレム神殿の模型(イスラエル博物館)
(画像引用:Wikipedia
そして、この騒ぎを聞きつけたローマ軍が出動し、パウロを保護しました。その後パウロはローマ総督府のあるカイサリアに送られ、2年間牢で過ごした後、ローマに送られることになります。

ただし、これはパウロが長老たちの提案に乗ったことが間違いで、それに対する神さまからの罰だったということではありません。これは神さまのご計画の内です。

パウロは、第三回伝道旅行の最中、自分が伝道旅行の最後にエルサレムに行き、その後ローマに行くことを聖霊さまに示されていました。

(使徒19:21)これらのことがあった後、パウロは御霊に示され、マケドニアとアカイアを通ってエルサレムに行くことにした。そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と言った。

ですから、今回の長老たちの提案や、それを受け入れたパウロの判断自体は間違いではなかったのです。

それでは、ここから何を学ぶことができるでしょうか。

2.愛の実現のために自由を用いよう

自分なりの自由の使い方を確立する

イエスさまが十字架にかかる前、異邦人がユダヤ人と同じように聖書の神さまを礼拝し、信仰の共同体に加わるためには、異邦人のままではダメでした。

割礼を受け、モーセの律法に従った生き方をする誓いを立てなければなりませんでした。すなわち、ユダヤ人のようにならなければならなかったのです。

しかし、 イエスさまが私たちの罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活したことを私たちは信じました。その時、私たちは自由になりました。異邦人は異邦人のライフスタイルのままで救われ、神さまを礼拝し、信仰の共同体である教会に加えられます。

しかし、一部のクリスチャンは、いまだに勝手な義務を作り出してそれに縛られて生きています。そのことについてパウロは次のように語っています。

(コロサイ2:20-23)もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

自分が自由になったということをいつも確認しましょう。そうでないと、信仰生活がしんどいものになってしまいます。
もちろん、自由だからといって何をやってもいいということではありません。ペテロが次のように教えています。

(第1ペテロ2:16)自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。

自分が自由だということをいつも覚えていましょう。そして、自分なりの自由の使い方を確立しましょう。

他人の自由を尊重する

そして、私たちは他の人の自由も尊重しなければなりません。私たちのライフスタイルを、他の人に押しつけないということです。

パウロたち正しい教えを語る指導者たちは、神さまが明確に命じたり禁止したりしていることと、それぞれの地域教会や個人の判断に任せていることを区別していました。

たとえば、今私たちはこうして公の礼拝をささげていますが、それは聖書が定期的に集まって礼拝することを命じているからです(ヘブル10:25)。しかし、何曜日の何時からどれくらいの長さの礼拝式を持つかについては、聖書は沈黙しています。

献金についても、自発的に喜んでささげるよう命じられていますが(第2コリント9:1)、額とか収入に対する割合とかについては定められていません。

定期的な断食、集会の最初に「ハレルヤ!」と叫ぶこと、朝5時に起きて聖書を読み祈ることなど、信仰上の様々な習慣を持っているクリスチャンがいらっしゃいます。そして、それをしているおかげで祝福された信仰生活を送っておられる方もたくさんおいでです。

もしあなたがそうでしたら、ぜひそれを続けてください。他の人に勧めることもかまいません。

しかし、それをしないと信仰者として二流以下だとか、成長できないとか言って脅したり、強要したりしてはなりません。聖書がそうしろとはっきりと命令していることではないからです。あくまでも勧めるだけに留めましょう。

私たちも、自分自身の確信をさらに確かなものとし、それに基づいたライフスタイルをしっかり確立しましょう。同時に、他の人の確信やライフスタイルを尊重しましょう。そして、一緒に神さまをほめたたえ、それぞれ地上で熱心に神さまのみこころを実践しましょう。

他人の救いと成長のために自由を行使する

特に今回の箇所が私たちに教えているのは、他の人の救いや成長のために行動するということです。

エルサレム教会の長老たちは、パウロに頭を剃る儀式に同行していけにえのための費用を負担するよう勧め、パウロも了承しました。

それは、ユダヤ人信者たちのためです。彼らがパウロのことを誤解し、パウロが教えていることを受け入れなくなったり、その結果教会の中に分裂が起こってしまったりすることを、長老たちもパウロも恐れたのです。

また、まだイエスさまを信じていないユダヤ人たちにとって、イエスさまを信じる妨げにならないようにとも考えました。

それは、エルサレム会議での決定にも現れています。すべては愛の実現のためです。パウロはこう語っています。

(ガラテヤ5:13)兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

さらにこうも語っています。

(第1コリント9:19-20)私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。

私たちも自由です。しかし、その自由をどう使うか、それを判断する基準の一つは、自分の言動は、他の人をイエスさまに近づけるだろうか、あるいはその人が人として、信仰者としてさらに成長するのに役立つだろうかということです。一言で言えば、人に対する愛の動機で行動を選ぶということですね。

まとめ

私たちは、聖書の教えには忠実に従い、他の人にもそうするよう勧めますが、聖書の教えに反しない限り、他の人の自由を尊重しましょう。そして、自分に与えられている自由を十分に味わうと共に、その自由を他の人への愛の動機で用いましょう。

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