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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

マルタ島でマムシに勝利したパウロ

使徒の働きシリーズ41

使徒の働き28章1節〜14節

(2025年9月28日)

ローマ護送中に船が難破したパウロは、命からがらマルタ島に上陸しました。しかし、そこでもマムシに噛まれるという災難に遭います。しかし、彼は死ぬことがありませんでした。

礼拝メッセージ音声

参考資料

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(画像引用:聖書 新改訳2017)

1節の「マルタ」は、シチリア島の南にある小島。

7節の「プブリウス」は、ローマ人に多い名前です。正式な属州総督というわけではなく、地方を収める行政長官だったと考えられています。なお、マルタ島の教会の伝承では、プブリウスがクリスチャンになり、さらにマルタ島の教会の初代司教になったとされていますが、聖書には記されていませんし、まだ考古学的証拠も見つかっていません。

11節の「ディオスクロイ」は「ゼウスの息子」という意味で、ギリシア神話の英雄で双子座の由来となった、カストルとポルックスのことです。航海の守護神とされています。

12節の「シラクサ」は、シチリア島南東部の都市。

13節の「レギオン」は、イタリア半島のブーツのつま先に当たる場所にある都市。今のレッジョ・ディ・カラブリア。

13節の「プテオリ」(現在のポッツオーリ)は、ナポリのそばにある都市(ブーツのすねの部分)。レギオンから約360キロ離れており、プテオリからローマまでは残り約200キロです。

イントロダクション

大変な嵐を乗り越えてマルタ島に上陸したパウロは、島の人たちに大きな感銘を与えました。私たちも、周りの人たちに悪影響ではなく良い影響を与えられる存在でありたいですね?

聖書は、私たちもそのような生き方ができ、さらには私たちの生き方を通してイエスさまのことを他の人にお伝えすることができると約束しています。その秘訣を、パウロを通して教えていただきましょう。

1.マルタ島でのパウロ

マルタ上陸後

マルタ島への上陸
(1節)こうして助かってから、私たちはこの島がマルタと呼ばれていることを知った。

ユダヤ人たちから訴えられていたパウロは、皇帝に上訴したためカエサリアの総督府からローマに送られることになりました。しかし、途中で船が大嵐に巻き込まれ、2週間後にようやく陸地に近づきました。そして、船は浅瀬に座礁します。

兵士たちは護送していた囚人たちが逃げ出すのを心配して、全員殺してしまおうと主張しましたが、一行のリーダーである百人隊長ユリウスはこれを許可しませんでした。これまでの出来事を通して、パウロのことを尊敬していたためです。

そこで、泳げる者は泳いで、泳げない者は木切れにつかまって陸を目指すことになります。こうして276人の乗員乗客は全員無事に上陸することができました。
彼らが上陸したのは、マルタ島でした。イタリア半島はブーツの形をしています。そのブーツが蹴飛ばしている石がシシリア島です。マルタ島はそのシシリア島の南に位置しています。
親切にしてくれたマルタ島の人々
(2節)島の人々は私たちに非常に親切にしてくれた。雨が降り出していて寒かったので、彼らは火をたいて私たちみなを迎えてくれた。

マルタ島の人々は、命からがら海から上がってきた人たちに対して非常に親切に接してくれました。時期としては11月初旬頃、季節は冬に入っていて体が凍えています。その上冷たい雨も降ってきたため、島の人々は火を焚いてパウロたちを温めようとしてくれました。
マムシにかまれたパウロ
(3節)パウロが枯れ枝を一抱え集めて火にくべると、熱気のために一匹のまむしが這い出して来て、彼の手にかみついた。

火にくべた薪の中に、寒さで動けなくなっていたマムシが一匹潜んでいました。それが突然火の中に入れられたものですから、マムシは慌てて薪の中から出てきました。そして、ちょうど目の前にいたパウロの手にかみつきました。
パウロを人殺しと誤解した島の人々
(4節)島の人々は、この生き物がパウロの手にぶら下がっているのを見て、言い合った。「この人はきっと人殺しだ。海からは救われたが、正義の女神はこの人を生かしておかないのだ。」

島の人たちは、船から脱出して上陸した人々の中に、ローマに護送される囚人がいることを聞かされたことでしょう。

そんなときにパウロがマムシにかまれたものですから、島の人々は「あのパウロはよっぽどひどい罪を犯したに違いない。きっと人殺しだ。だから天罰が下ったのだ」と言い始めました。

私たちも、自分や他の人が苦しい目にあうと、これは天罰かもしれないと思ってしまうことがありますね。実際にはそうではありませんでしたが、島の人たちはパウロに天罰が下ったと考えたのです。
害を受けないパウロ
(5節)しかし、パウロはその生き物を火の中に振り落として、何の害も受けなかった。

一方、マムシに噛みつかれた当事者であるパウロはどうしたでしょう。噛みつかれた手を火に向かって一振りすると、寒さでうまく体が動かせないマムシは、そのまま火の中に落とされてしまいました。

そして、パウロは一切害を受けることがありませんでした。
パウロを神と誤解した島の人々
(6節)人々は、彼が今にも腫れ上がってくるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと待っていた。しかし、いくら待っても彼に何も変わった様子が見えないので、考えを変えて、「この人は神様だ」と言い出した。

マムシにかまれて毒が体内に入ると、まずかまれた部分が激しく痛みます。そして、発熱、悪寒、吐き気、嘔吐、めまい、頭痛、意識障害などの全身症状が現れるようになります。さらに重症化すると、血液が固まりにくくなって内臓や歯茎などから出血したり、腎不全を起こしたりして、やがて死に至ります。
マルタ島の人たちはマムシの恐ろしさをよく知っていますから、パウロも間もなくそのような状態になって死ぬだろうと考えていました。ところが、パウロはまったくマムシの毒の影響を受けていません。

つい先ほどまで、「あいつは人殺しであり天罰が下ったに違いない」と考えていた島の人々は、あの人は神に違いないと考えるようになりました。謙遜なパウロにとっては、そんな誤解はいい迷惑です。しかし、それほどマルタ島の人々が驚いたということです。

長官プブリウスの領地で

長官プブリウスによる歓待
(7節)さて、その場所の近くに、島の長官でプブリウスという名の人の所有地があった。彼は私たちを歓迎して、三日間親切にもてなしてくれた。

マムシ事件の話が、島を治める長官プブリウスの耳に入ったのでしょう。パウロたち一行はプブリウスの領地に招かれて、3日間に渡って歓迎されました。「私たち」とありますから、招かれたのはパウロのほかに、彼に同行してきたルカとアリスタルコの2人でしょう。
プブリウスの父のいやし
(8節)たまたまプブリウスの父が、発熱と下痢で苦しんで床についていた。パウロはその人のところに行って、彼に手を置いて祈り、癒やした。

パウロを歓迎してくれたプブリウスでしたが、一つ心配事がありました。それは、父親が発熱と下痢で苦しんでいたのです。それを知ったパウロは、父親のところに行って、いやしを祈りました。すると、長官の父親はすっかり治ってしまいました。いやしの奇跡が起こったのです。

長官プブリウスはどれほど喜んだことでしょうか。マルタ島の教会の伝承によると、プブリウスはその後、マルタ教会のリーダーになったとのことです。真偽は分かりませんが、あり得る話ですね。
島の人々のいやし
(9節)このことがあってから、島にいたほかの病人たちもやって来て、癒やしを受けた。

プブリウスの父親がいやされたという話は、島中に広まりました。そこで、多くの病人たちがパウロの元にやってきていやしを求めました。パウロは彼らのために祈り、そしていやしてやりました。

カレル・デュ・ジャルダン作「リステラで足の不自由な人をいやすパウロ」
(画像引用:Meisterdrucke
物資を提供する島の人々
(10節)また人々は私たちに深い尊敬を表し、私たちが船出するときには、必要な物を用意してくれた。

かつてはパウロのことを人殺しに違いないと思っていたマルタ島の人たちは、今やパウロ、そしてその同行者であるルカやアリスタルコのことを尊敬のまなざしで見つめるようになりました。

こうして冬が過ぎ、いよいよマルタを離れるときがやってきました。パウロたちのことを尊敬していたマルタ島の人々は、船旅に必要な物資を自発的に用意してくれました。

マルタからローマへ

マルタからの出航
(11節)三か月後、私たちは、この島で冬を越していたアレクサンドリアの船で出発した。その船首にはディオスクロイの飾りが付いていた。

地中海は冬の間(11月初旬〜3月初旬)は、暴風が起こりやすくて危険、あまり天候が良くないために太陽や星が見えずに方位が測定しづらいなどの理由で、ほとんど航海は行なわれませんでした。

マルタで3カ月の冬の時期を過ごしたパウロたち一行は、アレクサンドリアから来て冬を越していた船に乗り込んで、マルタを離れることになりました。

この船には、ディオスクロイの飾りが付いていたとルカは書いています。ディオスクロイとは、双子座の由来になったギリシア神話の双子の英雄のことです。彼らは航海の守り神として船乗りたちにあがめられていました。

そんな異教の神々のことをわざわざルカが記したのは、本当の守り神は聖書の神さまだということを強調するためでしょう。事実、聖書の神さまがパウロに約束したとおり、276人の乗員乗客は、ただの一人も失われることなくマルタ島に到着することができました。
シラクサ到着
(12節)私たちはシラクサに寄港して、三日間そこに滞在し、

マルタを発った船は、シシリア島のシラクサに到着しました。一行はそこで3日間を過ごしました。
レギオンを経由してプテオリへ
(13節)そこから錨を上げて、レギオンに達した。一日たつと南風が吹き始めたので、二日目にはプテオリに入港した。

シラクサを発った船は、いよいよイタリア半島に渡ります。イタリア半島はブーツの形をしていますが、つま先に当たる場所にある港町レギオンに船は到着しました。

レギオンを発った船は、風向きが非常に良かったため、翌日にはブーツのすねの部分に当たるプテオリという町に着きました。ここからローマまで、いよいよ200キロの道のりです。

現代のプテオリ(ポッツォーリ)
(画像引用:Wikipedia)
プテオリからローマへ
(14節)その町で、私たちは兄弟たちを見つけ、勧められるままに彼らのところに七日間滞在した。こうして、私たちはローマにやって来た。

プテオリには、クリスチャンたちがいました。プテオリ教会の人々はパウロたちを歓迎してくれ、そこに7日間とどまりました。それからパウロたちはローマに向けて出発しました。

こうして、波瀾万丈だったパウロのローマへの旅が終わります。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。 私たちがいつも堂々と振る舞って、周りの人たちに感銘を与え、さらにイエスさまのことを伝えて相手の人生に良い影響を与えることができるには?

2.人生のマムシに対処しよう

一喜一憂しない

因果論
マルタ島の人々は、パウロがマムシにかまれると、こいつはひどい罪人に違いないと考えました。しかし、全く害を受けないと知ると、今度は神さまだと言い出しました。

実に調子のいい態度ですが、私たちも同じような態度を取ってしまうことがないでしょうか。
  • 自分や他人がひどい状況に陥ったのは、その人が罪を犯して神さまに呪われているせい。あるいは元々神さまに嫌われているせい。
  • 自分や人が良い状況にあるのは、その人が良い行ないをして神さまからご褒美をいただいているせい。あるいは元々神さまに愛されているせい。
そんなふうに考えることがありませんか?
ショック療法としての苦しみ
確かに、神さまは私たちが本来の生き方から外れていることを教えるために、ショック療法として苦しみに遭わせることがあります。しかし、それは私たちを憎んでいるからではなく、むしろ深く深く愛しておられるからです。

(黙示録3:19)わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。

罪は、私たちを神さまから引き離します。神さまとの関係をおかしくしてしまいます。神さまとの素晴らしい交わりが絶たれることは、たとえ順風満帆の生活をしていたとしても、私たちにとって大きな不幸です。

ですから、神さまは、私たちを本来の姿に戻すために、あえて厳しい態度を取られることがあるのです。それは、神さまが私たちを愛しておられるからです。
訓練としての苦しみ
また、このようにも書かれています。

(ヘブル12:10-11)肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

ですから、問題がないことが神さまに愛されている証拠であり、問題があることが神さまに愛されていない証拠だと考えるのはやめにしましょう。

今置かれている状況がどうであっても、私たちは神さまに愛されており、祝福の中に生かされているということを忘れてはなりません。それが、周りの人たちにイエスさまの存在を意識させる秘訣です。

平穏の中にこそ誘惑があると知る

悪魔の手紙
C・S・ルイスの著作の中に、「悪魔の手紙」というものがあります。これは、人間を誘惑する初心者の悪霊ワームウッドに対して、彼の叔父で悪魔の国では大臣を務める先輩悪霊スクルーテイプが、懇切丁寧にアドバイスをする一連の手紙という体裁の本です。

この本の時代背景は、第二次世界大戦で、ナチスドイツが次々と周辺諸国を侵略しており、イギリスも戦渦に巻き込まれそうになっている時期です。初心者悪霊は、担当する人間(患者と呼ばれています)に、間近に迫る空襲の恐ろしさなどを吹き込んで、不安にさせて喜んでいました。

すると、先輩悪霊はその有頂天な態度を戒めます。恐れや不安は、神さまへの信頼感を奪う成果を招くこともあるけれど、かえってイエスに近づいて、信頼感を深めるようになる恐れもある、いわば諸刃の剣だから注意しろというわけです。
試練の中で育つ信仰
クリスチャンは、本当にひどい状況に陥ると、イエスさまに信頼するしかなくなって、かえって平安を手に入れてしまうことがあります。

以前も申し上げましたが、私の大学生時代は、仕送りのほとんどが学費に消えましたので、非常に貧しい生活を送っていました。だからこそ、生活のすべてをイエスさまにお任せするしかなく、いつもイエスさまのことを考え、絶えず祈りながら生活していました。

下手をしたら、今よりもずっとずっとイエスさまとの関係は近かったかも知れません(……と反省)。
平穏の中で襲ってくるマムシ
パウロは、大変な嵐に巻き込まれ、半月に渡って漂流するという問題に巻き込まれました。そして、マルタ島に打ち上げられ、島の人々に優しく接してもらって、ホッとします。ところがそう思ったのもつかの間、マムシが出てきてかみつきます。

クリスチャンにとっての本当に危険な試練や誘惑は、問題のまっただ中というよりは、平穏で問題のない生活の中でこそ起こります。

信仰的な王として有名なダビデも、サウル王に命を狙われて追い回されていたときではなく、サウルが死んでいなくなり、ペリシテ人との戦いにめどが付いて、自分が最前線に立たなくても良くなってから、バテ・シェバとの不倫と、その夫ウリヤの謀殺という恐ろしい罪を犯してしまいました(第2サムエル11章)。

また、預言者エリヤは、数百人の異教の預言者たちとの雨乞い合戦をやっている最中には、自信に満ちあふれていました。しかし、戦いに勝利した直後に、イゼベル王妃のちょっとした脅しに恐れを感じ、シナイ山まで逃げて、死を願うほどのうつ状態に陥ってしまいました(第1列王19章)。
誘惑や試練はチャンス
一方で、誘惑や試練は、逆に言うと神さまの素晴らしさを証しするチャンスでもあります。

ですから、問題がないときほど、私たちはマムシの毒に備えて、イエスさまのことを考え、イエスさまに信頼し、イエスさまの教えに忠実に従うことを意識しましょう。

栄光を現すチャンスを日常的に探す

日常の延長
今回の箇所を読んで、私がパウロに対して抱いた印象は、「力が入っていないなあ」ということでした。毒蛇にかまれても、大騒ぎしないでそれをさっと振り払います。

長官プブリウスの父親をいやしたときも、「これからすごいことを行ないますよ」というような仰々しい態度をとることもなく、さらっといやしている印象です。今回の出来事は、パウロの日常の延長上にあったことだということです。

パウロは、毎日毎日、いや一瞬一瞬、イエスさまの福音を伝えたり、神さまの素晴らしさを現したりするチャンスは無いものかと、探しながら生きていました。

そして、パウロには使徒として蛇の毒に打ち勝ち、いやしを行なう力が与えられていましたから、たまたまそれを用いるチャンスがやってきたときに、実行したのです。
聖霊の賜物
では、私たちはどうでしょう。今はそんな奇跡は起こらないと言い切ることはすべきではありませんが、同時に聖書はこんなふうにも語っています。

(第1コリント12:29-30)皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。

ギリシア語の文法上、期待されている答えは「いいえ」です。クリスチャン全員がいやしを行なえるわけではありません。ですから、わざわざ毒蛇にかまれに行ったり、毒蛇にかまれて病院に行くのを拒否したりしないでくださいね。

私たちクリスチャンには、それぞれに聖霊の賜物、すなわち奉仕のために用いることができる能力や持ち味が与えられています。奇跡を行なう力が与えられている人は、それを使ってイエスさまのことを証ししましょう。

しかし、奇跡を行なう力を持っていなくてもご心配なく。イエスさまに従い、イエスさまの素晴らしさを証しするのに、必ずしも人々がびっくりするような奇跡を行なったり、業績を残したりする必要はありません。あなたは別の誰かになる必要はありません。いつも自分らしく振る舞えばいいのです。
笑顔の賜物?
私が神学生時代、他の教会に1週間お邪魔して実地訓練を受けました。その一環で家庭集会の一つに出席したところ、そこに当時80代のおばあさんがおられました。戦前から信仰を守ってこられたそうです。

戦時中は特高警察につきまとわれ、何度も迫害を受けたと聞きました。しかし、戦争が終わり、自分につきまとっていた警察官が東京に戻る際、わざわざ駅まで見送りに行き、笑顔で送り出したとのこと。

本当にその方の笑顔は素敵でした。苦しいことやつらいことがないわけではありません。年を取って体のあちこちに痛みも抱えておられました。それでも、どんな人にもニコニコと笑顔を向けておられます。そんな笑顔に惹かれて、何人もの方がその家庭集会に参加しておられました。その方には、いわば「笑顔の賜物」が与えられていたのでしょうね。
仕える生き方
あなたにはあなたの持ち味が神さまから与えられています。大切なことは、それをイエスさまのために用いようと意識すること。そして、どんなときにもコンスタントに用い続けること。それが大切です。

特に、たとえマムシにかまれなくても、生きていれば思わぬ問題に巻き込まれることがあります。そんなとき、イエスさまの守りを信じ、普段通りイエスさまにお仕えする姿を人々に見せるだけでかまいません。

その淡々とした姿がしるしとなります。そして、あなたの中に、人々はイエスさまを見るのです。

マムシの毒に打ち勝ち、熱病をいやす力が与えられていたパウロは、イエスさまと他の人に仕えることを忘れませんでした。普段しているとおり、マルタ島でも行ないました。私たちもそうありたいですね。

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