本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ローマに到着したパウロ

使徒の働きシリーズ42

使徒の働き28章21節〜31節

(2025年10月5日)

いよいよローマに到着したパウロは、軟禁されている家にユダヤ人の代表者たちを集め、キリストについて話をしました。

礼拝メッセージ音声

参考資料

21節の「彼ら」は、ローマに住むユダヤ人の代表者たち。パウロがキリストについて話を聴いてもらうため、軟禁されている家に呼び集めました。

26-27節の預言は、イザヤ6:9-10の引用です

欠如している29節は、「彼がこれらのことを話し終えると、ユダヤ人たちは互いに激しく論じ合いながら、帰って行った」という言葉です。後の時代に付け加えられたものなので、現在の聖書本文からは削除されています。

30節の「2年間」は、紀元60〜62年頃。

イントロダクション

今回で、使徒の働きシリーズは終了です。最終回に神さまから教えていただくのは?

私たちは、たとえ問題のまっただ中に置かれても、そこで神さまの祝福を味わうことができます。パウロの体験からその秘訣を学びましょう。

1.ローマでユダヤ人たちと面会したパウロ

ローマ到着後のパウロ

ローマ到着
エルサレムで逮捕されたパウロは、カイサリアの総督府で2年間抑留されました。その後、皇帝に上訴したためにローマに送られますが、途中で大嵐に遭ってしまいました。神さまの守りによってマルタ島に上陸したパウロは、冬を越した後ローマに向かいます。
こうして、波瀾万丈のローマへの旅が終わりました。とはいえ、すぐに皇帝による裁判が開かれるわけではありません。パウロは、結局2年間裁判を待つことになります。
借りた家での軟禁
その間、パウロは薄暗くてジメジメした牢屋ではなく、普通の家を借りて住むことを許可されました(17節)。

その家は常に兵士が監視していましたし、パウロ本人は鎖につながれ、自由に外出することもできません。それでも、カイサリアで抑留されていたときと同様、外から人が訪ねてくるのは禁止されていませんでした。

なかなかの好待遇ですが、これはパウロがローマ市民権を持っていたためです。
ユダヤ人の代表たちを呼び集めたパウロ
ローマ到着の3日後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを自分のところに呼び集めました。当時、ローマの人口が100万〜120万人でした。その中でユダヤ人は4万人から5万人いたと推定されています。

パウロはそんなユダヤ人共同体の指導者たちを呼び集め、自分がどうして囚われの身となったのかを彼らに説明します。
イスラエルの希望
そして、その説明の最後に、パウロは次のように語りました。

(20節)そういうわけで、私はあなたがたに会ってお話ししたいと願ったのです。私がこの鎖につながれているのは、イスラエルの望みのためです。」

イスラエルの望みとは、死者の復活のことです。26:6-8で、パウロはアグリッパ王に対して「自分は死者の復活という希望抱いているせいで、裁判を受けている」と説明しています。
そしてその希望とは、「世の終わりに神さまが理想的な王国である神の国を実現して、死んだ信者をよみがえらせてそこに住まわせてくださる」という約束についてです。

しかも、神の国の王、救い主であるイエスさまが初穂として最初によみがえられたので、他の死者も復活できるという保証が与えられています。

パウロはそのことを「イスラエルの望み」と呼んでいるのです。そして、その説明に対して代表者たちが返答したところから、今回の箇所が始まります。

ユダヤ人たちの反応とパウロの宣告

パウロに関する風聞
(21節)すると、彼らはパウロに言った。「私たちは、あなたについて、ユダヤから何の通知も受け取っていません。また、ここに来た兄弟たちのだれかが、あなたについて何か悪いことを告げたり、話したりしたこともありません。

ユダヤ人たちは、パウロ個人については、他の地域のユダヤ人たちから何も悪い噂を聞かされていないと言いました。

エルサレムや小アジア、ギリシアでは、パウロの悪評がユダヤ人たちの間に広まっていました。それはパウロがそれらの地域で活動していたからです。

しかし、それらの地域から離れた場所にあるローマにまで、パウロの悪評をわざわざ広めに来る人がいなかったのでしょう。
中立的に話を聞くという申し出
(22節)私たちは、あなたが考えておられることを、あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派について、いたるところで反対があるということを、私たちは耳にしていますから。」

パウロ個人の悪評は聞いていないものの、ナザレのイエスこそキリスト、すなわち旧約聖書が登場することを約束してきた神の国の王、救い主だと信じるグループについては、各地で反対運動が起こっていることをローマのユダヤ人たちは聞かされていました。

ただ、ローマにおいては、教会と他のユダヤ人共同体の間に、目立ったトラブルがなかったようです。ユダヤ人たちがキリスト教会に対してたとえ反発を感じていたとしても、皇帝のお膝元で騒ぎを起こすことはさすがにできなかったのでしょう。

そこで代表者たちは、パウロから直接話を聞きたいと言いました。中立的な立場で、パウロの主張を判断しようというわけです。最初から拒否するわけではないし、無批判に受け入れるつもりもないという、極めて冷静で公正な態度ですね。
パウロの説得
(23節)そこで彼らは日を定めて、さらに大勢でパウロの宿にやって来た。パウロは、神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けた。

いったん解散したユダヤ人の代表者たちは、別の日にさらに多くの人たちと一緒にやってきました。

その人たちに向かって、パウロは聖書を用いて、朝から晩まで神の国とイエスさまについて語り続けました。
人は、自分の罪を赦すためにイエス・キリストが十字架にかかられたこと、死んで葬られ、3日目に復活したことを真実だと信じ受け入れたとき、本当に罪赦され、それどころか神さまの子どもとされ、神の国に招かれて永遠に祝福される権利を手に入れます。

パウロは、まだイエスさまのことを救い主だと信じていないユダヤ人たちに、福音を信じて救われてほしいと願い、一生懸命に説得しようとしたのです。
ユダヤ人たちの反応
(24節)ある人たちは彼が語ることを受け入れたが、ほかの人たちは信じようとしなかった。

ユダヤ人たちの反応は二つに分かれました。一方はパウロの話を受け入れて福音を信じました。しかし、別の人々は信じようとしませんでした。
イザヤの預言
(25-27節)互いの意見が一致しないまま彼らが帰ろうとしたので、パウロは一言、次のように言った。「まさしく聖霊が、預言者イザヤを通して、あなたがたの先祖に語られたとおりです。『この民のところに行って告げよ。あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』

意見が一致せず帰ろうとするユダヤ人たち、特に信じなかったユダヤ人たちに対して、パウロはイザヤ6:9-10の預言を引用しました。

イザヤの預言は、南王国のウジヤ王が死んだ年から始まりました。イザヤが活動していた時代、南王国は経済的には繁栄していても、人々の信仰は貧しい状態でした。
  • 御言葉を聞いても悟らない:
    預言者を通して語られる神のことばを聞きながらも、心を開かず理解しようとしませんでした。
  • 神のしるしを見ても受け入れない:
    神が歴史の中で示された奇跡やさばきを見ながらも、それを信仰に結びつけませんでした。
  • 内面が伴わない外面的な宗教行為:
    祭りやいけにえは熱心でも、真の悔い改めや神さまへの信頼の心が欠けていました。
そしてパウロは、イザヤが語った時代のユダヤ人とあなたがたは同じだと非難しました。
異邦人伝道の宣言
(28節)ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります。」

これまでパウロが伝道してきた多くの町々と同じく、パウロはユダヤ人伝道から異邦人伝道に切り替えると宣言しました。

これは、この後ユダヤ人が救われることはないという意味ではありませんし、パウロがユダヤ人に一切伝道しないということでもありません。最初にユダヤ人に伝道し、それが一段落したら異邦人伝道を始めるという原則を、パウロはローマでも実践しているのです。

それと共に、この28節の言葉は、使徒の働き全体を締めくくる言葉でもあります。使徒の働きは、イエスさまの昇天の記事から始まりました。その際、イエスさまは弟子たちに次のように語られました。

(使徒1:8)しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

エルサレムで宣べ伝えられ始めた恵みの福音は、エルサレムから見れば地の果てとも言えるローマにまで届けられました。そして、ユダヤ人だけでなく、霊的には遠くにいた異邦人にも福音は届けられました。

その後のパウロの活動

2年間のローマ生活
(30-31節)パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、 少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

ローマでの軟禁生活は2年間続きました。その間、パウロが借りていた家にはたくさんの人たちが訪れました。それは、ここまで同行してきたルカやアリスタルコ、そしてローマ教会の人たちが呼び集めたからです。

訪れた人たちに対して、パウロは大胆に福音を語り続けました。聖書には「妨げられることもなく」と書かれています。あちこちでパウロはユダヤ人や異邦人から反対を受け、迫害を経験しました。しかしローマでは、軟禁生活という不自由さの中で、自由に伝道することができたのです。

また、このローマでの軟禁中に、いわゆる獄中書簡と呼ばれる、エペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書が 記されました。
2年後のパウロ
この後のことは使徒の働きには書かれていませんが、テモテへの2通の手紙とテトスへの手紙、さらに教会の伝承からある程度のことが推察できます。

ローマ到着の2年後、パウロは皇帝ネロの裁判を受け、そこで無罪判決を勝ち取りました。そして釈放され、晴れて自由の身となります。

その後は次のような動きをしたようです。

釈放後、パウロはマケドニアのピリピ周辺に行ったとみられます。その間、テモテをエペソに派遣しました(Tテモテ1:3)。 パウロ自身については、ニコポリス(ギリシア西部)に滞在する計画を立てています(テトス3:12)。

それから、クレタ島にテトスと共にわたり、テトスに島の教会を任せました。パウロ自身は短期間クレタ島に滞在したと考えられます(テトス1:5)。

画像をクリックすると拡大します
(画像引用:聖書 新改訳2017)

また、パウロはローマ人への手紙15:24と28で「イスパニア(スペイン)に行きたい」と述べています。そして、釈放後にスペインへ行ったという教会の伝承があります(クレメンス、ムラトリ正典目録など)。ただし、聖書には直接の記録がありません。
その後のパウロ
紀元64年、ローマが大火災に見舞われます。これは皇帝ネロが詩を書くために放火したと言われています。そしてネロはその罪をローマのクリスチャンたちになすりつけました。こうして激しい迫害が起こります。

パウロは紀元67年頃に捕えられ、殉教したとされています。パウロはローマ市民権が与えられていたので、十字架や猛獣や火あぶりによってではなく、剣で殺されたとのことです。同じ頃にペテロも捕えられ、逆さまの姿勢で十字架にはりつけになって死にました。

それではここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.逆転の発想をしよう

(1) 不幸はチャンスである

パウロの願いは、できるだけ多くの人々に福音を語り、救いに導くことです。そんな彼にとって、無実の罪で暴行を受け、捕えられ、投獄され、4年間にわたって身柄を拘束され続けるというのは、我慢のならない境遇でしょう。

ところがです。そのおかげで、パウロは2人のユダヤ属州総督(フェリクスとフェストゥス)、アグリッパ王、千人隊長リシアや百人隊長ユリウス以下、多くのローマ兵たちに福音を聞かせることができました。

辺境の地に生まれ育ったユダヤ人であるパウロにとって、普通だったらとても話なんかできないような、雲の上の身分の人たちです。

また、パウロはずっと帝国の首都ローマで伝道したいと思いながら果たせないでいましたが(ローマ1:11-13)、今回の一連の災難によって、図らずもローマに行って伝道することが可能になりました。
回り道でしか得られない祝福
今置かれている状況について、簡単に不幸だと決めつけないことが大切ですね。 思いがけない回り道を経験したとき、そこで初めて気づく神様の恵みや新しい方向性があるはずです。

たとえば、仕事の失敗がきっかけで、家族との時間を大切にするようになったり、別の奉仕の機会を与えられたり、といった具合です。

問題が大きくても、その状況でなければ得られない祝福が必ずあると信じましょう。その上で、その「回り道」でしか得られない祝福を信仰の目で探してみましょう。

(2) 出て行けなければ招けばいい

できないと思っても、必ずできる道があるということです。

パウロは、牢獄には入れられませんでしたが、それでも行動の自由は制限されていました。しかし、だからダメだとは考えませんでした。

出て行けなければ、来てもらえばいいのです。そして、他のクリスチャンたちが連れてきてくれる人たちに、一生懸命に福音を語りました。

ある人が言いました。「できないと考える人は、なぜできないかを考えるが、できると考える人は、どうしたらできるかと考える」。

パウロはできると考える人でした。私も皆さんも、パウロと同じくイエス・キリストを信じるクリスチャンです。ですから、私たちもできると考え、できる方法を探る人になりましょう。
教会の働きとあなたの働き
教会全体の働きの中で、あなたに「できないこと」ではなく「できること」を探しましょう。そして、見つけたら実際に行動しましょう。

たとえば、伝道の働きなら、引っ込み思案で直接人と話すのが得意でないないとしてもできることがあります。
  • 自宅で教会の伝道の働きやまだ救われていない人の救いためにのために祈る「祈りの伝道者」になる。
  • 手紙やメールで励ましを送る「文通伝道者」になる。
  • 教会の集会に来た人を、笑顔で温かく迎える「笑顔の伝道者」になる。
教会の働きは伝道だけではありません。礼拝(広い意味での)、信徒の交わり、教育、社会の傷のいやしなど、さまざまな働きがあります。教会の一員として、自分にできないことではなく、できることを探して実践しましょう。

(3) 今がダメでもずっとダメなわけではない

ほとんどのユダヤ人はイエスさまの福音を信じませんでした。ユダヤ人であるパウロにとって、それはどんなにか悲しく、苦しいことでしょうか。

しかし、だからユダヤ人は神さまから見捨てられたのだとパウロは考えませんでした。ローマ9-11章を読むと、それが分ります。彼は、神さまのご計画によれば、やがてイスラエルが国家としてイエスさまを信じる時が来ると信じていました。

(ローマ11:25-26)兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。

「あつものに懲りてなますを吹く」ということわざがありますが、私たちは失敗をすると、同じ痛みを味わいたくないために、挑戦し続けることを躊躇してしまいがちです。

しかし、一度失敗したからといって、あるいは今の状況が悪いからといって、永遠にその状態が続くと考える必要はありません。
ジョージ・ミュラー
ジョージ・ミュラーは、19世紀のイギリスで活動したクリスチャンで、5つの孤児院を経営したことで知られています。

ジョージ・ミュラー
(画像引用:Wikipedia
孤児院を運営するのに、経済的必要について外部の貴族や資産家たちに訴えることをせず、ただただ祈りをささげました。それによって63年間に渡って必要が賄われ、1万人もの孤児を養ったのです。

そんな彼でしたが、すぐに応えられた祈りばかりではありませんでした。
1844年の11月、ミュラーはまだ救われていない5人の友人のために祈り始めました。それ以来、旅をしているときも、病で伏せっているときも、説教依頼が立て込んでいるときも、毎日5人のために祈り続けました。

最初の1人が救われたのが18ヶ月後でした。2人目の救いはそれからさらに5年かかりました。3人目が救われたのは、2人目が救われてから6年後でした。あとの2人はなかなか救われず、長い年月が経ちました。そして、祈り始めて54年後、1898年にミュラーが亡くなる直前に4人目が救われ、5人目はミュラーが亡くなった直後に救われたそうです。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
もちろん、自分が挑戦しようとしていることが、神さまのみこころに反しているものなら、すっぱりとあきらめる必要があります。

しかし、みこころに反しているわけではないのなら、一度や二度や十度や百度の失敗にめげることなく、チャレンジし続けましょう。

まとめ

私たちも、たとえパウロのように体が物理的に縛られているわけではないとしても、様々な縛りを経験しているでしょう。しかし、私たちはそれで絶望する必要がありません。パウロに倣って、逆転の発想をしましょう。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com