(2025年10月12日)
使徒パウロからコリント教会に宛てて書かれたコリント人への第一の手紙の、あいさつの部分です。ここから神にとって私たちがどのような存在なのかを解説します。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
今回から、コリント人への手紙シリーズが始まります。パウロがコリント教会に宛てて書いた2通の手紙を取り上げます。
手紙、特にその冒頭のあいさつには、書き手にとって読み手がどんな存在なのかということが、よく表れているものです。パウロにとって、そしてこの手紙を書くように導かれた神さまにとって、コリント教会の人々はどういう存在だったのでしょうか。そして私たちは?
1.コリント人への第一の手紙の冒頭部分
執筆状況
今回はコリント人への手紙シリーズの初回ですから、第一コリントの執筆状況について簡単に触れておきます。
差出人と宛先
この手紙は使徒パウロから、ギリシアのコリントという町にある教会に宛てて書かれました。

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(画像引用:聖書 新改訳2017)
書かれた場所
書かれた場所は、エペソです。
(16:8-9)しかし、五旬節まではエペソに滞在します。実り多い働きをもたらす門が私のために広く開かれていますが、反対者も大勢いるからです。
書かれた年代
パウロは第三回伝道旅行で、2年3カ月に渡ってエペソに滞在して伝道・牧会の働きを続けました。その終わり頃、紀元55年頃と考えられます。
内容
コリント教会は、聖霊の賜物が豊かに与えられていたすばらしい教会でしたが、同時にさまざまな問題も抱えていました。
- 教会内の分派・争い(1章)
- 不品行(5章)
- 信者間の訴訟(6章)
- 自由のはき違え(6章)
これらは、「クロエの家の者」からパウロに寄せられました(1:11)。これらの問題点について、パウロは手紙の前半で取り上げています。
また、手紙の後半では、コリント教会のメンバーたちから寄せられた質問について触れています。
- 結婚と独身の問題(7章)
- 偶像にささげられた肉の扱い(8-10章)
- 礼拝の秩序、女性の頭のかぶり物、聖餐式の乱れについて(11章)
- 聖霊の賜物の扱い(12〜14章)
- 死者の復活を否定する人々への回答(15章)
- エルサレム教会への義援金について(16章)
パウロは、これらのテーマについて指導するためにコリント人への第一の手紙を書いたのです。
パウロからコリント教会へのあいさつ
パウロ
(1節前半)神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、
この手紙を送ったのが、パウロであることが明記されています。パウロは自分のことを「キリスト・イエスの使徒」と呼んでいます。さらに、その使徒としての立場が「神のみこころ」によるのだと語っています。
これは、この手紙の中で行なわれるさまざまな指導が、単にパウロ個人の意見ではなく、イエスさまの権威によって語られることだということを強調するためです。すなわち、真剣に読んで、教えられていることを実践してねということです。
兄弟ソステネ
(1節後半)兄弟ソステネから、
さらに、送り主としてパウロと並んでソステネの名前が添えられています。このソステネという名前は、使徒の働き18章にも登場します。
パウロが第2回伝道旅行でコリント伝道を行なっていたとき、ユダヤ人たちが総督ガリオにパウロのことを訴え出ました。ところが、ガリオは宗教的な問題には介入しないと言って訴えを退けます。その腹いせに、群衆は会堂司であるソステネに暴行を加えます。
会堂司というのは、ユダヤ人の会堂の維持管理を行なったり、礼拝式の運営や秩序維持を担ったりする人のことです。
会堂司ソステネが暴行を受けたのは、パウロに協力的だったからかもしれません。そして、コリントの別の会堂司であったクリスポは、イエス・キリストを信じました(使徒18:8)。そこで、ソステネも暴行を受けた後、クリスチャンになったと考えても不思議ではありません。
この会堂司ソステネと、第1コリントに記されているソステネが同一人物だという説は、昔から有力視されてきました。コリント教会の人たちは、会堂司だったソステネのことをよく知っていましたから、ここに名前を挙げたのでしょう。
もっとも、ソステネは当時のありふれた名前ですから、全くの別人という可能性もあります。その場合は、ソステネはパウロの口述筆記を行なったので、ここに名前が記されているのでしょう。
コリント教会についての解説
(2節)コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。
この手紙の宛先はコリント教会です。
コリントは、ギリシア南部のアカイア属州の首都です。パウロは、第2回伝道旅行の際にコリントを訪れて、ここに教会を生み出し、約1年半滞在しました(紀元50年-52年頃)。その後、使徒ペテロや、説教に優れたアポロという指導者もここを訪れています。
コリントは、地図で見るとちょうど「くびれ」の部分にあり、そのために交通の要所で、通商都市として栄えました。
経済的には繁栄した反面、貧富の差の増大、道徳的退廃などを招きました。町のアフロディーテ神殿には1000人の神殿娼婦がいたとされ、「コリント人のように振る舞う」という言い回しは「不品行を行なう」という意味でした。
こうした町の雰囲気は、コリント教会に悪い影響を与えていました。
そんな問題が多いコリント教会でしたが、パウロは「聖なる者」「聖徒として召された方々」と呼びました。
しかも、彼らを聖なる者とし、聖徒として召したのは、いたるところでその名を呼び求められているすべての人の主、私たちの主であるキリスト・イエスであるとパウロは言います。非常に高く評価していますね。
この点について、メッセージの後半で詳しく取り上げます。
恵みと平安を願う祈り
(3節)私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
そして、パウロはあいさつを祝福の祈りで閉じます。コリント教会に父なる神さまと主イエスさまからの恵みと平安があるようにと祈りました。
これからパウロはコリント教会の問題点を挙げて、一つ一つ叱責を交えながら指導していきます。しかし、それはコリント教会を侮辱したり、切って捨てたりするためではありません。
パウロの心の根底にあるのは、コリント教会の人たちが神さまのくださる恵みと平安を味わうようになって欲しいということです。すなわち、愛が根底にあります。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。特に原語であるギリシア語で2節に書かれている3つの前置詞、「εν」(エン。~の中の、~の中にあるといった意味。英語のinに相当)に注目します。そして、神さまにとってコリント教会が、そして私たちがどんな存在なのかということを教えていただきましょう。
2.3つの"εν"と私たちの存在
キリスト・イエスにある……キリストの教会
聖なる者
コリント教会には、問題が満ちあふれていました。分派分裂、不品行、差別、結婚に関する無秩序、礼拝の混乱、律法主義……。その混乱ぶりは、教会外の人が驚くほどのものだったようです。しかし、パウロは彼らを「聖なる者」「聖徒」と呼んでいます。
これは、コリント教会の人たちがすばらしい存在であり、すばらしい行ないをしてすばらしい結果を刈り取る可能性に満ちているということを意味しています。
神さまはきよいお方です。神さまから見れば、完全な人間など誰一人としていません。確かにコリント教会の人々はいろんな問題を持っていました。私たちは「あの人に比べれば、まだ私の方がマシだ」と思うことがあるかもしれません。しかし、神さまの厳しい基準の前では、すべての人が呪われ罰せられても仕方のない罪人なのです。
ところが、その不完全な私たちのことを、神さまは「きよいもの」「すばらしい存在」「大切な子ども」と呼んでくださっています。それは、私たちが「キリストにある」からです。
キリストによる赦し
どうして、不完全な私たち、時に汚れたことを考えたり実行したりしてしまう私たちがきよいと言えるのでしょうか。それは、神さまの恵みによって赦されているからです。
イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪の罰の身代わりでした。イエスさまの十字架のおかげで、私たちの罪は赦されました。そして、イエスさまは死んで葬られますが、3日目に復活なさいました。
それを真実だと信じるだけで、私たちの罪は赦され、神さまの子どもとされ、永遠のいのちをいただくことができます。イエス・キリストを信じたあなたは、誰が何と言おうとも、神さまの目に聖なる存在、すばらしい宝物のような存在なのです。
これがキリストにあるということです。
自分に向かって宝物と言おう
自分に向かって、ダメ出しばかりしてこなかったでしょうか。
もちろん、今後成長する可能性を見つけるため、そして良い行ないをするために過去の言動を反省するのはすばらしいことです。しかし、過去の失敗をただ悔やむだけなら意味はありません。それどころか、どんどん自信を削り取られ、やる気を失ってしまいます。
あなたは聖なる者、神さまの宝物です。失敗して反省したとしても、最後には「私は神さまの宝物。大切な存在。だから、すばらしいことができる」と語りかけましょう。
コリントにある……地域の教会
聖徒として召された
パウロはコリント教会の人たちのことを「聖徒として召された」と言いました。きよいという言葉には、汚れがないという意味の他に、「神のために特別に区別されている」という意味があります。
私たちは、神さまの働きのために、特別に召し出されました。ということは、私たちには、この地上に生きる意味があるということです。あなたが今ここに生きておられるということは、あなたを通してでなければ実現しない、すばらしい出来事があるということです。
働きの場
召された以上、働きの場があります。コリント教会の人たちは、ローマでも、エペソでも、アレクサンドリアでもなく、コリントに置かれていました。私たちは、今置かれているその場、その状況、その環境で、神さまの働きを表すことができますし、そうすることが期待されています。
どんな経験や持ち味も生かす
その「今置かれている場」とは、単に場所という意味だけではありません。私や皆さんに与えられているものすべてを指します。たとえば能力や性格、過去の経験なども含みます。
その中には、私たちの感覚で判断すると全くうれしくないようなもの、とても価値を見いだせないようなものもあるでしょう。しかし、イエスさまと共に用いるなら、どんなに否定的に見える能力や性格や経験もすばらしい結果をもたらすきっかけになります。
- このたび私は、AIを用いた聖書研究に関する本を出版しましたが、それは私が内向的で、どんどん出て行って初めての人と話をするのが苦手な性格を用いてのことです。また、心理学に興味を持ってカウンセラーになったのは、自分自身が生きづらさを感じていたからです。
- ある人は、反社会的な勢力に属していた過去を持ちます。しかし、クリスチャンになった今、道を踏み外した多くの人たちに「人生はやり直せる」という希望を語っています。
- ある人は、今で言うヤングケアラーでした。忙しい両親の代わりに祖母の介護を担っていたのです。その経験から、大人になってから福祉の仕事について、家族の介護に悩む人たち、特にヤングケアラーの人たちを助けています。
「もしも、ここがこうだったら」「もし昔あんなことさえなければ」と思うことがありませんか? そうしたら、もっとすばらしいことができるのに、と。
しかし、過去の生活も、栄光も、傷も、長所も短所も、ハンデもすべてひっくるめて今の私たちです。今のあなたでいい、いや、今のあなたがいいと神さまはおっしゃるのです。ぜひ、イエスさまと共に用いてください。
いたるところで……公同の教会
世界中の聖徒たち
皆さんが特別に愛され、選ばれたように、イエスさまに召されたすべての人々が世界中にいます。それらの人たちと協力して、私たちは神さまの働きを進めていくのです。
今言った「すべての人」とは、地域を超え、国籍を超え、人種を超えたすべてのクリスチャンのことです。
あらゆる時代の聖徒たち
さらに時代を超えてイエス・キリストを信じる人々も含みます。今生きているクリスチャンだけでなく、これから誕生するクリスチャン、さらにペテロやパウロ、ルターやウェスレーやカルバン、キング牧師やマザー・テレサのようなすでに亡くなったクリスチャンも、です。
この、地域を越え、国籍を超え、人種を越え、時代を超えて存在するクリスチャンの群れのことを、「公同の教会」と呼びます。
ノアやモーセやダビデといった旧約時代の聖徒たちは、イエス・キリストの十字架と復活を信じたわけではありませんから、クリスチャンとは呼べませんし、公同の教会の一員ではありません。しかし、私たちと同じ神さまによる一方的な救いを信じて仕えた、広い意味での神の民、神の家族です。
信仰と働きの継続
現在と過去の神の家族たちは、さまざまな困難や迫害や誘惑に耐え、今ここに生きているあなたのために様々な働きを継続してくれましたし、今も続けてくれています。
そして、今ここに生きているあなたのために祈ってくれています。そういう祈りや働きの積み重ねの中で、あなたは救われたし、様々な祝福に満たされているのです。
あなたは一人ではありません。
では、私たちは? 世界のクリスチャンたちのために、またこれから誕生する未来のクリスチャンの祝福のために祈り、今私たちに委ねられている働きを忠実にしていきましょう。
イエスさまが今、あなたにして欲しいと願っておられる行動は何でしょうか? それを祈りつつ考え、実践しましょう。
まとめ
神さまが私たちをどんな存在としてご覧になっているかを忘れず、それにふさわしい生き方を目指していきましょう。