(2025年11月2日)
使徒パウロは、コリント教会の中にあった分裂の問題について指導しています。コリントの信者たちは、いくつかの派閥に分かれて争っていました。
礼拝メッセージ音声
参考資料
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12節のアポロは、説教に優れた伝道者で、コリントでも活動しました(使徒18:27-28)。「ケファ」は使徒ペテロのこと。
13節の「バプテスマ」は、キリスト教への入信の際に行われる洗礼のことです。
14節の「クリスポ」は、コリントの会堂司だった人で、パウロの伝道により一家をあげてクリスチャンとなりました(使徒18:8)。
14節の「ガイオ」はコリント教会の中で、集会のために家を提供していた人で、パウロもその家に泊まりました(ローマ6:23)。会堂の隣に家があり、パウロがそこを活動の拠点にしたティティオ・ユスト(使徒18:7)と同一人物だと思われます。
16節の「ステファナ」は、コリントで最初に救われた人です(第1コリント16:15)
19節は、イザヤ29:14からの引用です。
イントロダクション
パウロは、いよいよコリント教会の中にあった問題に切り込んでいきます。最初に取り上げたのは、教会内の分派分裂の問題でした。この問題により、コリント教会は本来の力を失っていました。
私たちの属する教会も、あるいは家庭や職場や地域も、分裂が起こると力を失います。今回の箇所は、私たちが本来の力を保ち育てるために必要な態度を教えてくれます。
1.コリント教会にあった分裂問題への指導
問題提起
パウロの懇願
(10節)さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。
パウロは、コリント教会の人たちに向かって、仲間割れしないで一致してほしいと願いました。これは、教会の中に分派分裂があったことが前提になっています。
パウロは、10節の勧めを「お願い」という形でコリント教会の人たちに伝えました。しかし、同時にそれはキリストの名による勧めです。最高の権威者であるイエスさまの代理としての言葉ですから、いい加減に扱ってはならない重みのあるお願いです。
この箇所の「一致する」という言葉は、衣服や網が修復されるという意味の他に、骨折が治るという意味もあります。別の箇所で、パウロは教会のことをキリストの体にたとえています(第1コリント6:5、エペソ1:23など)。キリストの体であるコリント教会が骨折していて、それが治るイメージです。
骨が折れてしまうと、私たちの体はうまく動かなくなりますし、持っている力を発揮できなくなります。コリント教会も、分裂して争っていたために、本来の力を失っていました。
だから、互いに争うのをやめて、同じ心、同じ考えを持って再び一つになり、本来のコリント教会の力を取り戻してほしいとパウロは願いました。
教会内の争い
(11節)私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。
パウロがコリント教会の分裂問題を知ったのは、クロエという人の家族、あるいはその家に仕えている召使いからもたらされた報告によってでした。
クロエというのはギリシア人の女性の名前です。おそらく裕福な家の女主人で、祈りや交わりをするための場所をコリント教会の人たちに提供していた人でしょう。
コリント教会にあった分派
(12節)あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。
クロエの家の者からの報告によると、コリント教会には少なくとも4つの派閥があって、互いに争っていました。「パウロ派」「アポロ派」「ケファ派」「キリスト派」です。
パウロは、コリント教会の開拓者です。いわば初代牧師ですから、心情的にパウロを推す人たちがいてもおかしくありません。
アポロは、雄弁術に長け、説教が非常にすばらしかった伝道者で、コリントでも活躍しました(使徒18:27-28)。一方パウロの説教に関しては、
「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない」(第2コリント10:10)と評価する人がいました。比較してアポロを支持する人も、コリント教会にはたくさんいたことでしょう。
ケファとは、使徒ペテロのことです。イエスさまと寝食を共にし、使徒に任命された人です。ペテロがコリントを訪問したという記録はありませんが、少なくともペテロは教会の中で非常に重んじられていました。そのようなわけで、ペテロは本人の知らないところで派閥の領袖に担ぎ上げられていました。

ルーベンス作「聖ペテロ」
(画像引用:Wikipedhia)
そして、
キリスト派もありました。パウロもアポロもペテロも、それぞれすばらしいクリスチャンであり指導者です。しかし、単なる人間に過ぎません。その点、人となられた神であり、世界の王であるイエス・キリストとは比較になりません。
ですから「パウロでもアポロでもペテロでもなく、キリストをあがめよう」という姿勢自体は間違っていません。問題なのは、キリスト派の人たちが、イエスさまのことをパウロ・アポロ・ペテロと同列に置いて争っていることです。
キリスト派の人たちは、純粋にイエスさまのことを主としてあがめていたのではなく、他の派閥の人たちと同じように、イエスさまのことを他の人たちを見下すための道具にしてしまっているということです。
「パウロ先生につく私たちこそ真のクリスチャンで、お前たちは偽物だ」というのと同じ感覚で「私たちはキリストにつく本物のクリスチャンで、お前たちとは違う」と考えていたということですね。
パウロとバプテスマ
パウロはキリストではない
(13節)キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。
教会はキリストの体です。教会が分派分裂によって互いに争っているというのは、まるでキリストの体が骨折したかのように、バラバラになっている状態です。しかし、本来キリストの体が分割されるということがあってはなりません。
さらにパウロは、自分が十字架にかけられたわけではないし、パウロの名によってあなたがたがバプテスマ(洗礼)を受けたわけではないと語ります。
パウロがどれほど素晴らしいクリスチャンであり指導者であったとしても、人となって来られた救い主イエスさまととは比べようもありません。それはアポロやペテロも同じです。
人間に過ぎない誰かに心酔するあまり、他の人を見下して争うような真似は、人間を救い主の地位にまで高めることであり、イエスさまに対する冒涜です。パウロはそのことをこの節で訴えています。
パウロがバプテスマを授けた人
(14-16節)私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。もっとも、ステファナの家の者たちにもバプテスマを授けましたが、そのほかにはだれにも授けた覚えはありません。
パウロは、コリントで最初期に救われた数名の人、クリスポ、ガイオ、ステファナとその家族にしか洗礼を授けませんでした。そのことを神に感謝するとパウロは言います。
それは、パウロが洗礼を軽視しているからではありません。「私はパウロ先生から直接洗礼を授けてもらった」ということが、他のグループを見下す材料にされることを避けられたからです。
大切なのは誰が洗礼を授けたかではありません。誰の名によって洗礼を受けたかということです。バプテスマが表しているのは一体化です。イエスさまの名によって洗礼を受けるということは、頭であるイエスさまと体である私たちが一つになったということを表しています。
私たちは洗礼を授けた人に忠誠を誓ったのではなく、私たちの罪を取り除くために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさったイエスさまに忠誠を誓う者です。
パウロがコリントに遣わされた理由
(17節)キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。
パウロは、自分がイエスさまから託された使命が、洗礼を授けることではなく福音宣教だと言います。そして、その福音宣教は、「言葉の知恵」、すなわちギリシア的な雄弁術によって宣べ伝えられたものではありません。
コリントはギリシアの町であり、ギリシア人は雄弁術をことのほか重視していました。しかし、パウロは雄弁術を使って相手を説得することを良しとしませんでした。巧みな話術によって救いをもたらそうとするなら、十字架のメッセージは空しくなり、意味を成さなくなるからだとパウロは言います。
この点について、次の節からパウロは解説しています。
十字架のことば
十字架の愚かさと神の力
(18節)十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
十字架のことばとは、人が救われるために信じなければならない内容です。すなわち、「イエス・キリストがこの私の罪を赦すために十字架にかけられた。そして、死んで葬られ、3日目に復活した」という事実です。これを恵みの福音と呼びます。
ところが、滅びる者たち、すなわち救いを受け取ろうとしない人は、十字架の言葉を愚かだと考えているからです。
ユダヤ人にとって、救い主は神の敵を滅ぼす世界の大王です。その救い主が、ローマ人によって殺されたなどと、バカバカしいにも程があります。
ローマ人は、力を追い求めました。ユダヤ人の勢力争いに負けて死刑になった人物が、神の子などと信じるのは、バカバカしいことです。
ギリシア人は知恵を追い求めました。ギリシア哲学では、霊は正しく物質は悪だと考えます。絶対善である神が、悪である肉体をまとって人になったか、神であるキリストが死んで、しかも再び悪である肉体を取って復活したとかいうメッセージは、彼らの常識では愚かなことでした。
そのようなわけで、さまざまな民族の人たちにとって、十字架のことばは愚かに聞こえます。
ところが、神さまが救いに定めておられる人にとって、十字架のことばは神の力を表すものです。本来罪の罰を受けて滅びるはずだった自分が、罪を赦され、それどころか神さまの子どもにしていただいて、永遠に祝福されます。十字架のメッセージには、そのような力があるのです。
知恵に関する預言
(19節)「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。
パウロは、救いをもたらす神の力は人間の知恵を超えているということを、旧約聖書のイザヤの預言を引用することで示そうとしました。

アントニオ・バレストラ作「預言者イザヤ」
(画像引用:Meisterdrucke)
この預言は、南王国のヒゼキヤ王の時代に語られました。当時、アッシリア帝国が中東を支配していて、ヒゼキヤの父親の時代には南王国に仕えていました。ところが、ヒゼキヤはアッシリアからの独立を企てます。
その際、ヒゼキヤはやはりアッシリアの支配下にあったエジプトと協力してアッシリアに対抗しようとします。ところが、神さまはイザヤを遣わして、人間的な知恵、すなわち外交によってこの難局を乗り越えるのではなく、神に信頼せよとヒゼキヤを諭しました。それがこの預言です。
その後、アッシリア軍は、ヒゼキヤが頼みにしていたエジプトやバビロンの軍隊を撃破すると、南王国の首都エルサレムも包囲しました。ヒゼキヤ王は、自分の過ちを認めて悔い改め、神さまに助けを求めました。
すると、神さまが遣わした天使が、一夜にして18万5千人のアッシリア兵を打ち倒し、エルサレムは滅亡を免れました(第2列王記19:35)。まさに十字架のメッセージと同じく、人間的な知恵を超えた方法で救いがもたらされたのです。
愚かにされたこの世の知恵
(20節)知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
知恵ある者、学者、この世の論客とは、哲学的な知恵を追い求める人のことです。哲学を極めるのは悪いことではありません。しかし、人知を越えた神さまの真理は人間の知恵ではすべて解き明かすことができません。人は、人間の理性の限界を知らなければなりません。
宣教のことばの愚かさによる救い
(21節)神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
人間が知恵を尽くして考えても、神さまの真理には到達できませんでした。神さまの方から真理を明らかにしてくださって初めて、私たちは真理を知ることができます。
救いに関しても、私たちは「こうすれば救われるはずだ」と、勝手に自分の頭で救いの条件を考え出しても無駄です。神さまが教えてくださった方法、すなわち十字架と復活を信じるという方法に従う必要があります。
それは、知恵を追い求めるコリントの人たちや現代日本人に取っては愚かなことに聞こえますが、実は最も賢い方法です。本当の救いをもたらすからです。
それでは、ここから何を学ぶことができるでしょうか。
2.謙遜になって神からの祝福を受け取ろう
分派分裂の背後に傲慢があることを知ろう
コリント教会は、いくつかのグループに分かれて対立し、争っていました。その結果、本来教会が持っているはずの力を失っていました。この分派分裂を引き起こした最大の原因は、コリント教会の人たちが陥っていた傲慢です。
彼らはパウロやアポロといった指導者たちの名前を掲げて、「あの先生のことを慕っている自分たちは、他の奴らとは違う一流のクリスチャンだ」と考えていました。そして、自分たちのグループに属さない人たちを見下していたのです。
特にコリントはギリシアの町ですから、哲学的な知恵をことのほか尊重しました。○○先生に従う私たちは賢くて真理を持っているが、他の奴らは愚かで真理を持っていないというふうに見下していたのです。
現代の教会が分裂する原因も傲慢
今の地域教会が分裂するのも、自分たちの方がきよい、自分たちの方が正しい、自分たちの方が熱心に奉仕しているという傲慢さから来ます。
以前も紹介したことがありますが、あるアメリカの日系人教会が解散しました。その原因は、お昼の食事会で、うどんにするかカレーライスにするかでもめたことだそうです。昼食にカレーなんて出す奴は愚かだ。いや、うどんの方がバカバカしいというふうに、お互いに相手が愚か者で自分たちの方が正しいと考えたのです。
教会だけではありません。家庭でも職場でも地域でも、分裂・対立があるところに傲慢ありです。
私たちは自分の知恵や力によって救われたわけではありません。イエスさまの十字架によって一方的に罪を赦していただかなければ、神さまとのすばらしい親子関係を手に入れることはできませんでした。
自分だけが真理を持っている、自分だけが正しいという思いを捨て去りましょう。誰も、神さまの前で自分の正しさや賢さを誇ることはできません。教会でも家庭でも職場でも、謙遜な態度を失いたくありませんね。
謙遜にさせてくださいという祈りを積み上げよう
しかしながら、謙遜であるということは非常に難しいことです。
これも以前お話ししましたが、私が母教会にいた頃、「自分は謙遜だから」と発言した人がいました。それを聞いた私は、「謙遜な人がそんなこと言うかなぁ。謙遜さを誇るのは傲慢じゃないのかなぁ」と思いました。
しかし、しばらくたって、そんなふうにあの人のことを傲慢だと見下している自分は、あの人より自分の方が謙遜についてよく知っていると思っているのだと示されました。つまり、私の方がより傲慢だったわけです。
以前、「御霊の実」についての連続メッセージを語りました。御霊の実とは、聖霊なる神さまが私たちクリスチャンに結ばせてくださる9つのすばらしい性質です。その8つ目に挙げられている「柔和」という言葉は、「謙遜」とも訳せます。
自分の力で謙遜になることはできません。私たちが謙遜の徳を身につけられるとしたら、聖霊なる神さまのお働きです。
ですから祈りましょう。自分が知らず知らずのうちに傲慢になり、他の人を見下して批判したりバカにしたりして、自分を高めていい気持ちになろうとする誘惑から守ってくださるように。そして、本当の謙遜さを神さまが与えてくださいますようにと。
人ではなくキリストに忠誠を誓おう
私たちが人を見下して自分を高める傲慢さから抜け出すには、誰よりも高くてすばらしいイエスさまにしっかりつながる必要があります。
コリント教会は、人間をあがめる偶像礼拝に陥っていました。指導者を尊敬して、その教えに従うことはすばらしいです。しかし、指導者も人間に過ぎません。どんなにすばらしい指導者でも、神さまの代わりにはならないし、してはいけないのです。
また、自分自身を神さまよりも上にするのも良くありません。
私は時々、自分が祈り願ったことがかなえられないと、ふてくされたような気分になることがあります。しかし、そういう気持ちになるのは、私の中に「私の計画の方が神さまの計画より優れている。私の祈ったとおりになることが最高だ」と思い上がっている証拠です。
傲慢の罠はどこにでも転がっていますね。
幸い、この教会の皆さんは、私よりもイエスさまにつながることを優先していらっしゃいます。すばらしいことです。
これからも、イエスさまにつながり、その声を聞き、その声に従う生き方を続けていきましょう。それが、傲慢になり人を見下していい気持ちになる誘惑から自分を守ってくれます。そして、教会が、あるいは家庭や職場が「骨折」することなく、本来の力を発揮できるようにします。