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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

御霊に属する人

コリント人への手紙シリーズ5

コリント人への第一の手紙2章6節〜3章4節

(2025年11月15日)

使徒パウロは、コリント教会にあった分派分裂の問題の指導の中で、「生まれながらの人」「御霊に属する人」「肉に属する人」という3種類の人について語っています。

礼拝メッセージ音声

参考資料

続きを読む2:7の「奥義」とは、隠されたものという意味です。一般的には個人の秘密や、指導者の秘密の計画などを指します。特に新約聖書では、「かつての時代には隠されていたが、新約時代になって神が明らかにされた真理」という意味で用いられています。たとえば、
  • 異邦人がキリスト・イエスにあって、福音を通してイスラエルと同じく約束の共同の相続人、キリストの体の一部となること(エペソ3:3-6)。
  • イスラエルの不従順は一時的であり、救われる異邦人の数が満ちる時が来ると民族的回心を経験すること(ローマ11:25-27)。
  • 携挙(第1テサロニケ4:13-17)。
  • 神であるキリストの受肉から昇天までの地上生涯、及びキリストによる救済計画の全体像(第1テモテ3:16)
2:9は、イザヤ64:4をベースにしています。
とこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。あなた以外の神が自分を待ち望む者のために、このようにするのを。

2:16は、イザヤ40:13の引用です。
だれが【主】の霊を推し量り、主の助言者として主に教えたのか。

イントロダクション

パウロは、分派争いを繰り返すコリント教会の現状を自覚させるため、人間を3種類に分けて説明しています。パウロが薦める生き方をする人は、どんなときも本当の喜びや平安を味わい、他の人に対して良い影響を与えることができます。それはどんなタイプの人でしょうか。

1.3種類の人間

神の知恵

神の知恵を語る
(2:6)しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。

パウロは、コリント教会の中にあったさまざまな問題のうち、分派分裂の問題について指導をしています。そして、分裂の根本原因が傲慢であることを指摘します。特にコリントはギリシアの町ですから、どのグループが本当の知恵を持っているか比較し合い、争っていたのです。
パウロは、神さまの救いの方法は、恵みの福音を信じることだと語りました。すなわち、キリストが人の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活したというメッセージです。それは、一般的なユダヤ人やギリシア人には愚かに聞こえるものです。

ただ、パウロは知恵自体を否定しているわけではありません。この節で、成熟した人たちの間では「神の知恵」を語ると言っています。「成熟した人たち」とは、一見愚かに見える十字架のメッセージを信じて救われ、訓練されて、霊的な事柄に関する判断力を身につけた人たちのことです。

この神の知恵は、この世の知恵、すなわち理性の働きによって到達できる知恵ではなく、この世の権力者たちがのこの世を治めるために持っている経験的な知恵とも違います。
奥義
(2:7)私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。

パウロたち伝道者や教師たちが語る神の知恵は、奥義のうちにあります。奥義とは、前の時代には隠されていて、新しい時代になって神さまに啓示された真理のことです。啓示ですから、その内容は人間の知恵や経験によって知ることはできません。神さまによって明らかにされなければ知ることができないものです。

しかも、その真理は新約時代になって新たに作り出されたものではありません。世界が始まる前に、すでに神さまによって定められていました。すべて神さまのご計画のうち、ということです。
神の知恵を知らなかった支配者たち
(2:8)この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

神の知恵について、この世の支配者は知ることができませんでした。だから、救い主でいらっしゃるイエスさまを十字架につけるという真似ができたのです。
神が備えてくださったもの
(2:9)しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。

この箇所は、イザヤ64:4をベースにしていると考えられます。
(イザヤ64:4)とこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。あなた以外の神が自分を待ち望む者のために、このようにするのを。

神の知恵、神さまの啓示が、人間の知恵や経験によっては到達できないものだということを、パウロは聖書を引用しながら念押ししています。
御霊による啓示
(2:10)それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。

聖霊なる神さまは、すべてのことをご存じです。ですから、隠されている神の知恵の内容は、聖霊なる神さまによってのみ明らかになります。
神のことは聖霊によらねばわからない
(2:11)人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。

自分のことを一番知っているのは自分です。もっとも、実際には自分が気づかないことについて他の人が気づいているということはあります。たとえば癖とか、本音とか。それでも、全体として一番自分のことを知っているのは自分自身です。

同じように、神さまのことを一番よく知っているのは神さまご自身です。故に、聖霊さまに教えられなければ、神さまについての真理を知ることができません。
神の霊を受けた私たち
(2:12)しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。

私たちクリスチャンは、イエスさまの恵みの福音を信じて救われたとき、聖霊なる神さまと一つになりました(聖霊のバプテスマと呼びます)。その後も聖霊さまは私たちの元から去って行かれず、今も私たちの内におられます(聖霊の内住)。
よって、私たちは本来知ることができない神の知恵の内容を知ることができます。私たちの内におられる聖霊さまが教えてくださるからです。
御霊に教えられた言葉
(2:13)それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばによって御霊のことを説明するのです。

今の私たちは、すでに完成した神さまのことば集である聖書を持っています。私たちは、聖書のことばには誤りがなく、私たちの信仰と行動の最終的な基準だと信じています。

しかし、パウロたちの時代は、今まさに新約聖書が誕生しつつある時代です。使徒と呼ばれる人たちはイエスさまから直接任命され、旧約時代の預言者たちと同じように神さまからの真理を語りました。その教えの一部がまとめられたのが新約聖書です。

パウロたち使徒の教えは、人間が考え出した思想や教訓ではなく、聖霊なる神さまによって教えられたものです。パウロの指導の言葉を聖霊さまの言葉、すなわち神さまの教えだと受け取るとき、コリント教会の人たちは神の知恵を手に入れることができるでしょう。

しかし、神さまを抜きにして、哲学的な理性を追い求めるばかりなら、神の知恵に到達することはありません。そんな不完全な知恵同士を比較して、どちらが優れているか争うのは愚かなことです。

生まれながらの人間と御霊を受けている人

生まれながらの人間
(2:14)生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。

ここからパウロは、神の知恵を理解できる人と理解できない人の違いを解説していきます。

この節で挙げられているのは、「生まれながらの人間」です。これは、まだ恵みの福音を信じておらず、救いを手に入れていない人のことです。この人たちは神の子として新しく生まれていないので、「生まれながらの人間」と呼ばれています。

生まれながらの人間は聖霊なる神さまを内に宿していません。ですから、本来聖霊さまによってでしか理解でいない神の知恵の内容を知ることができないのです。
御霊を受けている人
(2:15)御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません。

「御霊を受けている人」とはクリスチャンのことです。クリスチャンは、内におられる聖霊さまによって教えていただけるため、さまざまな事柄について正しい判断をすることができます。たとえば、神さまのご計画、教理、何を行い何を行うべきではないかという判断などです。

しかし、クリスチャンではない人には、クリスチャンの判断原則や行動原理が理解できません。それだけ、クリスチャンの価値観、考え方、行動がこの世の常識から外れているということでしょう。
キリストの心を持っている
(2:16)「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。

15節で語ったことを、パウロは聖書の言葉を引用することで裏付けます。具体的には、イザヤ40:13です。

「しかし」とパウロは言います。本当なら人間には理解できないはずの神さまの心を、私たちは知っていると。それは、私たちが聖霊なる神さまと一つだからです。

では、クリスチャンでありながら、神さまのみこころなど知らないかのように振る舞う人がいるのはどうしたことでしょうか。その点について、パウロは次の3章で触れています。

御霊に属する人と肉に属する人

肉に属する人、キリストにある幼子
(3:1)兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。

パウロは、御霊を受けている人、すなわちクリスチャンの中に、さらに2種類の人間がいることを明らかにしています。一つは「御霊に属する人」、もう一つが「肉に属する人」、別名「キリストにある幼子」です。
「肉」とは、神さまに逆らう人間の本性に支配される、生まれながらの性質のことを指します。「罪の性質」と言い換えることができるでしょう。

「肉に属する人」もクリスチャンです。魂は救われて、罪の罰からは永遠に解放されていますし、将来千年王国や新天新地で祝福をいただくことは決まっています。しかし、その生き方は生まれながらの人とほとんど変わりません。自分の欲望に忠実で、神さまに逆らう行いをしています。

肉に属する人は、御霊に属していないので、聖霊なる神さまが教えてくださる神の知恵を聴き取ることができません。御霊は語ってくださっているのに、自分の欲望を満足させるのに不都合なので、心の耳を閉ざしているのです。

そして、パウロはコリント教会に集う多くの人たちが、御霊に属する人ではなく肉に属する人だと指摘しています。
乳と固い食べ物
(3:2)私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

コリント教会に対して、パウロは幼子に接するかのような教え方をしました。赤ちゃんは固形物が食べられませんから、お乳を飲ませます。それと同じように、コリント教会には初心者向けの教えをしました。

たとえば、
  • 私たちが、罪人であるにもかかわらず、神さまに愛されていること。神さまが私たちの罪を赦そうとしてくださったこと
  • そのために、イエス・キリストが十字架にかかって身代わりに死んでくださったこと
  • イエスさまは復活して今も生きておられ、私たちの祝福のために取りなしをしてくださっていること
  • イエスさまはやがて地上に戻ってこられ、私たちを永遠に祝福に導き入れてくださること
などです。
パウロは、乳のような初歩の教えが悪いと言っているわけではありません。スポーツでも何でも、基本をおろそかにしては、より高度な技術を身につけることはできませんね。信仰生活も同じです。

私たちがイエスさまに命がけで愛され、赦され、祝福されているのだというところから外れてしまうと、どんなに聖書的な教えであっても重荷になってしまいます。

一方、固い食物とは、より高度な内容の教えのことを指します。特にクリスチャンが従うべき様々な生き方に関する教えのことです。その教えに従うには犠牲が伴うことがあるため、固いと言われているのです。

子どもは固い食べ物を口にできるようになると、ますます強くなっていきます。それと同じように、クリスチャンも固い食べ物を食べるようになると、信仰が強められ、生活がきよく力強いものになっていきます。

教会ができたばかりで、信者のすべてが救われたばかりという時期には、初心者向けの教えをしっかり学んでもらうことが正解です。たとえば、まだ救われたばかりで、神さまの愛や守りについての確信が十分できあがっていない人に、命をかけてでも迫害に負けるなという話をしても受け止めきれないかもしれません。

コリント教会の場合、教会が誕生してからすでに4〜5年ほどの年月が流れています。それでもまだコリント教会の人たちは、神さまにつながり神さまに従うことよりも、自分のプライドを満足させる方を求めていました。

すなわち、コリント教会のクリスチャンの多くは、御霊に属する人ではなく、肉に属する人です。自分の祝福のことだけ考える自己中心的なところにとどまっている限り、固い食べ物を味わうのは無理なのです。そのことをパウロは嘆いています。
コリント教会員が肉の人である理由
(3:3-4)あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。

パウロは、コリント教会の多くの人が御霊ではなく肉に属している証拠として、教会内の分派分裂を挙げました。本当にあなたがたが自分の欲望の声ではなく、聖霊なる神さまの声に耳を傾けているのなら、他の人を見下して自分自身を誇るような真似をするはずがないというのです。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。特に、パウロが挙げた3種類の人間、「生まれながらの人」「御霊に属する人」「肉に属する人」の違いに注目しましょう。

2.御霊に属する人を目指そう

生まれながらの人間ではないことを確認しよう

私たちが自分の生き方を振り返る際、まず確認しなければならないことは、自分はすでに救われているという事実です。

コリント教会の人々は、分派分裂を起こして互いに争っていましたし、それ以外にもさまざまな問題を抱えていました。にもかかわらず、パウロはコリント教会の人たちの救いを疑っていません。

そもそも、救いの条件は良い行いをすることではありません。救いの条件は恵みの福音を信じるだけです。すなわち、「この自分の罪を赦すためにイエス・キリストが十字架にかけられた。そして、死んで葬られ、3日目に復活なさった」というメッセージを真実だと信じ受け入れるだけです。

コリント教会の人たちは、人生のある日あるとき、確かに福音を信じました。その結果、彼らは過去・現在・未来のあらゆる罪を赦され、それどこか神さまの子どもとされました。そして、そのしるしとして聖霊をその内に宿しました。

ですから、コリント教会の人たちには希望があります。内に住んでおられる聖霊さまの導きを受け止めて、神さまの知恵を学び、神さまのみこころにかなう生き方ができるようになるという希望です。

この話をお読みください。
中通りコミュニティ・チャーチの開拓を始めた頃、週日は警備員の仕事をやっていました。それが2年ほど続きました。

その頃は、車で道を走って工事現場にぶつかるたびに、「ああ、あの警備員の誘導、分かりやすいなあ。あんなふうにするといいんだな」なんて思ったり、電柱を見上げては「切換器が上がってるから、電気工事をするんだな。この様子だと、あっちの電柱からここまでの電線張り替えか」なんて思ったりしたものです(電線工事の交通誘導が一番多かったのです)。家族は、ドライブしていても、私がきょろきょろするものだから落ち着かないなんて言っていました。

警備会社を辞めて1年たっても、私は車を運転しながら同じことをやっていました。自分でも落ち着かないことこの上ないのですが、ついつい電柱を見上げてしまいます。習性というのは怖いものです。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
ところが、警備員を辞めて10年もたつと、いつの間にか電柱を見上げてキョロキョロする癖は消えていました。
私たちの内に聖霊さまが住んでおられる限り、私たちにはいつでも成長のチャンスがあります。ですから、自分の間違った行いを振り返るとき、失敗や罪を理由として自分の救いを疑ってはいけません。また、他の人の救いを疑ってはいけません。

かつて福音を信じたという事実があるなら、どれほど失敗しても救いは取り消されないし、聖霊さまの導きによって本来の生き方に戻る希望があります。まずそれを確認してから、自分の間違った行いについて考えましょう。

肉に属する人から御霊に属する人に変わろう

パウロは、コリント教会の人たちが救われていることを認めつつ、御霊ではなく肉に属していると指摘しました。肉とは、神さまに逆らう人間の性質、罪の性質のことでしたね。

肉に属する人も御霊に属する人も救われていますが、自分の人生をコントロールしているのが肉か御霊かという違いがあります。
ドライブのたとえ
生まれながらの人・御霊に属する人・肉に属する人の違いを説明するたとえ話を聞いたことがあります。

小学生が私の車を運転するとします。オートマですから、とりあえず動かすことはできるでしょうが、何しろ無免許。あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、とても快適なドライブとはいきません。

この状態が「生まれながらの人間」です。欲望の赴くままに良くない行動をしたり、他の人と争ったり、突然の出来事に揺れ動いたりします。

そこにプロのドライバーである聖霊さまさまが乗り込んでくださいました。そうすると、今までの惨状が嘘のよう。快適なドライブが始まりました。これが「御霊を受けている人」、すなわちクリスチャンです。
聖霊さまのお働きで罪に引っ張っていこうとする肉の思いを乗り越え、神さまが喜ばれるきよい生き方を目指します。そして、人が何と言おうと、どんな状況に遭遇しようと、どんと構えて自信に満ちあふれながら過ごすことができます。

しかし、車の中にプロのドライバーを入れても、相変わらずドライバーズシートに自分自身が座っていたらどうでしょう。やはり快適なドライブは期待できませんね。これが救われているのに、未信者と同じような生き方をしている「肉に属する人」の状態です。

「御霊に属する人」は、プロドライバーに運転席を譲って、自分は助手席に座っています。そのため、先ほど申し上げたようなきよさや力に満ちた人生を体験できます。
誰が人生のドライバー?
自分の人生を誰がドライバーとしてコントロールしていたでしょうか。自分の思い通りに生きたい。自分の欲望を満足させたい。神さまを無視して自分勝手に生きていきたい。肉の思いはそう叫びます。人間ならば、誰にでもそのような思いはあります。

しかし、私たちが目指すのは御霊に属する人です。私はこれがしたい。でも、聖霊さまは何とおっしゃっているだろうか。イエスさまは私に何をして欲しいとお考えだろうか。父なる神さまのご計画に従う行動は何だろうか。そう考えて、「神さまの思いの方を優先させます」と祈りましょう。

そして、そうする力を与えてくださいと祈りましょう。

御霊に属する人として固い食べ物も味わおう

パウロは、コリント教会の人たちはまだ霊的に幼い肉に属する人だから、御霊に属する人用の固い食べ物は与えられず乳しかあげられなかったと言いました。
ヘブル人への手紙の中にも、パウロが第1コリントで語った乳と固い食べ物についての話が書かれています。

(ヘブル5:12-14)あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。

固い食べ物が「義の教え」と関係があることが分かります。

聖書の中の神さまの愛、恵み、祝福、救いといったことが書かれている箇所は、読むのがうれしいですね。しかし、クリスチャンの義務について書かれている箇所、特に自分の感情に反するような命令が書かれている箇所は読むのがつらくなります。

愛したくない相手を愛せとか、赦したくない相手を赦せとか、恥ずかしいのに伝道しろとか、自分のために使いたいのに施せとか……。

そういった箇所は固い食物であり、食べづらい教えです。しかし、親が固い食べ物を子どもに与えるのは虐待するためではなく、子どもにより強く元気になってほしいと願うからですね。それと同じように、イエスさまが固い食べ物を私たちに与えるのは、私たちのためです。

その時はつらくて嫌な命令でも、聖霊さまの助けを祈り求めながら実践していくと、本当の喜びや本当の平安を味わうことになります。そして、人格が練り鍛えられ、周りの人たちに幸せを届けることができるようになります。

皆さんは御霊に属する人です。時々肉に属する瞬間があったとしても、すぐに悔い改めて御霊に戻ってこられます。そんな皆さんですから、意識して固い食べ物、私たちが従うべき正義について教えている箇所を味わいましょう。

連絡先

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