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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

仕えるしもべの心

コリント人への手紙シリーズ6

コリント人への第一の手紙3章5節〜23節

(2025年11月23日)

使徒パウロは、分派争いをしているコリント教会に向けて、畑と建物のたとえを用いて指導しています。そして、分裂を避けるにはしもべの心が必要だと訴えます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

続きを読む5節の「アポロ」は。パウロが去った後にコリントを訪れた伝道者。雄弁術の優れた遣い手で、反対者たちを論破して教会の人たちを大いに助けました。

13節の「その日」とは、クリスチャンが携挙された後に天のパラダイスで経験する「キリストの御座のさばき」のこと。
(第2コリント5:10)私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

終末に起こる出来事
  1. 空中再臨と携挙
    • 天のパラダイスでキリストの御座のさばき(対象はクリスチャン)
    • 天のパラダイスでキリストと教会の結婚式(天のパラダイスにおいて)
    • 地上では混乱と、その果ての7年間の大患難
  2. キリストの地上再臨
    • 諸国民のさばき(羊とやぎのさばき)
  3. 千年王国
    • キリストと教会の結婚披露宴
  4. 白い大きな御座のさばき(最後の審判)
  5. 新天新地

19節は、ヨブ5:13からの引用です。
神は知恵のある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえ、彼らのねじれたはかりごとは突然終わる。

20節は、詩篇94:11からの引用です。
【主】は人の思い計ることがいかに空しいかを知っておられる。

22節の「ケファ」は、使徒ペテロのこと。

イントロダクション

家内の両親はずっと八百屋を営んでいました。家内が幼い頃、ほうれん草を大幅に値引きして売っているのを見て、「これではうちが貧乏になってしまう」と泣いたことがあったそうです。

すると義父から「確かに損をしているようだけれど、こうして目玉商品を並べることでたくさんお客さんが来るし、ついでに他の商品も買ってもらえるんだ。そうしたら、全体としては儲けになるんだよ」と説明されたとのこと。
私たちクリスチャンも、目先の得や幸せのことばかり考えていても、本当の得や幸せは手に入りません。私たちが本当の幸せを手にするために必要な態度は何でしょうか。

1.畑と建物のたとえ

畑のたとえ

アポロやパウロの身分
(5節)アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。

パウロは、分派争いにいそしむコリント教会員に向かって、「アポロとは、そしてパウロとは何なのか」と問いかけます。コリント教会では、教会員たちが個々の指導者を過度に崇拝していました。それが間違いだということをパウロは指摘しようとしています。

指導者に対して尊敬を示すことは、人として自然なことです。しかし、単なる尊敬を越えて崇拝するのは間違いです。
植える者・注ぐ者・成長させる者
(6節)私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

パウロはコリント教会を開拓しました。その後、アポロがコリントを訪れてコリント教会の人々の成長のために働きました。しかし、人を救って成長させてくださったのは神さまです。パウロでもアポロでもありません。

そのことを、パウロは畑に作物を植えて育てる農業のたとえを用いて解説しています。
大切な存在
(7節)ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

最も大切な方、すなわち崇拝されなければならないのは、パウロでもアポロでもペテロでもなく、救いを与えてくださった聖書の神さまでなければなりません。
伝道者が受け取る報酬
(8節)植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。

コリント教会の人々は、分派を作って他のグループを見下げていました。その根拠の一つとして、自分たちが崇拝する伝道者が他のグループの尊敬する伝道者より優れていると主張していました。

たとえばパウロ派の人たちは、アポロやペテロより優れていると主張しました。そして、パウロを崇拝する自分たちは、他の指導者を崇拝するグループの人たちよりすばらしいと自画自賛していたのです。

パウロは、そんなプライドの保ち方を真っ向から否定しました。

奉仕者である伝道者は、互いに争うライバルではなく、同じ目的のために共に働く同労者です。そして、それぞれが与えられている使命を忠実に果たすことによって、主人である神さまからごほうびをいただきます。

他の伝道者より優れているから褒められるのではありません。自分に与えられている役割、使命を忠実に果たしたかどうかが評価のポイントです。ですから、伝道者同士はどちらが優れているかなどと争いません。
伝道者と教会の関係
(9節)私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

パウロは、自分やアポロやペテロは、神さまのために働く同労者だと言いました。神さまと同格のパートナーではなく、神さまに仕えるしもべとして共に働きます。

そして、その働きの場が教会です。パウロはコリント教会を神の畑にたとえました。これは、6節で教会を畑にたとえたことを受けての言葉です。

さらにパウロは、コリント教会を神の建物にもたとえています。これは、次のテーマへの繋ぎの言葉です。10節以降で、パウロは教会を建物にたとえています。

建物のたとえ

土台を据えたパウロ
(10節前半)私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。

先ほどパウロは、教会を畑にたとえて自分とアポロの働きについて説明しました。ここからは、教会を建物にたとえます。

パウロは教会を開拓し、初期のメンバーを救いに導く働きをしました。それを、建物の土台を据えた建築家の働きにたとえています。

しかもパウロは、その働きは神さまの恵みによって行えたことだと語っています。パウロは自分の働きを誇らず、神さまのすばらしさをほめたたえようとしているのです。
キリスト以外に土台はない
(10節後半-11節)ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

パウロが据えたキリストという救いの土台の上に、他の人が家を建てます。これは、アポロなど他の伝道者の働きというより、個々のクリスチャンたちの生き方を指しています。

イエス・キリストの恵みの福音を信じて救われた後、どんな生き方を積み重ねるかについては、一人ひとりのクリスチャンが考え、実践すべきことです。

特に、人生の土台がキリスト以外のものになることはあり得ないことを知る必要があります。キリストという土台以外の場所に上物を立てようとしてはならないのです。

コリント教会の人たちは、ギリシア哲学的な知恵を手に入れることに躍起になっていました。しかし、哲学的な知恵が人を救うわけではありません。十字架と復活を信じるという福音以外の救いの方法によっては、人は決して救われません。

知恵以外のものも福音の代わりにはなりません。たとえばお金が儲かるとか、社会的に成功するとか、みんなに褒められるとかいったものです。
キリストの御座のさばき
(12-13節)だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。

キリストによる救いという土台の上に、私たちクリスチャンは人生という建物を建てていきます。その建物の素材について、パウロは金、銀、宝石、木、草、藁という6つのものをあげています。
それぞれが何を表しているかは解説されていませんが、大きく分けると2つのグループに分類できます。前半の3つは価値があり燃えにくいもの、後半の3つは価値が低く燃えやすいものです。すなわち、前の3つは価値が永続するもので、後の3つは一時的なものです。

クリスチャンの地上生涯が価値あるものであるかそうでないかは、「その日」に明らかになるとパウロは言います。「その日」とは、「キリストの御座のさばき」の時を指します。

将来のある日あるとき、死んだクリスチャンが復活して天のパラダイスに引き上げられます。同時に、その時生きているクリスチャンにも復活の体と同じ栄光の体が与えられ、天のパラダイスに引き上げられます。これが携挙です。

携挙されたクリスチャンたちは、「キリストの御座のさばき」を経験します。これは、間違った行いに対する刑罰を決めるためのさばきではありません。クリスチャンの罪はすべてイエスさまの十字架の血潮によって赦されているからです。

この「キリストの御座のさばき」は、地上での生き方がどれほどイエスさまのみこころにかなうものだったかを査定し、それに応じて報酬を決めるためのものです。そして、決められた報酬は、その後地上に実現する千年王国で与えられます。

私たちの働きを評価するのは人ではなく神さまです。人間社会でどれほど認められた生き方であっても、神さまが認めてくださらなければ評価ポイントになりません。

神さまが私たちの行いを評価するポイントは、どれだけ成果を上げたかではありません。どれほど神さまのみこころを理解し、それを実現しようとしたか、どれほどイエスさまの命令に忠実に従おうとしたかという、内面の姿勢です。

(第1サムエル16:7)人はうわべを見るが、【主】は心を見る。
与えられる報い
(14節)だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

地上での生き方がキリストの御座のさばきで評価されれば、千年王国で報いをいただきます。具体的な内容は書かれていませんが、千年王国で栄光ある地位や、それにふさわしいワクワクするような働きの場が与えられるのでしょう。
救い自体は取り消されない
(15節)だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。

仮に、クリスチャンとしてイエスさまのみこころに完全に反する生き方をしていたとしても、その人の救い自体が取り消しになることはありません。千年王国は、戦争も天変地異もありませんし、熊が襲ってくることもありませんから、そこに入れていただけるだけでもたいした祝福です。

ただ、イエスさまが評価なさらない生き方を続けていたとしたら、千年王国で味わうボーナスの祝福を味わい損ねることになります。

たとえるなら、どんな生き方をしても宴会に招かれはします。しかし、イエスさまが認める生き方をした人は、その内容に応じて、料理やデザートの内容や椅子の座り心地がグレードアップするのです。
神の宮であるクリスチャン
(16節)あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

パウロは、あなたがたは「神の宮」だと言います。それは、クリスチャンは信じたときに聖霊なる神さまが内に住んでくださるようになったからです。ですから、クリスチャンは神が住まう神殿です。
ただ、この箇所では「あなたがた」と複数形が用いられていますから、個々のクリスチャンのことではなく、クリスチャンの共同体である教会を指します。個々のクリスチャンの内に聖霊さまが宿っておられますから、その共同体(建物ではありません)である教会にも聖霊さまは宿ってくださいます。

(第1ペテロ2:5)あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。
教会を破壊する者の末路
(17節)もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。

昔、バビロニア帝国がエルサレムを攻撃し、神殿を破壊してしまいました。神さまはその責任を問われ、バビロニアはペルシアによって滅ぼされてしまいます。

それと同じように、聖霊の宮であるクリスチャンの共同体、すなわち教会の尊厳を傷つけるなら、神さまが厳しく対処なさるでしょう。「神の宮を壊す」とは、教会内の分派争いや、その他のさまざまな問題行動が、教会の働きを邪魔している点を指しています。

パウロはコリント教会の人々を脅そうとしているのではなく、分派争いで互いに比較し合い、批判し合うのをやめなさいと言いたいのです。

誇るべきもの

愚かになれ
(18節)だれも自分を欺いてはいけません。あなたがたの中に、自分はこの世で知恵のある者だと思う者がいたら、知恵のある者となるために愚かになりなさい。

「欺いてはいけない」とは、自分自身の実体を超えて自分のことを偉く見せようとすることを禁じる言葉です。

福音書の時代、パリサイ人の多くは、自分が褒められるために心が伴わない良い行いをしていました。イエスさまはそんなパリサイ人たちの偽善をことのほか嫌われました。それと同じことです。

特にギリシアの町であるコリントの教会は、ギリシア哲学的な知恵を持っていることを誇りの種にして、他の人たちを見下していました。そんな彼らに、パウロは逆説的な命令をします。

「愚かになりなさい」という命令は、人間的な知恵を追求して誇るのをやめ、神の知恵に従うことを意味します。具体的には、ギリシア人にとっては愚かに聞こえる十字架のメッセージを信じ続けるようにという勧めです。

十字架のメッセージは、自己救済を否定します。自分の力で救われないからこそ、一方的に神さまに罪を赦していただく必要があります。そこには、コリント教会の人たちが求めていた人間的な誇りが混ざり込む余地はありません。
この世の知恵は神の前では愚か
(19-20節) なぜなら、この世の知恵は神の御前では愚かだからです。「神は知恵のある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえる」と書かれており、また、「主は、知恵のある者の思い計ることがいかに空しいかを、知っておられる」とも書かれています。

全知全能である神さまの前に立てば、人間の知恵など意味を成しません。そのことを、パウロはヨブ5:13と詩篇94:11を引用して説明します。
人を誇るな
(21節前半)ですから、だれも人間を誇ってはいけません。

分派分裂の問題について、パウロが一貫して教えていることは、自分自身にしろ指導者にしろ、人間を誇ってはならないということです。 ほめたたえられるべきは、人ではなく神さまです。
すべてはあなた方のもの
(21節後半-22節)すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケファであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてはあなたがたのもの、

コリント教会の人たちは、まるで自分たちに欠けているものがあるかのように哲学的な知恵を追い求めています。しかし、神さまはすでにあなたたちに様々なものを与えておられるとパウロは言います。

パウロ・アポロ・ペテロといった指導者は、コリント教会を支配する存在ではなく教会に仕えるための存在です。

また、世界すなわち被造物全体、命と死という人生のすべて、また現在から未来に至る時間のすべても、コリント教会のクリスチャンたちのためにあるとパウロは言います。

自分たちに与えられている祝福がいかに大きいか知れば、他の人を引き下げることによって自分たちのプライドを守ろうとする行為が、いかに愚かなことか気づくでしょう。
人とキリストと父なる神の関係
(23節)あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです。

私たちクリスチャンは、自分の幸せのためだけに生きているのではありません。私たちは主イエスさまのものであり、イエスさまに従うために存在しています。そして、そのキリストは、父なる神さまに従っています。

本来、三位一体の父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神は同格です。しかし、キリストはあえて父なる神さまに従う立場を取られ、聖霊なる神さまは父なる神と子なるキリストの栄光を現す裏方の立場を選ばれました。

そんなキリストに従う私たちなのですから、私たちも他の人の上に立って支配するのではなく、積極的に仕える立場を取ろうとパウロは薦めます。パウロもアポロもペテロも、教会を支配するのではなく仕えるしもべとして働いています。コリント教会の一人ひとりにも、同じように仕える心を持ってほしいとパウロは考えているのです。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.仕えるしもべの心を持とう

しもべは主人に仕える

私たちクリスチャンには、2つの道が用意されています。一つは自分のために生きる生き方、もう一つはイエスさまのために生きる神のしもべとしての生き方です。どちらを選んでも、救いそのものが取り消されることはありません。

ただし、パウロは自分もアポロも神に仕えるしもべであると言いました。そして、コリント教会の人々も、また聖書を読んでいる私たちもしもべとして生きてほしいと言います。
タラントのたとえ
イエスさまが語られたタラントのたとえ(マタイ25:14-30)の中で、主人は2人のしもべを褒め、1人を叱責しています。2人のしもべが褒められたのは、任された商売で儲けを出したからではありません。彼らが主人の思いを汲み取って、与えられた仕事を忠実に行ったからです。

もう一人のしもべは、儲けを出さなかったから叱られたのではありません。忠実に任された仕事をしなかったからです。
神のしもべとして生きる私たちは、まずイエスさまの思いを聞かせていただき、イエスさまの思いを学びましょう。自分にとって何が得かを考えるのではなく、イエスさまが自分に何をして欲しいと思っていらっしゃるか、聖書を読み祈りながら考えるのです。

そして、イエスさまのみこころを知ったなら、たとえ自分にとって損であったとしても忠実に実行しましょう。
神のしもべの問いかけ
神のしもべとして生きているかどうかを振り返るために、次のような質問を自分に投げかけていないかチェックしましょう。
  • 自分がしたいことは何だろうか
  • 自分がいいと思うことは何だろうか
  • 自分が楽なことは何だろうか
  • 自分にとって得なことは何だろうか
(引用元:当サイト「豊作の金持ちのたとえと貪欲」)
そうではなくて、次のような問いかけをしましょう。
  • 神さまが私にしてほしいと思っておられることは何だろうか
  • 神さまが喜ばれる行動は何だろうか
  • 神さまが計画なさったプロジェクトの中で、私が担わなければならないことは何だろうか
(引用元:同上)
そして、その答えについて祈りながら考え、示されたなら実際に行動しましょう。

しもべは目的のために協力し合う

分派の旗頭にされていたパウロもアポロですが、彼ら自身は対立していたわけではありません。それどころか、互いに尊重し合い、協力し合って、神さまのご計画の実現という大きな目的を達成しようとしていました。

私たちも、自分自身が神さまに忠実に生きるだけでなく、他の神のしもべたち、他のクリスチャンたちの存在と生き方を認めましょう。相手の存在と生き方を認める良い方法は、ねぎらいと感謝です。
ウェイン・コデイロ牧師
以前、ハワイの教会で牧師をなさっていたウェイン・コデイロ牧師から次のような話を聴きました(現在はオレゴン州に移って活動しておられるようです)。コデイロ先生は、すばらしいゴスペルシンガーでもあり、何枚もCDを出しておられます。
コデイロ先生が神学生の頃、教団の大会で、特別賛美をする栄誉によくしました。ステージに上がって会衆の前に立った時、目の前に、教団の偉い牧師先生たち、有名な神学者の方々がずらりと並んで座っているのを見て、すっかりあがってしまいました。イントロが終わって、歌い出さねばならないのに、頭が真っ白になり、何と歌詞が出てこないのです。

それでもそのまま帰るわけにもいきませんから、その場で適当に歌詞を作りながら、1番をやり過ごしました。すると、そのうちにだんだんと落ち着いてきて、歌詞も思い出し、2番以降は何とかまともな歌になりました。拍手喝采。しかし、コデイロ神学生は、消え入りたいような思いでステージを降りました。

集会が終わった時、一人の紳士が彼を手招きしました。教団の理事長でした。理事長先生は言いました。

「あがってただろう?」
(うわぁ、やっぱりこのことか!) 

「歌詞、忘れただろう?」
(ひえぇ、ばれてた!)

「歌詞、歌いながら作ってたよね?」

コデイロ神学生は真っ青になりました。ああ、もうだめだ。叱られる。大切な教団の大会で、神さまを賛美するという重要な奉仕を失敗するなんて。下手をしたら、神学校もクビかもしんない!

しかし、その時、理事長先生は、コデイロ神学生の手をぐっと握って、こう言いました。「いやぁ、よかった! 今日私は、神の働きを始めたら、どんなことがあっても最後まであきらめないでやり通すことの大切さを、君から教えてもらった。本当に良かったよ。ありがとう! これからも、たくさんの人に励ましを与えてあげてくれ!」

コデイロ先生は、おっしゃいました。僕は、未だにあの時の理事長先生の手のぬくもりが忘れられないんだ、と。神学校を卒業して、牧師として教会を導くようになって、いろいろな困難にぶつかり、何度ももうやめてしまいたいと思うような経験もしたけれど、そのたびにあの時の理事長先生の言葉と手のぬくもりを思い出して、そうしてここまで続けることができたんだ、と。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
(画像引用:New Hope Christia nCollege)
そんな経験をなさったコデイロ先生は、自分で教会を牧会するようになると、集会の反省会を工夫するようになりました。問題点を指摘し合うのではなく、「あなたの演奏のおかげで、とても賛美が盛り上がったね」「マイクの音量調節が絶妙で、司会の時にしゃべりやすかったよ。ありがとう」などと、ねぎらいと感謝が満ちあふれる場にしたのです。

私たちも、互いにねぎらい合い、感謝し合いましょう。相手がクリスチャンでなくても、私たちの口から不平不満や小言ではなく、いつもねぎらいと感謝の言葉が出ますように。

しもべは報酬を受ける

忠実なしもべに対して、主人は報いとしてごほうびを用意してくれます。私たちも、自己中心的な生き方ではなく、神さまに忠実な生き方を続けるなら、イエスさまによってすばらしい報酬が与えられます。

イエスさまは「地上ではなく天に宝を積みなさい」とおっしゃいました(マタイ6:19-20)。では、どのような生き方が評価され、天に積まれる宝、すなわち千年王国でのすばらしい報酬につながるのでしょうか。

それは、主人であるイエスさまの思いを知り、その思いに従って忠実に行動することです。
受付係テスト
ブログで次のような文章を読みました。
採用過程で小さなテストをいくつか取り入れる会社もあるでしょう。私が昔使っていたものは「受付係テスト」というもの。

面接時には100%の集中力を注ぎ、ベストを発揮するのは当たり前のことです。ですが、彼らは待合室など「好印象を与えなくていい場」では、どう振舞っているのでしょう?

こういった場での彼らの佇まいこそが、彼らの本質を現すのです。

そのため、必ず受付係に「どう接したか」を教えてもらっていました。万が一社員との交流を見かけた場合は、その都度その対応の仕方を報告してもらっていました。すると、「面接で見せる顔」と「面接の席を離れたときの顔」に相違が生まれたことに気づくのです。

ロビーで快く接することができていても、職場で快く接するとは限りません。でも、ロビーで適当な態度をとる人は、職場でも必ず適当な態度をとります。
(引用元:TABI LABO)
いつでも、どんな状況でも、イエスさまは見ておられます。常にイエスさまの思いを知り、忠実にその思いに従う行動を取りましょう。

……というと、ちょっと恐ろしい感じがします。しかし、イエスさまがどんなときも見ておられるというのは、私たちにとっての慰めでもあります。

どんなに些細な行動でも、それがイエスさまの思いに従う行動なら、イエスさまは決して見逃さずに認めてくださいます。そして、千年王国での祝福に積み上げてくださいます。

まとめ

私たちは神のしもべです。聖書の学びや祈りを通して、イエスさまの思いを学びましょう。そして、どんなときもイエスさまが私たちに願っておられる行動を実践しましょう。 さらに、他の神のしもべたちの働きを認め、感謝し、協力してイエスさまのみこころを実現しましょう。

それが、私たちを本当の幸せへと導く生き方です。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

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