(2025年11月30日)
パウロによるコリント教会への分派分裂問題に対する指導の、まとめ部分です。ここから、他人の評価に振り回されない生き方を学ぶことができます。
礼拝メッセージ音声
参考資料
1節の「奥義」とは、神さまが以前ははっきり語っておられなかったけれど、ある時代以降に明らかになさった真理のこと(エペソ3:5)。
イントロダクション
コリント教会内に起こった分派により、パウロはアポロやペテロと比較され、一部の人たちから軽蔑されていました。にもかかわらず、パウロは怒らず、コリント教会の人たちをまるで我が子のように心配し、愛しました。
なぜパウロは比較されたり軽蔑されたりしても、それに振り回されることがなかったのでしょうか。私たちも、他人の評価に振り回されない生き方を身につけたいですね。その秘訣を教えていただきましょう。
1.王ではなくしもべとして生きよう
キリストのしもべに求められるもの
パウロたちの身分
(1節)人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。
パウロは自分たち伝道者のことを、キリストのしもべと呼びました。この「しもべ」という言葉の語源は、古代ギリシアやローマの船で、櫂(かい)を漕ぐ漕ぎ手のことです。
漕ぎ手は司令官の命令通りに櫂を漕ぎます。それと同じように、パウロたちはキリストの命令に従って働いているのです。そして、特にしもべとして与えられている任務は、神の奥義の管理者としての仕事です。
奥義とは、旧約時代には隠されていたが、新しい時代になって明らかにされた真理のことです。パウロたちは、神さまによって示された奥義をまず自分がしっかり理解し、そして他の人々に伝える使命を帯びていました。
管理者に求められるもの
(2節)その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。
管理者に求められる態度は、第一に主人への忠実さです。
管理者の忠実さを評価できない者たち
(3節)しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。
自分がキリストのしもべなら、自分の誉れは人から評価されることではなく、主人に「忠実だ」と認められることです。ゆえにパウロは、コリント教会の人たちからの評価や法廷での評価も気にしないし、自分で自分を評価することすらしないと言います。気にするのは、神さまによる評価です。
管理者の忠実さを評価する者
(4節)私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。
パウロは、クリスチャンになる前から、できるだけ神さまの命令に従おうと努力してきましたし、図らずも罪を犯してしまったときにはすぐに悔い改めてきました。ですから、彼の心には神さまを出し抜いて好き勝手しているというやましさはみじんもありません。
それでも、人は不完全ですから、パウロにまったく罪がないということにはなりません。人を裁いて罪があるかないかお決めになるのは、他の人でもパウロ自身でもなく神さまです。
全知全能できよい神さまの前に引き出されたなら、どんなに傲慢で神を神とも思わない人でも、罪を認めてうなだれるしかありません。
先走って評価するな
(5節)ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。
世の終わりに、携挙という出来事が起こります。イエスさまが空中までクリスチャンたちを迎えに来られると、死んでいたクリスチャンはよみがえり、生きているクリスチャンは復活の体と同じ栄光の姿に変えられ、天のパラダイスに引き上げられるのです。
携挙されたクリスチャンは、「キリストの御座のさばき」を経験します。これは、地上での生き方がどれだけ神さまのみこころにかなうものだったか、すなわち神さまに忠実だったかが評価されるときです。
その際、どれだけ忠実だったか判断するのは神さまであって、人ではありません。ですから、その時が来るまで、人間が他人の忠実さや罪深さについて、ましてや人間としての価値についてあれこれ判断するのは控えなければなりません。
パウロはなぜこんな話をしているのでしょうか?
卑しめられる使徒
ここまででパウロが伝えたかったこと
(6節)兄弟たち。私はあなたがたのために、私自身とアポロに当てはめて、以上のことを述べてきました。それは、私たちの例から、「書かれていることを越えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。
パウロがこんな話をしているのは、分派争いをしている人たちが、自分のグループの方が他の人たちより知恵があり立派だと言って誇っていたからです。
そして、それぞれのグループは、「自分はパウロに付く」「いや、アポロに」「ペテロに」と言って、勝手に伝道者たちを旗頭にして、他のグループの旗頭である伝道者のことも見下していました。そんなことをしてはいけないとパウロは言おうとしているのです。
そして、「書かれていることを越えない」態度について学んでほしいとパウロは言います。コリントの人々は、聖書が教える生き方を求めるより、ギリシア哲学的な知恵を追い求めていました。その結果、どれだけ知恵があるかを比較して、相争うような態度に陥ってしまいました。
クリスチャンが信仰や生き方の最終的な基準にすべきは、聖書の言葉でなければなりません。聖書から離れてしまうと、クリスチャンは神さまのみこころからも外れてしまいます。
なぜ誇るのか
(7節)いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
クリスチャンが持つ才能、救い、神の子としての身分、霊的賜物、これらすべては神さまから一方的に与えられたもの、すなわち恵みです。にもかかわらず、「自分自身で獲得した」という錯覚をしてしまうと、傲慢に陥ってしまいます。コリント教会の人々よ、まさにあなたがたがそうだとパウロは言います。
誇り高ぶるコリント教会員たち
(8節)あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。そうすれば、私たちもあなたがたとともに、王様になれたでしょうに。
コリント教会の人々の傲慢は、まるで自分たちが王さまだとでも思っているかのようです。
確かに、将来的にクリスチャンは王となります。しかし、それはイエスさまが地上に再臨され、千年王国が実現してからのことです(黙示録20:6)。
見世物のような使徒
(9節)私はこう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、最後の出場者として引き出されました。こうして私たちは、世界に対し、御使いたちにも人々にも見せ物になりました。
傲慢に振る舞うコリント教会の人々に比べ、パウロたちは謙遜であろうと努めてきました。自分たちは王さまどころか、見世物のような者だとパウロは言います。
戦いに負けた国の人々は捕えられ、勝利した軍隊が母国で凱旋パレードをする際、その後ろを歩かされました。そして、最終的には円形劇場に連れて行かれ、猛獣や剣闘士たちによって殺されるのを市民に見物されました。

ジャラシュの円形劇場跡
(画像引用:Wikipedia)
パウロたちとコリント教会員の対比
(10節)私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いのですが、あなたがたは強いのです。あなたがたは尊ばれていますが、私たちは卑しめられています。
パウロはコリント教会員と自分たちを対比しています。コリントの人たちは高ぶり、パウロたちは卑しめられています。
パウロたちが味わっている苦労
(11-13節)今この時に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、ひどい扱いを受け、住む所もなく、労苦して自分の手で働いています。ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、中傷されては、優しいことばをかけています。私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです。
実際、パウロたちの生活は王さまとはほど遠いものでした。彼らはイエスさまに与えられた使命を忠実に果たすため、飢え渇きや迫害といった苦労を積み重ねています。
パウロがこんなことを言うのは、ことさらに自己卑下をしたり、そういう生活に不満を並べたりするためではありません。イエスさまに対して忠実であること、王さまではなくしもべとして生きることの大切さをコリント教会の人々に訴えるためです。
霊的な父から子への諭し
皮肉の理由
(14節)私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すためです。
かなり皮肉っぽい言い方が続いたので、パウロは誤解を避けるため、「あなたたちを侮辱したいわけではない」と言いました。パウロは、まるで父親が愛する子どもを教え諭すように、愛情を持って指導しているのです。
霊的な父であるという自負
(15節)たとえあなたがたにキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。
コリント教会を開拓したのはパウロです。その後、たくさんの伝道者がやってきて指導してくれたとしても、パウロがイエスさまのおかげでコリント教会を生み出したという事実は変わりません。いわば、自分はあなたたちの霊的な父親だとパウロは言います。
自分はあなたたちの敵でも裁判官でもなく、あくまでも父親としてあなたたちに愛の指導をしているのだ、というわけです。
私に倣う者となれ
(16節)ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。
そしてパウロは、霊的な父親である自分の生き方を真似てほしいと願います。すなわち、
- 自分自身のことを王さまではなくキリストのしもべだと認識すること
- そして、他の人より立派だと褒められることではなく、どれだけイエスさまに忠実かを気にすること。
- さらに、実際にイエスさまの命令に忠実に生きること
です。
これ以降の話
この後も23節まで分派分裂問題の話が続きますが、簡単に説明するに留めます。
父親としての霊的な指導の一環として、パウロはテモテを送ったと書き記しました。テモテは、この手紙が読まれた後にコリントに到着することになっています(16:10)。
そして、コリント教会の中に「パウロはどうせここには来ない」と高をくくっている人がいると指摘します。しかし、イエスさまがお許しになるならすぐにでも行くことができると言います。
そして、最後に次のように記しました。
(21節)あなたがたはどちらを望みますか。私があなたがたのところに、むちを持って行くことですか。それとも、愛をもって柔和な心で行くことですか。
「むち」とは、使徒としての権威を用いて誤った生き方をしている人々に処分を下すことです。もちろんパウロはそんなことをしたいわけではなく、柔和な心で優しく交われることを願っています。そのためにも、分派分裂をやめてほしいと訴えようとしているのです。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。 それは、他人や自分自身からの評価に振り回されない生き方です。パウロは「私に倣う者になってください」と言いました。パウロの生き方を通して、振り回されない人生の秘訣を教えていただきましょう。
2.人の評価に振り回されないためにできること
神による判定を優先する
パウロは、21節で脅しめいた言葉を語っていますが、これは自分が軽く扱われていることに対する怒りから出てきたものではありません。
パウロは、自分の彼らに対する愛が十分伝わっていないことに関しては、確かに悲しい思いをしていました。しかし、人間であるコリント教会の人たちが自分に下すさばき、すなわち評価は意味の無いことだと知っていたので、それに振り回されませんでした。
むしろ、神さまは人に認められないような隠れた行ないを見てくださり、この世の終わりの時にちゃんと評価してくださいます。ですからパウロは、コリント教会の人たちが何を言おうとも、揺るがされなかったのです。
パウロは6節で、「書かれていることを越えない」ことの大切さを説きました。神さまがあなたのことをどのように評価しておられるかについても、聖書を規準にして考える必要があります。
愛の電報
華子さんは、愛人の子どもとして生まれ、それをひた隠しにされてひっそりと育てられました。父親には一度も会ったことがありません。お母さんは華子さんを女手一つで育て、彼女が6歳の時、過労死してしまいました。華子さんは「私さえいなければお母さんは死なずにすんだんだ。私は生まれてきてはいけなかった子なんだ」と思いました。
そして「自分は存在していてはいけない」という強迫観念は、子ども時代も、思春期を迎えても、二十歳を過ぎてからも、ずっと彼女の思いや行動を縛り付け、苦しめていました。
華子さんが成長し、22歳になったある日のことです。華子さんは洋服の整理をしていましたが、こおり(服を入れるかごのようなもの)の中から、古い電報を見つけました。それを読んだ華子さんの目から、涙がとめどなくあふれてきました。そして、その日を限りに、「自分なんか存在していてはいけない」という強迫観念から完全に解放されたのです。
その電報は、まだ見ぬお父さんが、おばあちゃんに宛てて打った電報でした。そこにはこう書かれていました。
「2ジ17フン ハナコ ウマレル」
この短い言葉によってどうして華子さんはいやされたのでしょうか。
それは、この電報によって華子さんはこう考えたからです。自分が生まれてすぐ、お父さんが自分の名前をおばあちゃんに宛てて打ってくれたということは、お父さんは自分が生まれる前から、名前を用意して待っていてくれたんだということだ。だから、自分は存在していてはいけないのではなく、望まれて生を受けた大切な存在だったのだと。
あなたもそのような電報を読みたいと思われますか? 別に、家捜しする必要はありません。聖書の中には、父なる神さまがあなたを愛しておられる証拠の言葉が満ちあふれています。
(エレミヤ31:3)【主】は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。
人やあなた自身の判断だけでなく、聖書が何を教えているかに、いつも立ち返りましょう。
なすべきことに集中する
パウロは、自分に与えられている貴重な時間やエネルギーを、自分の価値を守り証明するために使おうとしませんでした。それは神さまが評価してくださることです。そして、神さまに任せておけば間違いがありません。
代わりに、彼は時間とエネルギーを、自分が今しなければならないことを行なうことに振り分けました。パウロたちは、自分たちの使命は、人々を救いに導き、救われた人たちがイエスさまを目標として成長していくことを助けることだと知っていました。そこに自分の思いを全集中させたのです。
別の言葉で言うと、他人の評価を気にして一喜一憂する暇が無かったとも言えるでしょう。これが、パウロが人の評価に振り回されなかった2つめの理由です。そして、私たちが見習うべき2つ目の生き方です。
人を愛する
あるおじいさんが、別の人から顔に唾をかけられました。しかし、おじいさんは怒ることなく唾を拭き取りました。すると、また唾をかけられました。ところが、おじいさんはニコニコしています。それは、唾をかけたのが、抱っこしているかわいい赤ちゃんの孫だったから。
パウロは、コリント教会の一部の人たちからひどい評価を受け、傷つけられていました。しかし、怒りを持ってそれに対抗しませんでした。それは、彼らの所行にもかかわらず、彼らのことをまるで子どものように大切に思っていたからです。
コリント教会は、パウロの伝道によって誕生しました。ですから、パウロにとって、彼らは霊の子どもたちです。敵ではなく愛する家族です。
彼らを子どものように大切に思っているから、ときに厳しいことも語ります。しかし、自分が馬鹿にされたからといって、その復讐のために怒るような真似はしませんでした。
愛を増し加えてください
誰かがあなたのことを、理不尽にも低く評価したり、馬鹿にしたり、悪口を言ったり、いじめたりするかも知れません。
あなたはイエスさまが命がけで愛し、聖霊なる神さまが住まいとしてくださるほどに大切な存在です。ですから、泣き寝入りせず抗議してかまいませんし、場合によってはその人との交流を絶って、自分の身と心を守ることも必要です。
しかし、少なくともその人を愛する力を神さまがくださるようにと、神さまに祈ってみましょう。同じように抗議したり、交流を絶ったりするにしても、恨み辛みにまみれてそうするのと、愛に基づいてそうするのとでは全く違います。
神さまが私たちを赦し、愛してくださっているように、私たちもまた、ひどいことを言ったり行なったりする人を赦し、愛することができますように。
まとめ
パウロに倣って、人の評価に振り回されない生き方を目指しましょう。