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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

不品行問題への指導

コリント人への手紙シリーズ8

コリント人への第一の手紙5章1節〜13節

(2025年12月7日)

使徒パウロが、コリント教会にあった不品行について指導している箇所です。特に、教会がこの問題に何も対処していない点をパウロは問題視しています。

礼拝メッセージ音声

参考資料

5節「彼の肉が滅ぼされるため」は、罪を犯し続けた結果、サタンによる攻撃が激しくなり、病気になったり死んだりすることです(11:30、使徒5:5参照)。

6節の「パン種」は、前の日に発酵した粉の一部を保存しておいたものです。次の日のパンをこねる際、新しい小麦粉にパン種を混ぜておくと、粉全体が発酵して膨らみます。そこで、ユダヤの教師は、パン種を「一部の人の悪影響がグループ全体に及ぶ」ことのたとえに用いました。

7-8節は、種を入れないパンを用いる、ユダヤの過越の祭りがモチーフになっています。イエスさまは、完全な過越の小羊として、全人類の身代わりの犠牲となって亡くなりました。そして、それにより私たちの罪が赦されることになりました。

イントロダクション

これまで分派分裂の問題を取り上げてきたパウロは、新たな問題点の指導に移ります。それは教会内にあった不品行の問題です。

今回は、パウロが不品行問題の処理についてどのような指導をしているかを見ていきます。それによって、私たちが本来神さまから約束されている喜び・平安・感動・希望といったすばらしい状態を保ち、さらにそれを育てるための方法を学びましょう。

1.不品行を犯す教会員の問題

問題提起

不品行の罪を犯す教会員の存在
(1節)現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。

「聞くところによれば」という表現は、1回限りではなく繰り返し聞いているというニュアンスの言葉が使われています。これから取り上げる問題が、単なる噂ではなく間違いなく存在するスキャンダルだということです。

それは不品行の罪を犯している教会員がいるという問題でした。その人は、父の妻、すなわち継母と性的な関係を持っていました。

旧約聖書は、継母との姦通を禁じていましたし(レビ18:8)、たとえ父親が亡くなっていたとしても継母との結婚は禁じられていました(申命22:30)。そればかりか、異邦人の間でも、そのような行動は非難の対象でしたし、ローマの法律でも禁じられています。
コリントという町は、不道徳なことでローマ帝国では知られていました。「コリント人のように振る舞う」とは「淫らな行いをする」とか「売春・買春をする」という意味の婉曲表現でした。

そんなコリント人もびっくりするほどのスキャンダルが、コリント教会の中に起こっていたのです。
教会の無為無策
(2節)それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。

パウロが問題にしているのは、教会内に不品行の罪を犯している人がいるのに、教会が何も対処していないことでした。

4章までのところで、パウロはたびたびコリント教会の人たちの傲慢さを非難してきました。彼らは教会内で分派を作って、自分たちには他のグループの連中より知恵があると言って誇っていました。

しかし、罪の問題を放置しているのでは、本当に知恵があるとは言えないし立派でもないとパウロは指摘します。そして、本来なら、悲しみながらも罪を犯して悔い改めない人を除名すべきではなかったのかと問いかけます。
パウロによる裁定
(3節)私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました。

「霊において」という言葉は、パウロの心を指します。肉体はこの手紙が書かれたエペソにありますが、心はコリントにあって、すでにその人の処分を決めていました。その内容は、2節で語られているように、その人が悔い改めないなら除名処分です。
裁定の内容
(4節)すなわち、あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、

除名処分というパウロの裁定は、パウロの個人的な結論ではありません。「主イエスの名によって」と書かれているとおり、イエス・キリストの権威によって下される処分です。

イエスさまは、罪を犯している人に対する対処の手順を教えてくださいました。

(マタイ18:15-17)また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

まず個人的に悔い改めるよう説得する。悔い改めないなら2,3人で説得する。それでもダメなら教会として説得する。なおも悔い改めないなら除名処分です。

しかも、「あなたがたと、私の霊が」という言い方をすることによって、あの不品行を悔い改めない人を処分する決定に、あなたたちコリント教会も参加するよう促しています。
除名処分の目的
(5節)そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。

「サタンに引き渡す」という表現は、第1テモテ1:20にも見られます。これは教会による保護の外に置くことを意味します。

その処分は除名すること自体が目的ではなく、対象者の肉を滅ぼすことです。「肉を滅ぼす」とは、病気や深刻な苦難、場合によっては肉体的な死を指します(11:30参照)。

それによって、神さまは罪を犯している人を悔い改めに導こうとなさいます。教育的指導としての苦しみです。

罪を悔い改めるなら、クリスチャンはいつでも神さまとの親しい関係を回復することができます。そして、安心して主の日を迎えられます。

「主の日」とは、携挙から始まる終末時代のさばきのことです。悔い改めた人はあらゆる罪からきよめられますから、神さまからの罰に怯えなくてよいのです。

パン種のたとえ

わずかな罪も許容すべきではない
(6節)あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。

ここからパウロは、パン種のたとえを用います。パン種とは、前日に作ったパン生地の一部です。中にイースト菌が入っているため、新しい粉にパン種を混ぜてこねることで、粉を発酵させることができます。

ユダヤのラビ(聖書の教師)たちは、パン種を罪のたとえとしてよく用いました。イエスさまも用いておられます(マタイ13:33、ルカ2:1など)。

わずかなパン種が粉全体に影響を与えるように、わずかな罪を軽く見て放置していると、その人の生活全体、あるいは共同体全体に悪影響が及ぶということを警告するたとえ話です。

継母と姦通している人の問題を、コリント教会は軽く見て放置していました。しかし、そんなことを続けていると、教会全体が不品行や他の罪に対して無頓着になって、未信者とまったく同じ、それどころかもっと悪い存在になってしまいかねません。

そうなってしまうと、教会の地の塩・世の光としての使命(マタイ5:13-16)が果たされません。教会がきよく正しい生き方をこの世に示すことによって、はじめて世の人々が神さまを信じるようになります。
過越と種なしパンのたとえ
(7節)新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。

「新しいこねた粉のままでいられる」とは、教会がきよさを保つということです。そのためには、パン種、すなわち罪を教会から取り除かなければなりません。

私たちクリスチャンは罪に敏感になって、イエスさまのみこころにかなう生き方を目指し、罪を犯したと気づいたらすぐに悔い改めて正しい生き方に戻らなければなりません。

また、個人的にだけでなく、教会全体としてもそうです。仮に罪を犯している人が現れたら、悔い改めるよう戒めなければなりません。そして、どうしても悔い改めないなら、除名という悲しい決断をしなければならないのです。

イスラエルでは、毎年春に過越の祭りが祝われました。過越では家族ごとに子羊を殺して、その血を祭壇にささげ、肉は家族で食べました。その過越の食事で用いられるパンは、種なしパン、すなわちパン種を入れないで焼いたものでなければなりません。
そして、過越の祭りの翌日から7日間、種なしパンの祭りが続きますが、その期間も種なしパンを食べました。
  • 紀元1世紀には、過越と種なしパンの祭りは一つの祭りであるかのように扱われ、8日間全体を「過越の祭り」とか「種なしパンの祭り」とか呼んでいました。
実は、過越はイエスさまの十字架の死によって、人の罪が赦されてきよめられたことを象徴しています。

過越の子羊であるイエスさまはすでに十字架にかかられました。ですから、ユダヤ人が過越の食事や種なしパンの祭りの期間に種なしパンを食べるように、十字架を信じて救われたクリスチャンは、古いパン種を取り除く必要があります。

すなわち救われる前に平気で行っていたような罪を、個人の生活や教会から取り除かなければなりません。
誠実と真実の種なしパン
(8節)ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。

パウロは、私たちクリスチャンの生活全体を祭りにたとえました。そして、悪意と邪悪、すなわち罪を取り除くだけでなく、より積極的に神さまが喜ばれる誠実さと真実を実践していこうと促します。

クリスチャンの悔い改めは、罪を認めてその行いをやめ、さらに神さまのみこころにかなう正しい生き方を再開するところまででワンセットです。

処分の促し

前の手紙に書いた命令
(9節)私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。

パウロは、コリント人への第一の手紙の前にも、コリント教会に宛てて手紙を書いていました。その中に記したある命令について補足説明をしようとしています。その命令とは、「淫らな行いをする者たちと付き合わないように」というものです。
未信者と付き合うなということではない
(10節)それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。

前の手紙に書いた命令は、未信者と付き合うなという意味ではないとパウロは言います。私たちの国籍は天にありますが(ピリピ3:20)、まだ地上で生きています。未信者と一切交流しないで生きることは不可能です。

そもそも、この世と完全に関係を絶ってクリスチャンだけで隠遁生活を送るとしたら、地の塩・世の光としての使命を果たせません。伝道も不可能です。ですから、この世の人たちを嫌うあまりまったく交流しないという生き方は、むしろ間違いです。
パウロの命令の意味
(11節)私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。

パウロが前回の手紙で語ったこと、そしてこの第一の手紙の中で今まさに語っているのは、「兄弟」すなわちクリスチャンの中で罪を犯して悔い改めない人がいるなら、その人との交わりを避けるようにということです。
外部ではなく内部の人をさばく
(12-13節)外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」

教会外の人たちの罪を定めたり罰を与えたりすることは、教会の仕事ではなく神さまのお働きです。ですから、キリストの名を用いてユダヤ人を迫害したり異教徒を抹殺しようとしたりした過去の教会の所業は、大きな間違いでした。

パウロは、教会の外ではなく内部の腐敗に気を配るよう勧めます。そして、教会内部のきよさを保つため、教会員の罪の問題を放置しないでしっかり処理しなさいと促しました。
不品行問題のその後
この後のことも解説しておきます。
  1. パウロの熱心な説得にもかかわらず、コリント教会はあの不品行を続ける人に何のアクションも取りませんでした。
  2. そこでパウロは、コリントを電撃訪問して指導しますが、これも効果がありませんでした(第2コリント2:1、13:1-2)。
  3. エペソに戻ったパウロは、涙ながらにコリント教会を厳しく叱責する手紙を書き(現存していません)、弟子であるテトスたちに託してコリント教会に届けさせました(第2コリント2:3-4)。
  4. 涙ながらの手紙やテトスによる指導の結果、コリント教会はついに行動を起こし、最終的に不品行を悔い改めなかった人を除名処分にしました。
  5. 除名処分を受けた人は悔い改め、継母との関係を清算しました(第2コリント7:5-16)。
  6. それを聞いたパウロは、第2の手紙の中で除名した人を再び教会の交わりに戻すよう勧めました(第2コリント2:6-8)。教会が行う処分の目的は除名そのものではなく、悔い改めに導くことだからです。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.誤った寛容さと真の愛の違いを理解しよう

動機の違い

誤った寛容さ
2節でパウロは、「あなたがたは思い上がっています」と指摘しました。コリント教会が不品行の問題に対して何も対処しなかった背景には、彼らの傲慢さがありました。彼らは、自分たちがいかに寛容で愛情深いかを誇りたかったのです。

しかし、そのような動機で罪の問題を放置するのは、本当の寛容さではありません。

また、傲慢な人は、他の人を攻撃することで自分を偉く見せようとする傾向があります。ですから、寛容さとは逆に他の人に対して必要以上に攻撃的になる可能性もあります。たとえ他の人の罪を指摘するとしても、自分を偉く見せたいとか、他人を引き下ろしていい気持ちになりたいとかいう動機から行うのでは意味がありません。

神さまと人との前で、いつも謙遜でありたいですね。
また、傲慢と同じように、ただ嫌われたくないとか、面倒を避けたいとかいった動機で何も言わないのも、やはり本当の寛容さとは言えません。
真の愛
パウロが、継母と関係を続ける人を除名処分にするようコリント教会に求めたのは、その人を嫌って切り捨てるためではありませんでした。むしろ、その人が悔い改めることによって、神さまとの親しい関係を取り戻すことを願ってのことです。

パウロは、罪を犯している人の霊的な回復と成長を強く願っていました。

だからこそ、その人が悔い改めたと聞いたパウロは、すぐにその人を交わりに回復するよう第2の手紙で勧めたのです。

相手の霊的な回復や成長のためなら、場合によっては何も言わずに見守ることが必要な場合もあるでしょう。特に相手がすでに罪を自覚して苦しんでいる場合はそうです。また、相手との関係性が不十分な場合には、何でも言える関係になることを優先して、罪の問題は後回しにすべき場合もあります。

相手に罪を指摘するか、黙って見守るか、いずれにしても問われているのは私たちの動機です。自分の寛容さを誇るためでも、面倒を避けるためでもありません。相手に復讐して溜飲を下げるためでもありません。あくまでも相手の回復と成長のためになる行動を選びましょう。

関わり方の違い

誤った寛容さ
コリント教会は、問題行動をしている人と距離を取り、見て見ぬ振りをしました。その人のことで悲しむこともせず、神さまに祈りもせず、ましてや直接その人と話し合うこともしませんでした。

つまり、完全放置、無関心です。「愛の反対語は無関心だ」とマザー・テレサは言いました。コリント教会が問題行動をする人を放置したのは、寛容さではなく愛の欠如です。

(画像引用:Wikipedia
真の愛
私たちは、教会の他の人に関心を持ちましょう。ゴシップ的な関心ではなく、その人の霊的な状態についての関心です。

私たちは、父なる神さま・イエスさま・聖霊さまとの関係の深さはどうか、神さまのみこころにかなう生き方によって喜び・平安・感動・希望といった前向きな状態を保てているかどうか、互いに知り合う努力をしましょう。

そして、もし誰かがあるべき状態から外れていたなら、深い悲しみを覚えましょう。そして、神さまにその人があるべき状態に戻れるようとりなしの祈りを積み上げましょう。

必要なら、直接その人と話をして、神さまのみこころにかなう生き方が何かを共に考え、それを実践するよう励ましましょう。

その際、言い方にも注意が必要です。「あなたはダメ人間だ」といった見下げるような言い方をしてしまうと、かえって相手は心を閉ざしてしまうでしょう。

7節でパウロは、「あなたがたは種なしパンなのですから」と言いました。「あなたはダメ人間だからましになれ」ではなく、「あなたは救われて神の子どもとなったのだから、それにふさわしい生き方をせよ」という励まし方をしたのです。

私たちもそのような伝え方ができるといいですね。

また、相手を説得する場合、イエスさまが教えてくださった手順に従う必要があります。公衆の面前で非難したりしないで、まず1対1で、それから2,3人で話します。それで聞き入れられない場合には、教会に任せます。具体的には牧師などリーダーに任せるのです。牧師が罪を犯している場合には役員、あるいは教団などさらに上部組織に任せます。

いずれのステップでも、神さまへの祈りは欠かせません。相手が気づいて悔い改められるように、そして自分や他のメンバーが適切な言動で相手に接することができるよう祈りましょう。

結果の違い

誤った寛容さ
教会内の罪を放置すると、やがて教会全体の雰囲気が緩んだものになってしまいます。「ねばならない」という重荷を下ろしてリラックスでき、批判される恐れがなく自分らしさを出せるという意味での緩さではなく、神さまのみこころに対して無頓着になってしまうという意味での緩さです。

すると、教会員一人ひとりが平気で罪を犯すようになります。実際、コリント教会は特定の人の不品行の問題だけでなく、分派分裂、礼拝の無秩序、差別と行ったさまざまな問題を抱えていました。

罪に対する警戒心がない教会は、教会は外の人たちに対して証しの力を失ってしまいます。伝道は、違いを見せるところから始まります。この世とまったく変わらない生き方をクリスチャンがしているなら、伝道は成立しません。
真の愛
教会が真の愛を実践すると、一人ひとりがしっかりとイエスさまとつながり、罪を犯すどころかイエスさまのみこころを熱心に行なうようになります。

すると、教会の外の人たちが私たちの生き方を見て、ある種の憧れを抱くようになります。そして、私たちの語る福音の言葉にも耳を傾けてくれるようになるでしょう。誕生したばかりのエルサレム教会が、まさにそのような教会でした。

(使徒2:47)(教会は)神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。

まとめ

私たちは、まず自分自身がイエスさまのみこころに従って生きているか、いつも注意を払いましょう。そして、罪の思いを持ったり行動したりしていることに気づいたら、すぐに悔い改めて正しい生き方に戻りましょう。

そして、私たちは他の人たちがみこころにかなう生き方をしているか関心を持ちましょう。それは、他の人を批判するためではありません。その人たちがイエスさまとの関係を深め、神さまが約束してくださっている喜び・平安・感動・希望に満ちた人生を送ることができるためです。

そして、必要なら、直接その人と話をして、お互いにみこころにかなう生き方をしようと励ましましょう。こうして、私たちの教会全体として、さらなる喜び・平安・感動・希望を味わいたいですね。

連絡先

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