(2025年12月14日)
使徒パウロは、コリント教会の中にあった、信者同士の訴訟問題を取り上げて指導しています。ここから、他人に対してイライラする際の処方箋をいただきましょう。
礼拝メッセージ音声
参考資料
9節の「神の国」とは、千年王国のことです。
続きを読む
将来のある日あるとき、死んでいたクリスチャンが復活して天のパラダイスに招き入れられます。また、その時生きているクリスチャンも復活の体と同じ栄光の体に変えられ、天のパラダイスに入れられます。これを「携挙」と呼びます。
さらにその後、イエスさまが地上に再臨なさり、不信者を滅ぼし、悪魔と悪霊たちを封印します。そして、千年間続く理想的な王国を地上に実現なさいます。これが「神の国」です。
神の国には、携挙されたクリスチャンたち、旧約時代の信者たち、クリスチャンが携挙された後にイエスさまを信じた信者たちが招かれて祝福を受けます。
ですから、9節の「神の国を相続できない」とは、「救われない」という意味です。
イントロダクション
コリント教会にはさまざまな問題があり、パウロはコリント人への第一の手紙でそれらを一つ一つ指導しています。ここまで、分派分裂の問題、そして信者の不品行を教会が放置している問題に触れました。
今回の箇所では、クリスチャンが他のクリスチャンと争いになり、裁判を起こすという問題について取り上げています。
私たち日本の教会の場合、教会員同士で訴え合うという問題に直面している人は少ないと思います。しかし、他人に対してイライラする場面は多く経験しているのではないでしょうか。今回の箇所を通して、他人にイライラした際の対処法を教えていただきましょう。
1.信者同士の訴訟問題に対するパウロの指導
コリント教会にあった信者同士の訴訟
問題提起
(1節)あなたがたのうちには、仲間と争いを起こしたら、それを聖徒たちに訴えずに、あえて、正しくない人たちに訴える人がいるのですか。
「正しくない人たち」とは、ここではクリスチャンではない世俗の裁判官という意味です。このことをパウロは問題視しています。
コリントは通商都市なので、商売上の争いから裁判が頻繁に行われていたのですが、そもそも当時のギリシア人は、他の民族に比べて訴訟好きとして知られていました。
ギリシアの法廷はローマの闘技場のように一般公開されていました。市民は闘技場で剣闘士や猛獣が戦う様を見物するように、法廷では弁論術を用いて戦う様を楽しんだのです。
そういうわけで、訴訟に勝利することは、単に自分の権利を守るだけでなく、社会的地位を高めるための行為でした。
後にパウロは、エルサレムで捕えられて総督による取り調べを受けますが、正当な裁判を受けられないと判断して皇帝に上訴しました。パウロは世俗の裁判そのものを否定しているわけではありません。訴訟に勝利することで社会的地位を高めたいという動機で、信者同士が訴え合うことを問題視しているのです。
前回も取り上げましたが、イエスさまはクリスチャンが罪を犯して悔い改めない場合の取扱いについて、次のように教えておられます。
(マタイ18:15-17)また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。
それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
まず個人的に悔い改めるよう説得する。聞き入れてもらえなければ2,3人で説得する。それでも悔い改めないなら教会に訴え出て教会が対処する、という手順です。
パウロは、信者同士の争いは、世俗的な裁判所に任せるのではなく教会内で解決すべきだと主張しているのです。
世界をさばくようになるのに
(2節)聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
パウロは、将来クリスチャンたちに与えられる特権に、コリント教会員たちの目を向けさせました。それは、やがてクリスチャンたちが世界をさばくようになるということです。
(黙示録20:6)この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。
これは、将来イエスさまが地上に再臨なさった後に実現する、千年王国での出来事です。世界の大王であるイエスさまの元で、私たちクリスチャンは王となって世界を治め、運営します。
世界規模の大きな問題を調整することになるクリスチャンが、信者同士という小さな問題を調整できないのはおかしいとパウロは言います。
御使いさえさばくようになるのに
(3節)あなたがたは知らないのですか。私たちは御使いたちをさばくようになります。それなら、日常の事柄は言うまでもないではありませんか。
同様に、クリスチャンはやがて、御使いをもさばくようになるとパウロは言います。この場合の「御使い」は、堕天使、すなわち悪霊たちのことでしょう。
そんな特権が与えられているであれば、当然教会員同士の争いを治められるはずだとパウロは語ろうとしています。
外部に訴え出ている信者たち
(4節)それなのに、日常の事柄で争いが起こると、教会の中で軽んじられている人たちを裁判官に選ぶのですか。
分派分裂問題のところで何度も取り上げたように、コリント教会の人たちは哲学的な知恵を追い求め、それを誇りとして他人を見下していました。普段、コリント教会の人たちは、クリスチャンではない裁判官たちについても本当の知恵を持っていない愚か者として見下していたのです。
それなのに、日常の争い事を教会内で解決できずに、世俗の裁判所に訴え出るのはおかしなことだとパウロは非難します。
知恵者はいないのか
(5-6節)私は、あなたがたを恥じ入らせるために、こう言っているのです。あなたがたの中には、兄弟の間を仲裁することができる賢い人が、一人もいないのですか。それで兄弟が兄弟を告訴し、しかも、それを信者でない人たちの前でするのですか。
コリント教会は何よりも知恵を大事にしていて、そのために分派分裂問題を引き起こすほどなのに、教会員同士の仲裁をする知恵もないのかとパウロは皮肉っぽく問いかけます。
より高い生き方
訴え合うこと自体が敗北
(7節)そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。
信者同士の争いは教会内で解決すべきだという以前に、そもそも訴え合うこと自体が問題だとパウロは言います。たとえ裁判に勝ったとしても、相手を訴え出た段階ですでに霊的には敗北です。
7節の後半部分は、イエスさまの山上の説教の教えを思い出させます。
(マタイ5:38-41)『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。
あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
イエスさまは、不正に目をつぶれとおっしゃっているわけではありません。また、やられてもただ我慢して泣き寝入りしなさいと教えておられるわけでもありません。
右の頬を打たれるのは単なる被害です。しかし、左もどうぞと差し出して打たれるのはその人の自由意思に基づきます。強いられて歩く1ミリオンに自由はありません。しかし、もう1ミリオン歩くのはその人の自由な選択です。
このような自発的・積極的な行動ができるためには、敵を赦す必要、赦すだけでなく愛する必要があります。続く箇所で、イエスさまはこうおっしゃいました。
(マタイ5:43-44)『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
パウロも、私たちは相手を打ち負かして勝利を得る生き方ではなく、相手を赦し、愛することで勝利を得る生き方を目指すべきだと、コリント教会の人たちに、そしてこの箇所を読んでいる私たちに訴えかけているのです。
不正を行う側への指導
兄弟に対する不正
(8節)それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。
次にパウロは、訴訟の原因となっている、不正を行う人たちに指導の矛先を向けます。パウロは、外部の裁判所に教会の仲間を訴え出ることを問題視しましたが、不正そのものを容認しているわけではありません。
クリスチャンが平気で法律や社会のルールに違反したり、ましてや相手をだまして利益を得ようとしたりすることは、さらに問題です。
神の国を相続できない者
(9-10節)あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。
パウロは、不正を働くことは良くないということを示すため、将来神の国を相続できない人の特徴を挙げています。「神の国を相続できない」とは、救われないという意味です。
と聞くと、不安に駆られるかもしれません。クリスチャンがここに挙げられているような行為をしたら、救いを取り消されて、将来罪の罰を受けて滅ぼされてしまうのでしょうか。そうではありません。
この箇所の罪のリストに用いられている動詞は、継続的な行いを意味しています。ここで挙げられている生き方は、イエス・キリストの恵みの福音を信じて救われていない人たち、すなわちクリスチャンでない人たちの特徴です。
その人たちは救いを受け取っていませんから、将来神の国に入れられることがありませんし、ましてやそこで味わう祝福も受け取れません。
パウロは、こんな生き方をしていたら救いを取り消されるぞと脅しているのではありません。クリスチャンとしての望ましい生き方と、イエスさまを信じない人たちの生き方を対比しようとしているのです。
あなたがたは違うのだから
(11節)あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
コリント教会の人たちの中にも、かつては9-10節に挙げられたような生き方をしている人たちがいました。しかし、その人たちもイエスさまの恵みの福音を信じ、心に聖霊なる神さまをお招きしたことによって、あらゆる罪が赦され、きよめられ、聖なる者とされました。
そんな聖められたあなたがたなのだから、イエスさまを信じる前と同じ生き方を続けるのはおかしいとパウロは言うのです。
人をだまして自分の利益を求めたり、自分の社会的地位を高めるために訴訟で他人を論破したりするのはやめよう。むしろ、人を赦し愛する、より高潔な生き方を目指そう。パウロはそのようにコリント教会に、そして私たちに訴えかけています。
それでは、ここから私たちは、他の人に対してイライラしたときの対処法を教えていただきましょう。
2.とらわれから解放されて自由を手に入れよう
自分の中の貪欲さに気づく
パウロは、教会の兄弟同士が訴え合うという行為の背後に、コリント教会の人たちの貪欲さがあることを見抜いています。そして、それを手放すように勧めています。
9-10節では、偶像礼拝や不品行、同性愛の罪に加えて、「
盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません」と書かれています。経済的に貪欲になり、他人の権利を侵害することは、神を悲しませる罪であり、絶対に避けなければならないことです。
私たち日本の教会の場合、教会員同士の訴訟問題に直面している人はあまりいないと思います。しかし、貪欲の問題はすべての人に関係します。
7節の意味は、クリスチャンに求められているのは、損害を与える人を赦し愛するという、より高潔な生き方だということです。それほど高い倫理基準を与えられているのに、まるで不信者のように貪欲になり、人をだまして損害を与え、盗みや略奪の罪を犯すとは何事かと8節で叱責しているのです。
たとえ、他の人をだまして利益を得ようとしていなくても、他人に対してイライラすることがあります。その背後に、経済的な貪欲さが隠れていないでしょうか。「自分も経済的に豊かになりたいのに」という嫉妬心が隠れていないでしょうか。他人にイライラしたらそれをチェックしましょう。
行きすぎた「べき主義」に気づく
私たちが他人にイライラするのは、貪欲にとらわれているときだけではありません。日本人にとって、行きすぎた「べき主義」もまた、他人へのイライラを引き出すとらわれの一つです。
他人に対してイライラするとき、「人はこうあるべきだ」という「べき主義」が隠れている場合が往々にしてあります。たとえば、次のようなことを考えていると、私たちは他人にイライラしがちです。
- 人は、どんな状況においても、私を公平に、正当に、親切に、思慮深く扱うべきだ。
- 人は、私の依頼に対して、すぐに、喜んで対応すべきである。
- 人は、たとえ私がはっきりと願いを口にしなくても、それを察知し、率先して親切にすべきである。
- 誰も、私に欲求不満を与えてはならない。
そして、「もしそうでなければ、その人はどうしようもない人間だということであり、罰を受けて苦しんで当然だ」と考えてしまうのです。
こうやって文字にして客観的に眺めれば、「なんと極端で自己中心的な考えだろうか」と思います。しかし、多くの人がこんなふうに考え、思い通りに行動しない他人にイライラするのです。
イエスさまは山上の説教を通して、私たちに自由な生き方を手に入れて欲しいと願われました。他人にイライラしたときは、私たちが自由を失って、「べき主義」という捕らわれに振り回されていたことに気づく良いチャンスです。
聖霊に解放を求める
そうはいっても、様々な欲望にしても、べき主義にしても、私たちはなかなか手放すことができませんね。私たち人間の力だけでは不可能なのかも知れません。
私たちが様々なものを握りしめて手放せないのは、どこかに不安があるからです。自分で何とかしなければ、これを手に入れなければ、こういう条件を満たさなければ、不幸になってしまうと、意識・無意識に恐れているからです。
そこで、マザー・テレサはこんな祈りを捧げたといわれます。
イエスよ、わたしを解放してください。
愛されたいという思いから、評価されたいという思いから、
重んじられたいという思いから、ほめられたいという思いから、
好まれたいという思いから、相談されたいという思いから、
認められたいという思いから、有名になりたいという思いから、
侮辱されることへの恐れから、見下されることへの恐れから、
非難される苦しみへの恐れから、中傷されることへの恐れから、
忘れられることへの恐れから、誤解されることへの恐れから、
からかわれることへの恐れから、疑われることへの恐れから。
イエスよ、わたしを解放してください。
このような祈りを捧げるとき、聖霊なる神さまの働きにより、私たちの内側には神さまへの信頼が生まれます。神さまが私たちのために心配してくださり、私たちを守り、導いてくださるという平安が生まれます。その時、今まで自分でしっかり握っていたものを手放すことができるようになっていくでしょう。
神さまの願いは、私たちがどんな状況に置かれても、その中で幸せを味わうことができるようになることです。
私たちも、様々なとらわれから解放され、本当の幸せ、本当の自由を手に入れることができるように祈りましょう。