(2025年12月21日)
イエス・キリストの母となるマリアが妊娠しました。彼女の浮気を疑って苦しむ婚約者ヨセフに、天使は「マリヤは聖霊によって身ごもった」と伝えます。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
クリスマスはイエス・キリストの誕生を記念する日です(誕生日がいつだったかは分かっていません)。世界中で誕生をお祝いされるイエスさまは、どういうお方なのでしょうか。
クリスマスの物語
イエスさまの誕生は、とてもセンセーショナルでした。後にイエスさまの母となるマリアが、ヨセフとの正式な結婚前に妊娠したことがわかったのです。ヨセフは身に覚えがありませんから、当然マリアの浮気を疑って苦しみました。
ヨセフは18節では「婚約者」と書かれていますが、19節では「夫」と書かれていますね。実は、当時のイスラエルでは、婚約者同士は実際の結婚生活は営まないものの、法律的には夫婦と見なされていました。
ですから、婚約期間中にどちらかが別の人と浮気をしたら、モーセの律法に基づいて姦淫罪が適用されます。律法によれば、姦淫を犯した人は死刑です。
19節に
「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので」と書かれています。これは、マリアの姦淫を無かったことにはできないし、さりとてこの事実を公にして愛するマリアを死刑にもしたくないという意味です。ヨセフは正義とマリアへの愛の間で葛藤したのです。
インマヌエル預言
そんなふうに葛藤し苦しむヨセフに、神さまは天使を遣わして、マリアが不義によってではなく聖霊なる神さまによって妊娠したのだと教えます。そして、預言者イザヤを通して語られた預言を思い出させました。
イザヤの預言の中で、やがて現れる救い主のあだ名の一つが紹介されています。「インマヌエル」。これはヘブル語で、「神が私たちとともにいる」という意味です(23節)。
イエスさまは、単なる立派な人間などではなく、私たちと一緒にいるために、人間となって来てくださった神なのです。聖書の神さまはどんなお方でしょうか。
1.全能の神
創造主
聖書の神さまは、人間が自分たちの都合やイメージによって勝手に作り上げた存在ではありません。むしろ、私たち人間が神さまによって造られました。
神さまは、ことば一つで世界の様々なものをお造りになりました。ですから、この宇宙は神さまのものであり、神さまの支配下にあります。宇宙の物理法則に縛られることがありませんから、神さまに不可能は何一つありません。神さまにとって、奇跡を行なうことは不思議なことでも何でもないのです。
地上に来られたイエスさまは、神さまの全能の力をお示しになりました。病気のいやし、悪霊の追い出し、死人の蘇生、海上歩行、自然現象のコントロール……。私たちの常識では考えられないようなことでも、イエスさまは行なうことができます。
私たちの希望
その奇跡の主が私たちと共にいると、聖書は語ります。
人々が絶望し、愚痴をこぼし、あきらめてしまうような状況でも、私たちクリスチャンは、なおも希望を持って立ち上がることができます。それは、イエスさまが、私たちの想像をはるかに超える力と知恵をお持ちであって、どんな問題でも祝福に変えることができると信じられるからです。
あなたにできなくても、神さまにはできます。力あるイエスさまに向かって祈るとき、神さまの全能の力、奇跡の力が、あなたの人生の上に注がれます。
あなたにとって傷と思えるようなこと、自信喪失の種と思えるようなこと、不幸の証拠と思えるようなことでさえ、奇跡の神さまは宝に変えてくださいます。
傷が宝に
以前、仕事仲間たち何人かと話をしていたとき、自信について話題になりました。私が「私は自信がないんだ」と言いますと、ある方が「増田さんは○○もできるし、○○もできるじゃないの。自信がないなんて信じられない」とおっしゃいます。
そこで申し上げました。「ある人に『あなたは歩けるし、見えるし、話せるじゃないの』と言われたとしたら、自信がつきますか?」と。その方は「自信にならない」とおっしゃいました。そうです、私もなのです。
どうしてなんだろうと、さらに話し合いました。結局、私たちは、最初から「私は何もできない」と決めてかかっているんだということが分かってきました。
自力我力でがんばる癖
私は小さいときから自力我力でがんばる癖がついていました。そうやって親や教師、友人たちの評価を勝ち取って、自分の自信の種としてきました。それはクリスチャンになってからも同じで、聖書に書いてあることを一生懸命守り、「良いクリスチャン」になることでなんとか神さまや牧師や教会の人たちからの良い評価を勝ち取ろうとしていたのです。
しかし、聖書の律法は私たちに完璧を求めます。もし、行ないによって神さまに認めてもらおうとしたら、完璧でなければなりません。そんなのは不可能です。ですから、いつも私の心の中には、「私はダメなクリスチャンだ」という負い目がありました。
能力、経験、財産、学歴、人脈、性格などなど、多くの人はできることや持っているものによって自信を保とうとします。しかし、それで得られる自信は、薄氷の上を踏み歩くようなものです。自分よりももっとできる人に出会ったとき、あるいは何らかの挫折を味わったとき、もろくも崩れ去っていくような薄い氷なのです。
以前も申し上げましたが、私は教会を一つ潰しています。がんばリズムの信仰で教会運営をしたせいで、メンバーの皆さんも私自身も疲れ切ってしまったからです。この経験は、私を奈落の底に突き落とすものでした(5年かけてじわじわと底なし沼に沈んでいったと言った方が正確でしょうか)。惨めで、何もする気が起きなくなりました。自信の薄氷が割れてしまったのです。
できないことを売り物にする教会
自信について話し合い、結局私たちは、誰が何と言おうと、自分で自分は何もできないと思っているのだという結論に達したとき、「じゃあ、できないことを売り物にするしかないね」という話になりました。
確かに、考えてみれば、中通りコミュニティ・チャーチや私の信仰のスタイルというのは、この「できないことを売り物にする」ということなんだなあと思いました。
- 私にはできないから、人の行動力や意志の力よりも神さまの恵みを強調する。
- 私にはできないから、私が一人で指導するのではなくみんなで互いに支え合おうとする。
- 私にはできないから、私も安心して弱音を吐ける信仰の自助グループを作ろうとする。
福島に来て、クリスチャンとして生きるのがとても楽しくなったのは、このせいだったんだなと思い至りました。
自信を徹底的に砕かれた経験は、全能の神さまの御手の中で、私にとって宝になりました。あなたの傷は何ですか? それも宝になります。
2.愛の神
愛とは大切にすること
聖書は、神さまが愛の神であることを、何度も繰り返し訴えています。
昔、キリスト教が日本に入ってきた頃、聖書を日本語に訳すことになりました。その際、現在では「愛」と訳されている言葉(ラテン語のカリタス)をどう訳すか問題になりました。元々、仏教的な背景で使われる「愛」という言葉は、悟りを妨げる「執着心」と同様の意味で、あまり良いイメージの言葉ではなかったそうです。
そこで宣教師たちは「大切」という言葉を採用しました。愛するとは、大切にするということです。神さまは愛ですから、神さまはあなたのことを大切にしてくださいます。
大切な存在だと知ったとき
心の世界に関する仕事をさせていただきながら強く感じることは、人は自分が本当に大切な存在なのだということを知ったとき、心の痛みから解放されるばかりか、自分らしさを発揮しながら生き生きと輝くことができるようになるということです。
スラム街の高校生のその後
アメリカの研究機関が、スラム街にある高校の卒業生が、その後どんな人生を歩んだかということを追跡調査しました。
すると、多くの卒業生が、様々な犯罪に手を染めたり、不道徳な生き方を続けたり、貧困にあえいだりするような人生を送っていました。ところが、ある年の卒業生だけは社会の様々な分野で活躍したり、他の人々を援助する仕事に就いたりしていたのです。
その人たちにインタビューを重ねていくと、彼らは共通してある人物の名を挙げ、今の自分があるのはその人のおかげだと言いました。その人は、彼らが高校3年生の時の担任で、1年間だけ教師の仕事に就いたのだそうです。
調査チームはその女性を捜し当てます。そして、もう老年になっていたその女性に、担任をしていたあの時一体どんな教育を施したのかあれこれ尋ねました。しかし彼女は、彼らが納得するような答えを何一つしませんでした。実際、自分は何も特別なことをしたわけではないと彼女は言います。
この人はもしかしたら別人なんじゃないだろうかと心配になり始めた研究者たちは、彼女に卒業アルバムを見せました。すると彼女は、「みんな覚えているわ。この子はとても勇気のある子だった。この子はとても優しい子。この子は頑張り屋で失敗しても決してへこたれなかったわ。そしてこの子は……」。目を細めて一人ひとりの顔写真をなでながらそうつぶやきました。
研究者たちは理解しました。あの生徒たちはこの教師に大切にされたのだと。
あなたは大切
あなたは、ご自分が大切な存在だということを知っておられますか?
骨董品の価値は、その価値を判断できるプロに判定してもらわなければ、私たち素人ではなかなか判別できません。では、人間の価値を計れる専門家とは誰でしょう。それは、人間をお造りになった神さまです。
人間の価値判定のプロである神さまは、あなたのことを「大切な存在だ」とおっしゃいます。であれば、悪魔や他の人があなたの価値をどう引き下げようとも、あなたは大切な存在なのです。
3.赦しの神
罪
それでは、私たちは神さまの力、神さまの愛を本当に体験しているでしょうか。体験していないとしたら、何が問題なのでしょうか。聖書はその問題を「罪」と呼んでいます。
聖書がいう罪とは、元々「的外れ」という意味があって、悪いことをすることというよりも、神さまの方をちゃんと向いていないということです。どんなに力強く弓を引いたとしても、的と違う方向を向いていたら意味がありません。
一生懸命真面目に生きているかどうかも大切ですが、それよりさらに大切なことは神さまの方をしっかりと向いていることです。
罪とは、神さまの方を向いていないこと、すなわち、神さまの存在を喜ばない心です。自分のやりたいことを、やりたいときに、やりたいようにしたいという思いです。それは、自分自身が神さまに成り代わろうとすることです。
死
神さまを無視して、自分勝手に生き始めた結果、私たち人間は自ら不幸を招くようになりました。犯罪、人間関係の破壊、人間の尊厳の破壊、自然破壊……。そして、その末路は? 聖書ははっきりと宣言しています。
(ローマ6:23前半)罪の報酬は死です。
神さまから切り離され、生きながら死を味わっている人間は、いろいろな方法で幸せを得ようとしました。科学、お金、哲学、様々な宗教、道徳、政治……しかし、人間の努力によっては神さまの元に帰り、本当の幸せを取り戻すことができませんでした。
いのち
しかし、愛である神さまは、私たち人間が神さまから切り離され、ますます不幸な状況に向かっていくのを、よしとなさいませんでした。何とか救い出したいと思ってくださったのです。
ただ、神さまはきよいお方ですから、罪を無かったことにして、そのまま人間を受け入れるということはおできになりません。ということは、人間を罪人として裁き、永遠の苦しみという罰を与えなければならないということです。
今回の箇所で、マリアの婚約者ヨセフが正義と愛との間で葛藤したように、人間的な言い方をすれば神さまもまた正義と愛との間で葛藤なさいました。
そして、神さまは究極の手段をおとりになりました。神であるイエスさまが人間となって地上に来られ、本来私たちが受けなければならない罪の罰を、身代わりに受けてくださったのです。
そして、自分の罪を赦すためにイエスさまが十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさったのだということを事実だと信じて受け入れた人は、本当に罪が赦され、神さまの子どもとなり、永遠の祝福をいただく者とされます。
(ローマ6:23後半)しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
あなたはイエスさまのおかげで罪が赦されたということを信じていますか? もしあなたがイエスさまの救いを信じたのなら、過去どんな失敗を犯していたとしても、これから先どんな問題行動をするとしても、あなたは全能の神さま、愛の神さまとつながっています。そして、神さまはあなたの人生を圧倒的に祝福してくださいます。
神さまがくださる祝福は、初詣に出かけた人たちが神社で願っているもの、たとえば健康長寿、商売繁盛、合格、縁結び、懐妊や安産、交通安全などとは違うかも知れません。神さまがくださる祝福は、全知全能の神さま、愛に満ちた神さまが共にいてくださるという喜び、感動、希望、勇気、平安などです。
笑顔の客室乗務員
クリスチャンで国際弁護士の佐々木満男さんが、シリアからインドに向かう飛行機に乗ったときの話です。
突然、ドンという不気味な音が聞こえました。佐々木さんが窓の外を見ると、エンジンから黒い煙が出ているのが見えました。驚いた佐々木さんがそのことを客室乗務員に伝えると、その人はにっこり笑って「心配いりません。大丈夫です」と答えました。
間もなく飛行機は降下を始めました。そして、機長からサウジアラビアの空港に緊急着陸するというアナウンスが流れました。乗客は騒然としましたが、あの客室乗務員は微笑みを絶やさず、「大丈夫ですから安心してください」と乗客を励まし続けました。
引火・爆発の危険もありましたが、着陸は成功しました。そして、乗客乗員は全員無事に地上に降り立ちました。脱出後、佐々木さんはあの客室乗務員を見つけてこう尋ねました。「どうして、あんな状況で冷静でいられたのですか?」
すると、その人はまたも笑顔を浮かべてこう答えました。「それは、イエス・キリストを信じているからですよ」。
あなたにもそのような喜び、感動、希望、勇気、平安が用意されています。イエスさまはそのためにこの地上に生まれてくださいました。
まとめ
まだイエスさまを信じる祈りをしたことがない方は、今こう祈ってみませんか?
イエスさま。私は罪人でした。あなたに従わないで、自分勝手に生きてきました。しかし、その罪を赦すために、あなたは十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさいました。私を赦しくださり、神さまに祝福される者にしてくださって、ありがとうございます。これからはイエスさまと一緒に生きていきます。どうぞよろしくお導きください。イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン。
アーメンとは、その通りという意味です。心からの祈りですという意味です。ぜひ、心からこの祈りを捧げてください。そうしたら、あなたは今日から、クリスチャンです。神さまの大切な子どもです。
私たちが神さまに近づいたのではなく、神さまの方から私たちに近づき、救いの手を差し伸べてくださいました。クリスマスはそのことを記念する日です。イエスさまは、あなたが希望や喜びや勇気や平安に満ちあふれて、生き生きと生きられるようになるための神さまからのプレゼントです。