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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

キリスト者の自由と行動原則

コリント人への手紙シリーズ10

コリント人への第一の手紙6章12節〜20節

(2025年12月28日)

使徒パウロは、「クリスチャンは律法から自由になった」という意味をはき違えていたコリント教会の人たちに、本当の自由の使い道について教えています。

礼拝メッセージ音声

参考資料

12節や13節の引用文は、コリント教会で語られていたフレーズだと思われます。

16節は、創世記2:24からの引用です。

イントロダクション

コリントの町は性的には非常に奔放で、たくさんの遊女がいました。コリント教会員の中には、遊女と遊ぶ人たちもいたようです。日本も、性的には非常に堕落しています。そのような国にあって、クリスチャンとしてどのように自分の行動を律すればいいのでしょう。

不品行の問題だけではありません。私たちはさまざまな場面で常に行動の選択を迫られています。この箇所から、私たちの行動を決める基準について教えていただきましょう。

1.自由と不品行について

自由に関する誤解

すべてのことが許されているとはいえ
(12節)「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。

ここまでのところで、パウロはコリント教会にあった3つの問題を取り上げて指導してきました。
  1. 分派分裂の問題
  2. 不品行を犯している教会員に対して、教会が何も指導しないという問題
  3. 教会員同士の訴訟問題
そしてパウロは、コリント教会が罪に対して、特に不品行に対して無頓着なのは、自由について間違った認識をしているからだと指摘しようとしています。

「すべてのことが私には許されている」というのは、コリント教会で使われていたフレーズでしょう。これは、パウロがコリント教会の人たちに教えた言葉だったかもしれません。

パウロは、「イエス・キリストが十字架にかけられたときにモーセの律法は役割を終えたので、もはやクリスチャンはモーセの律法を守る義務がなくなった」と教えています。たとえば、

(ガラテヤ3:24-25)こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。

(エペソ2:14-15)キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。(※「二つのもの」とはユダヤ人と異邦人のこと)

コリント教会の人たちは、この教えを拡大解釈していました。モーセの律法は姦淫(すなわち結婚以外の性的な関係)を禁じていますが、クリスチャンはモーセの律法に縛られないのだから、配偶者以外と関係を持っても問題ないと考える人たちがいたのです。

確かにクリスチャンは自由です。しかし、すべての行動が有益というわけではありません。そして、自由だと言いながら実は何かに支配されていないか注意する必要があります。この点について、パウロは6章の後半で指摘しようとしています。
からだの目的
(13節)「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが、神は、そのどちらも滅ぼされます。からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。

「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」も、コリント教会の中で語られたフレーズでしょう。食べ物とおなかは切っても切れない関係にあります。性的な関係と体もそれと同じだとコリント教会の人たちは主張しています。

つまり、コリント教会の人たちは、性欲も食欲と同じ自然な欲求なのだと言いたいのです。そして、おなかがすけば自由に飲み食いできるように、情欲を抱けば誰とでも関係を持って良いと主張していました。

しかし、パウロはそうではないと言います。人間の肉体は食べ物と同じように、永遠に続くものではありません。しかし、イエスさまを信じて救われた人の体は、もはや以前の体とは異なります。

クリスチャンは、心も体もその全体がイエスさまの犠牲によって買い取られました。ですから、私たちの体は、自分勝手に使ってよいものではなく神さまのものです。神さまのために用いなければなりません。
復活の希望
(14節)神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。

イエスさまは、天の父なる神さまの力により復活なさいました。同じ神さまの力が私たちにも働いて、やがて私たちも死んだ後に復活します。携挙の時にまだ生きていたとしても、復活の体と同じ栄光の姿に変えられます。そして、永遠の時を過ごすことになります。

神さまは私たちの魂だけでなく体のことも大切に考え、永遠の計画をお持ちです。救いは、魂だけではなく、体も含む全人格的な完成をもたらすのです。13節の「主はからだのためにおられる」という言葉もそのことを表しています。

神さまが私たちの体をそれほどまでに大切にしてくださっているのなら、「どうせ今の肉体は滅びるのだから、どんな使い方をしてもよい」ということにはなりません。

キリストの体の一部として

クリスチャンはキリストの体の一部
(15節)あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。

教会はキリストの体であるというのが、聖書の教えです。そして、一人ひとりのクリスチャンはキリストの体を構成する各部分です。

(第1コリント12:27)あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
遊女と交わることは、キリストの体の一部を遊女の体の一部とすることだとパウロは言い、そんなことがあってはならないと強く否定します。

遊女と交わるとキリストの体の一部が遊女の体の一部になるという理屈については、次の節で解説されています。
ふたりは一体となるという教え
(16節)それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。

パウロは、遊女と交わると遊女と一つの体になると言います。これは、創世記に書かれている結婚に関する教えから来ています。

(創世記2:24)それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

この「一体となる」という言葉は、単に肉体的な結合だけを意味するものではありません。夫と妻は、生活の場を共にし、経済的に一つとなり、生きる使命も共にします。全人格的に一つになるのです。

その「一体となる」という神秘は、元々夫と妻の関係、結婚という関係においてのみ許されるものです。

ところが、配偶者以外の人と交わると、その一体の神秘がその人との間にも働いてしまいます。たとえ神さまの意図に反する関係であっても、単なる「遊び」や「体だけの関係」とはなりません。性的な関係は、人と人とを実際に結びつけてしまう力を持つのです。

コリント教会の人たちは性的な関係を食事と同レベルにとらえていましたが、実際にはそんな軽い次元の話ではありません。15節で語られたように、遊女と交わるとキリストの体の一部が遊女の体の一部となってしまいます。だから、配偶者以外と関係を持ってはならないとパウロは言います。
主と一つになる
(17節)しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。

私たちが恵みの福音(この私の罪を赦すためにキリストは十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさった)を信じたとき、私たちは新しく生まれ、私たちの内に聖霊さまが住んでくださるようになりました。
そして、聖霊さまを通して、私たちは主イエスさまや父なる神さまと共にいます。私たちはイエスさまと一つになったのです。

イエスさまと一つになった私たちが、同時に遊女と一つになることは、霊的な矛盾でありイエスさまに対する背信行為です。
体に対する罪
(18節)淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

罪は心の中にあるものが体を通して外に現れます。殺人にしろ盗みにしろ暴言にしろ、人が犯す罪のほとんどで、体は道具として用いられます。

しかし、姦淫においては、体は単なる道具ではありません。キリストと一つになったはずの自分自身の体の尊厳も傷つけてしまいます。だから不品行を避けるようにと、パウロは強く勧めます。

ちなみに、この「避ける」という言葉は、「逃げる」というニュアンスの言葉です。族長ヤコブの11男であるヨセフは、エジプトで仕えていたポティファルの妻から誘惑されて上着をつかまれたとき、上着を脱ぎ捨てて逃げ出しました。その場面を思い出させます。

それくらい、不品行に誘う誘惑に警戒し、避けなければならないということです。

代価を払って買い取られたものとして

聖霊の宮
(19節)あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

先ほどパウロは、私たちクリスチャンがキリストの体の一部だという真理を思い出させました。そして、ここでは私たちが聖霊の宮、聖霊なる神さまが住まう神殿だという真理に目を向けさせます。

神殿は、私たち自身の持ち家とは違います。自分の家ならばどんな使い方をしても自由です。しかし、神殿は聖なる場所であって神さまのものです。ですから、神さまのみこころにかなう使い方をしなければなりません。
神の栄光を現す生き方
(20節)あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

さらにパウロは、私たちが救われ神さまの子どもとされたのは、イエスさまが身代わりの犠牲になってくださったからだと言います。

聖書は救いのことを「贖い」と呼びますが、この言葉には「買い戻す」という意味があります。私たちはイエスさまの命という代価によって、神さまに買い取られた存在です。
私たちは聖霊の宮であり、代価を払って買い取られた存在です。私たちは、体も含めてすべて神さまのものです。ですから、私たちはこの体を使って自分の欲望を満足させる生き方ではなく、神さまの栄光を現す生き方をしなければなりません。

「神さまの栄光を現す」とは、「神さまのすばらしさが今よりももっと、自分にも周りの人にも明らかになるようにする」という意味です。

それを私たちは自分の体を使って実現しようとパウロは言います。私たちが語る言葉、まなざし、身振り手振り、飲み食い、経済活動、人間関係など、あらゆる行動が、神さまのすばらしさを伝えるものになるように、ということです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.与えられた自由を正しく使おう

私たちクリスチャンは、モーセの律法に縛られていません。私たちは自由です。しかし、それは自分の欲望のままに行動して良いという意味ではありません。ここでは、私たちが自分の行動を選ぶための3つの基準を確認します。

有益かどうか

12節で、パウロは「すべてが益になるわけではありません」と語っています。私たちの行動の中には、有益なものと無益なもの、あるいはかえって有害なものがあります。私たちは有益な行動を選ぼうというのが一つ目の基準です。

では、有益とはどういうことでしょうか。
愛を実現するかどうか
聖書の別の箇所で、パウロは永遠に続く価値のあるものは愛であると教えています。

(第1コリント13:13)こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
私たちクリスチャンが人を殺したり、盗んだり、だましたりしないのは、モーセの律法のように決まりで禁じられているからではありません。また、それを行うと救いが取り消しになって永遠の刑罰を招くからでもありません。

そのような行為が人を傷つけ、悲しませる、愛に欠けた行動だからです。
神に愛されたゆえに
私たちは神さまによって一方的に愛されました。そして、私たちが罪の罰によって滅ぼされることがないよう、イエスさまの犠牲的な愛によって罪を赦してくださいました。私たちはまず神さまに愛していただきました。ですから、神さまや他の人のことも愛するのです。

(第1ヨハネ4:19)私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

神さまの愛を自覚すればするほど、私たちは他の人を愛するようになります。そして、他の人への愛が、私たちの神さまへの愛がどれほどかを証言します。

私たちの行動は、他の人への愛を実現しているでしょうか。もしも実現するどころか、相手を傷つけたり尊厳を損ねたりするものなら、ただちに行動を修正しなければなりません。
知恵も必要
もちろん、問われるのは「有益かどうか」です。愛の動機で行っているからと言えば何をしても許されるというものではありません。

私の好きな聖書の言葉の一つに、次のようなものがあります。

(箴言27:14)朝早くから、大声で隣人を祝福すると、かえって呪いと見なされる。

こちらは善意のつもりでも相手にとっては余計なお世話だったりするかもしれません。あるいは、「ほめられたい」とか「自分が得をしたい」といった自己中心的な動機が隠れている場合もあるでしょう。知恵を使って、自分の言動が本当に有益かどうかチェックする必要がありますね。

実は何かに支配されていないかどうか

またパウロは「私はどんなことにも支配されはしません」と語っています。

コリント教会の人たちは、自分たちは自由だと思っていました。しかし、実体は罪の奴隷状態です。あるときイエスさまは、「自分たちは誰の奴隷にもなったことがない」と主張する人たちに、次のようにおっしゃいました。

(ヨハネ8:34)イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。
やめられないなら支配されている状態
罪は依存症に似ています。依存症の人の特徴は、「自分はいつでもお酒を、あるいは薬物をやめられる」と言いながら、実際にはやめられないことです。私たち罪人も、罪の依存状態です。自由にその行動を選んでいるようですが、実際にはやめられないでいます。

飲酒それ自体を聖書は必ずしも禁じていません(イエスさまも飲酒なさいました)。しかし、お酒がなければイライラする、お酒がなければ眠れない、お酒がなければじっとしていられないとすれば、それはお酒に支配されている状態です。

それと同じように、間違った行動を自由に選んでいるようで、実は支配されそうしないではいられない状態になってはいないでしょうか。
部屋を片付けない息子
ある方の証しを聞きました。この方には高校生の息子さんがいます。そして、息子さんが自分の部屋を片付けないことに関していつもイライラしていました。

「片付けなさい」と口うるさく言うのに、息子さんはちっとも片付けません。そのうち、耐えきれなくなったこの方が代わりに掃除や整理整頓をしてやるのです。

あるとき、教会の婦人会でそのことを愚痴ったところ、リーダーがこのように言いました。「それは息子さん、片付けませんよ。だって、放って置いたらあなたが代わりに片付けてくれるんだもの」。
この方はハッと気づかれました。今まで息子のためだと思って手を出してきたけれど、これはかえって息子の自立を邪魔する無益な行動だった。

そしてさらに考えました。人を助け、親切にすること自体は素晴らしいことだ。しかし、本当は息子が自分でがんばるのを黙って見守っていられず、手を出してはいけないときに、あれこれと代わりにやってあげていたのはなぜだろう。

かわいそうになって黙って見ていられず、ついつい手を出してしまうのだとすれば、それはアルコール依存症と同じような依存状態だ。自立していなかったのは息子ではなく、私の方だった……。

この方は、婦人会のメンバーにそのことを話し、「黙って見守れない病」のいやしのために祈ってもらいました。それから、息子さんの部屋については口を出さないようにしたところ、ガールフレンドや友だちを家に呼ぶときには、息子さんなりに掃除や片付けをするようになったそうです。
支配されているものを手放そう
それがあればうれしいけれど、なくても結構うまくやっていける。それをできればうれしいけれど、できなくてもそれなりに楽しく生活できる。そういう自由を神さまは私たちに味わわせたいと願っておられます。

私たちの中に、知らない間に依存的になっているものがないでしょうか。だとすれば、それがどんなに社会的に認められているものであったとしても、私たちは手放さなければなりません。

神の栄光を現すかどうか

最後にパウロは、私たちは神さまの栄光、すばらしさを明らかにするような行動を取ろうと勧めます。その良いモデルはイエスさまです。

イエスさまは、ご自分を批判する人たちに対して自分で対抗して名誉を回復するのではなく、父なる神さまにさばきをお任せになりました。それによって、ご自分の栄光よりも父なる神様の栄光を優先させる生き方を示されました。

(ヨハネ8:50)わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、さばきをなさる方がおられます。
WWJD
以前もお話しした話ですが、1990年代に、バスケットボールなどのプロスポーツ選手やそのファンたちが、あるロゴの入ったブレスレットを付けるのが流行りました。そのロゴは「WWJD」、What Would Jesus Do?(イエスさまならどうなさるだろうか)の略です。
たとえばAの行動を選ぶか、Bの行動を選ぶか迷ったとき、「イエスさまだったら、どちらを選ばれるだろうか」と考える。

あるいは迷わず行動しようとしたときも、時々立ち止まって「本当にイエスさまだったら、この行動をなさるだろうか」と考えてみる。

それが結果として、神さまの栄光を現す行動につながります。

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