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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

みことばを味わう一年

新年礼拝2026

申命記11章13節~21節

(2026年1月4日)

死を前にしたモーセが、間もなく約束の地に入ろうとしている新世代のイスラエルの民に、聖書の言葉に触れ続けることの大切さを教えています。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

神さまは、私たちを幸せにしたいと願っておられます。しかし、せっかく与えられている祝福の権利も、それを実際に受け取ろうとしなければ自分のものになりません。

昨年も、年末ジャンボ宝くじが大盛況だったようです。ところが、一昨年の宝くじで1億円を超える高額当選を果たしながら換金されなかった当選宝くじが、1等前後賞合わせて10億円あったそうです。サマージャンボや各地で行われている宝くじを含めると、毎年100億円程が未換金のまま時効を迎えています。何ともったいない!

宝くじは置いておいて、この一年、私たちが神さまからの祝福を十分に味わうために必要な態度を教えていただきましょう。

1.祝福された人生のために

約束と警告

祝福の条件
(13節)もしわたしが今日あなたがたに命じる命令、すなわち、あなたがたの神、【主】を愛し、心を尽くし、いのちを尽くして仕えよという命令に、あなたがたが確かに聞き従うなら、

申命記の「申命」とは、(猿の命令という意味ではなく)「繰り返された命令」という意味です。
出エジプトの後、イスラエルにモーセの律法が与えられました。そして、40年たっていよいよイスラエルの民が約束の地に入る直前、死を前にしたモーセが荒野での生活を振り返り、改めて神さまのみこころを民に語り聞かせたというわけです。

13節は、イスラエルの民が祝福されるための条件を語っています。「【主】を愛し、心を尽くし、いのちを尽くして仕えよという命令」は、イエスさまがモーセの律法全体の要約であるとおっしゃった命令です。

(マタイ22:37-40)イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

モーセは、イスラエルが約束の地で神さまの祝福を味わうための条件をここで語っています。モーセの律法の要約と言える命令を守るよう語ることで、モーセの律法全体をしっかり守ることが祝福の道だと伝えようとしているのです。

と言っても、これは救いの条件ではありません。イスラエルは、モーセの律法が与えられる前から神さまによって神の民として選ばれていました。そして、神さまはイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から一方的に解放してくださいました。
そんな神さまに選ばれたイスラエルに、「私を信じ愛するなら、これだけは守ってほしい」と神さまがお与えになったのが、律法です。

ここで言う祝福とは魂の救いのことではなく、物理的な祝福のことです。イスラエルの民が律法に書かれた命令をしっかり守れば祝福が与えられ、無視すれば祝福を失うというのがモーセの律法です。
律法を守ると与えられる祝福
(14節)わたしは時にかなって、あなたがたの地に雨、初めの雨と後の雨をもたらす。あなたは穀物と新しいぶどう酒と油を集めることができる。

イスラエルの民がモーセの律法に従う生活を続けると、どんな祝福がもたらされるでしょうか。

イスラエル地方は、夏が乾季で冬が雨季です。雨期に入る10月末から11月頃の雨を「初めの雨」と言います。初めの雨は、畑に蒔かれた種を発芽させます。そして、雨期が終わる3月~4月にかけて降るのが「後の雨」です。この雨は刈り入れ前の実を成熟させてくれます。

つまり、14節は神さまが天候を守り、農作物を豊かに与えてくださることを約束しています。
家畜にも及ぶ祝福
(15節)また、わたしはあなたの家畜のため野に草を与える。あなたは食べて満ち足りる。

祝福は人間だけに及びません。イスラエルの民が飼っている家畜もおなかいっぱい食べ物を食べることができます。当時、家畜は財産の代表でした。家畜が食べるのに困らないということは、イスラエルの民が経済的に祝福されることを約束しています。
異教礼拝の禁止
(16節)気をつけなさい。あなたがたの心が惑わされ横道に外れて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。

モーセの律法は、ユダヤ教の律法学者によると613の命令からなると言われています。そのうち最初に語られた命令は、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出エジプト記20:3)です。
モーセは、イスラエルの民に最初の命令を意識させることによって、律法全体を守るよう促そうとしています。

また、異教礼拝禁止の教えを強調しているのは、これからイスラエルの民が入ろうとしているカナンの地の住民が、異教礼拝・偶像礼拝を行っていたからでもあります。彼らと接触することで、彼らの間違った宗教的態度を真似て異教礼拝・偶像礼拝に走らないようにという警告です。
律法を無視した場合の苦しみ
(17節)そうでないと、【主】の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざし、雨は降らず、地はその産物を出さなくなる。こうしてあなたがたは、【主】が与えようとしているその良い地から、たちまち滅び去ることになる。

神さまとモーセの戒めにも関わらず、モーセの後継者であるヨシュアが亡くなると、イスラエルの民は急速に堕落していきます。そして、異教礼拝・偶像礼拝にまみれるようになりました。

その結果、神さまからの祝福を失いました。17節で書かれているような飢饉だけでなく、外国人による攻撃や支配など様々な苦しみを味わうことになります。

神さまが神の民として選ばれたはずのイスラエルを苦しめるのは、イスラエルが神さまに見捨てられて神の民としての地位を失ったからではありません。苦しみによって、神さまはイスラエルの民の間違った態度を戒め、神さまのみこころにかなう生き方に戻ってほしいと願われてのことです。

(ヘブル12:5-6)わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。

みことばを刻みつけよ

しるしとして手と額に付けよ
(18節)あなたがたは、わたしのこのことばを心とたましいに刻み、それをしるしとして手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。

モーセは、律法を守るために神さまが自分を通して語られたみことばを、心と魂に刻みつけるよう勧めます。そして、そのしるしとして手に結びつけ、額の上に置くよう命じました。

この後半の命令は、「心とたましいに刻みつけよ」、すなわち「神さまの命令を繰り返し学んで忘れないようにせよ」という意味の、比喩的な表現です。

ところが、紀元前2世紀頃になると、ユダヤ人たちは18節後半の命令を文字通りに実行し始めました。祈る際に、律法の一節を入れた小さな箱を、革ひもで額と左腕に巻いたのです。これをテフィリンと呼びます。

伝統的なユダヤ教徒は、テフィリンの習慣を今も守っています。
テフィリンに関する参考資料テフィリンに入っている聖句は、以下の4箇所です。
  1. 出エジプト記13:1–10(初子の奉献と、エジプト脱出の記憶を留めること)
  2. 出エジプト記13:11–16(救出の奇跡を子孫に語り継ぐ義務)
  3. 申命記6:4–9(唯一の神への愛と、教えを刻むこと)
  4. 申命記11:13–21(神の命令に従うことへの祝福と、背いた時の警告)
なお、額の箱の中は4つの独立した部屋に区分されていて、上記の聖句を別々の羊皮紙に書かれたものがそれぞれの部屋に納められています。これは、五感や知性といった人間の多様な能力をすべて神に向けることを象徴しているとされています。

一方、腕の箱の中は区分されておらず、4つの聖句が1枚の羊皮紙に書かれたものが入っています。これは、神の唯一性を表すとされています。
子どもたちに教えよ
(19節)それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。

モーセは、ただ自分だけが聖書の言葉を学んで守るだけでなく、子どもたちにも教えなさいと命じました。聖書を学んで守る生活は、一代限りではなく代々受け継がれていかなければなりません。

しかも、単に言葉だけで教えるのではありません。19節の後半は、生活全般が子どもたちにとってみことばを教える教材になるべきだと教えています。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて、感謝しなさい」(第1テサロニケ5:15-16-18)と口で教えながら、実際の生活では愚痴や文句ばかりこぼしていては、みことばのすばらしさが相手に伝わりません。

つまり、私たちは言葉と行いによって他の人に神さまのみことばを伝えるのです。
戸口の柱と門に書き記せ
(20節)これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。

さらにモーセは、これ、すなわち律法の言葉を家の戸口の柱と門にかきしるせと命じました。家を出入りするたびに、律法を意識せよということです。

家の入口は私的空間と公的空間の境目です。そこを出入りするたびに聖書の命令を意識することは、個人の生活においても社会生活においても、聖書の命令を土台とした生き方をせよということを意味しています。

ただ、この命令についても、後のユダヤ人たちは文字通りに守りました。今イスラエルを旅行すると、ユダヤ人の個人宅やホテルの部屋の入口に、小さな箱が設置してあるのを見ることができます。この箱をメズーザーと呼びます。
メズーザーに関する参考資料この習慣は、紀元前1世紀にはあったことが分かっています。
現在用いられているメズーザーの中には、申命記6:4–9と申命記11:13–21が書かれた羊皮紙が納められています。ただ、古代のメズーザーにはモーセの十戒を納めたものも見つかっており、中身は時代によって変わっていったようです。

現代のユダヤ教徒は、家を出入りする際、メズーザーに指で触れてその指に口づけします。これは、「神の言葉を愛し、その教えを意識して生活する」ことを意味しています。モーセが意図したとおりの理解ですね。

ただ、イエスさまの時代のパリサイ人たちがそうだったように、形式を守ることばかり意識しすぎて、その形式が表している本当の意味を忘れてしまうと、それこそ意味がありません。これは、現代を生きる私たちクリスチャンも肝に銘じなければなりませんね。

みことばに触れ続ける目的

神の契約による祝福を実際に味わうため
(21節)それは、【主】があなたがたの父祖たちに与えると誓った地で、あなたがたの日数とあなたがたの子孫の日数が、天が地の上にある日数のように多くなるためである。

イスラエル民族(別名ヘブル人、あるいはユダヤ人)は、アブラハムの子イサクの子ヤコブの子孫です。神さまは父祖であるアブラハムを世界中の人たちの中から選び出し、彼と特別な契約(アブラハム契約)を結ばれました。

イスラエル民族が神さまの民であるのは、このアブラハムに基づきます。アブラハム契約にはさまざまな条項がありますが、特に大切なのが3つの約束です。それは、「子孫の約束」「土地の約束」「祝福の約束」と呼ばれています。
  • 子孫の約束:子どもがいなかったアブラハム夫妻に子どもが与えられ、子孫が星のように増える
  • 土地の約束:土地を持たず放牧生活を送っていたアブラハムとその子孫に、広大な土地が与えられる
  • 祝福の約束:アブラハムとその子孫は神さまに大いに祝福され、世界中の民もまたアブラハムとその子孫を通して祝福される
このアブラハム契約は、アブラハムの子イサクに引き継がれ、さらにその子ヤコブに引き継がれ、さらにヤコブの12人の息子たちに引き継がれました。イスラエルの民はヤコブの子孫であって、アブラハム契約の約束の当事者です。
モーセがこの後イスラエルの民を送り出そうとしている場所は、アブラハム契約でアブラハムとその子孫に与えると約束された土地でした。

イスラエルの民が、神さまの与えたモーセの律法を守るなら、契約に基づく祝福を自分のものとして味わうことができます。ところが、神さまと律法を無視した生き方を続けるなら、せっかく神さまが用意してくださっている祝福をもらい損ねてしまいます。ちょうど、換金されない当選宝くじのようなものです。

どれだけ律法を無視して罪深い生活を送ったとしても、神さまがイスラエルと結んだアブラハム契約を取り消しになさることはありません。神さまは、決してイスラエルを見捨てないのです。しかし、個々のユダヤ人が祝福を味わえるか、味わえないかは、それぞれ個人の生き方次第です。

だから、イスラエルの民よ。モーセが天に召され、約束の地に入った後も、律法に従い続けて神さまが約束された祝福を自分のものにしなさいとモーセは力強く勧めるのです。

それでは、ユダヤ人ではない日本人である私たち、現代日本に住むクリスチャンである私たちは、今回のモーセのメッセージから何を学ぶことができるでしょうか。

2.みことばを学び続ける一年としよう

みことばに触れ続けよう

聖書の言葉は人を造り変える
モーセは、みことばを額に置き、手に巻き付け、家の入口に刻みつけ、そして心と魂にしみ通らせるよう命じました。それは、神さまの教えに触れ続けることを表しています。

聖書の言葉を読む機会が増えれば増えるほど、聖書の言葉が私たちに強い影響を与えるようになります。

(ヘブル4:12)神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

(第2テモテ3:15-17)聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。 聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

聖書の言葉は、私たちの人生を根底から造り変える力を持っているのです。
自殺を思いとどまらせた聖書の言葉
ある宣教師の話を聞きました。

この方は、かつてセールスマンとして成功を収めていました。サーフィンの趣味があって、たくさんの仲間たちにその腕を認められていました。チャーミングなガールフレンドもいました。しかし、自分は生きる価値のない、ダメな存在だという思いから、どうしても抜け出ることができませんでした。

マリファナを吸ってみたり、様々な刺激的な遊びを行なったりもしましたが、開放感は一時的で、すぐに前よりも惨めな気持ちになります。

ついに彼は、もう死ぬしかないと思い、拳銃を取り出しました。そして、それで自分の頭を撃ち抜こうとしたのです。

しかし、そのとき、リモコンに触ってしまったのか、突然テレビのスイッチが入ります。画面には、地元の教会の礼拝のシーンが映りました。ちょうど、司会者によって聖書が朗読されているところでした。司会者の口からこんな言葉が流れ出てきました。

(イザヤ43:4)わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。

この聖書の言葉を聞いたとき、彼は拳銃を放り出し、「もしそれが本当なら、自分は生きることができる。もうしばらく生きてみて、それが本当かどうかを調べてみよう」と思いました。

そして、テレビに映っていた教会を探し出し、定期的に通うようになり、やがて自分の存在を受け入れ、愛することができるように変えられました。

神の御子であるイエスさまは、自分が身代わりに死んでも惜しくないほどに、この自分のことを大切に思ってくださっているということを知ったから、そして実際に十字架にかかって血を流してくださったと言うことを知ったからです。

聖書の言葉は、あなたも生かし、造り変えます。今年一年は、昨年以上に聖書の言葉を読み、触れ続けましょう。

みことばを実践し続けよう

モーセがイスラエルの民に、みことばに触れ続けるよう命じたのは、単に聖書についての知識を深めることを意味していませんでした。実際に神さまの命令を守ってほしいという願いがあります。
イエスさまは、いわゆる山上の説教のまとめとして、岩の上に家を建てる賢い人と砂の上に家を建てる愚かな人のたとえを語られました。この二人の分けているのは、イエスさまの言葉を聞いたかどうかではなく、聞いた上で実践するかしないかの違いです。

もちろん、聞いて行なう人が賢い人です。
牧師と石鹸屋
石鹸屋が、牧師と道で一緒になりました。石鹸屋が言いました。「ねえ先生。人間の歴史を見てると、信仰なんて何の役にも立たねぇって分かりますよ。キリストさんが生まれてから2000年もたつってのに、人間は未だに醜いまんまじゃねぇですかい」。

牧師はしばらく黙っていました。しばらくすると、子どもたちが道ばたで泥んこ遊びをしていました。牧師は言いました。「石鹸というのも何の役にも立ちはしないね。石鹸が発明されてからどれくらいの年月がたったか知らないけれど、あの子たちはあんなに泥んこだ」。

石鹸屋はあきれて笑いました。「先生、石鹸ってのは、使わなきゃ役に立たないんですぜ」。

牧師もにっこり笑って言いました。「うん、その通り。同じだよ、信仰も」。
実践しよう
この一年、熱心に聖書のみことばに触れると共に、教えられたことを実際に行ってみましょう。うまく実践できれば、私たちは多くの祝福を刈り取ることになります。

また、実践してみるとうまく行かないこともあるでしょう。しかし、みことばを実践した上での失敗は失敗ではありません。私たちは神さまの前に謙遜さを学び、ますます聖霊なる神さまに依り頼むようになります。そして、一方的に赦してくださる神さまの愛に感動し、感謝の思いが増し加わることでしょう。

実践してうまくいってもいかなくても、神さまとの愛の関係がますます深くなるのです。ですから、みことばを熱心に行う一年としましょう。

みことばを伝え続けよう

私は、大学では教育学を学んでいました。大学で学んだことで、特に印象に残っていることの一つは、「教えることは二度学ぶことである」という言葉です。牧師やカウンセリング・スクールの講師をさせていただくようになって、この言葉は本当だなあと思わされています。

人様に教えるためには、自分自身がよくその内容を咀嚼し、自分のものとしていなければなりません。また、偉そうなことを語りながら、自分自身の実体がそれに追いついていないことを思い知らされ、ますます自分自身を磨かなければと思わされます。

そして、教えた内容を実践した生徒さんの生活が具体的に変化するのを見て、あらためてそれが真理だったと、私自身思い知らされて励まされます。

教えるということは、それ自体が祝福なのです。
みことばを他の人に伝える
モーセは、自分だけが聖書を学んで実践するだけでなく、子どもたちにもみことばを継承するよう命じました。私たちも、他の人たちに聖書の言葉を伝えましょう。

礼拝メッセージや、日々のディボーションで学んだ聖書のことばを、ただ自分だけの祝福にしていらっしゃいませんでしたか? 他の人に分かち合ってみませんか? そうすると、10の祝福が100にも200にもなっていきます。

伝える相手は、教会のクリスチャンでもいいし、まだ教会に来ていないお友だちや家族でもいいでしょう。

その方法も、口で伝えることもできますし、手紙やメールで伝えることもできます。最近では、ブログなどを使って、不特定多数の人に伝えることも、簡単にできるようになりました。
今年、自分がみことばによって体験した祝福を、他の人に伝えることを実践しましょう。どんな人たちに、どんな伝え方ができるでしょうか。

今年一年、聖書の言葉を他の人に伝える一年としましょう。

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