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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

すべてのことを福音のために

コリント人への手紙シリーズ13

コリント人への第一の手紙9章1節~23節

(2026年1月25日)

使徒パウロは、どうして自分が教会から報酬を得る権利を行使せず、無給で奉仕するのかについて説明しています。

礼拝メッセージ音声

参考資料

続きを読む13節の、祭司にはささげものの一部を手に入れる権利を持つことについて、モーセの律法にも明記されています(民数記18:8-32、申命記18:1-5)。

14節は、イエスさまの「働く者が報酬を受けるのは当然だからです」という言葉を指しています(マタイ10:10、ルカ10:7)。

21節の「キリストの律法」は、役割を終えたモーセの律法に代わってクリスチャンに与えられた行動指針です。福音書でイエスさまが新約時代の教会に向けて語られた教えや、新約聖書の書簡などに記されている使徒たちの教えです。
特に、互いに愛し合うことが強調されています。
(ヨハネ13:34)わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ガラテヤ6:2)互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。
(ヤコブ 2:8)もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。

イントロダクション

今回も前回に引き続き、異教的な習慣や習俗が根強いこの日本にあるクリスチャンとして、どのように行動を選択していくか、その基準を学びましょう。

1.あえて権利を行使しなかったパウロ

パウロに与えられている権利

パウロの権利
1-12節で、パウロは自分には自由や権利が与えられていないのかと、コリント教会の人たちに語りかけています。

(3-6節)私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。私たちには食べたり飲んだりする権利がないのですか。私たちには、ほかの使徒たち、主の兄弟たちや、ケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、私とバルナバだけには、生活のために働かなくてもよいという権利がないのですか。

これらの質問は、「権利がある」という答えを想定したものです。

そして、兵士は国の費用で兵役に就くし、農夫は自分の畑で取れた作物を食べるし、羊飼いは自分の群れの羊の乳を飲むというたとえを用いて、伝道者が教会から生活や伝道活動のためのサポートを受けるのは当然ではないかと述べます。

さらに、聖書もそのことを教えているとパウロは言います。そして、9節で「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」という申命記25:4の言葉を引用しています。この律法の命令は、脱穀中の牛がこぼれた穀物を食べるのを許可するものです。
パウロは、神さまは牛のことを気にかけてこのような命令をなさったのかと問いかけます。そして、神さまは伝道者のことを気にかけてこのようにおっしゃったのだと解説しました。
祭司の権利
(13節)あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。

エルサレム神殿や異教の神殿で働く祭司や神官たちは、ささげものの一部を手に入れる権利を持っていました。モーセの律法にもそのことが明記されています(民数記18:8-32、申命記18:1-5)。
主イエスによる保証
(14節)同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。

伝道者が教会から生活のサポートを受ける権利を持つことについて、イエスさまもそれを保証しておられます。

イエスさまが十二弟子や72人の弟子を伝道旅行に遣わしたとき、行った先で信仰的な人を見つけてその家にとどまり、提供される生活必需品や食べ物を受け取るよう命じています。その際、イエスさまは「働く者が報酬を受けるのは当然だからです」とおっしゃいました(マタイ10:10、ルカ10:7)。

すなわち、パウロにはコリントの町にいたときに、コリント教会から生活や伝道活動の費用をサポートしてもらう権利があったということです。ところが……

権利を放棄するパウロ

パウロは権利を用いなかった
(15節)しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は権利を用いたくて、このように書いているのでもありません。それを用いるよりは死んだほうがましです。私の誇りを空しいものにすることは、だれにもできません。

パウロは、教会からサポートを受ける権利を用いなかったと語っています。むしろ、そうすることが自分の誇りであるとさえ述べています。

ハイリゲン作「アキラとプリスカ」
(画像引用:Bible History Daily)
ただし、それはコリント教会に限ってのことで、ピリピなど他の教会からのサポートは受け取っています。

(第2コリント11:8-9)私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給料を得たのです。あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした。マケドニアから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれたからです。私は、何であれ、あなたがたの重荷にならないようにしましたし、今後もそうするつもりです。

どうしてパウロは、自分に与えられている権利をコリントでは行使しなかったのでしょうか。それについては、19節以降で解説されています。
福音を宣べ伝えないではいられない
(16-17節)私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。

福音宣教のために、コリント教会から報酬を得ないというのはパウロの誇りでした。しかし、福音を宣べ伝えることそのものは、パウロの誇りにはなりません。なぜなら、伝道は自発的に行っているものではなく、神さまに使命として与えられたものだからです。

「そうせずにはいられない」と訳されている言葉は、「そうしたくてたまらない」というニュアンスではありません。直訳すると「義務が私の上にある」です。

それどころか、「福音を宣べ伝えないなら災いだ」とさえ語っています。この言葉を読んで、預言者エレミヤの独白を思い出しました。

(エレミヤ20:9)私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。

パウロは、福音を宣べ伝えてできるだけ多くの人を救いに導くことが、イエスさまが自分に与えた使命だということを強烈に意識していたのです。
パウロに用意された報酬
(18節)では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。

パウロは、自分に与えられている報酬は、教会からサポートを受けることではなく、むしろサポートを受けずに福音宣教を行うことだと述べています。なぜそれが報酬なのかといえば、そうすることこそパウロの誇りだったからです。

報酬を受けないことで、「自分は正しいこと、なすべきことを行なっている」という感覚を味わうことができます。そういった感覚は、「イエスさまに喜んでいただきたい」と強く願っているパウロにとって、何物にも代えがたい報酬でした。
では、なぜパウロは、他の教会からは報酬を受け取りながら、コリント教会からはサポートを受けなかったのでしょうか。

パウロの宣教戦略

自発的に奴隷になった
(19節)私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。

パウロには自由がありました。しかし、福音宣教によって多くの人を救いに導くために、あえて自由を捨てて奴隷になったと語っています。伝道のためなら、自分に与えられている自由、権利を捨てるとパウロは言います。
ユダヤ人にはユダヤ人のように
(20 節)ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。

イエスさまが十字架にかかられたとき、モーセの律法は役割を終えました。ですから、クリスチャンは、モーセの律法に従う義務はありません。

しかし、モーセの律法を大切にしているユダヤ人を救いに導くためなら、モーセの律法の教えに従ったライフスタイルを送るとパウロは言います。ユダヤ教の伝統に則ったライフスタイルを示すなら、相手の心理的な抵抗感が下がって、素直に福音の言葉に耳を傾けてくれるようになるでしょう。

たとえば、テモテはギリシア人の父とユダヤ人の母の間に生まれました。テモテがユダヤ人社会に教師として受け入れられるために、パウロはあえてテモテに割礼を受けさせました。また、モーセの律法の教えに従って、ユダヤの祭りを祝ったりナジル人の請願を行ったりもしています。

それらすべて、ユダヤ人を救いに導くためです。
異邦人には異邦人のように
(21節)律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。

クリスチャンはモーセの律法からは解放されていますが、新しく「キリストの律法」に従う者とされました。キリストの律法とは、具体的には新約時代の教会に向けてイエスさまが命じていらっしゃること、また新約聖書に記されている使徒たちの教えです。特に、愛の実践が強調されています。
ただ、民族としてはパウロはユダヤ人であり、20節で述べたようにモーセの律法に基づくユダヤの伝統的な生活習慣を守っていました。しかし、異邦人と共にいるときは、パウロはユダヤ的な決まり事や生活習慣にこだわらず、相手の文化に合わせて行動しました。

たとえば、ユダヤ教の伝統では、ユダヤ人が異邦人と一緒に泊まったり飲食を共にしたりすることを禁じています。しかし、パウロは異邦人と平気で食事をしました。また、異邦人が入信した際に割礼を強制していません。

それは、できるだけ多くの異邦人を救いに導くためです。
弱い人には弱い人のように
(22節)弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。

「弱い人」とは、8章で取り上げた、信仰に関する知識に乏しい人のことです。8章では、偶像にささげた肉を食べて良いかどうかが議論されました。偶像など存在しませんから、偶像の神殿にささげられた肉をクリスチャンが食べても問題ありません。

しかし、そのような知識を持っていないクリスチャンの前で食べると、その人をつまずかせて信仰の成長を邪魔することになりかねません。そのような場合には、肉を食べる自由を放棄して、あえてその人の前では肉を食べません。これもまた、伝道のためです。

先ほど、パウロはピリピなど他の教会からは報酬を得ていたのに、コリント教会からは受け取ろうとしなかったと述べました。それは、コリント教会の人たちを、ある意味で弱い人たちだと見なしていたからです。

コリントはピリピよりも迫害が少なく、また経済的に裕福な町でした。それだけに富に執着するクリスチャンがたくさんいたと思われます。また、パトロンから報酬を受け取って人々に教えを説く哲学者がたくさんいました。

そこで、無報酬で奉仕することによって、パウロは救いが神さまからの無償のプレゼントだということを示すと共に、報酬目的で働いているという非難を受けないよう注意していたのです。第2コリント12:16を見ると、そこまで配慮しても、なおパウロを詐欺師扱いする人がいたようですが。

行動原則

あらゆることを福音のために
(23節)私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。

パウロは、自分の行動が福音宣教に役立つかどうかいつも注意していました。それは16-17節で述べたように、福音宣教が彼に与えられた使命だからです。

そして、それと同時に、他の人に福音を宣べ伝え、人々が救いに導かれることによって、自分自身も福音の恵みを共に受け取ることができるからだとパウロは言います。たとえば、
  • 他の人が救われているのを見ると、自分がイエスさまによって一方的に愛され、選ばれ、救い出された喜びを再体験できる。
  • 愛するイエスさまのために忠実に働けているという喜びを体験できる。
  • 将来、神の国において与えられる祝福が増し加えられるという希望を味わうことができる。
これこそ、18節で語られている「福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない」という報酬です。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.福音宣教につながる行動を選ぼう

キリスト、聖書、教会に近づける

人が救われるためには、イエス・キリストの恵みの福音を信じる必要があります。恵みの福音とは、「この私の罪を赦すためにイエス・キリストは十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさった」ということです。

ですから、私たちはあらゆる機会を用いて、イエスさまのことを知らない人たちにイエスさまのことを紹介していく必要があります。
また、イエスさまは、聖書についてこうおっしゃいました。

(ヨハネ5:39)あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。

聖書についてほとんど何も知らない家族や友だちに、聖書についてほんの少しでも興味を持ってもらったとしたら、それは大きな伝道の一歩です。

そして、教会はキリストの体であると聖書は教えています(12:27、エペソ1:23)。自分一人でイエスさまや救いや聖書について説明できなくても、教会の礼拝式や他の集会、イベントなどに誘うこともまた、伝道の大きな一歩です。

私たちの行動が、人をキリスト、聖書、教会に近づけるかどうか。それを私たちの行動基準にしましょう。

具体例:焼香の問題

前回、偶像にささげられた肉について解説しましたが、仏式葬儀における焼香についてはどうでしょうか。知識の面で言えば、偶像など存在しないのですから、焼香それ自体が偶像礼拝の罪だとは言えません。

ただ、そういった知識のない人もいますから、私たちが平気で焼香する姿をその人に見せることでその人をつまずかせる危険について配慮する必要があります。事前にその人と話をして誤解の可能性を消しておくとか、その人の前では焼香を避けるとかいった対応が必要でしょう。
伝道のために焼香しない選択をする
また、今回のテーマに絡んで、伝道のためにあえて焼香をしないという選択もできます。焼香しないことによってクリスチャンの死生観と、一般の日本人の死生観が違うということを示せるからです。

世の人たちと全く同じ生活をしていたら、迫害やトラブルは起こらないかもしれませんが、伝道も成立しません。クリスチャンがまだ信じていない人と何か違うところがあるからこそ、人は救いに興味を持ち、伝道が成り立つのです。

そういうわけで、私自身は基本的に焼香しないようにしています。
焼香しないと伝道に逆効果?
一方で、焼香しないと「クリスチャンは死者を冒涜している」とか「先祖を大切にしない」とか思われて、伝道の妨げになるという意見もあります。確かにその恐れはあります。

ただ、普段から、親戚や近所の人に「自分はクリスチャンだから、葬儀があったときには焼香はしないけれど、死者を悼んだり先祖に感謝を表したりするために、代わりに聖書の神さまに遺族の慰めのために祈らせてもらいますね」というようなことをPRしておくことで、悪く思われる危険もかなり回避できるでしょう。

また、そうすることで、実際の場で焼香せず、代わりにキリストの名によって祈ることの意味が、人々に伝わるようになるのです。
祈ってから参加する
ただし、事前によくPRできないときもありますね。そんなときに役立つのが祈りです。

私の大学の後輩が、卒業してわずか3年で亡くなったときがそうでした。お通夜はアパートで行なわれ、ご遺族が遺体のすぐそばにいらっしゃいますので、焼香しないとかなり目立ちます。他の人たちは、ご遺族に頭を下げてから焼香し、手を合わせていました。

私は心の中で神さまに祈りました。「自分がどう振る舞ったら良いか教えてください。そして、自分の振る舞いによって、遺族が慰められ、イエスさまのことを少しでも証しできるチャンスとなりますように」と。
すると、私の一つ前の順番の人が、亡くなった後輩の指導教授だった人で、故人のお母さんや奥さんと後輩の思い出話を始めました。私は「私もご遺族と話をしていいんだ」ということに気づかされました。

そこで、私の順番が来たとき、ご遺族に向かってお悔やみの言葉を述べた後、こう申し上げました。「私はクリスチャンで、焼香はできませんが、代わりに皆さまの慰めのためにお祈りさせていただいてよろしいですか?」

お母さまがお願いしますとおっしゃったので、声を出して祈りました。すると、お母さまも、そして結婚したばかりの奥さまも、涙を流して感謝してくださいました。

その後お目にかかっていませんが、他のクリスチャンが伝道しようとしたとき、ほんの少しでも好印象を持ってもらえるきっかけになっていたらと願います。

すべてことを福音のために

私たちの一挙手一投足は、この世の人たちに見られています。意識しすぎて萎縮してしまうことがあってはなりませんが、願わくは、私たちの生き方を通して、人がほんの少しでもイエスさまや聖書や教会に近づき、いつの日にか救いを体験してくださいますように。

すべてのことが伝道につながるのですから、場合によっては、失敗や弱さもまた用いられます。大切なことは、(私たちではなく)イエスさまのすばらしさが伝わることです。

私たち自身も、先輩クリスチャンの方々のさりげない生き方を通して、救いに近づいたはずです。

この話をお読みください。
私の家内は、高校生の頃に教会に通うようになりました。といっても、礼拝式にではなく、最初は教会付属の英会話教室からです。英会話には喜んで通っていましたが、信仰の話に関しては、ちょっと距離を取っていたようです。

そんな彼女が、自分もクリスチャンになりたいなあと思った出来事がありました。4才くらいの牧師の娘が、ドアを開け閉めして遊んでいました。ガラスのドアでしたし、家内は「危ないなぁ」と思っていました。と、その女の子は、何かの拍子に、ドアの横に置いてあったポットを倒してしまったのです。

「あっ!」と小さく叫んで、牧師の奥さんが飛んでいきました。この時、家内の頭の中には、次に起こるであろう出来事のシナリオができあがっていました。

「ダメじゃないのっ、ドアで遊んだりしちゃっ!」と、このお母さんは娘を叱りつけ、「やけどするから、どいてなさい!」と厳しく追いやってから、ぶつぶつ言いながら、ポットからこぼれたお茶を拭き取る……。そんなシナリオです。

ところが、実際に起こったことはそうではありませんでした。奥さんは娘をぎゅ~っとだきしめると、「怖かったねぇ、びっくりしたねぇ」と頭をなでたのです。

家内は、頭を殴られたようなショックを覚えました。この対応は一体何だろう。この奥さんは、普通のお母さんとどこか違う。そして、自分も将来こんなお母さんになりたい。そう思いました。そして、礼拝式や祈祷会にも出席するようになり、やがて信じてクリスチャンになりました。

私たちのほんの些細な言動に、人々はイエス・キリストの姿を見出します。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
今度は私たちの番ですね。

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