本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

霊的アスリートの心得

コリント人への手紙シリーズ14

コリント人への第一の手紙9章24節~27節

(2026年2月1日)

競技とアスリートにたとえて語るパウロの教え。朽ちない冠を目指す節制と、キリストのさばきの座に備える生き方を分かりやすく解説します。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

前回・前々回、クリスチャンは自由が与えられているけれど、愛や伝道のために、あえて自由を放棄することが求められるということを学びました。そのため、パウロは厳しい生活を送ることもありましたが、どうしてそのようなことができたのでしょうか。

今回は、私たちが今なすべき霊的な努力を考えていきます。そして、その努力の先にどのような報酬が待っているかを教えていただきましょう。

1.賞を得るための節制

アスリートに用意された賞

賞を得られるように
(24節)競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。

今週6日に、ミラノ・コルティナ冬季オリンピックが始まります。オリンピックの起源は、古代ギリシアのオリンピアで4年に一度行われていた競技祭です。ギリシアでは、オリンピックの他にも3つの競技祭がありました。デルポイ、ネメア、イストモスの大会です。

(画像引用:Wikipedia)
そのうち、イストモスはコリントのすぐそばにあったため、コリント教会の人たちにとってはおなじみの競技祭でした。
  • イストモス競技祭で行われた競技は、短距離走、ボクシング、レスリング、パンクラチオン(目潰しと噛みつき以外何でもありの総合格闘技)、競馬、四頭立て戦車競技、音楽、詩歌。
パウロは、クリスチャンも競技祭に出場するアスリートが賞を目指して懸命に走るように、賞が得られるよう努力せよと語りかけます。
キリストのさばきの座
ここで、私たちクリスチャンに用意されている賞に関係して、「キリストのさばきの座」についてお話ししておきます。

(第2コリント5:10)私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

将来のある日あるとき、「携挙」と呼ばれる出来事が起こります。その時までに死んでしまったクリスチャンたちが復活し、また生きているクリスチャンも復活の体と同じ栄光の体に変えられて、共に空中に引き上げられる出来事です。

その時、イエスさまに出迎えられたクリスチャンたちは、天のパラダイスに入れられて、イエスさまの再臨の時、すなわち千年王国が実現する時を待ちます。

そして、クリスチャンたちが天に入った直後、キリストのさばきの座が置かれ、クリスチャンたちがイエスさまによるさばきを受けます。といっても、罪に対する刑罰を決定するためのさばきではありません。
  • 第2コリント5:10の「悪」は、罪ではなく「無価値なもの」という意味です。たとえば、多くのパリサイ人たちがそうであったように、ほめられるために行なった善行などがこれに当たります。そのような行為は、評価の対象にならず、報酬につながりません。
キリストのさばきの座で行われるのは、地上での生涯がどれほど神さまのみこころにかなうものだったかを査定するためのさばきです。そして、忠実さに応じて、やがて実現する千年王国で味わう祝福が決められます。

千年王国は、戦争も天変地異も無く健康に生活できますから、そこに入るだけでも大変な祝福です。キリストのさばきの座で約束される祝福は、追加で与えられる祝福ということです。
報酬
では、千年王国でどんな報酬をいただけるのでしょうか。

まず、イエスさまからの「よくやった。良い忠実なしもべだ」という称賛とねぎらいの言葉です(マタイ5:21)。これは、イエスさまを愛する私たちにとって、何ものにも優る喜びです。

そして、黙示録2:17では「隠されたマナ」が与えられると約束されています。これは、この世が決して与えることができない満足感のことです。

同じく黙示録2:17では、「新しい名が記された白い石」が与えられるとも約束されています。これは、イエスさまと個人的な親しい交わりが与えられることを指しています。全世界の大王であるお方と、その他大勢の中の一人ではなく個人的に交流できるというのは、大変な特権ですね。

また、黙示録20:4や6では、クリスチャンや旧約時代の信者たち、また携挙後に救われて大患難時代に殉教した人たちが、イエスさまと共に王として地上を治めることが約束されています。千年王国の祝福は、左うちわでふんぞり返るためのものではなく、大きな責任のある仕事を任され、ワクワク感や充実感を味わわせていただけるということなのです。

こうしたすばらしい賞を手にするために、必要な努力を積み重ねようとパウロは薦めます。

オリンピックやイストモス競技祭で賞をもらえるのは、その競技で一番になった人だけです。しかし、クリスチャンが神さまによって与えられる賞は、人数に関わりなく、イエスさまに忠実な生き方をした人なら誰でも手に入れられる可能性があります。

アスリートが行う節制

朽ちない冠を得るための節制
(25節)競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

パウロは、キリストのさばきの座で決定し、千年王国で与えられる報酬のことを、競技の優勝者に与えられる冠にたとえています。

古代オリンピックでは、優勝者にはオリーブの枝と葉で編んだ冠が贈られました。イストモス競技祭では、松の葉で作られた冠です。当然ですが、時間がたつと枯れてしまいます。しかし、キリストのさばきの座で約束される報酬は、決して朽ちることがありません。
聖書の中には、信者に与えられる朽ちない冠が、他に4つ挙げられています。
望み・喜び・誇りの冠
(第1テサロニケ2:19) 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。

伝道によって人を救いに導いた人に与えられます。
正義の冠
(第2テモテ4:8)あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。

再臨を待ち望む信仰を保ち続けた人に与えられます。
いのちの冠
(ヤコブ1:12)試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。

試練を耐え忍び、イエスさまに忠実に従い続けた人に与えられます。
栄光の冠
(第一ペテロ5:2-4)あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。 割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。

ゆだねられた信者たちを誠実に養い育てた指導者に与えられます。
アスリートの節制
オリンピックは4年ごとの開催ですが、イストモス競技祭は2年ごと(オリンピックの前後の年)に行われました。そして、参加するアスリートは、10カ月間の訓練を行います。その間、厳しい鍛錬、食事制限、禁欲生活を課されました。
クリスチャンが将来賞を得るような生き方をするには、やはり節制に努めなければなりません。

そのことについて、パウロは自分自身を例に挙げて説明します。

パウロの生き方

パウロがしないこと
(26節)ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。

ここでパウロが伝えようとしているのは、目的意識をしっかり持つことです。

アスリートは参加する競技で優勝することが目的です。そして、その目的を達成するために必要な行動を逆算で挙げていき、それらに取り組んだのです。
パウロがすること
(27節)むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。

「打ちたたく」と訳されている言葉は、直訳すると「目の下を打つ」です。ボクシングでパンチを食らわすという意味ですね。また、「服従させる」という言葉には、「奴隷にする」という意味があります。

ここでパウロが伝えようとしているのは、目的達成のためには犠牲がつきものだということです。目的達成に役立つことに集中するために、役に立たない行動は手放すという強い決意が必要です。

たとえばマラソン競技で勝つためには、好きなだけ食べたり飲んだりしてよいわけではありません。たとえ苦しくても、食べたいものを我慢したり内容を調整したりする必要があります。また、休みたいという欲求を抑えて、走り込みを行う必要もあるでしょう。
特にパウロは伝道者また牧会者でした。他の人に「自分の欲望に忠実な生き方ではなく、イエスさまに忠実な生き方をしよう」と宣べ伝えておきながら、自分がその教えに反する生き方をするわけにはいきません。自分の欲望を抑えて、自分の体をイエスさまの奴隷としてささげるとパウロは言います。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

パウロは、クリスチャンをアスリートにたとえました。アスリートは、栄冠を得るために様々な努力をします。霊的なアスリートである私たちは、天国ですばらしい栄冠をいただくために、どんな努力をする必要があるでしょうか。

2.私たちが行うべき努力

神のみこころを知る努力

クリスチャンは、毎日聖書を読み、あるいは週ごとに他のクリスチャンと共に集まって聖書の学びをします。

また、他のクリスチャンたちと交わることで、他の人がどのように神さまのみこころを理解しているかを知ろうとします。

そして、折に触れて祈りを捧げますが、ただ単に自分の願いを神さまに聞いてもらうだけの祈りではなく、神さまが自分に何を求めているのかを聴く、沈黙と傾聴の祈りも心がけましょう。

神さまのみこころをよりよく知るために、あなたがさらに実践したり工夫したりした方がいいことは何ですか? それを実践しましょう。

みこころを実践する努力

みこころを知ったならば、それを実践します。ユダヤの文化において、単に頭で知っているというのは知っていることになりません。実践的な知識こそ、まことの知識です。

たとえば、聖書の中には「自分で復讐してはならない」とか「敵を愛し、敵のために祝福を祈りなさい」とかいう命令があります。それがイエスさまのみこころです。しかし、本当の意味で知っているというのは、自分で復讐せず、敵のために実際に祝福を祈ることです。
今まで行ったことがないことをやろうとすると、慣れていないために失敗するかもしれません。他の人から馬鹿にされたり、邪魔されたりするかもしれません。自分でも、こんなことをやっても意味がないと思うかもしれません。

あなたには、神さまからこれをするようにと促されているけれど、実践を躊躇したり、あきらめたり、反発したりしていることがありませんか? 実践を邪魔しているのは、どんな壁ですか?

それでも何度も何度もチャレンジし続けることによって、その行動が自分の一部となっていきます。フィギュアスケートの選手が、何度転んでも4回転アクセルに挑戦し続けるように、私たちもあきらめないでやり続けましょう。

みこころにかなわないものを捨てる努力


1日は24時間しかありません。同時に2つの場所にいることもできません。何かをすることを選ぶということは、それは同時に何かをしない選択をすることでもあります。


神さまのみこころがよく分からないときは、とりあえず神さまのみこころとは言えないだろうなと思うことを手放してみることです。もしかしたら、自分はこれまで価値のないことに時間やエネルギーやお金を使ってきたなあとびっくりするかもしれません。

あなたには、神さまのみこころにかなわないと感じるものが何かありますか? それを手放してみましょう。
捨てるものの例
たとえば、趣味を楽しむこと自体は罪ではありません。むしろ、適度な楽しみを持つことは活力を生み出すために必要不可欠です。しかし、生活が苦しくなるほどお金をかけすぎたり、仕事や家族と過ごす時間に影響が出るほどのめり込んでしまったりするのは問題ですね。

食事や間食、お酒なども、体の健康を損ねるほど取ってしまうのは問題です。

ある人は、噂話が大好きな友人との交流を控えるようにしました。自分もついつい巻き込まれて、他の人の陰口を叩いてしまいそうになるからです。

別の人は、「ほめられたい」「認められたい」という思いを捨てることにしました。

あなたには、神さまからこれを手放すようにと促されていることが何かありますか? そうすることに躊躇しているとしたら、それはなぜですか?
無駄なものを捨てる効果
何かを手放したり捨てたりするのはつらいことです。

しかし、無駄なものをそぎ落としていくと、本当にしなければならないことに集中したり、ゆっくり休んでパワーを蓄積したり、成長のための勉強や訓練をしたりすることに、十分なエネルギーや時間を注ぎ込むことができるはずです。ぜひ思い切って手放してみましょう。

まとめ

たとえ目立たなくても、天国において認められるような優れた霊的アスリートとして、日々修練していきましょう。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com