(2026年2月8日)
試練や誘惑に直面したとき、どう乗り越えればよいのでしょうか。コリント人への手紙10章から、神が備える「脱出の道」と、聖霊の助けにより罪に勝利する秘訣を解説します。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
日々の生活の中で、思わぬ困難や誘惑に心が揺れ動くことはありませんか。「自分は大丈夫」と思っていても、ふとした瞬間に足元をすくわれるような弱さを、私たちは誰しも抱えているものです。
本日のメッセージでは、コリント人への第一の手紙10章を通して、失敗したイスラエルの民を「反面教師」として、現代を生きる私たちが注意すべきポイントを学びます。神さまが約束なさった「耐えられない試練はない」という言葉の意味、そして必ず備えられているという「脱出の道」とは、具体的にどのようなものなのでしょうか。
1.罪の誘惑についての警告と約束
イスラエルの故事
葦の海を渡ったイスラエル
(1節)兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。
パウロは、「私たちの先祖」について語り始めました。これは出エジプトを経験したイスラエル民族のことです。
イスラエルがエジプトを出ると、エジプト軍が追撃してきました。前は葦の海、後ろはエジプト軍という危機的な状況で、神さまは海を真っ二つに裂いて、イスラエルがその間を通って向こう岸に渡れるようにしてくださいました(出エジプト記14章)。
そして、後からついてきたエジプト軍は、元に戻った海水に飲まれて全滅してしまいます。
さて、エジプトを脱出したイスラエルの陣営には、昼は雲の柱、夜は火の柱が立ち上っていて、その中に神さまが臨在しておられました。そして、雲や火の柱が動いてイスラエルの民を導いたのです(出エジプト記13:21-22)。
エジプト軍がイスラエルを葦の海に追い詰めたとき、イスラエルの前を進んでいた雲の柱が後ろに移動して、エジプト軍がイスラエルに近づけないようにしてくれました。そして、イスラエルは安全に海の中にできた道を進んだのですが、左右は水の壁、後ろは雲の柱という状態です。
しかも、ユダヤ教の伝承によると、このときの雲はイスラエルの頭上にも広がって、まるでイスラエルを包み込んで守るかのようになっていたようです。これが「私たちの先祖はみな雲の下にいて」、また次の節の「雲の中」という意味です。
モーセにつくバプテスマ
(2節)そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、
パウロは、イスラエルの民が雲と水の壁に囲まれた状態を、洗礼になぞらえています。
洗礼には「一体化する」という意味があります。そして「~につく」と訳されている言葉(ギリシア語のエイス)は、「~の中に」とか「~への」という方向性を表す前置詞です。ですから、モーセにつくバプテスマとは、モーセと一体化する洗礼という意味ですね。
イスラエルの民は、葦の海を渡るという経験をすることによって、モーセのリーダーシップのもとに一つの民として結ばれました。
同様に、パウロは私たちクリスチャンがイエスさまにつくバプテスマを受けたと語っています。
(ガラテヤ3:27)キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
私たちクリスチャンは、イエスさまと一つになりました。ですから、イエスさまが死んで復活なさったように、罪人であった私たちは死んで、神さまの子どもとして新しく生まれたのです。
天からのマナ
(3節)みな、同じ霊的な食べ物を食べ、
出エジプトを果たしたイスラエルですが、荒野では食べ物を調達できません。そこで、神さまは毎日天からマナと呼ばれる不思議な食べ物を降らせてくださいました(出エジプト記16章)。
「霊的な」と書かれていますが、これはマナが神さまによって与えられたものだということが強調されています。葦の海でイスラエルを守り導いてくださった神さまは、食べ物の面でもイスラエルを守ってくださいました。
岩からの水
(4節)みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。
同様に、神さまはイスラエルに飲み水も与えてくださいました(出エジプト記17章)。レフィディムという場所には水がありませんでしたが、神さまに命ぜられたモーセが岩を杖で打つと、水がほとばしり出ます。
また、イスラエルが40年間の荒野生活の終わりに、カデシュという場所にとどまっていたときも、同じように岩から水が出ました(民数記20章)。
なお、ユダヤ教の伝承では、この2つの箇所に書かれている岩は同じ岩です。レフィディムで水を出した岩が、その後イスラエルと一緒に移動したと考えられているのです。カデシュでモーセの姉ミリアムが亡くなった直後に水がなくなったことから、この岩は「ミリアムの井戸」と呼ばれています。
パウロはこの伝承を元にして語ったので、4節で「彼らについてきた霊的な岩」と呼んだのです。ここでも、「霊的」と書かれており、水が与えられたのが神さまからの恵みによることが強調されています。
イスラエルへのさばき
(5節)しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
1節から4節で、繰り返し「みな」という言葉が使われていることに注目しましょう。イスラエルの民は、全員が同じ出エジプトや荒野での体験を共有しました。彼らはみんな、すばらしい特権が与えられ、すばらしい祝福を味わったのです。
にもかかわらず、出エジプトを経験した世代のイスラエルの民のうち、ほとんどが約束の地に入ることなく荒野で死んでしまいました。例外はヨシュアとカレブの2人だけです。モーセでさえも、不信仰をとがめられて約束の地に入ることができませんでした。
私たちへの教訓
戒めのための実例
(6節)これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。
出エジプトや荒野での生活に関する聖書の記録は、私たちへの教訓だとパウロは言います。イスラエルの民の多くは、神さまからさまざまな祝福を与えられたにもかかわらず、罪を犯してさばきを招きました。
今を生きる私たちは、それを教訓ととらえ、自分自身が悪に手を出さないように注意しなければならないとパウロは言います。
偶像礼拝に陥るな
(7節)あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。
7節~10節で、パウロは過去のイスラエルの民が犯した罪を挙げながら、そのようになってはならないとコリント教会の人たち、そして私たちを戒めます。
この7節では、出エジプト記32:6を引用しながら、偶像礼拝に陥ってはならないと戒めます。
不品行に陥るな
(8節)また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。
次にパウロは、民数記25章に書かれているさばきについて述べました。イスラエルの民はモアブ人の娘たちと淫らなことを行います。また彼女たちが自分たちの信じる神にいけにえをささげて宴会を催すと、イスラエルの民は誘われるがまま宴会に参加し、偶像礼拝を行いました。
その結果、神さまは疫病によって罪を犯したイスラエル人をさばき、多くの人が死んでしまいます。
パウロは、それを教訓として不品行を避けるようにと戒めました。
キリストを試みるな
(9節)また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。
それからパウロは、民数記21:4-9に記されている出来事を引用しました。イスラエルの民は、毎日毎日マナばかり食べる生活に嫌気がさし、モーセに「どうして我々をこんなところに連れてきたんだ」と文句を言いました。
そのため、神さまはさばきとして燃える蛇、すなわち毒蛇を送られます。そして、噛まれた人たちがたくさん死んでしまいました。
パウロは、不平を鳴らしたイスラエルの民の行為を、「キリストを試みる」と表現しています。キリストを試みる、あるいは神を試みるという表現は、次のような態度を指しています。
- 不信仰による疑い:既に経験した神の恵みと力を無視し、神の約束を信じないで、「本当に神は私たちを愛しているのか」「神は本当に助けてくれるのか」と疑い、繰り返し証明を求めること
- 恵みへの不満:神が既に豊かに与えてくださっているものに感謝せず、さらなる証拠や奇跡を要求すること
- 挑発的な態度:「もし神が本当に○○なら、××してみせろ」という傲慢な姿勢を示すこと
パウロは、私たちはそのような真似をしてはならないと戒めています。
不平を鳴らすな
(10節)また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。
最後にパウロは、イスラエルの民が不平を言った出来事について取り上げます。これはおそらく、民数記14章や16章に書かれている出来事が念頭にあると思われます。
イスラエルの民は、エジプトの苦しい奴隷状態の中で、神さまに助けを求めました。その祈りに応え、神さまはモーセをリーダーとして立てて出エジプトを果たしてくださいました。
ところが、厳しい荒野での生活に嫌気がさしたイスラエルの民は、不平不満を並べ立てます。そして、モーセに向かって「どうして我々をこんなところに連れてきたのだ。エジプトで暮らしていた方がよかったのに」と責め立てます。
このような神さまの恵みを忘れて文句を言う態度に対して、神さまはさばきを行われました。その結果、たくさんの人が死んでしまいました。
パウロは、我々は神さまの恵みを忘れて文句を言うのではなく、感謝をささげようと訴えているのです。
私たちへの教訓のため
(11節) これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
ここまで、イスラエルの民のさまざまな失敗について見てきました。そういった記事を読んで「イスラエルの民はしょうがないなあ」とあきれてはなりません。イスラエルの民の失敗は、私たちへの教訓なのだとパウロは言います。
私たちは彼らを反面教師として、偶像礼拝や不品行の罪を避け、いつも神さまの恵みに感謝し、全身全霊でイエスさまのみこころに従い続けなければなりません。
倒れないよう気をつけよ
(12節)ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
イスラエルの民は、全員が神さまの恵みを体験しました。そして、エジプトの奴隷状態から解放していただき、葦の海を渡る奇跡を体験し、食べ物や飲み水を与えていただきました。しかし、全員が約束通りカナンの地に入れたわけではありません。
といっても、罪を犯して死んだイスラエル人が霊的な救いを失ったわけではありません。イスラエルが経験したさまざまなさばきは、罪を犯さず、神さまを信頼し従い続けるようにという神さまからの教育的指導の一環です。
私たちクリスチャンも、罪を犯すと救いが取り消しになるということはありません。それでも、罪を犯して悔い改めないと、神さまとの親しい関係が損なわれてしまいます。神さまはあらゆる祝福の源ですから、神さまとの関係がおかしくなると、私たちは本来味わうことができるはずの平安・喜び・感動・希望といった祝福を味わい損ねてしまいます。
愛である神さまは、私たちがそのような状況にならないように、罪を犯して悔い改めないでいると、苦しみを与えてショック療法で悔い改めに導こうとなさいます。
この箇所でパウロは、罪を犯すと救いが取り消されるぞと脅しているのではありません。「自分は立っている」すなわち「自分は大丈夫だ」とおごり高ぶることの危険を指摘しているのです。
特に、コリント教会の人たちは、自分たちには知恵があると言って誇り、分派を作って他のグループの人たちを見下していました。そんな彼らに、そして私たちに向かって、パウロは「倒れないよう気をつけなさい」と注意します。
私たちは、自分もまた罪の誘惑に負けてしまうかもしれない弱い存在だということを自覚し、謙遜に神さまの守りを祈り求め続けなければなりません。
私たちへの励まし
試練と共に脱出の道が備えられる
(13節)あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
パウロは単なる警告で終わらず、希望と励ましを提供します。
ここで「試練」と訳されている言葉ですが、「誘惑」と訳すこともできます。さまざまな困難を味わうと、サタンや悪霊たちは「苦しみから助けてくれない神はお前を愛していない。そんな神なんか信じるのをやめろ」と誘惑してきます。
また、不品行を始めとするさまざまな快楽がやってくると、サタンや悪霊たちは「ほら、神に従うよりも自分の欲望に忠実に生きた方が幸せだぞ」と誘惑してきます。
苦しみにしても快楽にしても、サタンの目から見れば誘惑ですが、神さまの目から見れば私たちの信仰が本物であるかテストする試練です。そして、神さまは意地悪な方ではありませんから、私たちが解けないようなテスト問題を出すお方ではありません。
どんな誘惑でも試練でも、神さまの許可なしには私たちを襲ったりしません。それが起こることを神さまが許可なさったのであれば、私たちがそれを乗り越えて神さまを信頼し続け、従い続けることができると神さまが思われたということです。
しかも、「試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」と保証されています。罪に誘う誘惑の中でも、神さまはそれに勝利する力を与えてくださいます。私たちは弱くても、私たちの内に住む聖霊さまは、悪魔よりも強いのです。
ですから、聖霊さまに助けを求め、守り導いていただくとき、私たちは罪の誘惑に勝利することができます。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.罪を離れ、きよさにおいて成長しよう
罪を離れる
私たちは、問題や苦しみを抱えたり、物事が何をやってもうまくいかないというときがあったりしますね。そんなとき、何でもかんでも自分の罪のせいだと考えるのは誤りです。
しかし、時々立ち止まって、神さまからの注意喚起じゃないかなと考えてみましょう。何か思い当たることはありませんか?
そして、これまでに神さまのみこころに反した結果、痛い目に遭った経験があるならば、それをいつも忘れないようにしましょう。そして、二度と同じ失敗を繰り返さないように注意し、自分の生活を正しましょう。
もちろん、神さまは赦しの神であり、恵みの神ですから、何度失敗してもやり直しさせてくださいます。しかし、だからといって、そのたびに痛い目に遭うというのはつらいですから、失敗を繰り返さないように注意しましょう。
みこころを実践する
ロバート・シュラーという牧師がおもしろいことを言っています。曰く「すばらしい畑とは、雑草の一本も生えていない畑のことではなく、豊かに実を結ぶ畑のことである」。
罪を犯さないようにということばかり考えていると、心が萎縮してしまいます。神さまは私たちをおびえさせたいわけではありません。
神さまは、あなたのことが大好きで、自由や平安や感動を与えたいと願っておられます。罪を犯さないようにとおっしゃるのも、それが私たちの幸せを台無しにするからです。
教育的指導としての苦しみは、神さまの愛が取り去られた結果ではありません。むしろ、神さまの愛の表れです。
ですから、「どうしたら怖い神さまに叱られないか」ではなく、むしろ「どうしたら大好きな神さまに喜んでもらえるか」というふうに考え、実践しましょう。
聖霊の助けを求める
しかし、私たちは不完全であり、弱いものです。私たちの内側には罪の性質があって、神さまに逆らう方向に傾いています。ですから、自分一人の決心や努力だけでは、どうしても神さまのみこころに反した生き方しかできません。
だからこそ、イエスさまの十字架によって、一方的に罪を赦していただかなければならなかったのです。
そして、イエスさまを信じたとき、私たちの心の中には、聖霊なる神さまが住んでくださいました。そして、一瞬一瞬私たちを造り変えてくださっています。
私たちだけでは、なかなか罪への誘惑には勝てません。だからこそ、聖霊さまの助けが必要です。「自分は立っている」「自分は大丈夫だ」と高ぶらず、謙遜に聖霊さまの助けを祈り求めましょう。
罪に誘惑されているなと感じたら、聖霊さまの助けを求めましょう。それだけでなく、何でもないときにも、聖霊さまの導きと守りを求める祈りをしましょう。それにより、私たちは罪に誘う誘惑に打ち勝ち、神さまを信頼し続け、従い続けることができます。
そして、ヨシュアやカレブのように、神さまに従い通して、約束された祝福を余すところなく味わうことができます。