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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

礼拝時のかぶり物

コリント人への手紙シリーズ17

コリント人への第一の手紙11章1節~13節

(2026年2月22日)

礼拝時のかぶり物についての教えは、時代や文化を超えた「神の栄光を現す」という原則の表れです。男女の役割と平等、仕えるリーダーシップについて聖書から学びます。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

今回のテーマは「礼拝時のかぶり物」です。一見すると、現代の私たちには無関係に思える内容かもしれません。しかしパウロがコリント教会に語ったこの教えの核心は、かぶり物そのものではありません。

今回の箇所を通して、文化の違いを超えて問われている原則は何でしょうか。それを知ることで、私たちは自分の行動を確信を持って選択することができるようになります。

1.礼拝時の男女のかぶり物について

導入

私に倣う者であれ
(1節)私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。

パウロは、8章から10章にかけて、偶像にささげた肉をクリスチャンが食べてよいかという問題を取り上げました。
そして、クリスチャンの行動基準を上げてくれています。
  1. 聖書に基づく知識……聖書が直接銘じたり禁じたりしていないことは、基本的に自由
  2. 他の人への愛……他の人の信仰の成長を邪魔せず、むしろ役立つ行動を選ぶ
  3. 福音宣教……伝道に役立つ行動を選ぶ
  4. 悪霊の誘惑に対する警戒……いつの間にか悪霊の影響を受け、罪に誘惑されないよう注意する
そして、まとめとして次の言葉を語りました。

(10:31)こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

「神の栄光」とは、「神さまがどのような方であるか、そのご性質や偉大さが、目に見える形で現れること」を指します。ですから、「神の栄光を現す」とは、神さまのすばらしさが、今よりももっと自分や周りの人に分かるようになる行動をするということです。

食べるとか飲むとか些細な行動においても、天の父なる神さまやイエスさまに注意を向けさせ、そのすばらしさに感動するような行動を選びましょう。パウロはそのように勧めます。

そしてパウロは、改めて愛の原則と福音宣教の原則を強調しました。

(10:32-33)ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。

そして、そんな自分の生き方を見習って生活するようにと、パウロはこの1節で語りました。これは、11章で語ろうとしている礼拝式でかぶり物を被るかどうかという話題への繋ぎの言葉でもあります。礼拝の時の身だしなみにおいても、これまで語ってきた行動原則に従って判断するべきだということです。
コリント教会への称賛
(2節)さて、私はあなたがたをほめたいと思います。あなたがたは、すべての点で私を覚え、私があなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを堅く守っているからです。

具体的な指導の前に、パウロはまずコリント教会の人たちをほめました。彼らは、パウロが伝えた教えを守っていました。

ただ、これから取り上げる礼拝式でのかぶり物の問題については、パウロも、アポロなど他の教師たちもまだ伝えていなかったようです。

礼拝時のかぶり物問題

それぞれのかしら
(3節)しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。

ここでパウロは、権威の序列について話し始めました。まず父なる神さま、そしてイエスさま、それから男性、女性という順番です。

ただし、この序列は存在価値の差ではありません。女性が男性よりも価値が低くて劣っているということではないのです。

それは、父なる神・子なるキリスト・聖霊なる神の間に価値の差がないのと一緒です。ただ、子なる神であるイエスさまは、父なる神さまを「父」と呼んで、父なる神さまのご計画と命令に忠実に従う立場を選ばれました。古代において、子どもは父親に従うのが当たり前でした。

人間の男女もそれと同じで、価値の差ではありません。
男性のかぶり物
(4節)男はだれでも祈りや預言をするとき、頭をおおっていたら、自分の頭を辱めることになります。

この時代のローマ人の男性は、異教の神々を礼拝するときに頭に布を被りました。

最高神祇官でもある初代ローマ皇帝アウグストゥスの像
(画像引用:WIKIMEDIA COMMONS)
コリントという町はローマ帝国の影響を強く受けていましたから、クリスチャンの男性が礼拝の時にかぶり物をすると、偶像礼拝に関係しているというふうに見られる恐れがあったのです。

そこでパウロは、クリスチャンの男性が礼拝の時にかぶり物を着けないよう勧めるために、4節の言葉を語りました。

もっとも、 この時代のユダヤ人の男性は、神さまに祈るとき、肩にかけていた布を頭に被りました。これは、神さまと一対一の個人的な対話をすることを表しています。と言っても、モーセの律法の教えに従ってのことではなく、当時の慣習でした。

ですから、礼拝の時に男性がかぶり物を着けることそのものが問題なのではありません。コリント教会においては、異教礼拝との違いを明らかにするためにかぶり物を禁じているのです。これは偶像にささげた肉と同じです。

偶像にささげた肉を食べることそのものを聖書は禁じていません。しかし、食べることで他の人の救いや信仰の成長を妨げる恐れがある場合には、その人の前で肉を食べないとパウロは言いました。礼拝の際のかぶり物においても、同じ基準で判断します。
女性のかぶり物
(5-6節)しかし、女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになります。それは頭を剃っているのと全く同じことなのです。女は、かぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭を剃ることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。

一方、女性については礼拝の時にかぶり物を着けるべきだとパウロは言います。ただ、これもまたあらゆる教会でそうだということではなく、コリント教会に限った命令です。男性のかぶり物の場合と同様、コリントという町の文化的な特徴と関係があるということです。

コリントには異教の神殿があって、そこにはたくさんの神殿娼婦がいました。また、町の中にも遊女たちがたくさんいました。これまでも触れましたが、コリントという町は性的に奔放な町で、「コリント人のように振る舞う」という言い回しは、「不品行な行いをする」とか「売春・買春をする」とかいう意味の婉曲表現でした。

そして、一般の女性たちが人前に出るときには、頭にかぶり物を着けているのに対して、遊女たちは着けていませんでした。

つまり、当時のコリントの文化的な背景では、女性がかぶり物を着けないで人前に出ることは、非常にきわどい格好、性的なアピールをしているような姿に見えるものでした。それは、髪の毛を剃ってしまうのと同様、当時の多くの女性にとって恥ずかしいことのはずです。

だからパウロは、コリント教会での礼拝の際は、女性は男性と違ってかぶり物を着けるように勧めているのです。
創造の秩序
(7-9節)男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。また、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです。

さらにパウロは、礼拝の際のかぶり物の問題について、創造の秩序からも説明しようとしています。

まず神さまが人間の男、アダムを創造しました。土の塵で形を作り、そこに神さまご自身の息を吹き込んで生きたものとなさったのです。それから、アダムの助け手(パートナー)として、アダムのあばら骨を用いて人間の女、エバを創造なさいました。

男性は、神さまの栄光を現すため、すなわち自分が神さまに所属し、神さまに忠実に仕える存在だということを表現するために、礼拝の時にかぶり物をすべきではないとパウロは言います。

それにより、聖書の神さまは、人間が勝手に作り出した生きていない偽物の神々とは違う存在だということを表現できるからです。

一方、女性が人前でかぶり物をすることは、自分が男性の助け手として創造されたことを表現します。特に夫がいる既婚女性が人前でかぶり物をしないことは、当時のコリント人の感覚では、夫を辱める行為でした。夫の尊厳を守るためにも、女性は人前でかぶり物を着けるものでした。

繰り返しますが、これは女性の価値が男性より低いという意味ではありません。創造の秩序を重んじることで、自分が神さまの権威に従うものだということを表現するという意味です。
御使いたちのため
(10節)それゆえ、女は御使いたちのため、頭に権威のしるしをかぶるべきです。

天使たちは、私たちの礼拝に注目しています。神さまが正しくあがめられる礼拝であるかどうか、そして秩序が保たれているかどうか。秩序を保ちながら、心からの礼拝がささげられているとき、神に仕える天使たちは大喜びします。

だから、そんな天使たちのためにも、女性たちは権威のしるしとしてかぶり物を着けなさいとパウロは言います。

教えのまとめ

男女の価値の平等
(11-12節)とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。

パウロは、女性の方が男性より劣っているという誤解を避けようとしています。女性エバは男性アダムのあばら骨から作られたが、男性もまた女性なしにはこの世に生まれてくることはできません。

大切なことは、どちらが偉いかではなく、男も女も神さまによって創造されたということです。ゆえに、男も女も神さまを愛し、神さまに従い、神さまの栄光を現します。かぶり物を着けるか着けないかという問題は、その一つの表現だということです。
自分で判断せよ
(13節)あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。

パウロは、礼拝の時にかぶり物を着けるかどうか、自分で判断しなさいと語っています。これは、かぶり物をするかしないかは、普遍的な教えではなくそれぞれの土地の文化が関係する事柄だからです。

14-15節でパウロは、「男が長い髪をしていたら、それは彼にとって恥ずかしいことであり、女が長い髪をしていたら、それは彼女にとっては栄誉なのです」と語っています。

しかし、コリントやローマ以外の文化圏、たとえば当時のケルト人やゲルマン人は男性でもロングヘアでしたし、ユダヤ人の男性も「ナジル人の誓い」をする際は髪の毛を剃らずに伸ばしました。

現代の日本でも、ロン毛の男性やショートヘアの女性はたくさんいます。そして、それぞれ恥ずかしいと自分で思っていないし、他の人たちから思われてもいません。
1世紀のコリントにおいては、パウロは「男性はかぶり物を着けず、女性はかぶり物をせよ」と言いましたが、現代の日本においては当然異なる判断ができるのです。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.キリストに仕える者だということを表現しよう

神の栄光を現そう

今回のパウロの指摘は、実はかぶり物自体の話ではありません。

偶像にささげた肉に関する議論の最後に、パウロは「食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と言いました(10:31)。これは、礼拝する際の身だしなみについても同じです。

そして、それは食事や身だしなみに限りません。あらゆる場合に、私たちがどのように振る舞えば、聖書の神さまのすばらしさがより明確になるか考えて行動しようということです。
増田牧師の証し
実は、私はこの第1コリント10:31のみことばを通して、伝道者になる決断をしました。当時は大学4年生で、すでに故郷の小学校教師になることが決まっていました。しかし、このみことばを説教者から聞いたとき、自分は何のために教師になるのか考えさせられました。

そして、自分自身の生活の安定のためだったり、教室の中で子どもたちに対して支配的に振る舞えるという動機だったりすることが示されました。自分は、神さまに仕えることを一番にしなければならないと感じ、伝道者への道を歩み始めたのです。

もちろん、伝道者になることだけが神さまに仕える道ではありません。ただ、私の場合にはそのような強い促しを感じたということです。

私たちの行動一つ一つが、神さまのすばらしさを表すものかどうか、考えながら選択しましょう。

神に仕えよう

特にパウロは、今回のかぶり物に関する議論の際、権威について語っています。父なる神・キリスト・男性・女性という権威の序列があるということです。

もちろん、何度も繰り返していますが、これはどちらが偉くてどちらが劣っているかということではありません。本来父なる神さまとイエスさまは同格のはずですが、イエスさまは父なる神さまを尊重し、その計画や命令に忠実に従う道を選ばれました。

男性であれ女性であれ、大切なことは聖書の神さまに忠実に従うことです。

イエスさまの時代のパリサイ人や祭司たちは、表面的な格好や行動にばかり気を配り、内面の信仰をないがしろにしていました。たとえば、人にほめられるために施しや祈りをしたり、悔い改めの心が伴わない犠牲をささげたりといった行動です。

神さまを愛し、神さまに仕え、神さまの命令を守ることが、私たちの一挙手一投足の土台になっているでしょうか。それを意識しながら生活していきたいですね。

人に仕えよう

今回の箇所で、パウロは男性が先に創造され、女性がその助け手として創造されたという話を持ち出し、「だから女は頭に権威のしるしをかぶるべきだ」と語ります(10節)。

もちろんパウロは、「女性はただ黙って男性に隷属していればいい」というような、男尊女卑の思想を語っているわけではありません。また、女性はリーダーに向かないということを教えているわけでもありません。

聖書を見ると、立派な女性のリーダーも登場します。たとえば、
  • プリスキラはパウロとともに伝道の最前線で働いていました。
  • フィベはケンクレヤ教会の執事(役員)であって、パウロは彼女を高く評価していました。
  • デボラは士師としてイスラエルを導きました。
  • 他にも女性の預言者たちが活躍しました。
本来父なる神さまと同格であるイエスさまが父なる神さまに従われたように、あえて女性が男性の助け手となる道を選ぶのです。
妻は夫に従えとは
この点について、パウロは別の箇所でよりはっきりと語っています。

(エペソ5:22)妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。

私が結婚する前、当時私が通っていた教会に、牧師であり結婚カウンセラーでもある柿谷正期先生がいらっしゃって、夫婦関係についての講演をしてくださいました。そして、「妻は夫に従え」という聖書の言葉について、こんな解説をなさいました。
夫婦を議会にたとえるなら、夫も妻も1票ずつの投票権を持った議員であり、夫にはさらに議長権も与えられている。

だから、最初はそれぞれに意見を述べて、充分に話し合いをしなければならない。

しかし、最終的に議決の時になり、両者の意見が対立した場合には、夫が議長として投じる1票が最終判断となる。

たとえば、台所の壁紙の色を決める夫婦会議を行なうとする。妻は落ち着いたベージュがいいと言い、夫は華やかなピンクがいいと主張した。

まずはじっくりお互いの意見を述べ、相手の話に耳を傾ける。それで決まればよし。決まらなければ、投票は1対1で同数なので、議長、すなわち夫が改めてもう1票を投じる。

ここで、できた夫なら「我が家では、妻が主に料理を作ってくれている。台所にいる時間は僕よりも妻の方が長い。だったら、妻の好みを優先させよう」と考えて、ベージュにもう1票を投じるかもしれない。

しかし、あくまでも夫がピンクを主張するなら、妻はそれを受け入れる。そして、いったん決まったらもうぶつぶつ言わない。

すると、壁紙を貼り替えて何日かたって、夫がこんなことを言う。「やっぱり、ピンクは落ち着かないなあ」。そんなときでも、妻は「だから言ったでしょう!」などと文句を言ってはいけない。
(画像引用:柿谷カウンセリングセンター)
これが従うということだ、と柿谷先生はおっしゃいます。
夫へのより厳しい命令
もちろん、だからといって夫が好き勝手にしていいということにはなりません。選んだ結果について、それが良いものでも嫌なものでも責任も負わなければならないからです。その覚悟もなく、ただ「黙って俺に従え」というのは通用しません。

また、自己中心的な目的で議長権を使うことも許されません。パウロも語っているとおり、「男のかしらはキリスト」(3節)なのですから、イエスさまが命がけで愛しておられる妻や家族を無視した、自分の都合や欲望だけを優先するようなリーダーシップを取れば、キリストがその間違いを厳しく正されるでしょう。

「妻は夫に従え」と教えている聖書は、夫については次のように命じています。

(エペソ5:25)夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

つまり、妻のために死ねと言っているのです。「妻は夫に従うべきだ」と言いたいのなら、妻が安心してリーダーシップを託せるような夫になれと神さまはおっしゃいます。ああ、耳が痛い!

そして、これは夫婦や男女の間だけでなく、あらゆるリーダーシップに当てはまることです。聖書が教えるリーダー像は「仕えるしもべ」です。

(マルコ10:43)しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
仕えるしもべとして振る舞うとは、具体的にどういう行動をすることでしょうか。今週も、それを意識しながら毎日を送りましょう。

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