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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

御霊の賜物

コリント人への手紙シリーズ19

コリント人への第一の手紙12章1節~13節

(2026年3月8日)

御霊の賜物聖霊の賜物)はなぜ与えられるのか。コリント人への手紙から、賜物の目的・種類・見つけ方を学ぶとともに、あなたがこの地上でどう生きるかを考えます。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

テレビアニメ「アンパンマン」のテーマソングの冒頭で、次のように歌われています。
なんのために生まれて なにをして生きるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ!
(「アンパンマンのマーチ」作詞:やなせたかし)
私たちクリスチャンには、一人ひとり生きる意味、地上で果たすようゆだねられている使命があります。それを見つけて実践するとき、私たちの人生には大きな充実感や喜びが生まれます。

今日は、コリント人への第一の手紙12章から、私たち一人ひとりの生きる意味や使命を教えていただきましょう。

1.御霊の賜物に関するコリント教会の問題

聖霊による救い

新しいテーマ:御霊の賜物について
(1節)さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。

パウロは、コリント教会の中にあったさまざまな問題について、これまでこの第一の手紙の中で指導してきました。ここで新しいテーマに移ります。それは「御霊の賜物」(あるいは「聖霊の賜物」)と呼ばれているものについてです。

御霊の賜物とは、聖霊なる神さまがクリスチャン一人ひとりに与えてくださる、奉仕のための特別な能力のことです。どんな賜物があるかについては、以下の資料をご覧ください。 聖書中に解説がない場合には、教会の歴史の中でどのように解釈されてきたのか、また実際にどのような現象が起こってきたかということを参考にしました。

牧師や学者によっては違う解説をする場合もありますが(たとえば、知識のことばなど)、重要なことはそれぞれの言葉の意味を確定することではなく、「聖霊さまは、教会の中で様々な奇跡や働きをさせてくださっている」ということです。
御霊の賜物を表すギリシア語
なお、御霊の賜物を表すギリシア語は2種類あります。プニューマティコーンとカリスマタです。前者の語源はプニューマ、すなわち霊です。そして、後者の語源はカリス、すなわち恵みです。

4節以降はカリスマタが用いられますが、1節で用いられているのはプニューマティコーンの方です。「霊的な」というニュアンスが強調されているのですね。ですから、1節の「御霊の賜物については」をより正確に訳すと、「霊的な現象については」になるでしょう。

ここから想像できることは、コリント教会は霊的な現象、たとえば奇跡とか幻とかいった神秘的な現象をことのほか重視していたということです。そして、それが何らかの問題を引き起こしていたのです。そこで、パウロがその問題について指導しようとしているのですね。
かつてのコリント教会員
(2節)ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。

コリント教会の人たちの多くは、ユダヤ人ではなく異邦人でした。ですから、パウロが訪れて伝道するまで、彼らは異教の神々を礼拝していました。
異教礼拝は自分の意思で行っていたかのように見えます。ところが、実は「誘われるまま」「引かれていった」のだとパウロは言います。

異教の神々はものを言えない、すなわち生きてはいません。しかし、異教の背後にはサタンと悪霊たちがいて、人間をまことの神さまへの信仰から引き離そうとしているのです。

かつてのコリント教会の人たちは、そんな悪霊たちの惑わしによって異教の神々を拝んでいましたが、今やその惑わしをはねのけ、まことの神さまを信じる者となりました。
聖霊による救い
(3節)ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

私たちは、恵みの福音を信じる信仰によって救われます。すなわち、「この私の罪を赦すためにイエス・キリストが十字架にかけられた。そして、死んで葬られ、3日目に復活なさった」ということが真実だと信じる信仰です。

そして、私たちがそのような信仰を持つ背後で、聖霊なる神さまのお働きがありました。私たちは自分の意思で信じたように見えますが、実は神さまが私たちを選び、導いてくださったのです。悪霊たちによって異教礼拝に導かれていたのと同じですね。

そして、聖霊さまの導きによって救われたという事実が、私たちの救いを確かなものにしています。私の信仰深さによって救われたのなら、私の信仰が揺らいでしまったら、私の救いも取り消しになってしまうかもしれません。

ここでもパウロは、コリント教会の人たちの意識を、自分たちのすばらしさにではなく聖霊なる神さまに向けさせようとしているのです。

霊的な現象、神秘的な現象は、異教においても見られました。大切なのは、不思議な現象が起こることではなく、その現象が聖霊さまによって起こったものなのか、悪霊たちによって引き起こされたのかということです。

コリント教会の人たちは、神秘的な現象に目を奪われていました。しかし、本当に意識しなければならないのは、聖霊なる神さまのお働きです。

御霊の賜物

多くの賜物と一人の御霊
(4節)さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。

ここからパウロは、多くのものと一つのものを対比させていきます。まず取り上げているのは、聖霊の賜物は多くあるけれど、それを与えてくださるお方はお一人だということです。
多くの奉仕と一人の主
(5節)奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。

御霊の賜物は、神さまと人とに仕えるため与えられる能力です。たとえば、
  • いやしの賜物を与えられた人は、病気や怪我をしている人をいやすことにより、苦しんでいる人を助けます。
  • 伝道の賜物を与えられた人は、他の人を救いに導いて、人を救いたいと願っておられる神さまやすでに救われた人たちの願いを実現します。
  • 分け与える賜物が与えられた人は、自分の財産をささげることによって、教会や伝道団体の活動を助けたり、困窮している人の生活を支えたりします。
  • 芸術の賜物が与えられた人は、音楽や美術によって神さまのすばらしさを表現し、他の人たちの礼拝の想いを増幅させます。
このように、奉仕の場はたくさんあります。しかし、私たちがお仕えする神さまはただお一人です。
多くの働きと一つの働き
(6節)働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。

賜物を用いた働きはたくさんあります。しかし、どれも神さまのために、神さまのみこころに添って行われます。そして、賜物は神さまが与えてくださったものです。ですから、クリスチャンが行うさまざまな働きは、どれも究極的には神さまの働きです。
賜物が与えられる目的
(7節)皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。

パウロは、聖霊さまがクリスチャン一人ひとりに賜物を与えてくださる目的を語っています。それは、「皆の益となるため」です。

特定個人がほめたたえられるためではありません。他の人と比較して見下すためでもありません。教会全体、そして教会に属する一人ひとりの人生がより良くなるためです。

コリント教会の人たちは、この点を見失って、神秘的な現象ばかりを追い求めていたのでしょう。そして、哲学的な知恵を誇って他の人たちを見下したのと同じように、神秘的な現象を引き起こす人たちが傲慢になって他の人たちを見下していたのでしょう。
奇跡的な賜物の例
(8-10節)ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

ここでは、特に神秘的・奇跡的な賜物が列挙されています。コリント教会の人たちがことさらに尊んだ賜物です。

一つの御霊と一つのからだ

賜物はみこころによって与えられる
(11節)同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。

コリント教会の人たちは、派手で目立つ賜物を尊びました。いやしや異言、預言など奇跡的な賜物、あるいは伝道者や牧師などリーダーシップの賜物です。

しかし、ここに挙げられていない賜物による働き、たとえば目立たない慈善活動を行ったり、他の人の働きを裏で支えたり、教会活動のための事務的な管理を行ったりといった目立たない働きもまた、聖霊なる神さまが与えてくださったすばらしい能力です。

ですから、どれが優れていて、どれが劣っているということはありません。
キリストの体である教会と各部分であるクリスチャン
(12節)ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

聖書は、教会をキリストのからだにたとえています。そして、私たちクリスチャンは、目とか耳とか手とか足とかいった体の部分です。からだのどのパーツも、不要なものは何一つありません。すべて体にとって必要であり、大切な存在です。
そのことを、パウロは21-27節ではっきりと宣言しています。

目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。


ですから、教会員同士が、誰が上だの下だのといって比較したり、差別したりするのは大きな間違いです。
一つの御霊により
(13節)私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。

与えられている賜物の違いだけでなく、人種も、また社会的地位も、差別や比較の理由になりません。

なぜなら、あらゆるクリスチャンは同じ聖霊さまによって救われ、聖霊のバプテスマを受け、教会に加えられたからです。そして、すべてのクリスチャンが聖霊さまを内に宿しているからです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.御霊の賜物が与えられている目的を理解しよう

神と他の人に仕えるため

今回の箇所で、パウロは「賜物は聖霊さまによって与えられているものである」ということを何度も強調しています。

もし賜物が、自分自身の努力によって手に入れたものだったら誇ることもできるでしょう。しかし、賜物は文字通り聖霊さまからの一方的なプレゼントなのですから、自分に賜物が与えられていることを人間が誇ることは許されません。
聖霊さまの働きなしには、誰一人イエス・キリストを信じることができないのですから(3節)、奇跡を行ったりリーダーシップを発揮したりするような目立つ賜物が与えられていようといまいと、みんな聖霊さまの働きの内にいます。

ある特定の賜物、奇跡系やリーダーシップ系の賜物が与えられているからといって、その人が格別優れたクリスチャンだということにはなりませんし、目立たない賜物だからといって劣っているわけでも、神さまにそれほど重んじられていないということにもなりません。

むしろパウロは、目立たない賜物を発揮して仕えている人こそ、かえって注目されるべきだと語っています(23節)。イエスさまもまた、本当のリーダーは他の人に仕える人だとおっしゃいました(ルカ22:25-26)。

賜物は他の人に仕えるために与えられたのですから、決して傲慢になったり、目立つ働きをしている人ばかりをヒーロー扱いしたりしてはいけません。私たちは神さまと人とに仕えるしもべだということを忘れずにいましょう。

クリスチャンの使命を果たすため

賜物は奉仕のために与えられると学びました。クリスチャンには、様々な使命が与えられています。そして、この地上で、様々な奉仕の働き、すなわち神さまと神さまが愛しておられる人々のために仕える働きをするように期待されています。

これは、賜物が与えられていようといまいと同じです。先ほど紹介した賜物のリストに挙げられていることは、すべてのクリスチャンに与えられている使命と関係しています。

たとえば、伝道者の賜物が与えられていようといまいと、私たちクリスチャンは、他の人に対してイエスさまを証しし、伝道しなければなりません。ただ、伝道者の賜物が与えられている人は、与えられていない人と比べると、未信者がすぐその場でイエスさまを信じる頻度が高いでしょう。

私たちは、賜物のあるなしに関わらず、病気の人がいれば神さまに祈ります。その祈りが答えられて、奇跡的ないやしが起こることがあります。しかし、いやしの賜物が与えられる人が祈ると、より高い確率ですぐその場でのいやしが行われるでしょう。
私たちは、預言の賜物が与えられていなくても、聖書を通して語られている神さまのみこころを、他の人に向かって語ります。それによって他の人を励ましたり、誤った行動を指摘したりするのです。しかし、預言の賜物が与えられている人は、より具体的な状況に合わせて、よりクリアに、神さまのみこころを語ることができます。

同様に私たちは、賜物のあるなしに関わらず、傷つき沈んでいる人がいれば、慰めの言葉、励ましの言葉をかけます。分け与える賜物や慈善の賜物がなくても、献金をしたり、困っている人のためにお金や体力や時間を捧げたりします。音楽の賜物がなくても神さまをほめたたえます。

そして、賜物が与えられている人は、それをより効果的に、より大規模に、あるいはより質的に深く行なうことが可能です。
その道のエキスパートになるため
聖霊の賜物とは、クリスチャンに与えられている様々な神さまの働き(ミニストリー)のうち、一つ、あるいはいくつかを、より効果的に行なうことができるように与えられるものです。すなわち、聖霊の賜物は、あなたをその道のエキスパートにするために与えられます。

私たちクリスチャンは、みんなミニストリーをする者たちです。賜物がないからとか、自分に与えられている賜物が分からないからとかいうのが、伝道しない言い訳、いやしを祈らない言い訳、慈善のわざを行なわない言い訳にならないようにしましょう。
賜物の見つけ方
自分に与えられている賜物がなんなのか知りたければ、クリスチャンとして与えられている使命を積極的に実践してみることです。

賜物のリストを眺めてみてください。これらはすべてあなたがこの地上でしなければならないことと関係しています。

この中で、あなたが得意なものは何ですか? あるいは、それをやっているととても充実すると感じるものは何ですか? それを是非しなければという思いにさせられるのは何ですか? それは聖霊の賜物と関係していると考えられます。それをさらにさらに神さまが磨いてくださり、豊かな実を結ばせてくださるよう祈りましょう。
自分に与えられている賜物がよく分からないという人は、とりあえず何でもやってみましょう。賜物は奉仕のための能力なのですから、いろいろやってみて初めて自覚できるようになります。

教会として働きを行うため

パウロは教会をキリストのからだにたとえ、一人ひとりのクリスチャンをからだの各部分にたとえました。御霊の賜物は、キリストのからだの各部分に特別な能力を与えることで、その部分らしさを引き出しています。

目には見る能力が与えられているので、目としての役割を果たせます。耳には聞く能力が与えられているので、耳としての役割を果たせます。御霊の賜物と一人ひとりのクリスチャン、そしてキリストの体である教会の関係もそれと同様です。

そして、目は目だけで存在できず、耳も耳だけで存在できません。体の一部となって初めて力を発揮できます。クリスチャンも、一人で神さまのお働きを遂行することはできません。教会につながり、他のクリスチャンたちと助け合いながら、教会全体として神さまの働きを行うのです。
5つの使命
神さまがクリスチャンたち、すなわち教会に与えておられる使命を、私たちの教会では5つの言葉でまとめて表現しています。以下の5つの働きです。
  1. 礼拝……さまざまな方法で神さまをほめたたえ、神さまへの愛を表す
  2. 交わり……物理的・精神的・霊的に支え合い、教会員同士の愛を表す
  3. 教育・訓練……知識においても行動においても成長できる機会を提供する
  4. 社会のいやし……社会の傷を見つけて解決する
  5. 伝道……恵みの福音を伝えて人を救いに導く
私たちがクリスチャンとして行動するとき、これらの使命を果たしているのだということを意識しましょう。

また、たとえ教会の交わりの外で個人的に良いわざを行うとしても、それは実際には個人的な行動ではなく、教会としての働きだということを意識しましょう。
この話をお読みください。
アメリカのある教会での話。一人のクリスチャンが、礼拝後に牧師を捕まえて苦情を言いました。

「先週、おなかをすかせたホームレスの人を見つけました。それで教会に何度も電話をしましたが、誰も出てくれません。ですから、仕方がないので、私がその人に食事をごちそうしました。こういう困っている人は、教会が助けるべきではないのですか?」

すると、牧師はにっこり笑って言いました。「ちゃんと、教会がその人を助けたではありませんか」。

聖書的な教会は、牧師が事業主でスタッフが従業員、そして「一般信徒」はお客さん……ではありません。聖書は教えます。「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です」(第1コリント12:27)。

ですから、あなたが教会堂の外で行なう一つ一つの良い行ないは、教会が行なう伝道や社会のいやしの働きの一部です。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
そして、私たちは教会の他の人たちにも目を向けて、他の人が教会の交わりの中でも外でも、与えられている賜物を十分に発揮して、神さまの働きができるよう祈ったりサポートしたりしたいですね。

私たちの教会も、ますます効果的に神さまに与えられた使命を全うできますように。そして、それぞれが自分に何ができるか考え、実践できますように。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
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