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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

愛がなければ

コリント人への手紙シリーズ20

コリント人への第一の手紙13章1節~13節

(2026年3月15日)

「愛がなければ意味がない」——異言も預言も信仰も、愛なしでは無に等しい。聖書が語る「本物の愛」とは何か、わかりやすく解説します。

礼拝メッセージ音声


※花粉症のため、お聞き苦しい部分がございますm(_ _)m

イントロダクション

ある人がホテルでバイキングディナーを予約しました。レストランに行くと、デザートのケーキやフルーツがあまりにもおいしそうで、先にそちらを食べてしまいます。そのうち、メインディッシュの高級和牛ステーキが運ばれてきましたが、もうおなかがいっぱいで食べきれません。「順番を間違えなければよかった」と後悔したそうです。

優先順位を間違うと、私たちは本当は手に入れられたはずの素晴らしいものを取りこぼしてしまうかもしれません。

パウロは12章で御霊の賜物(聖霊さまがクリスチャン一人一人に与えてくださる、奉仕のための特別な能力)について教えました。そして、その最後で次のように語ります。

(12:31)あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。

賜物や神秘的な体験は大切ですが、もっと大切なことがあるとパウロは言います。

1.聖書が教える愛

愛がなければ意味がない

愛がなければ異言は騒がしいだけ
(1節)たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
まずパウロは、さまざまな御霊の賜物の内、「異言」について取り上げます。異言とは、習ったことのない言葉をしゃべる能力です。

なお、この1節に「人の異言」と「御使いの異言」が挙げられています。人の異言とは、この地上のどこかにある外国語をしゃべる能力のことですが、御使いの異言については2種類の解釈があります。
  1. 地上のどこにも存在しない言葉
  2. 「たとえ天使が語る言葉をしゃべることができたとしても」という、一種の文学的表現
いずれにしても、異言は言語であって、同じ音の連続ではありません。

使徒の働き2章には、初期の弟子たちが聖霊なる神さまに満たされて、さまざまな外国語で神さまを賛美したことが記されています。また、使徒10章では、異邦人であるコルネリウスとその家族が救われたとき、異言で神さまを賛美しました。

異言は個人的な祈りや賛美の言葉です。私たちはどんなふうに祈ったらいいか分からないことがあります。また、神さまのすばらしさを賛美しようと思ってもことばが追いつかないことがあります。そんなときでも異言で祈れるとしたら、大変有意義ですね。

そして、「異言の解き明かし」の賜物というものもあり、解き明かされて内容が明らかになった異言は、預言と同じように他の人を励ましたり慰めたり警告したりして、教会全体を成長させます。

第1コリント12:30には「皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか」と書かれています。ですから、異言は救われたり聖霊に満たされたりした人すべてが体験するものではありません。いやしや伝道や施しの賜物などと同様、聖霊なる神さまが与えてくださる奉仕の能力です。

そんな異言の賜物ですが、コリント教会の人たちはことのほか重視していました。いかにも超自然的な現象が起こっていると認識できるからです。パウロは、異言の賜物のすばらしさは認めつつも、もしも愛に基づいて用いられなければ、ただの騒音に過ぎないと言います。

どらやシンバルは、コリントの異教礼拝の場で用いられたものです。コリント教会の礼拝では、他の人を配慮せず、すなわち他の人への愛に基づかないで、みんなが無秩序に異言で語りました。

ですから、打楽器を打ち鳴らして興奮を誘う異教の礼拝と同じような騒々しい状態になっていたのです。そして、求道者や救われたばかりの人が気味悪がって、集会に来なくなるということも起こっていたようです。 これでは愛が実現しているとは言えません。
愛がなければ預言も知識も信仰も無に等しい
(2節)たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。

14章で、パウロは預言の賜物は異言の賜物よりもすばらしいと語っています。異言は個人的な祈りや賛美の言葉なので、語る本人を霊的に成長させますが、預言は教会全体を成長させるからです。

また、コリント教会の人たちは賢いことを何よりも求めていました。「奥義」というのは、前の時代には隠されていた神さまやそのみわざに関する真理のうち、時代が変わって明らかにされたもののことです。

そして、山をも動かすほどの信仰も素晴らしいものです。

しかし、そんなすばらしい預言や知識や信仰を持っていても、愛に基づいて用いられる必要があります。

たとえば、相手の問題点を指摘する場合、愛に基づいているなら、相手が受け止められるように配慮しながら言葉を投げかけるでしょう。しかし、一方的に責め立てて相手のやる気をくじいてしまうとすれば、かえって逆効果です。

あるいは、自分に聖書の知識が豊富であることや、強い信仰があることを誇って、他の人を見下すのは、愛に基づいた行動とは言えません。

どんなにすばらしい賜物を与えられていても、愛に基づいて用いられなければ無に等しいとパウロは言います。賜物に価値がないのではなく、それを用いる自分に価値がないという意味です。
愛がなければ慈善や自己犠牲も役に立たない
(3節)たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

持ち物すべてを他の人に分け与え、それどころか命さえ差し出すのは、最も大きな愛の行動のように見えます。しかし、イエスさま時代のパリサイ人のように、自分を良く見せようとする偽善的な動機で行っているなら意味がありません。

聖書が教える愛

愛とは何か
(4-7節)愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。

ここでパウロは、神さまがお認めになる真の愛について、15のフレーズを用いて説明します。
 寛容  直訳すると「長い怒り」。衝動的に怒りをあらわにしない態度を指します。
 親切  他の人に対して積極的に良いことを行う態度です。
 ねたまない  コリント教会の人たちは、賜物の良し悪しを比較して競争していました。それは愛ではないとパウロは言います。
 自慢しない 実際の能力や事実以上に自分を大きく見せようとする言動をしないということです。
 高慢にならない  コリント教会の人たちは、自分を偉く見せるために他の人を見下していました。そういった態度は愛に基づいていません。
(ピリピ2:3)何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
 礼儀に反しない  人として、あるいはクリスチャンとして、「他の人はどうでも自分はこんなふうに生きる」という一本筋の通った生き方をするのは大切なことです。しかし、ルールやエチケットを守ることによって、他の人に配慮することもまた大切です。また、家族や友だちだからと言って、失礼な態度を取ったり、荒々しい言葉を発したりして良いわけではありません。
 自分の利益を求めない (ピリピ2:14)それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
 苛立たない 他の人を教えたり指導したりする際、相手に対していらだちを覚えながらするのは、愛に基づいて行動していないしるしかもしれません。
 人の悪を心に留めない 元々は会計用語で、「帳簿に記録しない」という意味です。つまり恨みを蓄積しないということですね。
 不正を喜ばない 愛は甘やかしではありません。正しくないことに目をつむり、「何をしてもいいよ」と放置するわけではないのです。時には、相手にとって耳の痛い話をしなければならないときもあります。
 真理を喜ぶ 愛は真理に基づいて行使されなければなりません。「相手のためだ」と思って行動するとしても、本当にそうだろうかと立ち止まって検討する必要があります。そうでないと余計なお世話になりかねません。
 すべてを耐える  「覆う」という意味の言葉です。他の人の弱さや失敗を暴露するのではなく、そっと覆ってあげるような態度が愛です。
 すべてを信じる  神さまの約束を信じるところから、愛が始まります。神さまが最善を成してくださると信じるからこそ、私たちは他の人に対して寛容になれるし、時に耳の痛い指摘をすることもできます。
 すべてを望む 私たちにできることは限られています。しかし、神さまが共に働いてくださるとき、必ず相手は良い状態になると信じて関わりましょう。
 すべてを忍ぶ この言葉は、受動的にただ我慢するという意味ではなく、積極的・能動的に苦労を買って出ることを指します。
愛は継続する
(8節前半)愛は決して絶えることがありません。

一時的に寛容で、一時的に親切で、一時的に礼儀正しく振る舞う。しかし、別の場面では人に対して過酷で、冷淡で、礼儀知らずな態度を取るのでは意味がありません。本当の愛は継続し続けるとパウロは言います。

いつまでも残るもの

すたれるもの
(8節後半)預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。

預言・異言・知識といった賜物は大切なものです。しかし、将来的には必要なくなります。なぜでしょうか。
私たちの知識は不完全
(9-10節)私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。

どれほど聖書に通じていても、預言の賜物が与えられていても、私たちが知りうるのは神さまに関する真理のごく一部に過ぎません。預言や異言は、その一部分の真理を語るのみです。

そして、世の終わりが来て、私たちが神さまと顔と顔を合わせて会うことができるようになると、神さまから直接いろいろなことを教えていただくことができます。ですから、預言・異言・知識といった賜物はもう必要なくなるのです。
幼子から大人に変わると
(11節)私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。

「子ども」と「大人」の対比は、今の時代の状態と将来の完成した状態を比べています。

この比喩は、賜物を幼稚なものとして否定しているのではありません。成長のプロセスの中で「より完全なもの」が来たとき、「部分的なもの」は自然に脱ぎ捨てられるということを示しています。
完全な知識
(12節)今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

コリントは鏡の名産地でした。当時の鏡は、青銅などの金属をつるつるに磨いたものです。今の鏡と比べると、ぼんやりとしか姿を写すことができませんでした。

神さまご自身や神さまのみわざに関する知識も、今は鏡に映る人の姿を間接的に見るように、ぼんやりとしか理解できていません。

しかし、世の終わりに救いが完成すると、神さまと直接交わることができるようになります。その時には、私たちは完全な知識を手に入れることができます。
いつまでも残るもの
(13節)こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

預言・異言・知識といった賜物は、世の終わりが来ると不用になりますが、ずっと残るものもあります。それが信仰と希望と愛です。

神さまに対する信頼、神さまが永遠に祝福し続けてくださるという希望、そして神さまや他の人たちに対する愛は、時代が変わっても、救いが完成したとしても、ずっと残り続けます。

そして、その3つの中で最も優れているのは愛だとパウロは言います。信仰と希望はいらないという意味ではありません。信仰も希望も愛を土台としているからです。

そして、今の時代、信仰や希望はもちろん、聖霊の賜物も愛を土台として用いられるべきだとパウロは語ります。愛に基づく賜物の用い方については、次の14章でより詳しく語られます。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.すべてのことを愛に基づいて行おう

愛に基づいているか自己チェックしよう

4-7節で、パウロは愛とは何かについて語ってくれています。 愛のない行動や態度は、この逆だということです。

すなわち、愛がない人は、

「不寛容で、人に荒々しく接します。また人に嫉妬します。すぐにほらを吹き、高慢になります。平気で礼儀に反する言動をし、自分の利益ばかり優先し、怒りに基づいて行動し、自分を棚に上げて人の欠点を責め、不正を犯すことを気にせず、何が真理なのかということにも無頓着です。がまんが足りず、信じようとせず、期待もせず、すぐに根を上げます」。

ずっとこんな状態だという人は少なかろうと思います。しかし、たまにこういう状態になることがあるのではないでしょうか。

以前、カウンセリングスクールで出会った、教師をなさっている方がおっしゃいました。「自分は、生徒に何か指摘したり教えたりするとき、たまにイライラしながら言葉を発している自分に気づくことがあります」と。言われてみれば、私自身も同じだなと思わされました。
私たちは、時々立ち止まって、自分の言動を振り返ってみる必要がありますね。
  • 今の発言は、あるいは今の行動は、本当に愛に基づいた行動だっただろうか。
  • もしかしたら、相手のためと言いながら、実は自分の利益のための行動だったんじゃないだろうか。
  • 自分のプライドを守るためだったんじゃないだろうか。
  • 礼儀に反するような言い方ややり方をしたために、かえって相手を傷つけたりやる気を削いだりしなかっただろうか。
イエスさまは、私たちが4-7節で説明されているような愛を実践することを望んでいらっしゃいます。大切なのは、あるべき姿から外れていることに気づいたら、すぐに悔い改めることです。そして、愛に基づいた行動を再開しましょう。

実際に愛の行動をしよう

4-7節に挙げられている15のフレーズは、ギリシア語ではすべて動詞です。聖書が教える愛は、感情というよりも行動なのです。また、ことばで説明するものではなく、実際に行動によって示すものです。

レストランに行って、ショーウィンドウにおいしそうな食品サンプルが並び、メニューにもおいしそうな食べ物の写真が並んでいるけれど、いつまでたっても実際に食事が出てこなければがっかりしますね?

愛もそれと同じです。

(ヤコブ2:15-16)兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。

イエスさまの「良いサマリア人のたとえ」で、常に愛について教えていた祭司やレビ人は、追い剥ぎに遭った旅人を見ても何もせず通り過ぎました。しかし、サマリア人は彼を応急処置し、家畜に乗せて宿屋まで連れて行き、宿屋の主人にお金を払って世話を頼みました。具体的に行動したのです。

ジャコモ・コンティ作「良いサマリア人のたとえ」
(画像引用:Wikipedia英語版)
目の前のこの人を愛するとは、具体的にどういう行動をすることだろうか……いつもそういう発想をしましょう。そして、実際に行動に表すよう努めましょう。

謙遜に愛する力を求めよう

本当の愛は一時的なものではなく、継続するものだと学びました。私だって、時には人の問題行動に対して寛容な気持ちになれるし、優しく礼儀正しい接し方ができる場合があります。しかし、いつもそうかと言われると、「いいえ」と答えるしかありません。

よく教会でやることですが、4-7節の「愛」の部分に自分の名前を入れて読んでみましょう。私の場合は「増田は寛容であり、増田は親切です。また人をねたみません。増田は自慢せず、高慢になりません。増田は礼儀に反することをせず……」。あなたもやってみてください。

どうですか? 最後まで何の羞恥心も罪責感も感じることなく読み切ることができる人がいるとしたら、よっぽど自分が見えない方でしょう。少なくとも、私は恥ずかしくなって途中で読めなくなります。

13章の愛の定義すべてに当てはまる人は、人となられた神であるイエスさまお一人だけです。私たちには、聖書が要求するような愛はありません。

しかし、それでも希望があります。私たちの内には、聖霊なる神さまが住んでいてくださいます。そして、日々私たちをイエスさまに似た者に造り変えてくださいます。

(第2コリント3:18)私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

私たちの内に、聖書が求める愛はありません。しかし、だからこそ謙遜になって、愛する力が与えられるよう神さまに祈り求めましょう。私一人では無理でも、聖霊さまが共に働いてくださるなら、不可能を可能にできます。

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