(2026年3月22日)
パウロは、礼拝の場で「異言」や「預言」といった御霊の賜物をどう使うべきか、そして、感情と理性、自由と秩序のバランスをどう取ればいいのかコリント教会を指導しました。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
私たちの教会の礼拝は、生き生きとしているでしょうか。それとも、どこか窮屈に感じることはないでしょうか。 感情をあふれさせて神さまを礼拝したい。でも、周りへの迷惑も気になる——そんな葛藤を覚えたことはないでしょうか。
2千年前のコリント教会は、聖霊の賜物への熱心さがあふれるあまり、礼拝が混乱し、互いを傷つけ合う状況になっていました。 パウロはその問題について第一の手紙の中で指導しています。
感情と理性、自由と秩序——このバランスをどう取ればいいのか。コリント人への手紙第一14章から、一緒に考えていきましょう。
1.賜物の用い方と礼拝の秩序の問題
預言と異言の対比
愛と賜物
(1節)愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。
13章で、パウロは愛が最も大切だと言いました。それを受けて、愛を追い求めるよう私たちに勧めます。
また、ここから12章で取り上げた御霊の賜物と愛を関連付けて述べようとしています。御霊の賜物とは、聖霊なる神さまがクリスチャン一人ひとりに与えてくださる、奉仕のための特別な能力のことです。
御霊の賜物の中には、いやしなどの奇跡を行う力、習ったことのない外国語で語る異言、神さまの言葉を直接聞いて人々に語る預言、普通なら知り得ないことを知る知識のことばといった、超自然的な能力もあります。
また、慈善を行なう力、ささげる力、管理する力、励ます力といった、あまり目立たない能力もあります。
パウロは、これらさまざまな賜物のうち預言の賜物を熱心に求めるようコリント教会の人々に勧めました。なぜでしょうか? それは、コリント教会では特に異言の賜物が尊重されていたことと関係があります。
異言の賜物
(2節)異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。
異言は、人ではなく神に向かって語るものだとパウロは言います。異言の賜物が与えられた人は、聖霊なる神さまの奇跡のわざによって、奥義、すなわち人が知らない内容を語ります。
ただし、その内容は、誰にも理解できません。聞いている人も、しゃべっている本人も内容が分からないのです。
預言の賜物
(3節)しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。
一方、預言の賜物は、他の人が理解できる言葉で語ります。その内容は、人を成長させるための言葉であったり、人に何かを勧めたり、慰めの言葉であったりします。
誰を成長させるか
(4節)異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。
異言を語る人は、自分自身が人としてクリスチャンとして成長します。
異言は神さまに向かって語られる祈りの言葉であり、賛美の言葉です。祈りや賛美は、私たちの心を神さまに向けます。そして、私たちと神さまとの関係をより深いものにしてくれます。だから、異言は自分自身を成長させるとパウロは言うのです。
一方、預言は教会全体を成長させます。その内容は、神さまを無視した自己中心的な生き方から、神さまを愛して従う生き方に人を変えるものです。つまり、自分自身だけでなく他の人も成長させることができるのです。
預言のほうが異言よりまさっている
(5節)私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのは、あなたがたが預言することです。異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。
パウロは、異言の賜物を軽視しているわけではありません。それは聖霊さまが与えてくださる能力であり、大切なものです。ですから、すべてのクリスチャンが異言を語れれば良いと言います。
しかし、異言は誰にも理解できませんから、解き明かしの賜物によってそこにいる人たちに理解できる言葉に翻訳されない限り、あくまでも個人的な能力です。
一方、先に述べたように、他の人に理解できる言葉で語る預言は、教会全体を成長させます。愛こそ最も大切なものだと教えたパウロは、だから解き明かされない異言より、預言の方がまさっていると言います。
といっても、別にパウロは、賜物同士を比較して優劣を決めたいわけではありません。どんな賜物であっても、聖霊なる神さまが与えてくださった能力です。どれも重要で尊いものです。
後で解説しますが、コリント教会では、異言の賜物を重視するあまり、不適切な用いられ方がされていました。それは愛の実践とはほど遠いものです。そこで、その点を指導しようとしているのです。
明瞭な言葉
パウロが異言で語るとしても
(6節)ですから、兄弟たち。私があなたがたのところに行って異言で語るとしても、啓示か知識か預言か教えによって語るのでなければ、あなたがたに何の益になるでしょう。
パウロは使徒であり、諸教会の中でリーダー的立場が与えられています。そんなパウロがコリント教会の礼拝で異言を語ったとしても、とパウロは言います。
「啓示か知識か預言か教えによって語るのでなければ」とは、「どんな形式で語るにせよ、他の人に分かる言葉で語るのでなければ」という意味です。異言は他の人に分からない言葉なのですから、あなたたちの益にはならないでしょう、とパウロは言います。
楽器のたとえ
(7-8節) 笛や竪琴など、いのちのない楽器でも、変化のある音を出さなければ、何を吹いているのか、何を弾いているのか、どうして分かるでしょうか。また、ラッパがはっきりしない音を出したら、だれが戦いの準備をするでしょう。
ここまで、他の人が聞いて理解できることが、教会の集会においては重要だということをパウロは述べてきました。それを楽器をたとえに用いて説明しています。
空気に向かって話すのと同じ
(9節)同じようにあなたがたも、舌で明瞭なことばを語らなければ、話していることをどうして分かってもらえるでしょうか。空気に向かって話していることになります。
異言を集会の中で語っても、もしも解き明かされるのでなければ、誰も理解できません。それでは、周りの人たちにとっては、自分たちにではなく空気に向かって話しているのと同じです。
言葉は意味が大事
(10-11節)世界には、おそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばは一つもありません。それで、もし私がそのことばの意味を知らなければ、私はそれを話す人にとって外国人であり、それを話す人も私には外国人となるでしょう。
どんな言葉であっても、その機能は何かしらの意味を伝えることです。意味が伝わらなければそれこそ意味がないということを、パウロは言おうとしています。
教会を成長させるという目的
(12節)同じようにあなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。
コリント教会の人たちは、聖霊の賜物を熱心に求めていました。それはすばらしいことです。しかし、その目的をはき違えていました。
彼らは、超自然的な賜物が与えられた人は、他のクリスチャンたちよりも何か偉いと勘違いしていました。哲学的な知識を誇っていたように、奇跡的な賜物をプライドの種にしていたのです。これは愛とはほど遠い態度です。
御霊の賜物は、自分自身を誇るためではなく、教会全体を成長させるための奉仕の能力だということを、パウロは改めて強調しています。その目的をしっかり定めた上で、熱心に賜物を求めなさいと。
異言プラス解き明かし
(13節)そういうわけで、異言で語る人は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。
異言も大切な賜物ですが、教会全体の成長を促すという点からすれば不十分です。ですから、異言を他の人に分かる言葉に翻訳する能力、解き明かしの賜物を祈り求めなさいとパウロは勧めます。
具体的な指導
14章の残りの部分では、コリント教会にあった具体的な問題に照らして、パウロが指導をしています。その問題は、みんなが集会を持っているとき、すなわちみんなで礼拝したり祈ったりしているときに発生していました。いくつかピックアップしてみましょう。
礼拝中に異言で祈る問題
コリント教会では、礼拝式や祈り会に参加している人が、感情的に興奮してくるとあちこちで異言で語り始めました。誰かが聖書について解説したり、指導の言葉を語ったりしていてもお構いなしです。
当然集会は騒然となり、無秩序な状態です。そして、教会全体を成長させるための教えや指導が邪魔されてしまっています。
また、そのような場面を、まだクリスチャンではない人や救われたばかりの人が見ると、どんなふうに感じるでしょうか。
(23節)ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来たとき、あなたがたは気が変になっていると言われることにならないでしょうか。
これでは伝道に逆効果です。
一方、秩序が保たれた状態で、誰にでも理解できる言葉で預言が語られるなら、それを聞いた未信者や初心者の人は、隠していた罪が示されて悔い改め、神さまに熱心に従うようになるでしょう。
目的を明確に
(26節)それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。
パウロは、改めて愛の実現こそが目的だということを意識させます。
賛美も、教えも、啓示も、異言もその解き明かしも、集会中に行うことができます。39節には、異言で語ることを禁じてはいけないと語っています。
ただ、すべて教会全体の成長のために用いるようにということです。
秩序を保つこと
愛を実現し、教会全体を成長させるために、集会の秩序を保つようパウロは指導します。
(27-30節)だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。
集会中の異言に関しては、多くても3人まで。しかも、順番に語り、解き明かしをするようにとパウロは言います。もし解き明かす人がいないなら、異言を集会中に語ってはならないとパウロは言います。意味が伝わらず、混乱を招くだけだからです。
そして、解き明かす人がいない場合、異言は個人的にささげるようにしようと言います。
預言に関しても、やはり秩序正しく用いられる必要があります。
(29-30節)預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人は黙りなさい。
預言も、何人もの人が一度にしゃべるのではなく、順番に話すことが重要です。しかも、語られた内容について、本当に聖書の教えに合っているかどうか吟味する時間を取るようにとパウロは言います。そうでないと、聞いている人たちが理解できず混乱するばかりだからです。
集会中の質問の問題
集会の秩序を保つことに関連して、パウロは賜物とは別の問題についても触れています。
(34-35節)女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません。律法も言っているように、従いなさい。もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、女の人にとって恥ずかしいことなのです。
これは、教会の集会で女性が一切口を開いてはいけないとか、教えてはいけないとかいう意味ではありません。11:5では、パウロは女性が集会中に祈ったり預言したりすることを前提として、頭にかぶりものをする話をしています。
ではどういうことかというと、コリント教会の集会では、誰かが聖書のメッセージを語っているときに内容が理解できないと、妻が夫に対して大声で質問していたということです。そのために、あちこちで異言や預言が語られるのと同様、集会が無秩序な状態になっていました。
そこで、質問があるなら、家に帰ってから夫にしてくれとパウロは指導しているのです。
まとめ
(40節)ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。
これがこの章のまとめです。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.すべてのことを愛を実現するために行おう
自分の言動の影響力に気を配ろう
公の場で異言で祈ったり賛美したりすること、複数人がてんでバラバラに預言を語ること、集会中に分からないことを大声で質問することなどについて、パウロはコリント教会を指導しました。
そのような行動をする人は、その人なりの理由があるのかもしれません。
- 神さまへの愛があふれてきて、思わず異言で祈ったのかもしれません。
- 神さまに示された内容があまりにも重要だったため、一刻も早く他の人に伝えなければと考えたためかもしれません。
- 分からないままだと気持ち悪いので、一刻も早く疑問を解消したいと思ったためかもしれません。
しかし、それを行うことで他の人に対して悪影響が及ぶかもしれません。そのことについて、私たちは気を配る必要があります。
これは、教会の集会中だけの話ではありません。街で買い物をしているときも、誰かと一対一で話をするときも、私たちの一挙手一投足は他の人に見られているし、その言葉は聞かれています。そして、何らかの影響を他の人に対して与えます。
できれば悪影響ではなく、良い影響でありたいですね。自分の一挙手一投足、また自分の語る一言一言が、他の人にどのような影響を与えているか、いつも気を配りましょう。つまり、よく考えて行動しようということです。
それは、自分が非難されないためではなく、他の人への愛を実現するためです。
感情をコントロールしよう
感情はコントロールできる
パウロが、よく周りの人への影響を考えて行動しなさいと教えるのは、私たちは感情をコントロールできるはずだという前提に基づいています。
(32節)預言する者たちの霊は預言する者たちに従います。
感情はコントロールできるという点について、ある心理学者が、面白いたとえをしています。
あるお母さんが子どもを鬼の形相で叱り飛ばしていました。そこに、お母さんの友だちから電話がかかってきました。お母さんは、笑いながら楽しく友だちと会話しました。そして、電話が終わると、また鬼の形相で子どもを叱り飛ばし始めました。
私たちは感情をコントロールできます。そこで、興奮のあまり、感動のあまり、あるいは怒りや憎しみのあまり、つい秩序を無視して行動してしまったという言い訳はできないということです。
感情は無視すべきではない
もちろん、感情を無視することは良くありません。感情が爆発してコントロールを失うのは、無視して押さえ込んでしまうからです。
我慢する前に、「ああ、今自分は感動しているんだな」「今、これこれの理由で怒っているんだな」と意識し、心の中で言葉にしてみると、後で爆発したり、胃潰瘍などの症状になったりせずに済みます。
また、教会の集会でも、秩序を重んじるあまり感情的な面を押さえ込みすぎるのも問題です。礼拝とは、本来神さまへの愛、神さまへの感謝、神さまの約束に対する喜びなどがあふれ出る場です。
この話をお読みください。
20世紀になったばかりのころ、ある国で、聖霊さまの満たしを強調する牧師が現れました。
「人は聖霊さまによらなければイエスさまを信じてクリスチャンになることができない。それと同様に、聖霊さまの助けなしには、聖められたり、喜びや感動や力に満ちたクリスチャン生活を送ったりできない。だから、一瞬一瞬聖霊さまに満たされるよう祈り求めていこう」。
彼はそう教えました。すると、多くの人たちが救われ、また転入して、その教会がどんどん成長していきました。
この事態に、同じ地域の他の教会の牧師たちが脅威を感じ、この教会を批判するようになりました。他の牧師たちは言いました。「あなたは、自分たちだけが正しくて、私たちは聖書に反しているとでも言いたいのか?」
するとその教会の牧師はこう答えました。「とんでもない。ここにいるすべての皆さんの教会は、聖書に基づく正統的な信仰を持った教会です。私たちが主張しているのは、みんな同じ栄養を含んだ肉を食べているけれど、どうせ食べるなら、フライパンで熱せられてジュージューと音がする肉を食べたいということです」。
私はこの例話が大好きです。私たちの教会も、ますます焼きたてステーキのような味わい深い体験の場となりますように。
感情と理性のバランス
ただし、一方で感情の赴くままに、周りの人への配慮を忘れてはならないということです。
イエスさまは、屈託なく笑い、また大声で泣きわめき、怒りをあらわになさいました。しかし、決して感情に支配されてはいませんでした。
私たちもイエスさまのように、感情も理性もどちらも大切に考えましょう。私たちをイエスさまに似た者に成長させてくださる聖霊さまが、感情と理性の絶妙なバランスを実現してくださいますように。
愛の実現を目的とし続けよう
イエスさまが感情に飲み込まれて我を忘れることはなく、いつも周りの人たちへの愛を最優先にさせていらっしゃったのはなぜでしょうか。笑いも涙も怒りも、すべて人間たちへの愛の表れです。
パウロは、コリント人への第一の手紙の中で、一貫して愛を強調しています。分派分裂を戒めたのも、罪を犯して悔い改めない人の除名処分を求めたのも、女性にかぶりものをするよう命じたのも、そして賜物の用い方や礼拝の秩序について指導したのも、すべて愛の実現のためです。
私の行動は、愛を実現しているだろうか。私の言葉は、愛を実現しているだろうか。いつもそのことを意識していましょう。そして、愛を実現するためにどう行動し、何をどのように語ればいいか、聖霊さまに「教えてください」と祈り求めましょう。
そして、実際に愛の言動ができるよう祈り求めましょう。