(2026年3月29日)
キリストの死と復活に基づく「恵みの福音」とは何か。そして、福音による救いの確かさに関する3つの土台を解説します。
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1節の「福音」とは、「良い知らせ」(ギリシア語:ユアンゲリオン)を意味する言葉です。特に聖書では、救われるために信じるべき内容のことを指します。
神さまは真理を少しずつ人間に明らかにしておられますから(これを「漸進的掲示」と言います)、信じるべき福音の内容も時代によって変わります。
- アブラハムは、神さまとアブラハムとの契約の内容(特に子孫が数多く与えられること)を信じて救われました(創世記15:1-6)。
- 福音書時代の人たちは、「ナザレのイエスこそ、旧約聖書が登場を約束してきた神の国の王、救い主だ。だから、神の国の実現は近い」と信じて救われました。
- パウロの時代や、今の私たちの時代は、今回の箇所に書かれていること(特に3-4節)を信じて救われます。
「信仰によって救われる」という原則はどの時代も変わりませんが、信じる内容が時代によってより詳しくなっていったということです。
5節の「ケファ」は、使徒ペテロ(シモン)のこと。
(ルカ24:34)「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。
7節の「ヤコブ」は、イエスさまの弟(ヨセフとマリアの子)の一人。
8節は、パウロ(サウロ)が教会を迫害するためダマスコに向かう途上で、天からの強い光に打たれ、イエスさまの声を聞いた出来事を指しています(使徒9章)。
イントロダクション
信仰は感情に左右されやすいものです。祈りに集中できる日もあれば、神さまが遠く感じられる日もあります。そんなとき、悪魔はささやきます。「お前の信仰は、単なる願望に過ぎない。救われているなんて嘘っぱち!」
しかし、パウロはコリント教会への手紙の中で、私たちの救いがいかに確かな土台の上に立っているかを力強く語ります。それはどんな土台でしょうか?
1.恵みの福音と救いの土台
救いをもたらす「恵みの福音」の内容
パウロが伝え、コリント教会員たちが信じた福音
(1節)兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
コリント人への第一の手紙は、また新しいテーマに入ります。実は、コリント教会の中には、クリスチャンが将来復活するという教えを信じていない人たちがいました。この問題については、直接的には来週以降取り上げますが、今回の箇所はその前振りの部分です。
パウロは、福音について改めてコリント教会の人たちに確認しています。福音とは「良い知らせ」という意味の言葉ですが、聖書では特に救われるために信じるべき内容を指します。
コリント教会の人たちは、みんなこの福音を信じたのだとパウロは言います。その結果、彼らは救われ、クリスチャンとなり、教会に加えられました。「その福音によって立っている」とパウロが言った通り、福音を信じたことが私たちクリスチャンの人生の土台です。
福音を信じれば救われる
(2節)私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
もしも、コリント教会の人たちが、かつてパウロの伝えた福音を信じていなかったとしたら大変です。というのは、福音を信じることが救いの条件だからです。
といっても、パウロはコリント教会の人たちが信仰を失って、救いが取り消される可能性について語っているわけではありません。「しっかり覚えているなら」という部分のギリシア語は、コリント教会の人たちが福音を信じて救われていることを前提とした内容になっています。
一方で、この後の3-4節の内容を認めないのなら、それは最初から福音を信じたとは言えないことになります。
恵みの福音の内容
(3-4節)私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
救いをもたらす大切な福音の内容は、パウロ自身も他の人から聞いたものです。
かつては教会を迫害していたパウロは、シリアのダマスコという町で天からの光を浴びて目が見えなくなり、復活なさったイエスさまの声を聞きます。そして、アナニアというクリスチャンに手を置いて祈ってもらい、目がいやされました。
迫害者だったパウロは回心し、アナニアから洗礼を受けました。このとき、アナニアやダマスコ教会の人たちから福音の内容を聞かされたのです。
その福音の内容は、3つにまとめることができます(福音の三要素)。
- キリストが、私たちの罪のために死なれたこと(罪を赦すために十字架にかけられ死なれた)
- キリストが、葬られたこと(死んだふりとか、気絶とかではなく、本当に死なれた)
- キリストが、3日目に復活なさったこと
この3つを「本当のことだ」と信じ受け入れるとき、人は本当に罪を赦され、それどころか神さまの子どもとされ、永遠に祝福され続ける特権を与えられます。
「まだ自分はクリスチャンではない」とおっしゃる方でも、この3つの出来事について「アーメン」(その通り!)と言えますか? 言えたとしたら、その瞬間からあなたはクリスチャン、神さまの子ども、キリストの体である教会の一員です。
- もし、今日生まれて初めて福音を信じ受け入れたという方は、ぜひ私たちの教会にメールをください。祝福を祈らせていただきます。
使徒たちへのキリストの顕現
(5節)また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
イエスさまは復活なさいましたが、それを目撃した証人がいます。まず、ケファ、すなわち使徒ペテロです。それから、他の十二弟子の前にもイエスさまは姿を現されました。
ちなみに、十二弟子の一人であるイスカリオテのユダが自殺してしまいましたから、本当は11人のはずです。しかし、後で十二弟子の列に加えられるマッティアも、イエスさまの復活の目撃者です(使徒1:22)。
500人以上の人たちへの顕現
(6節)その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
イエスさまは、500人以上の弟子たちが集う場所にも現れたとパウロは言います。これは、福音書や使徒の働きの中には書かれていません。
おそらく、復活のイエスさまがガリラヤ地方の山で11人の使徒たちの前に姿を現されたとき、その場にガリラヤ地方の弟子が500人ほど一緒にいたのでしょう(マタイ28:17「疑う者たちもいた」)。
重要なのは、500人のうちほとんどがまだ生きているということです。ですから、復活が本当かどうかその人たちに確認することができます。イエスさまの復活は、昔々の出来事や遠い国での出来事のように、真偽を確かめられないような眉唾物ではないということです。
ヤコブと使徒たちへの顕現
(7節)その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。
復活して40日後に、イエスさまは天にお帰りになりました。それまでの間、イエスさまは弟のヤコブの前にも現れました。
ヤコブは、兄であるイエスさまのことを救い主だとは信じていませんでした(ヨハネ7:5)。それどころか、「アニキは気がおかしくなった」と考えていたようです(マルコ3:21)。
そんなヤコブが、イエスさまのことを救い主だと信じ、その後エルサレム教会のリーダーの一人となったというのは、よほどのことが起こったからだと考えられます。それは、死んだはずのイエスさまが復活して、自分の目の前に現れたことです。
そして、イエスさまはすべての使徒たちに現れたと書かれています。ここでの「使徒」は5節の十二弟子よりも広い意味で用いられています。
十二弟子以外にも、聖書では使徒と呼ばれている人物がいます。パウロ、バルナバ、そしてここで名前が挙がっているヤコブ、またシラスとテモテです。
使徒は、単なる教会リーダーとは異なり、イエスさまから直接任命され、旧約聖書の預言者たちと同じような権威を持ちました。
そして、まだ新約聖書が完成していない時代に、神さまからの啓示を受けて人々を教え導いたのです。新約聖書の中の文書は、どれも使徒が直接書いたか、使徒の影響下で書かれたものです(マルコはペテロ、ルカはパウロと行動を共にしました)。
その使徒たちが、みんなイエス・キリストの復活の証人だということがここでの注目ポイントです。キリストの復活は、枝葉の教えではなく、聖書の教えの中でも最重要な要素の一つです。
パウロ自身の証し
パウロへの顕現
(8節)そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
パウロは、自分自身も復活の証人だと述べています。自分のことを未熟児にたとえているのは、自分が使徒に任命されたのが他の使徒たちとは違う経緯だったからです。
十二弟子たちは、イエスさまが十字架にかかる前からイエスさまと行動を共にしました。しかし、パウロはそうではありません。
かつては教会を迫害していたパウロ
(9節)私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。
さらに、パウロは自己卑下をします。自分はかつて教会を迫害していたのだから、本当なら使徒と呼ばれる資格はないと言います。
神の恵みによって
(10節)ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。
そんな神の敵だった自分が使徒になったのは、神さまの恵みによるとパウロは言います。恵みというのは、お返しができないのにもかかわらず、一方的にプレゼントとして与えられるという意味です。
恵みによって使徒となったパウロは、他の使徒たちよりも働きました。これは自慢ではなく、事実を述べているに過ぎません。このコリント人への第一の手紙が書かれたとき、パウロはすでに3回目の伝道旅行の最中でした。
そして、自分がそのような働きをしたのも、自分の功績ではなく神さまの恵みによるのだとパウロは言います。
フィリップ・ヤンシーは、キリスト教と他の宗教を区別しているのは恵みだと言いました。救われるのも恵み、クリスチャンとして成長するのも恵み、そしてここでパウロが語っているように、地上で神さまのお働きを手伝わせていただくのも恵みです。
私たちは、聖書の神さまは祝福の代わりに対価を要求なさるビジネスライクな方ではなく、愛と恵みの神だということを忘れてはなりません。
宣教と信仰
このように宣べ伝え、また信じた
(11節)とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
ここまで、パウロは救いをもたらす恵みの福音について語ってきました。この福音を、パウロや他の伝道者たちは宣べ伝えています。そして、コリント教会の人たちも信じたはずだとパウロは言います。
これを前提として、クリスチャンの復活を信じない人たちがいる問題について話が展開することになります。それについては来週、イースターの日の礼拝で取り上げます。
それでは、今回の箇所から私たちは一体何を学ぶことができるでしょうか?
2.福音が確かである根拠を知ろう
歴史的事実に基づく
私たちの罪を赦すためにイエスさまが十字架にかかって亡くなったこと、死後墓に葬られたこと、そして3日目に復活なさったこと。この福音の内容は、歴史的な事実です。
以前、浄土真宗の熱心な信者だったけれど、後にクリスチャンになられた方の話を伺いました。キリスト教も浄土真宗も、どちらも自力救済を否定して他力救済を教えています。
キリスト教の場合には、イエスさまがしてくださったこと(十字架と復活)によって救われると信じているのですね。一方、浄土真宗では、阿弥陀如来が48の誓願立てたおかげで、あらゆる生き物が救われて極楽浄土に行けるようになったと信じているそうです。
問題は、イエスさまと阿弥陀如来の歴史性です。復活についてはともかく、イエスさまが実在の人物だということは歴史学的な通説です。
一方、阿弥陀如来の歴史性は認められていません。歴史的な人物というより、思想や願望の産物なのだとあの浄土真宗の元信者の方はおっしゃいます。それを知ったとき、自分は確かに存在しておられるイエスさまに人生をかけることにしたと。
約2000年前、確かにイエスさまは地上に誕生し、約30年間を人として過ごし、私たちの罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさいました。私や皆さんの救いは、単なる思想や願望ではなく、歴史的事実に基づいています。
旧約聖書の教えに基づく
福音の内容について説明している3-4節で、パウロは2回にわたって「聖書に書いてあるとおりに」と語っています。この時代の聖書は、私たちが旧約聖書と読んでいるものです。
なぜイエスさまの死と復活が私たちの罪を赦して救うことにつながるのでしょうか。その答えが旧約聖書に書かれているということです。
イザヤ53章
旧約聖書で、救い主(ヘブル語でメシア、ギリシア語でキリスト)は、悪を滅ぼし、信者にすばらしい平和と繁栄を与えてくださる神の国の王として描かれています。と同時に、苦難のしもべとしても描かれています。
それが最もよく表れているのが、イザヤ53章です。この箇所は、救い主が痛めつけられ、苦しみ、そして死ぬのは、人間の身代わりに神さまからの罰を受けるからだと説明されています。
本来なら、神さまに逆らい罪を犯した人間は、神さまの怒りを受けて滅ぼされる運命でした。しかし、救い主が苦しみの末に死ぬことによって、私たちが受けるべき罪の罰は完了しました。私たちは何の償いもできないのに、一方的に罪を赦され、愛と恵みに満ちた神さまと親しい交わりを持つことができるようになったのです。
動物犠牲のシステム
また、レビ記をはじめとする旧約聖書のあちこちに、罪のある人間が礼拝のために神さまに近づく際、動物をいけにえとしてささげたということが書かれています。動物が罪人の代わりに死ぬことで、罪人の罪が赦され、神さまに近づいて交わることができるようになったのです。
救い主は、究極の犠牲、たった一度で有効な完全な犠牲として、ご自分のいのちを十字架でささげてくださいました。
詩篇16篇
復活についてはどうでしょうか。詩篇16篇は、ダビデが苦しみの中でも神さまに信頼し、そして助けを確信して平安と喜びを味わっている歌です。
その詩の中で、ダビデは次のように歌いました。
(詩篇16:10)あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。
この詩篇について、ペテロが使徒の働き2章で、またパウロが13章で引用して、ここでよみがえると預言されているのは救い主のことだと解説しています。
私たちの救いは、イエスさまの十字架の死と復活に基づいています。そして、救い主の死と復活は、その何百年も前に神さまによって与えられた聖書で預言されていました。
感覚ではなく聖書が救いの土台
「救われた感じ、神さまに愛されている感じ、祝福されている感じがするかしないか」を私たちの救いの土台とすると、ちょっとしたことでその感情が揺らいだときに、救いの確信も揺らいでしまいます。
聖書という確かな土台の上に、私や皆さんの救いがあります。そのことを忘れないでいましょう。
多くの証人の証言に基づく
そして、パウロは、たくさんの人たちが復活を目撃したと語っています。
私が死ぬとき、「私はこれから死ぬけれど、それはすべての人の罪を背負い、救いをもたらすためだ」と言うことができるかもしれません。しかし、そんな戯言を信じる人はおそらく一人もいないでしょうね。
では、イエスさまの「私があなたを救う」という宣言はどうして信じられるのでしょうか。それは、イエスさまが生前預言されたとおり、3日目に復活なさったからです。
しかも、その復活を目撃したのは一人や二人ではありません。十字架による赦しも復活も信じていなかった使徒たち、イエスさまのことを救い主だとすら信じていなかったヤコブ、そして500人以上の人が復活したイエスさまを目撃しました。しかもその大多数がまだ生きていて直接証言を聞けるとパウロは言います。
サイモン・グリーンリーフ
19世紀、ハーバード大学法学部の教授に、サイモン・グリーンリーフという人がいました。彼はキリスト教は時代遅れで、非理性的な教えだということを証明してやろうと考えました。
特に彼が注目したのが、イエス・キリストの復活に関する記録です。彼は、法廷で培った証拠を検証する能力を使って、新約聖書に書かれている復活についての証言を細かく調べ始めました。
その結果、逆に使徒たちの証言は信用に値すると信じるようになり、自分もキリストを信じると宣言したのでした。
1世紀のクリスチャンたちは、イエスさまが復活したと主張したことで、迫害され、殺される者もいました。
客観的には真実でなくても、自分では本当だと思っていることなら、命をかけて主張することができるでしょう。しかし、一体どれだけの人間が、嘘だと分かっていることに命をかけられるでしょうか。
数百人の弟子たちは、一部の人たちの主張を無批判に信じたわけではなく、自分自身が直接復活したイエスさまに会ったと証言しているのです。
あなたは一人ではない
「この私の罪を赦すために、イエス・キリストが十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさった」。それを信じるだけで私たちは本当に罪を赦され、神さまの子どもとなって永遠に祝福され続けます。
それは私たちの個人的な体験ではありません。これまでの歴史の中で、何百人もの第一世代のクリスチャンたちが体験したことであり、それ以降何億人もの信仰の先輩たちが体験したことでもあります。
まとめ
悪魔があなたの心にささやいて、「お前が救われていて、神に愛されているなんて嘘っぱちだ。お前の独りよがり、単なる願望の表れに過ぎない」と言ってきたら、即座に反論しましょう。
「いや、私の救いは決して独りよがりでも、単なる願望の表れでもない。歴史的事実に基づき、神のことばである聖書に基づき、そして数多くの信仰の先輩たちの証言に基づいた、確かなものだ」。アーメン!