(2026年4月12日)
「死者のためのバプテスマ」とは何か? コリント15章から、復活信仰が私たちの生き方を根本から変える理由を学びます。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
ペテロの第2の手紙3:16で、使徒ペテロはパウロの手紙について言及し、「その中には理解しにくいところがあります」と語っています。今回の「死者のためにバプテスマを受ける」という箇所はその一つかも知れませんね。
一体どういう意味なのでしょう。そして、私たちにどんな関わりがあるのでしょうか? 実は、私たちの生き方を根本から変えるメッセージが隠されています。
1.復活と死者のためのバプテスマ
これから実現する救いの完成
復活の順序
(23節)しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
15章は、コリント教会の中に、死んだクリスチャンが将来復活することを否定する人たちがいたことに関する指導です。
パウロはここまでのところで、人が救われるためには、イエス・キリストは復活しなければならず、人は十字架だけでなくキリストの復活も信じなければならないことを確認しました。
そして、もしも死者が復活しないのであれば、イエスさまも復活しなかったはずだと語って、死者の復活を信じない人の矛盾を指摘しています。
パウロは、クリスチャンは死んで終わりではなく、将来必ずイエスさまによって復活すると改めて宣言しました。
ただ、23節では、復活には順番があると述べています。まずイエスさまが初穂として復活しました。そして、死んだクリスチャンが復活するのは、イエスさまが来臨なさるときです。
この「来臨」とは、イエスさまが千年王国を実現するために地上に戻ってこられる「再臨」とは異なります。将来起こる教会の携挙の時のことを指します。
今、イエスさまは天のパラダイスで、父なる神さまの右の座に座っておられます。そして、将来のある日あるとき、空中まで戻ってこられます。その時、死んでいたクリスチャンがみんな新しい栄光の体に復活し、その時生きているクリスチャンも栄光の体に変えられて、イエスさまの所まで引き上げられます。そして、イエスさまと一緒に天のパラダイスに迎え入れられます。
御子から御父への献呈
(24節)それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
その後、イエスさまが地上に再臨なさり、地上の悪をすべて滅ぼし、悪魔や悪霊も封印して活動できないようにします。そして、千年王国が始まります。
千年が終わると、サタンや悪霊が一時的に解放されて、イエスさまに対して最後の戦いを挑みます。しかし、イエスさまは彼らを打ち破り、ゲヘナという永遠の苦しみの場所に落とされます。また、あらゆる時代の神さまを信じなかった人たちが復活し、やはりゲヘナに落とされます。
そうして、神さまに逆らう者が誰一人いなくなり、イエスさまは完全な支配を確立なさいます。すると、イエスさまはその王国を父なる神さまにお返しになります。
預言されたキリストによる統治
(25節)すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。
救い主が完全な支配を確立するまで、救い主が王として世界を統治するというのは、旧約聖書に預言されていることです。パウロは、そのことを示すために詩篇110:1の言葉を念頭に語っています。
(詩篇110:1)【主】は私の主に言われた。「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」
この言葉は、キリストがあらゆるものを完全に支配なさったときに、キリストの王としての役割が終わると理解できます。
滅ぼされる最後の敵
(26節)最後の敵として滅ぼされるのは、死です。
イエス・キリストによってあらゆる敵が滅ぼされていく中で、最後に残された敵が死です。千年王国の最初の住民は、みんな信者です。携挙されたクリスチャン、復活した旧約時代の信者や、携挙の後に救われて死んだ信者、そして、再臨前の大患難時代を生き延びた信者たちです。この人たちは死にません。
しかし、千年王国で生まれた人の中には、イエスさまを信じないで逆らう人たちも現れます。この人たちは、100歳までは生きますが、やがて死を迎えます。
ところが、死もまた王であるキリストによって滅ぼされます。滅ぼされるというのは、効力を無くすという意味の言葉です。
(黙示録20:14)それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。
千年王国が終わり、新しい天と新しい地が実現すると、もう死ぬ人は誰もいなくなるのです。
御父の除外
(27節)「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。
千年王国が終わり、神さまの敵がすべて滅ぼされ、イエスさまが地上を完全に支配なさったとき、詩篇110:1の預言が成就します。ただし、この場合のイエスさまに従う「万物」に、父なる神さまは含まれないとパウロは言います。
三位一体である聖書の神さま、父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神さまに本来序列はありません。
しかし、子であるイエスさまは父なる神さまに従う立場をあえて選ばれました。聖霊さまも、ご自身をアピールする代わりに、父なる神さまとイエスさまの栄光を現す裏方の働きをあえて選ばれました。
27節はその真理を表しています。
神がすべてにおいてすべてとなられるため
(28節)そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。
すべてのものがイエスさまに従うよう父なる神さまによって計画されたのは、いったんすべての支配を確立したイエスさまが、その王国を父なる神さまにお返しになることによって、父なる神さまがあらゆるものを支配なさるためです。
これが「すべてにおいてすべてとなられる」ということです。
ただし、神さまによる支配は、地上の独裁者たちのような恐怖や抑圧とは無縁です。「すべてにおいて」とは、あらゆる場所、あらゆる時間、そして私たち一人ひとりの存在のすべてにおいて、神さまが共におられるということです。
神さまが私たちの喜びの源であり 神さまが私たちの知恵の源であり 神さまが私たちの存在理由そのものとなります。喉が渇いた人が水を求める必要がないほど、常に潤されているような状態です。神さまが私たちのすべてを満たしてくださる、究極の充足感を意味しています。
もし復活がないとしたら起こる矛盾
なぜ死者のためにバプテスマを受けるのか
(29節)そうでなかったら、死者のためにバプテスマを受ける人たちは、何をしようとしているのですか。死者が決してよみがえらないのなら、その人たちは、なぜ死者のためにバプテスマを受けるのですか。
パウロは、再び死者の復活がなかったら、矛盾が起こることを示そうとしています。まず取り上げたのは、「死者のためのバプテスマ」です。復活がないのなら、どうして死者のためにバプテスマを受ける人がいるのかということです。
この「死者のためのバプテスマ」については、さまざまな解釈が成されてきました。
間違った解釈
その一つが、「生前イエス・キリストを信じないまま亡くなった人が救われるよう、まだ生きている信者がその人の代わりに洗礼を受ける」という解釈です。先祖のために祈る習慣のある日本人には好感が持てる教えかもしれません。
異端とされているモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)は、死者のための代理洗礼を行なっているようです。
しかし、生きている信者が、死者の救いのために洗礼を受けるという代理洗礼の考え方は、聖書の教えに反します。人が救われるのは、洗礼によってではなく、イエスさまの十字架と復活に表された神さまの恵みと、それを信じる私たちの信仰によります。
(エペソ2:8-9)この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
解釈1
文脈上ありそうな解釈の一つは、洗礼を受けることで、自分がこの世に対して死んだ(ローマ6:3-5など)ということを表しているという説です。
洗礼はイエス・キリストの死と復活に結びつくことだから、復活を否定しながら洗礼を受けることは洗礼の意味と矛盾します。その点をパウロが手紙の中で指摘しているというわけです。
ただ、この解釈にも疑問が残ります。この解釈のような洗礼なら、ほとんどのクリスチャンが行なっているはずです。なのに、この29節の口ぶりだと、死者のための洗礼は一部の人しか行なっておらず、パウロ自身も行なっていないように思える点です。
解釈2
私が採用している解釈を紹介しましょう。
今回の箇所の文脈は、コリント教会の中に、死者の復活を否定する人たちがいて、それに対してパウロは、復活はあるということを示そうとしているということです。パウロが「死者のゆえのバプテスマ」の話題に触れたのも、その話の流れの中で解釈されなければなりません。
コリント教会の一部に、死者のための代理洗礼を行なう人たちがいました。それはあくまでも一部の人であり、パウロもそれを正統な教えだとは考えていませんが、とにかくそういう人たちがいたのです。
そして、もしも死者の復活を信じないで、なおかつ死後の救いのために代理洗礼を行なっているとしたら、それは矛盾ではないか。そうパウロは語っているのです。
なぜ伝道者は命がけなのか
(30節-32節前半)なぜ私たちも、絶えず危険にさらされているのでしょうか。兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。
次に、もしも復活がないとしたら、キリストが復活したとか、将来私たちは復活すると宣べ伝えて迫害を受けている伝道者たちはどうなるかとパウロは言います。
パウロは、「日々死んでいる」と表現したくなるほど、さまざまな迫害を経験しています。このコリント人への第一の手紙はエペソで書かれましたが、そのエペソでは獣と戦ったとパウロは言います。
これは伝道旅行中に文字通り獣に襲われたのか、迫害者たちに苦しめられたことの比喩か分かりませんが、とにかく、伝道のためにパウロたち伝道者は苦しい目にあっています。もし復活がないとしたら、こんなバカバカしい話はありません。
刹那的な快楽主義になる
(32節)もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。
そしてパウロは、もしも復活がないなら、私たちは刹那的な生き方に陥ってしまうと言います。死後の祝福もさばきもなく、死んで人生が終わりなのだとすれば、たとえ道徳的な生き方をしようとも、好き勝手に自分の欲望を満足させる生き方をしても変わりません。
コリント教会の中には、罪に対して警戒心がまったく欠けていて、不道徳な生き方を平気で行う人たちがいました。それは、復活を否定していたからなのかもしれませんね。
教理的な正しさと道徳的な正しさの関係
悪い交際は良い習慣を損なう
(33節)惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。
この言葉は、ギリシャの劇作家メナンドロスが語ったものだとされています。堕落した生活を送っている人と交流していると、その悪影響を受けて自分も堕落するという意味です。
パウロは、正しい信仰を持っている人たちに向かって語っています。復活を否定し、福音をないがしろにする人たちとの交わりを続けていると、自分の行ないも堕落に向かうことになるよと。
目を覚ませ
(34節)目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。神について無知な人たちがいます。私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。
そして、パウロは、復活を否定している人たちにも語りかけます。目を覚ましなさい、と。これは酔いを覚ませという意味の言葉です。復活を否定する人たちは、1章以降でパウロが取り上げてきたさまざまな問題を抱える人たちと同じです。
復活を否定する人たちは、ギリシアの伝統的な哲学に基づいてそうしていました。哲学的な知恵を誇り、他の人を見下すのは気持ちのいいものです。それはちょうど、お酒によっていい気分になっているのに似ています。
しかし、損な生き方をするのは、神さまに対する本当の知識を持っていない人です。そんな酔いからはとっとと覚めなければなりません。そして、正しい教えを信じることによって、正しい行ないをし、罪を避けなければなりません。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.教理的な正しさにより道徳的な正しさを得よう
正しい生き方は正しい知識から来る
パウロは、復活を否定するような間違った信仰は、刹那的で快楽主義的な生き方に陥ると警告しました。私たちが正しくきよい生き方ができるために、私たちは正しい信仰を持つ必要があります。
そして、正しい信仰は、単なる思い込みや常識に基づくのではなく、正しい知識に基づいている必要があります。復活なんかないというのは、当時のギリシアでは当然の常識でした。しかし、それは神さまからの知識に基づいていません。
正しい知識は聖書から来る
正しい信仰は、正しい知識から来ます。そして、正しい知識は、神さまが教えてくださる教えに基づきます。神さまは、今の時代、聖書を通してご自分の御心を私たちに示されました。
私たちは、聖書を熱心に読み、何が書いてあるのかを学び続ける必要があります。すでに私たちは聖書に親しんでいますが、もっともっと熱心に、そして体系的に学び続けましょう。
正しい知識は良い環境から来る
パウロは、ギリシアの劇作家の言葉を引用して、自分が置かれている環境の大切さを訴えました。
私たちが接している人やメディアや場所は、私たちをイエスさまにより近づけるでしょうか、それとも遠ざけるでしょうか。
時々自分自身の生活の棚卸しをして、悪影響を及ぼしそうなものや意味の無いものは、思い切って切り捨てることも必要です。そして、積極的に、自分をイエスさまに近づけるものを身の回りに置きましょう。
今週、あなたは何を心がけながら生活しますか?