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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

携挙と栄光の体

コリント人への手紙シリーズ25

コリント人への第一の手紙15章50節~58節

(2026年4月19日)

死への恐怖や人生の虚しさを感じていませんか? 聖書が約束する「携挙」と「栄光の体への変化」という希望によって、今を喜んで生きる力を得ましょう。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

私たちの今の体はやがて朽ちていきます。しかし聖書は、その先に「栄光の体」という新しい希望があることを語ります。さらに、その希望が単なる未来の慰めにとどまらず、今をどう生きるかという実践へとつながるのです。価値観が揺れ動くこの時代の中で、ぶれることがなく確信を持って生きるために、今回の箇所から励ましをいただきましょう。

1.復活と携挙の希望

新しい栄光の体への変化

血肉のからだの限界
(50節)兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

直前の35-49節で、パウロは人間に与えられる2つの体について語り、その2つのものを対比しています。一つは、今の私たちが持っている生まれながらの血肉の体。もう一つが御霊に属する栄光の体です。

私たちは、血肉の体をアダムから受け継ぎました。そして、キリストは私たちに新しい御霊に属する体を与えてくださいます。
今の血肉の体はやがて朽ち果てますが、栄光の体は朽ちることなく永遠に続きます。

50節でパウロは、血肉の体は神の国を相続できないと宣言しました。神の国を相続するというのは、やがて千年王国に招き入れられ、さらにその後新しい天地に住んで永遠に幸せに暮らすことを指しています。

永遠の祝福の時を過ごすためには、朽ちてしまう今の体では不適格です。朽ちることのない栄光の体が必要です。

この言葉を通して、私たちの救いにとって復活は絶対に必要な要素なのだということを、パウロは読者に伝えようとしています。
からだへの変化についての奥義
(51節)聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。

パウロは奥義を語ると言いました。奥義とは、前の時代には隠されていたが、後の時代になって神さまが明らかになさった真理を指します。

まず、パウロは「私たちはみな眠るわけではない」と語ります。これは、「将来のある時点で、すでに死んでいるクリスチャンがいるけれど、その時生きているクリスチャンもいる」という意味です。

この「将来のある時点」とは、この後の52節で語られる、終わりのラッパが鳴る時のことです。そして、その時、クリスチャンは死んでいても生きていても、全員が姿を変えられます。

この「変えられる」という言葉には、「まるっきり新しいものに交換される」というニュアンスがあります。新しく与えられる栄光の体は、今の体が修復されて少しマシになった程度のものではなく、完全なる新品です。
終わりのラッパ
(52節)終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

終わりのラッパが鳴ると、その時すでに亡くなっていたクリスチャンたちは、朽ちない栄光の体が与えられて復活します。そして、51節で語られたとおり、その時まだ生きていたクリスチャンたちも、復活の体と同じ栄光の体に変えられます。

栄光の体は朽ちることがありません。病気になったり死んだりすることもありません。この私も傷もシミも消え去り、肩こりや腰痛に悩まされることもなく、花粉を気にすることもなく、メタボ体型も解消されます。

この時起こることについては、テサロニケ人への第一の手紙にも記されています。

(第1テサロニケ4:16-17)すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

この将来起こる出来事のことを、「携挙」と呼びます。

ところで、ここに出てくる終わりのラッパは、ユダヤの祭りの一つであるラッパの祭りと関係があるとされています。
モーセの律法では、イスラエルの人たちが毎年7つの祭りを祝うよう定められていました。その5番目、秋に最初に行われるのがラッパの祭りです。ラッパの祭りでは、角笛を吹き鳴らします。

角笛は、王の戴冠式で吹き鳴らされました。ですから、 この祭りは、イスラエルの人たちにメシア(キリスト、救い主)こそ王であることを再確認させました。

そして、ラッパの祭りの9日後に「宥めの日」(贖罪の日)と呼ばれる祭りが行われます。この宥めの日は、すべてのユダヤ人が自分たちの罪を振り返り、悔い改めて、神さまからのさばきを免れる日です。ラッパの日は、その宥めの日が近いことをイスラエルに思い起こさせる意味もあります。

終わりのラッパが鳴る時、イエスさまとその恵みの福音を信じたクリスチャンたちは栄光の体に変えられます。

そして、イエスさまを信じない人たちに対しては、いよいよさばきの時が近づいていることを知らせます。だから悔い改めてイエスさまを信じなさいと勧める、愛に満ちた神さまからの警告でもあるのです。

死に対する勝利

からだの変化の本質
(53節)この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。

いつか朽ちてしまう今の血肉の体を持つ私たちは、そのまま体と共に朽ち果てるわけではありません。新しい栄光の体を着ることになります。その結果、本来死ぬはずだった私たちは、もはや死なない存在になります。

この53節で「ことになる」と訳されている言葉は、「必然的にそうなる」というニュアンスを持ちます。「そうなったらいいよね」という単なる願望ではなく、神さまのご計画の中で、必ずそうなるという強い約束を伴っています。
この復活、そして栄光の体への変化の約束は、イエスさまを信じた私やあなたにも確かなものとして与えられています。
預言の成就
(54-55節)そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」

栄光の体が与えられることによって、私たちが死を乗り越え、死に勝利するという約束は、パウロが独自に考え出した思想ではありません。旧約聖書の預言で約束されていることです。

まず預言者イザヤは、神さまが将来信じる者たちに与えてくださる祝福の一つについて、次のように述べています。

(イザヤ25:8)永久に死を吞み込まれる。【神】である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。【主】がそう語られたのだ。

また、預言者ホセアも次のように預言しました。

(ホセア13:14)わたしはよみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖う。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。よみよ、おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。

ですから、復活と栄光の体の約束は、確かなものです。
死と罪と律法
(56節)死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

「死のとげ」とは、死が人を刺して殺す力の源のことです。それは罪だとパウロは言います。罪とは神さまの存在やそのすばらしさを認めず、神さまのみこころに逆らうことです。正義である神さまは、罪人に罰を与えて滅ぼさなければなりません。

祝福の源である神さまから切り離されて、永遠に苦しみ続けること。これが「永遠の死」です。これが、人を死に追いやる死のとげは罪であるという意味です。

そして、罪の力は律法だとパウロは言います。これは、罪が罪として成立するためには律法が必要だということです。

法律があるから犯罪が成立します。たとえば、私が今ここで水を飲んでも、警察につかまって牢屋に入れられることはありません。日本の法律がそれを禁じていないからです。しかし、私がお店のペットボトルの水を、代金を支払わず飲んだら捕まります。窃盗は法律で禁止されているからです。

ローマ人への手紙7章でも、パウロは同じことを語っています。本来良いもののはずである神さまの律法は、私たちが罪人だということを明らかにしました。その結果、私たちは肉体的にも霊的にも死ぬものになってしまったのです。
キリストによる勝利
(57節)しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

「律法→罪→死」という絶望的な流れを、イエスさまが断ち切ってくださいました。

イエスさまは私たちの身代わりになってくださいました。そして、十字架で血を流して死ぬことによって、私たちが受けるべき罪の罰をすべて引き受けてくださいました。こうして、私たちは、何の償いもしていないのに罪を赦されることになりました。

そして、イエスさまは私たちの初穂として復活してくださいました。こうして、本来死ぬはずだった私たちは、死を乗り越えました。霊的には神さまの子どもとして新しく生まれ、肉体的にも決して朽ち果てることのない栄光の体が与えられます。

これが、イエスさまによって与えられた勝利です。

勧め

主のわざに励め
(58節)ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

15章のまとめとして、パウロは「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい」と、コリント教会の人たちに向けて語ります。

まず「堅く立って、動かされることなく」は、間違った教え、特に復活否定論に巻き込まれるなと勧めています。

そして、「主のわざに励む」の「主のわざ」は、イエスさまが喜ばれる行動、イエスさまのご計画を実現するような行動のことです。

また、「励む」は「満ちあふれる」という意味を持ちます。義務的で消極的に動くのではなく、積極的に心から喜んで行なうような動き方を指します。

たとえその行動をするのに苦労が伴ったとしても、場合によっては馬鹿にされたり迫害を受けたりすることがあったとしても、復活信仰を持つ者にとっては58節の後半に書かれているように、決して無駄になりません。

なぜなら、復活した私たちは、地上で行なったすべての良い行動を神さまに認められ、すばらしい報酬をいただくことになるからです。

では、この「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい」という勧めは、今ここで生きている私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか。後半はそれをご一緒に考えたいと思います。

2.堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい

主のわざに励もう

主のわざとは、イエスさまが喜ばれる行ない、イエスさまのご計画を推進するような行動のことです。それをいやいやながらでなく、喜んで積極的に行なっていこうと聖書は勧めます。
実験
以前、カウンセリングセミナーの際に、受講生の皆さんに次のような実験をやっていただいたことがあります。今再現してみますから、ぜひ皆さんもやってみてください。

端午の節句、こどもの日が近づいてきましたね。端午の節句と言えば、鯉のぼりです。この近くの釈迦堂川にも、毎年400匹を超える鯉のぼりの大群が吊り下げられて、風になびきます。かなりの見物です。

私が週日働いている大玉村の直売所にも、毎年70匹以上の鯉のぼりが掲げられるのですが、こちらは「屋根より低い鯉のぼり」です。地面すれすれの所を泳いでいるのです。訪れた子どもたちが、鯉のぼりの間を走り回って、まるで鯉と一緒に泳いでいるような光景が見られます。
想像してみてください。鯉上りの大群が地面すれすれをたなびいている様子。

では、次にその鯉のぼりのイメージを、頭の中から完全に消し去ってみましょう。さあ、消してください。鯉のぼりについて考えないでください。鯉のぼりを頭の中から追い出してください……。

どうですか? 消し去ろうとすればするほど、鯉のぼりが迫ってくるでしょう?

それでは、次に次のようなイメージを思い描いてみましょう。「ドラえもんが、どこでもドアに手を挟んで絶叫している場面」。ドアをバタンと閉めた時、手を挟まれたドラえもんが、目を見開き、あのダミ声で絶叫しています。思い浮かびますか?

さて、今ドラえもんを思い浮かべていた時、いつの間にか鯉のぼりはどこかに行ってしまっていたはずです。
罪のことばかり考えるのではなく
罪を避けることは大切です。しかし、何が罪なんだろうか、何をしたらイエスさまに叱られるんだろうかということばかり考えていると、私たちの生き方はどんどん義務的・消極的になっていきます。

むしろ、何をしたらイエスさまに喜んでいただけるだろうか、私が何をしたらイエスさまのご計画が一歩前に進むだろうかということを考えるようにしましょう。そして実践するようにしましょう。

今、イエスさまがあなたにして欲しいと願っておられるのは何でしょうか? 今週、そのことに一生懸命取り組んでください。

いつも

私たちは積極的に喜んで、主のわざ、イエスさまが喜ばれる行ないをします。しかも、いつもそうでなければなりません。

「いつも」というフレーズで思い出したのは、第1テサロニケの有名な言葉です。

(第1テサロニケ5:16-18)いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。

また、テモテに対するパウロの勧めの言葉もそうです。

(第2テモテ4:2)みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

どんなときも、状況が自分にとって都合が良くても悪くても、体調が優れている時もいない時も、自信に満ちあふれている時も失敗して落ち込んでいる時も、常にイエスさまに喜ばれる行ないは何か考え、それを実践し続けましょう。

堅く立って、動かされることなく

そして、今申し上げたような、どんなときもイエスさまに喜んで従い続ける生き方は、イエスさまが将来必ず報いを与えてくださるという信仰に基づきます。

私たちは、将来必ず栄光の姿に変えられます。そして、豊かな報いをいただけます。それは、変わることがない神さまのみことば、聖書の言葉がそう約束しているからです。

この世の価値観は、時の流れと共に変化していきます。ちょっと前までは、電気自動車こそ環境に良く、ガソリン車はダメだと言われていました。実際、ヨーロッパの国々では、ガソリン車が規制されて、電気自動車の普及に国を挙げて取り組んでいました。

しかし、今は少し流れが変わっています。電気自動車それ自体はほとんど二酸化炭素を発生しませんが、動かすための電気を作る過程、あるいは自動車そのもの(特にバッテリー)を作ったり廃棄したりする過程を含めると、かえってガソリン車より環境に悪いんじゃないかと言われるようになってきたのです。

この世の価値観は変わります。しかし、みことばはどんな時代でも変わることがありません。預言者イザヤは高らかに宣言しています。

(イザヤ40:8)草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。

罪への誘惑を感じたり、不安に襲われたり、やる気を失いそうになったりしたときは、聖書の約束を思い出しましょう。神さまがいつも私たちと共にいてくださること、そして決して最善以外のことをなさらないこと、そのためにさまざまな約束が用意されていることを思い出しましょう。

今週も、聖書の言葉に親しむ一週間でありますように。

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