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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

手紙の結び

コリント人への手紙シリーズ27

コリント人への第一の手紙16章13節~24節

(2026年5月3日)

コリント人への第一の手紙」の結びから、信仰の土台を学びます。自分中心ではなくキリスト中心に生きるとは? 愛を動機とした奉仕と、再臨を待ち望む「マラナタ」の信仰を解説。

礼拝メッセージ音声

参考資料

続きを読む15節の「初穂」は、そのシーズンで最初に取れる穀物や果物のことです。

15節の「アカイア」は、ギリシア南部にあった属州で、コリントはその代表的な都市です。

19節の「アジア」は、小アジア西部の属州。当時パウロが滞在していたエペソはその中心都市でした。

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19節の「アキラとプリスカ」は、かつてコリントに住んでいたテント職人の夫婦。パウロは、コリントを始めて訪れた際に、しばらく彼らの家に住み、テント作りの仕事を手伝って生活の糧を得ました。妻のプリスカは、使徒の働きでは愛称のプリスキラの名で呼ばれています。

イントロダクション

手紙の最後には、どうしても伝えたいことが凝縮されて書かれるものです。コリント人への第一の手紙もいよいよ結びに入ります。数々の問題に揺れた教会に対し、パウロは最後に何を語ったのでしょうか。そして、私たちに何を語っているのでしょうか。

それは、私たちが何を中心にして生きるのかという問いかけです。それにどう答え、実際にどう生きるかによって、私たちの生き方は180度変わります。

1.コリント人への第一の手紙の結び

結びの言葉

霊的な覚醒と信仰の堅固
(13節)目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。

コリント教会のさまざまな問題について指導してきたコリント人への手紙も、いよいよ結びの段階になりました。
この手紙のシメの段階で、まずパウロは「目を覚ましていなさい」と命じます。聖書の中でこの言葉は、救い主の再臨と神さまのさばきが近いことを知って、気を引き締めるべきことを表しています。

(マタイ24:42)ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。

一度イエスさまの恵みの福音を信じてクリスチャンになったら、その後罪を犯したからと言って救いが取り消しになり、将来永遠の苦しみという罰を受けることは決してありません。だからといって、安心して罪を犯して良いということにはなりません。

罪は、救い主イエスさまが十字架にかかって私たちの代わりに償いをしなければならないほど、悪い物だからです。そして、罪を犯して悔い改めないでいると、将来千年王国で与えられるはずのさまざまな祝福をもらい損ねてしまいます。それはもったいない話です。

コリント教会の中には、罪に対して無頓着な人たちがいました。それを改めて戒めて、きよい生き方をするよう勧めています。

そして、「堅く信仰に立つ」の「信仰」は、使徒たちが伝えている正統的な教えを信じることです。

「雄々しく、強くあれ」という命令は、モーセの後継者ヨシュアに対して語られた神さまの言葉を思い出させます。

(ヨシュア1:7)ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。

「雄々しく」は直訳すると「男らしく」という意味ですが、別に女性を無視したり蔑視したりしているわけではありません。古代において、男性は事があれば兵士として戦うべき存在でした。

特に、神さまのみこころを守り、生活のあらゆる面で聖書の教えに従い続けることについて、悪魔やこの世からのさまざまな誘惑をはねのける強さを求めています。
愛の動機
(14節)一切のことを、愛をもって行いなさい。

そして、パウロは、13章で取り上げた愛の原則を再び取り上げます。どれほどの奇跡を行ったとしても、どれほど良い行いをしたとしても、愛の動機で行うのでなければ無に等しいとパウロは言いました。

私がやろうとしていること、私が語ろうとしているこの言葉は、イエスさまや他の人に対する真実の愛に基づいているだろうか……そのことをいつも意識しながら生活していこうとパウロは勧めています。
ステファナ一家の模範
(15節)兄弟たちよ、あなたがたに勧めます。ご存じのとおり、ステファナの一家はアカイアの初穂であり、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。

13-14節の生き方を実践しているモデルとして、パウロはステファナ一家を取り上げます。

この人たちは、初穂、すなわちパウロがコリントに来て最初に救われました。そして、パウロから直接洗礼を受けた数少ない人たちとして、1章で名前が挙がっています。

「熱心に奉仕した」は、「強いられてではなく、自ら進んで奉仕した」という意味です。ステファナとその家族は、他の人に喜んで仕えるしもべの心を持った人たちでした。

それは神さまのさばきが怖いからではないし、他の人にほめられたいからでもありません。神さまの恵みに対する、あふれる感謝と喜びから出てくるものです。
従うべき人
(16節)あなたがたも、このような人たちに、また、ともに働き、労苦しているすべての人たちに従いなさい。

ステファナ一家の他にも、彼らと同じように自発的に人に仕える人たちがいました。コリント教会の人たちに対して、パウロはそのような人たちに従うようにと勧めます。

「従う」というのは、階級を前提とした服従ではありません。心から尊敬し、自発的に協力することを指します。

コリント教会の人たちは、勝手に人の優劣を決めて比較し合ったり、分派争いを引き起こしたりしていました。

しかし、奇跡的な賜物が与えられているかどうか、哲学的知恵があるかどうか、この世での社会的地位や経済状態がどうか、見た目がどうかは、クリスチャンの優劣に関係ありません。

本当に尊敬されるべきなのは、ステファナたちのように自発的に神さまと人とに仕えている人たちです。
3人の代表者
(17節)ステファナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。あなたがたがいない分を、彼らが埋めてくれたからです。

この手紙は、小アジア西部のエペソという町で書かれました。そのエペソに、ステファナ、ポルトナト、アカイコの3人が来たとパウロは言います。ポルトナトとアカイコの名前は、聖書ではここにだけ登場します。
  • 1:11で、パウロはクロエという女性の家の人たちから、コリント教会の問題について聞いたと語っています。ただ、この人たちがステファナたちと一緒にエペソに来たかどうかは不明です。
コリントとエペソは離れていましたから、パウロとコリント教会の人たちは物理的に交流することはできません。一緒の場所で祈ったり、話し合ったり、そっと肩に手を置いたり、一緒に協力して奉仕したりできないのです。しかし、ステファナたちが来てくれたことで、それが可能になったとパウロは言います。

私だけでなく、皆さん一人ひとりが中通りコミュニティ・チャーチを代表しています。皆さんがこの世で行う正しい行い、優しいまなざしと言葉かけ、心からの親切は、皆さん自身の行動であると共に、教会の行動でもあります。
尊ぶべき人
(18節)彼らは、私の心とあなたがたの心を安らがせてくれました。このような人たちを尊びなさい。

私たちクリスチャンは、たとえ物理的な争いの中にいなくても、いつも霊的な戦いを経験しています。

悪魔や悪霊は、常に私たちが本当の教えから逸れるように、そして三位一体の神さまへの愛や人への愛を忘れるように、さらに自分自身の救いの確信を失わせるように誘惑してきます。

そればかりか、信仰のために物理的な苦しみを味わうこともあります。パウロも、コリント教会の人たちも、イエスさまを信じない人たちからさまざまな批判や嫌がらせを受けていました。

そのような戦いを経験している人たちにとって、ステファナたちのように堅く信仰に立ち、自発的に仕える人たちの存在は、大きな慰めや励ましをもたらしてくれます。

目立つリーダーだけでなく、このような隠れた奉仕者をこそ尊ぼうではないかとパウロは言います。

教会の交わり

アジアの諸教会からのあいさつ
(19節-20節前半)アジアの諸教会がよろしくと言っています。アキラとプリスカ、また彼らの家にある教会が、主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。

「アジア」はローマ帝国のアジア属州のことで、今のトルコの西部地域です。パウロが滞在していたエペソの他、黙示録2-3章の7つの町の教会は、すでにこの頃には誕生していたと考えられます。

そのアジア州の諸教会の人たちが、コリント教会の人たちにあいさつを送るとパウロは言います。

特に、アキラとプリスカの名前が挙げられています。この夫婦は、かつてコリント教会にいて、前回の第2回伝道旅行でパウロがコリントを訪れたとき、最初に宿泊場所と仕事を提供してくれました。そして、パウロがコリントを離れる際に同行し、エペソに住み着きました。

コリント教会の人たちにとって懐かしい存在なので、二人の名前が挙げられているのです。

そして、すべての兄弟たち、これは特にエペソ教会のクリスチャンたちのことでしょう。彼らもあなたたちにあいさつしているとパウロは言いました。
聖なる口づけによるあいさつ
(20節後半)聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。

口づけは、この時代によく行われていたあいさつの方法でした。ただし、家族や恋人同士の口づけ以外の場合、社会的な身分が関係していました。弟子が師匠に対して、しもべが主人に対して、家臣が王に対して、服従の意味を込めて口づけしたのです。

パウロがわざわざ「聖なる」という言葉を付けているのは、一般的な社会階層に基づいた口づけではないこと、身分を超えた交わりのしるしであることを強調するためです。もちろん性的なニュアンスも排除されています。

聖なる口づけであいさつをするためには、一部のコリント教会の人たちのように、誰が偉いかを競うような心を持っていては不可能です。

私たちクリスチャンは、みんなイエスさまによって一方的に愛され、救われました。神さまの前では、誰も自分の正しさを誇ることはできません。私たちは、みんな神さまの子ども、イエスさまのしもべとして同等です。

今の日本では、口づけの習慣がありませんから、この命令を文字通り守ることは求められていません。しかし、この言葉が表している、互いを神さまの家族、イエスさまのしもべとして尊重し、愛し合う心を大切にしましょう。

パウロからのあいさつ

自分の手で
(21節)私パウロが、自分の手であいさつを記します。

古代の手紙は、口述筆記が一般的でした。手紙の送り主が口で語った内容を、書記が代わりに書いたのです。そして、送り主は最後に署名をして、この手紙が本人から送られたものだということを証明しました。

1:1-2には「パウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ」と書かれていますから、おそらくソステネが書記役を務めたのだろうと考えられています。

使徒18:17に、コリントの町の会堂司だった人物で、ソステネという名前の人が登場します。この二人が同一人物だというのも大いにあり得ます。

そして、本人が最後に署名するほか、短いあいさつの言葉も自分で書くことがよくありました。相手に対する親愛の情を表すためです。コリント教会には、さまざまな問題があり、パウロのことを批判したりバカにしたりする会員までいましたが、それでもパウロは彼らのことを心から愛していたのです。

そのあいさつの言葉が、22-24節です。
呪いとマラナタ
(22節)主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください。

「主を愛さない者」とは、イエスさまを救い主として信じ、従うことを拒否する人たちのことです。

そして、「のろわれよ」とは、神さまからの罰が下って永遠に苦しめばいいというニュアンスではなありません。神さまのさばきにおゆだねしますというニュアンスです。

そこには感情的な恨み辛みはありません。むしろパウロは、救いを受け取ろうとしない人たちに対する心からのあわれみを持っていました。たとえば、パウロはユダヤ人の多くから迫害を受けていましたが、彼らについて次のように語っています。

(ローマ9:3)私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。

後半の「主よ、来てください」は、アラム語で「マラナタ」と言います。後の時代の書物にも登場する祈りの言葉です。第1コリントが書かれた時代も、すでに公の礼拝や祈り会の中でよく用いられたフレーズなのでしょう。
イエスさまが空中再臨なさる時、携挙が起こります。死んでいたクリスチャンは栄光の体によみがえり、その時生きているクリスチャンも復活の体と同じ栄光の体に変えられて天に引き上げられます。その時から、時代は大きく変わり始めます。

その後、再びイエスさまは地上に戻ってこられ(地上再臨)、すべての悪を滅ぼして千年王国(神の国、天の御国)を建設なさいます。私たちはそこに住み、千年間幸せに過ごします。さらにその後、今の宇宙は消え去って新しい天と新しい地が創造され、私たちはそこに移されて永遠の祝福の時を過ごすのです。

携挙がいつ起こるのか、知っているのは天の父なる神さまだけです。イエスさまでさえ知らないとおっしゃいました(マルコ13:32)。私たちは、いつ携挙が起こるかを気にするのではなく、いつ起こっても良いように目を覚まして備えていることが大切です。

そして、祈りを積み重ねていきましょう。「マラナタ。主よ、来てください」。
主の恵みがともにあるように
(23節)主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。

恵みは、聖書の中心テーマの一つです。

恵みを忘れると、信仰が出来高制になってしまいます。どれだけ良いことをしたかによって、神さまの愛が増えたり減ったりしてしまう。ミスをすればさばかれるという間違った考え方です。それでは信仰生活がしんどいものになってしまいます。

私や皆さんが救われ、祝福されるのは、ただただイエスさまが示してくださる一方的な選びと愛、恵みによります。
私の愛がともにあるように
(24節)私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべてとともにありますように。

そしてパウロは、自分もコリント教会の人たちを愛していることを語ります。しかも、その愛は単に感情的なものを超えて、「キリスト・イエスにあって」のものです。英語だと「in Christ Jesus」(キリスト・イエスの中で)ですね。

本の中のしおりが、本と共に移動するように、キリストの体験はキリストの中にいる私たちの体験となります。

イエスさまが十字架にかかって死なれたので、罪人の私たちは死んで、罪の償いが完了しました。そして、イエスさまが復活なさったので、私たちは神さまの子どもとして新しく生まれました。クリスチャンは、そのようにして救われ、教会に加えられたのです。

コリント教会にはさまざまな問題がありました。また、パウロ自身も、かつては教会を迫害する罪を犯しました。しかし、共にイエスさまによって赦され、神さまに愛される者となりました。

パウロのコリント教会への愛は、共にイエスさまの恵みを受け取った者同士だという感覚から生まれています。単なる感情を超えたこの運命共同体的な感覚が、クリスチャン同士の愛の土台です。
こうして、第一の手紙は幕を閉じました。しばらくの後、パウロは第二の手紙を書くことになりますが、それについては来週以降お話しします。

それでは今回の箇所から、そして第一コリント全体から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.キリスト中心主義で行こう

人間中心主義を排する

コリント教会のさまざまな問題は、人間、特に自分自身の感情や欲望、あるいは都合を世界の真ん中に置く人間中心主義から生まれていました。
  • 自分の感覚は、死んだ人が復活するなどバカバカしい。だから、復活なんかない。
  • 自分は、哲学的な知恵が何より大事だと感じる。だから、哲学的な知恵に欠けている人は軽蔑されて当然だ・
  • 自分は、リーダーのAさんよりBさんの方が優れていると感じる。だから、Aさんには従わなくてよい。
  • 自分はこれをやりたい。だから、聖書が何を語っていようが私はそれをする。
パウロは、自分自身を世界の中心に置く生き方を非難しました。代わりに提示したのはキリスト中心主義です。

キリスト中心主義で生きる

(1) 判断基準
私たちの感情や欲望、あるいは都合で良し悪しを判断したり、行動を決めたりするのではありません。私たちは、神さまのみこころを基準に判断し、行動します。神さまのみこころは、今の時代は主に聖書を通して知ることができます。

聖書の教えと自分の感情が対立する時があります。たとえば、聖書は敵を赦し、それどころか愛し祝福するよう繰り返し教えています。ところが、私の感情はそうしたくありません。天罰覿面! 天があいつをさばかないのなら、自ら復讐してやるとさえ思います。

それでも、どれほど葛藤しようとも、私たちは最終的に聖書の教えの方を優先させます。
(2) 人間関係の土台
コリント教会では、メンバー同士が人と人とを比較して優劣を判断したり、自分の方が他の人よりも立派だと証明することに躍起になったりしていました。

しかし、パウロは、私たちは本来ならみんな罪人であって、神さまの敵だったけれど、イエスさまの恵みによって一方的に赦され、神さまに愛される者とされたのだということを強調しました。

地上にいれば、山の高さはみんな違います。しかし、太陽の位置から眺めれば地球の表面はつるんとしています。安達太良山も富士山もエベレストもみんな似たり寄ったりです。

単なる自己卑下ではなく、イエスさまの恵みと愛を土台とした謙遜さが、人間関係の土台です。私たちはイエスさまによって一方的に赦され、愛されました。だから、私たちは互いに赦し合い、受け入れ合い、尊敬し合い、大切にし合うのです。
(3) 愛の実践
特にパウロは、愛の実践の大切さを説きました。愛がなければ、すべてが空しく意味がないとさえ語っています。

たとえば、クリスチャンはモーセの律法から解放されているので、律法が禁じている食べ物を食べても問題ありません。また、偶像の神々も本当は存在しないのですから、偶像にささげられた肉を食べても、別に汚れることはありません。

しかし、まだそのような信仰が育っていない人の前では、その人をつまずかせないためにあえて特定の食べ物を食べないことも勧めています。

あるいは、未信者や救われたばかりの人たちの気持ちに配慮して、それぞれが好き勝手に異言で祈ったり預言したりするのを避けるようにとも勧めています。

愛のために、あえて自分の権利や自由を放棄するのです。

そして、大変な生活を送っているエルサレム教会への義援金についてもパウロは指示しました。愛は単なる感情ではなく、行動となって現れて初めて意味を成します。

自分事としてとらえる

クリスチャンになりたての頃、出エジプト記や民数記を読んでいて、イスラエルの民が繰り返し繰り返し「水がない」とか「マナには飽きた」とか言ってつぶやいているのを見て、「しょうがない人たちだなぁ」と感じていました。

ところが、その後何年も経ち、この福島県須賀川市で開拓伝道を始めた頃、生活のために2年間警備員の仕事をしていました。施設警備だけでなく、屋外での交通誘導もよく行いました。

福島県は北国のはずなのに、なぜあんなに夏が暑いのでしょう。夏にアスファルトの上で一日中誘導棒を振っていると、すぐに脱水症状を起こしてしまいます。福島よりさらに暑いシナイ半島の荒野で水がなければ、そりゃあつぶやきたくもなるってもんです。
それなのに、神さまはつぶやき罪を犯し続けるイスラエルを愛し、赦し、国を失うようなさばきを受けても最後には回復させてくださいました。ですから出エジプト記や民数記が、しょうもないイスラエルの民の記録ではなく、圧倒的な神さまの愛の記録として読めるようになったのです。

コリント人への手紙も同じです。私たちは、第三者としてコリント教会の人たちを非難することができます。しかし、聖霊なる神さまがパウロにこの手紙を書かせ、今こうして私たちに読ませておられるのは、私たちを評論家にするためではありません。当事者にするためです。

コリント教会の人たちに向けて語られた戒めや励ましは、この私に贈られた言葉です。あなたに贈られた言葉です。世界の中心におられるイエスさまが、コリント教会の人たちを命がけで愛されたように、私たちも愛されています。そのことをいつまでも忘れないでいたいですね。

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