(2026年5月10日)
神はどんな苦しみの時も慰めを与えてくださルと、パウロは宣言します。第2コリント1章から、苦しみに積極的な意味を見出し、平安を手にする3つの鍵をお伝えします。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
コリント人への第一の手紙の解説が終わって、今日から第二の手紙に移ります。この手紙は、第一の手紙が書かれた約2年後(紀元57年頃)に、マケドニアで書かれました。
第一の手紙で取り上げたさまざまな問題がある程度解決したことを喜ぶと共に、なおもパウロを批判し続ける人たちに対する弁明の言葉や、パウロの個人的な心情が述べられています
今回の箇所から、クリスチャンが苦しみを味わうとき、神さまは慰めを与えてくださるということを受け取って、希望と平安を手に入れましょう。
1.苦しみの中で与えられる神からの慰め
あいさつ
手紙の送り主と宛先
(1節)神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカイア全土にいるすべての聖徒たちへ。
この手紙は、パウロとテモテから送られたものです。宛先はコリント教会と、アカイア地方の諸教会です。
まずパウロは、自分が「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒」だとわざわざ書いています。これは、コリント教会の中に、パウロが使徒であることを受け入れようとしない人たちがいたためです。この問題については、別の機会に触れることになります。
それから、一緒に名前が挙げられているテモテは、第2回伝道旅行の時にパウロやシラスと共にコリントに入り、1年半に及んだパウロの伝道・牧会を助けました。コリントの人たちにとっては馴染みのある人物です。
第一の手紙は小アジア(今のトルコ)西部のエペソで書かれました。その後、パウロはエペソを去ってマケドニア(ギリシア北部)に移動しましたが、テモテはパウロより先にマケドニアに派遣されていました(使徒19:22)。
コリントと共に宛先に挙げられているアカイアは、ローマ帝国の属州の一つでギリシアの南部地域です。コリントはその中心都市でした。
パウロがコリントを去って約5年が経過していますが、この頃にはアカイア地方の他の町にも教会が誕生していたのでしょう。少なくとも、アテネには教会が存在しました。

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祝福の祈り
(2節)私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
恵みと平安があるようにという祝福の祈りは、パウロの手紙に共通して登場するあいさつの言葉です。
この後パウロは、苦しみの中でも神さまが慰めを与えてくださると語りますが、その慰めは神さまの恵みとそれに伴う平安が源です。
恵みとは、私たちは何のお返しも償いもできないのに、神さまがただ一方的に私たちを選び、愛し、祝福してくださることです。たとえ私たちが弱くても、どんなときも全知全能の神さまが私たちと共にいてくださり、守り、支え、導いてくださいます。
ゆえに、私たちはどんな状況の中でも、たとえ苦しみを味わっている最中でも、それでも「何があっても大丈夫」という深い平安を味わうことができます。
神への賛美
(3節)私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。
続いてパウロは、神さまをほめたたえます。ここでは、神さまについて3つのことが語られています。
1つ目は私たちの主イエス・キリストの父。イエスさまは、天の神さまのことを「父」として弟子たちに、そして私たちに紹介なさいました。神さまは哲学的な思想の産物ではないし、宇宙の根本的なエネルギーといった命のない存在でもありません。生きておられる人格的な存在です。
そして2つ目に、その父は「あわれみ深い」お方です。神さまは正義であり、悪をさばかれます。しかし、同時に恵みによって私たちの罪を赦してくださる、愛情に満ちたお方でもあります。
3つ目。そのあわれみ深い父なる神さまは、その恵みによって私たちが苦しむときに慰めを与えてくださって、私たちが倒れてしまわないように支えてくださいます。
苦難と慰め
神による慰め
(4節)神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。
3節で語られた慰めに満ちた神さまは、私たちが苦しむ時に慰めを与えてくださいます。しかも、私たちが慰められることによって、それを見た他の人たちも慰められるとパウロは言います。
私たちに与えられる神さまからの祝福は、ただ私たちだけが幸せになるために与えられるものではありません。私たちを通して、他の人も幸せになるために与えられます。そのことをいつも忘れないでいましょう。自分の幸せのことばかり考えていると、かえって幸せから遠ざかってしまいます。
キリストによる苦難と慰め
(5節)私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。
イエスさまのみこころ通りに生きることは、何の苦しみもないバラ色の人生が手に入ることではありません。
この世は基本的に神さまに逆らう方向に傾いていますし、悪魔や悪霊たちは、私たちがイエスさまに従うことを嫌がって全力で邪魔をしてきます。そのため、みこころに従った生き方をしようとすると、私たちは他の人たちから馬鹿にされたり、迫害を受けたり、問題にぶつかったりします。
また、イエスさまを信じた時、聖霊なる神さまが私たちの内に住んでくださるようになりました。聖霊さまは私たちを聖めてくださいます。すると、今までは罪だと思わなかったことが罪だと分かるようになります。
その結果、私たちは自分自身がかえって邪悪な存在になったかのように感じることがあります。また、神さまに忠実に歩んでいるかのように見える他の人と比較し、自分が何と小さな存在かと思わされることもあります。そんな思いは、私たちを罪責感や劣等感で苦しめることになるでしょう。
しかし、そういった苦しみは、イエスさまに従うために引き起こされています。イエスさまは、必ず慰めを与えて苦しみから解放し、平安を与えてくださいます。ですからパウロは、キリストの苦難があふれているように、キリストによる慰めもあふれていると宣言します。
あなたがたのための私たちの苦しみ
(6節)私たちが苦しみにあうとすれば、それはあなたがたの慰めと救いのためです。私たちが慰めを受けるとすれば、それもあなたがたの慰めのためです。その慰めは、私たちが受けているのと同じ苦難に耐え抜く力を、あなたがたに与えてくれます。
4節の後半で語られたことを、パウロはさらに取り上げています。パウロが苦しんでいるのは、コリント教会の人たちが慰められ救いを手にするためです。
また、パウロが苦しみの中で神さまによって慰められるのも、苦しみに遭っているコリント教会の人たちが、それを見て「自分たちも大丈夫だ」という慰めを受け取るためです。そして、慰めを受けたコリント教会の人たちは勇気づけられ、苦しみに耐える力を受け取るでしょう。
揺るがない望み
(7節)私たちがあなたがたについて抱いている望みは揺るぎません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めもともにしていることを、私たちは知っているからです。
コリント教会の人たちが、苦難に耐える力を受け取るという希望は揺るがないとパウロは言います。コリント教会の人たちは、パウロと同じようにイエスさまに従うが故の苦しみを味わいます。そして、それだけでなく、パウロと同じようにイエスさまからの慰めも受け取ります。
それは、コリント教会の人たちとパウロが、切っても切れない親密な関係にあるからです。
パウロがアジアで経験した苦難
(8節)兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。
コリント教会とパウロは親密な関係にあります。ですから、パウロが経験した苦しみについて知ってほしいとパウロは言います。
アジアは、ローマ帝国の支配下にあるアジア属州のことです。小アジア、すなわち今のトルコの西部地域にありました。その中心都市はエペソです。パウロは今回の第3回伝道旅行で、約3年間エペソを中心として活動しました。
エペソでの伝道活動は大変祝福されましたが、福音に反対するユダヤ人や異邦人からの反発も大きく、その分パウロは様々な苦しみを経験しました。その一つが使徒の働き19章に書かれています。
アルテミスというギリシア神話の女神をまつる神殿の模型を作って儲けていた銀細工人たちがパウロに反発し、町中を巻き込む暴動に発展しました。聖書は創造主の神以外の神はいないと教えていますが、パウロがそのことを宣べ伝えたため、模型が売れなくなってしまったのです。
この騒動は、パウロがエペソを離れてマケドニアに向かうきっかけになりました。
8節でパウロは、死を覚悟するほどの苦しみについて語っていますが、銀細工人たちによる騒動以上に、もっと危険な目にあっていたことが想像できます。
苦難の目的
(9節)実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。
さまざまな苦難を経験したパウロは、まるで裁判の席で死刑宣告を受けたような気分になったと語ります。しかし、全知全能であり愛に満ちた神さまが苦しみが起こるのを許可なさったのには、特別な理由があるはずです。
その理由の一つは、人間の力ではもうどうしようもないという経験をさせることで、私たちが神さまに依り頼むようになることです。
神さまは死んだ人を復活させる力さえお持ちです。そんな力ある神さまが私の苦しみについても何とかしてくださるという信仰を生み出し、さらにそれを練り鍛えるために、苦しみが与えられたとパウロは語っています。
詩篇の記者は、苦しみに遭ったことは幸福だったとさえ歌っています。
(詩篇119:71)苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。
過去と未来の救出
(10節)神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。
パウロが過去の信仰生活を振り返ったとき、様々な苦しみの思い出がよみがえってきます。しかし、そのたびごとに神さまはパウロを苦しみから助け出してくださいました。そして、それは過去の思い出だけにとどまりません。これから先も大丈夫だという希望も与えられます。
たとえ迫害のために命を失うことになったとしても、この希望が裏切られたことにはなりません。
なぜなら、9節で「死者をよみがえらせてくださる神」と言われているように、神さまはクリスチャンを将来復活させ、千年王国、さらには新天新地での考えられないような祝福に導いてくださるからです。
協力の要請
コリント教会の祈りによる協力
(11節)あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。
伝道・牧会の働きのために、パウロは時に命を危険にさらすような苦しみを味わっています。パウロはエペソでの迫害の後にマケドニアに移りましたが、この地域も非常に迫害が激しいところです。
これまでの経験から、パウロはそれでも神さまが守ってくださると信じていました。たとえ殺されて肉体を滅ぼされたとしても、神さまは復活という希望を残していてくださいます。
しかし、パウロがその信仰を堅く保つことができるよう、あなたがたも祈りでサポートしてほしいとパウロは願います。それによってパウロはますます勇気が与えられ、苦しみの中でもなおイエスさまの働きを続けていくことができるでしょう。
すると、勇気づけられたパウロの働きを通して、多くの人たちが救いに導かれ、霊的に成長することになります。その人たちは、パウロを祈りによって支えてくれたコリント教会の人たちのゆえに、神さまに感謝の祈りをささげるでしょう。
直接人と接し、言葉で福音を伝えることだけが伝道の働きではありません。祈りもまた、大切な伝道の働きです。
この話をお読みください。
マザー・テレサといえば、おそらく20世紀で最も有名なクリスチャンでしょう。多くの有名な伝道者がいますが、ノン・クリスチャンの間でも名を知られているという点では、マザー・テレサがダントツだろうと思います。そのマザーを陰で支えた一人の女性の話です。
ベルギー出身のジャクリーヌ・ド・デッカーという名のこの女性は、マザー・テレサと出会ってその信念と活動に共感し、インドのスラム街で貧しい人々に奉仕するため、修道会に入ろうとしました。
しかし、脊髄が萎縮してしまう病気にかかってしまい、帰国せざるを得なくなります。そして、その治療には大変な激痛が伴いました。
ジャクリーヌさんは、激しい痛みに耐えながら、たびたびマザーに手紙を送り、もし元気だったらすぐにでも修道女になり、インドで貧しい人たちのために働けるのにと書いてよこしました。そんなある日、マザーは彼女にこんな返事を書き送りました。
「あなたは宣教者会に入会されることを望んでいらっしゃいますが、精神的に入会するというのはどうでしょうか。仕事を分担するのです。私たちの仕事はスラムで働くこと、あなたの仕事は苦しみを受けることと祈りです。私たちの仕事にはあなたのように肉体的苦しみを負い、そこでなお祈って支援してくださる方が必要なのです。私の精神的な姉妹となって、宣教者会の一員となってください」(1952年10月20日付書簡)。
ジャクリーヌさんはそれを快諾し、マザーは彼女のことを「第二の自分」と呼ぶようになりました。
それから27年後の1979年、マザー・テレサはノーベル平和賞を受賞します。その壇上に、マザーはジャクリーヌさんを伴って上がりました。自分の働きは自分一人で成し遂げたものではないということを示すためです。
人前に立つ派手な奉仕や奉仕者ばかりが注目されがちです。しかし、神さまはジャクリーヌさんのような目立たない、しかし忠実な奉仕者の働きを決して見過ごしにはなさいません。神さまは、あなたの隠れた良いわざや努力も見てくださっています。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.どうすれば苦しみの中で慰めを受け取れるか
苦しみの中で慰めを受け取り、「何があっても大丈夫」という平安を手にするにはどうしたらいいでしょうか。そのカギは神さまに対する信仰です。そして、苦しみの中で私たちの信仰を練り鍛えるために必要なことを3つ挙げます。
過去の経験を思い出す
パウロは、過去様々な苦しみを経験してきました。
たとえば、第1回伝道旅行の時、小アジアのリステラという町でパウロは反対する人々から石を投げつけられました。そして、町の人々が「パウロは死んだ」と思ったほどの重症を負います。
しかし、神さまはパウロをいやし、息を吹き返させてくださいました(使徒14章)。
また、第2回伝道旅行の時、マケドニアのピリピで、パウロはシラスと共に捕らえられ、裁判なしに鞭打ちの刑に処されました。鞭の先には金属片や骨などが仕込まれていて、それで打ちたたかれると肉が引き裂かれます。
しかし、パウロたちにはひどい痛みの中でも平安が与えられ、獄中で賛美の歌を歌います(使徒16章)。
10節で、パウロは過去神さまが死ぬほどの苦しみから自分を救い出してくださったと語っています。それが、「これからも大丈夫」という希望の土台の一つになっています。
苦しみに遭うと、現在進行形の苦しみにばかり目が向いてしまいがちです。しかし、そんなときこそ、過去に目を向けてみましょう。
これまで、どれほど神さまが私たちを守り、支えてくださったか。そのエピソードを一つ一つ思い出し、書き出し、口に出し、そして感謝の祈りをささげましょう。
苦しみに積極的な意味を見出す
人は、物事の意味を考える存在です。ですから、意味のないことには耐えられません。
ロシアの文豪ドストエフスキーは、「最も残酷な刑罰は、徹底的に無益で無意味な労働をさせることだ」と言いました。たとえば、部屋の左に水の入ったバケツを置き、右に空のバケツを置き、左のバケツの水を右に、次に右のバケツの水を左に。これを一日中繰り返すというようなことです。3日もやれば精神がおかしくなってしまうでしょう。
しかし、作物を育てるため、一日中バケツで畑に水を注ぐとしたらどうでしょう。きっと30年やってもおかしくなりません。意味があるからです。
私がイエス・キリストを信じて感謝していることの一つは、お金持ちになったとか、病気がすぐにいやされるとか、そういうことではなく、生きる意味を見出したということです。
苦しみの意味
パウロは、愛である神さまが、それでもあえて自分が苦しむことを許可なさったのか、その理由を3つ挙げています。
まず、自分の力で人生を乗り切るのではなく、イエスさまにより頼む信仰を練り鍛えるため。
次に、パウロが苦しみながらも、それでもイエスさまのみこころに従って伝道・牧会の働きをすることで、コリントの人々を含む多くの人たちが救われ、成長すること。それにより、人々はパウロと同じように、苦しみに耐え抜いてイエスさまに従い続ける信仰を手にすることができます。
そして、パウロが苦しみから解放された場合、それを見た他の人たちも「自分はまだ苦しみのまっただ中にいるけれど、自分もまた神さまに見捨てられているわけではない。絶対大丈夫だ」という慰めを受け取り、信仰を奮い立たせることができること。
ですから、パウロは、自分が苦しみを味わえば味わうほど、自分の人生には意味があることを知り、満足を得たのです。
私たちの苦しみの意味
私たちも、この地上で苦しみに遭うことがあります。しかし、その苦しみには意味があります。特に、イエスさまに従った結果味わう苦しみは、私たちが間違いなく神さまと共に生きているのだという確信を私たちに与えてくれるでしょう。
イエスさまに逆らうような生き方をした結果、苦しみに遭うこともあります。しかし、それもまた神さまの愛を私たちに教える機会となります。教育的指導としての苦しみは、私たちに過ちを教え、正しい道に戻るきっかけを与えます。
罪のゆえに味わう苦しみは、神さまに見捨てられた証拠ではなく、むしろまだ見捨てられていない証拠なのです。
また、迫害や罪とは関係ない苦しみもあります。たとえば病気とか、社会的な不景気などに伴う経済的なピンチとか。その意味はすぐには分からないかもしれません。しかし、少なくとも、苦しみの中で私たちがどのように振る舞うか、この世の人たちは見ています。
私たちが苦しみの中でも、なおもイエスさまに従い続け、神さまをほめたたえ続けるとき、人々は私たちの中に神さまの栄光、すばらしさを見出すでしょう。
仲間のサポートを求める
パウロは、信仰が鋼でできているかのようなスーパークリスチャンでした。しかし、そんな彼も自分一人だけで信仰生活が送れるとは思い上がっていませんでした。コリント教会の人たちに、パウロは祈りによってサポートしてほしいと願いました。
神さまは、私たちがたった一人で信仰生活を送ることを期待しておられません。私たちは教会に属し、互いに励まし合うことで、クリスチャンとして信仰を保ち、さらにこれを育てていくことができます。
私たちも「祈ってください」と素直に教会の仲間たちに依頼しましょう。そして、私たち自身も他の人のために祈りましょう。