(2026年6月14日)
キリストがもたらす救いの本質は神の栄光です。お金でも健康でも成功でもありません。神さまのすばらしさを知り、その愛と力を日々体験できることです。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
「救われたら、何が変わるのでしょうか?」
そう尋ねられたら、あなたはどう答えますか? 病気が治る、困難がなくなる、人生がうまくいく……。しかし聖書は、救いがもたらす最大の祝福はそのどれでもないと語ります。
今回のメッセージでは、使徒パウロがコリント教会に語った救いの本質に耳を傾けます。覆いが取り除かれ、神さまの光が心に差し込んできて、感動・感謝・喜び・平安・希望が内側からわき上がってくる。そのような体験が、私たちにも約束されていることを再確認しましょう。
1.伝道者の務め
取り除かれる覆い
隠し事はしない
(3:12)このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。
「このような望み」とは、直前で語られた内容を指します。モーセの律法に仕える働きは栄光に満ちたものでしたが、キリストの恵みの福音に仕える働きはさらに栄光に満ちています。その確信があるので、パウロたち伝道者は臆することなく堂々と振る舞うことができます。
「大胆」と訳されている言葉は、単に勇気があるということではなく、「隠し事をせず公然と語る」という意味があります。この言葉の裏には、コリント教会を混乱させていた偽教師たちは、福音をストレートに伝えていなかったという事情があります。
彼らは、会衆や世間の人たちが受け入れやすいように、福音に混ぜ物をしていました(2:17)。すなわち、行いによる救いを説いたり、自分自身のすばらしさをアピールしたりしていたのです。さらには金品まで要求していました。
また、一部のコリント教会員たちも、そのような混ぜ物の説教を喜んでいました。後にパウロは後輩のテモテに、
「人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になる」(第2テモテ4:3-4)と語りますが、すでにそれが始まっていたのです。
パウロは、自分たちはそんな混ぜ物の福音を語ったり、大事な要素を隠したりしないと宣言します。
モーセのようなことはしない
(3:13)モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。
パウロは、出エジプト記34章の故事を持ち出します。
モーセは律法を受け取るために40日間シナイ山の上で神さまと共に過ごしました。山を下りてきたモーセの顔は、神さまの栄光を反映して光り輝いていました。イスラエルの民が恐れたため、モーセは仕方なく顔の前に布をたらして、輝きを見せないようにしました。
モーセが顔の輝きを隠した行動について、パウロは「消え去るものの最後を見せないようにした」と説明しています。モーセの律法は、イスラエルの民にいかに生きるべきかを教える大切なものでしたが、イエス・キリストによる救いがもたらされると、その役割を終えました。
しかし、自分はモーセのようなことをしないとパウロは言います。これはモーセを批判しているわけではなく、福音に関する情報を隠すことなくすべて伝えているという宣言です。
頑なになったイスラエル
(3:14-15)しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。
「理解が鈍くなった」という言葉は、「頑なになった」とも訳せます。
イスラエルの民の多くは、モーセの律法が本当に教えようとしていることに心を開きませんでした。律法は、自己救済は無理だということを人間に教えます。そして、一方的に恵みによって赦されなければならないということを教えます。
しかし、多くの民は恵みを受け入れませんでした。それどころか、律法の命令を無視して生きていたのです。
そして、新約聖書時代においても、ユダヤ人の一部はイエスさまを救い主だと信じて救われたものの、その多くは反発して信じようとしません。その結果、神さまとの親しい交わりという救いの祝福を味わえないでいます。
それはまるで、モーセの顔の前の覆いのために、イスラエルの民が栄光の光を見られなくなったのと同じ状態です。
キリストによって除かれる覆い
(3:16)しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。
その覆いは、イエス・キリストによって取り除かれます。
「立ち返る」は方向転換をするということで、「悔い改める」という意味を持ちます。罪を悔い改めてキリストを信じることによって、神さまと人間を隔てていたものは取り除かれます。そして、人は全知全能の神さまと親しく交わることが可能になります。
全知全能の神さまがいつも共にいて、守り導いてくださるのであれば、どれほど心強いことでしょうか。
聖霊なる神の働き
自由をもたらす御霊
(3:17)主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。
聖書の神さまは三位一体で、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊なる神は本質的に一つでいらっしゃいます。
私たちがキリストの恵みの福音を信じると、聖霊なる神さまが私たちの内に入ってこられ、共に住んでくださるようになります。そして、聖霊さまは私たちに自由を与えてくださいます。
その自由は、律法からの解放です。モーセの律法は、いかに生きるべきかは教えましたが、それを実行する力まではもたらしませんでした。かえって、私たちが罪人だということを明らかにして、罰としての霊的な死をもたらします。
しかし、イエスさまを信じ御霊をいただいた私たちは、その律法の呪いから解放されて自由になりました。私たちはもはや、罪のゆえに罰を受けて滅ぼされることは決してなくなりました。
変えられていく私たち
(3:18)私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
私たちは、単に罪の罰から解放されただけではありません。聖霊さまは私たちを内側から造り変えて、人としてのイエスさまと同じような人格へと成長させてくださいます。
単なる赦された罪人の私たちは、あの愛にあふれ、力にあふれ、きよさにあふれていたイエスさまのようになります。クリスチャンである私たちにはそのような希望が与えられているのです。
伝道者としての心意気
あわれみによる務め
(4:1)こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。
福音をストレートに語ることは、反発を招き、馬鹿にされたり迫害を受けたりするリスクがありました。
たとえば、ギリシア哲学を信じるギリシア人には、復活などバカバカしい教えに聞こえました。また、ユダヤ人にとってもローマ人によって十字架で殺された奴が救い主だなんて受け入れがたい教えでした。そのため、パウロたちはたびたび命の危険さえ味わったのでした。
それでも、自分は落胆しないとパウロは言います。それは、先ほど申し上げたとおり、福音を伝える働きは、栄光に満ちた神さまと人とを結びつけるすばらしいものだからです。
ただ、パウロがその務めを与えられたのは、パウロ自身のすばらしさのためではありません。イエスさまが恵みによって一方的に選び出してくださったからです。パウロはそのことを「あわれみを受けた」と表現しています。
パウロの自己推薦の方法
(4:2)かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。
伝道の働きが、神さまの恵みによる事を知っているパウロは、偽教師たちのように自分のすばらしさをアピールしようとはしません。彼の自己推薦の方法は、福音に混ぜ物をしないでストレートに語ることでした。
不信者に掛かっている覆い
(4:3)それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。
パウロたち本物の伝道者は、福音をストレートに語ります。それでも救いを手に入れ、神さまとの親しい交わりを体験できていないとしたら、それは伝道者の側の責任ではなく、福音を聞いた人たちの問題です。
この世の神の妨害
(4:4)彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。
「この世の神」とは、サタン(悪魔)のことを指しています。サタンも、人が福音を信じて救いを体験するのを邪魔しようとします。
「この世の神」と呼ばれているのは、サタンが天の父なる神さまと同等の力を持っているという意味ではありません。今のこの時代、神さまはサタンが地上を限定的に支配することを許容しておられます。
そのため、サタンは聖書の別の箇所でも、「この世を支配する者」(ヨハネ12:31)、「空中の権威を持つ支配者」(エペソ2:2)、「世全体は悪い者の支配下にある」(第1ヨハネ5:19)などと表現されています。
あるときイエスさまは4つの土地のたとえを語られました。みことばの種が、堅く踏み固められた道に落ちると、その種を鳥が持ち去ってしまい、実を結べませんでした。心を頑なにして神さまの言葉を受け入れようとしないと、悪魔がみことばによる祝福を取り去ってしまいます。
自分ではなくキリストを宣べ伝える
(4:5)私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。
ここまでの箇所で、パウロは、自分たちまことの伝道者は、聖書の言葉に混ぜ物をせず、臆することなくストレートに語ると宣言してきました。それはすなわち、自分自身をアピールするのではなく、イエスさまをアピールするということです。
私が伝道者になりたての頃、ある本を読んで、当時使っていた聖書の扉の部分に次のような言葉を書き込みました。「先生、私たちはイエス・キリストに出会いたいのですが」。
礼拝メッセージの中心は、私自身の成功談ではなく、心理学の話ではなく、面白い冗談でもなく、イエス・キリストです。イエスさまがどんなお方なのか、私たちのために何を語り、何をしてくださったのか。それが中心です。
そして、イエス・キリストこそ、説教を聞くすべての人の意識の中心です。
神の栄光を知る知識
(4:6)「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。
「光あれ」という言葉によって闇の中から光を輝き出させてくださった神さまは、罪のために暗くなってしまっていた私たちの心に光を与えてくださいました。
それは、イエスさまによってもたらされました。イエスさまの十字架と復活は、私たちのすべての罪を赦し、私たちが神さまの栄光を知る、すなわち神さまがいかにすばらしいお方かということを生活の中で体験できるようにしてくださいました。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.神の栄光を味わおう
救いの祝福は神の栄光を知ることだと意識しよう
神さまの栄光、神さまのすばらしさを知ることこそ、救いがもたらす祝福のキモです。お金が儲かることではなく、健康になることでもなく、社会的に成功することでもありません。神さまのすばらしさを知り、その愛と力を体験できるようになることが救いです。
私たちは日々神さまのすばらしさに触れて感動し、どんな状況の中でも喜んだり、感謝したり、平安や希望を味わったりできます。
そして、その感動や喜びが、私たちに「神さまの命令に従いたい。他の人を愛したい」という意欲を生み、「他の人も救われて、この感動を味わってほしい。そのために自分にできることをしたい」という伝道の想いを生み出します。
救いは神さまの栄光を味わえるようになることだという点を、改めて意識しましょう。
キリストのおかげで神の栄光を知るようになったことを感謝しよう
本来私たちは、神さまの栄光を体験することができなかったはずでした。それは、私たちが罪人だったからです。罪は神さまの存在を無視し、そのすばらしさを認めようとせず、神さまのみこころに反する生き方をすることです。
神さまは正義ですから、罪とは相容れません。ですから、罪のある私たちは神さまと親しく交わることができないはずだったのです。それどころか、罪の罰として、やがて祝福の源である神さまから完全に切り離され、永遠の苦しみを味わうようになるはずでした。
しかし、神さまはそんな私たちのことをあわれみ、私たちの罪を一方的に赦すことで神さまとの親しい交わりを回復したいと願ってくださいました。
そこで、イエスさまが私たちの身代わりとして、十字架にかかって神さまののろいを一身に受けることによって、罪の罰を引き受けて償いを達成してくださいました。そのようにして、私たちに罪の罰が及ばないようにしてくださったのです。
さらに、私たちの身代わりとして復活することにより、罪人としての私たちが死んで、神さまの愛する子どもとして新しく生まれるようにしてくださいました。
私たちは神さまの子どもとして、神さまの愛を一身に受けています。それもこれも、イエスさまのおかげです。私たちは、日々イエスさまに感謝しなければなりませんね。
神の栄光を追い求めよう
恵みの福音、すなわち「この自分の罪を赦すためにイエス・キリストは十字架にかけられた。そして、死んで葬られ、三日目によみがえられた」と言うことを信じた私たちは、神さまの栄光を体験することができるようになりました。
しかし、私たちの小さな頭に、偉大な神さまを納めることなどできません。私たちの神さまについての知識は、たとえ信仰歴何十年というベテラン・クリスチャンであっても不十分です。
ですから、私たちはいつも祈りを積み重ねたいと思います。「父なる神さま、イエスさま、聖霊さま。今日もあなたのすばらしさをほんの少しでも知ることができるようにお導きください。それにより、私たちがますます感動し、喜び、感謝し、平安や希望に満たされることができますように」。