(2026年6月28日)
死後の復活の希望は、今の生き方を変えます。コリント人への第二の手紙5章から、その点について学びます。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
迫害、病気、老い、罪の性質との戦い……今この瞬間も、私たちは何らかの苦しみの中で生きています。聖書は「それでも大丈夫」と言います。それはなぜでしょうか。パウロの手紙からその答えを受け取りましょう。
1.死後に約束されている祝福
二つの住まい
地上の幕屋と天にある永遠の住まい
(1節)たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。
パウロは、2つの住まいを対比しています。一つは地上の住まいである幕屋。もう一つは、神さまが天において与えてくださる永遠の住まいです。幕屋は一時的なものであり、天の住まいは永遠に続きます。
この地上の幕屋とは、これまでの話の流れから、今の私たちの肉体のことを指します。ということは、天にある永遠の住まいとは、死んだあとに私たちが迎え入れられる天国そのものではなく、携挙の時に与えられる新しい栄光の体、復活の体のことです。
ここで、携挙について改めて説明します。今私たちクリスチャンが死を迎えると、魂が肉体と分離します。肉体は朽ちていきますが、魂は神さまがいらっしゃる天のパラダイスに引き上げられます。そして、しばらくの間休みながら復活の時を待ちます。
そして、将来のある日ある時、携挙と呼ばれる出来事が起こります。その時、死んで魂だけの状態になっていたクリスチャンに、新しい栄光の体、復活の体が与えられます。また、その時まだ生きているクリスチャンにも、復活の体と同じ栄光の体が与えられます。
そして、この両者は共に空中に引き上げられ、迎えに来られたイエスさまと共に天のパラダイスに迎え入れられます。これが携挙です。
携挙されたクリスチャンは、その後イエスさまが地上に神の国(千年王国)を打ち立てるために再臨なさるとき、一緒に地上に戻ってきます。そして、千年間神の国に住んだ後、新しい天と新しい地に移されて、永遠に続く祝福を味わいます。
私たちの切望
(2節)私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。
パウロは、私たちはこの幕屋、今のこの肉体をまといながらうめいていると言いました。ただし、パウロは現状がつらくて弱音を吐いたり愚痴をこぼしたりしているのではありません。将来与えられる栄光の体があまりにもすばらしいためです。
寒い日に体を震わせて道を歩きながら、温かいお風呂や料理が待つ我が家に早く帰りたいと願うような者です。
裸の状態ではいない
(3節)その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。
私たちが死ぬと、私たちは今の体を脱ぎ捨てることになります。そして、魂だけの状態になって天のパラダイスに迎え入れられます。これが「裸の状態」です。しかし、いつまでもその状態が続くわけではなく、やがて栄光の体が与えられます。
私たちのうめきの理由
(4節)確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって吞み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。
コリント教会はギリシアの町にありました。ギリシア人は、肉体は悪であり、霊魂は善であると考えました。そして、人間の不幸は、不完全な肉体に魂が閉じ込められているからだとして、死んで不完全な肉体から解放されて裸の状態になることが救いだと信じていました。
確かに、今のこの地上の生涯には苦しみがあります。パウロたちは日々迫害を経験していました。病気になったり、疲れたり、年を取ってうまく体が動かせなくなったりします。
そして、今のこの体には罪の性質が宿っていて、私たちを神さまから引き離そうとします。ローマ7章で、パウロはその罪の性質のせいで、自分はしたいと思っている善を行わないで、むしろしたくない悪を行ってしまうと嘆いています。
しかし、聖書はギリシア的な霊肉二元論、肉体が悪で魂が善であるという考え方を否定します。私たちの希望は、今の体から解放されて裸の状態になることではなく、その先にある祝福、すなわち新しい栄光の体が与えられることです。
今の状態
聖霊という保証
(5節-6節前半)そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。ですから、私たちはいつも心強いのです。
私たちに将来栄光の体が与えられるという希望には、聖霊なる神さまという保証が備わっています。
この「保証」と訳されている言葉は、「手付金」という意味です。不動産などの大きな買い物をする際、完全に支払う前に相手に渡す前金ですね。手付金が払われると、将来必ず契約通りに支払いがなされると期待できます。
イエスさまを信じたとき、私たち一人ひとりの内に聖霊なる神さまが来られ、住んでくださるようになりました。そして、聖霊さまは私たちを内側から造り変え、イエスさまに似た者に成長させてくださっています。
それは、手付金だとパウロは言います。この地上に生きている間、私たちが完全にイエスさまのようになることはできません。だんだんと罪の性質に抗って正しい生き方ができるようになっていきますが、まったく罪の性質から解放されて罪を犯さなくなるわけではありません。
それでも、携挙されて復活の体が与えられるとき、私たちは罪の性質から解放されて、積極的に神さまのみこころにかなう生き方ができるようになります。私たちの内におられる聖霊さまは、その約束が確かだということを保証してくださっています。
主から離れている現在の状態
(6節後半)ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。
私たちは将来造り変えられて完成しますが、今はまだ完成されていません。将来は、イエスさまと顔と顔とを合わせて直接お目にかかれますが、今はイエスさまをこの目で見たり、手で触ったり、直接言葉を交わしたりできるわけではありません。
この状態をパウロは「主から離れている」と表現しました。もちろん、イエスさまに見捨てられているという意味ではありません。イエスさまの愛は今も私たちに注がれていますし、聖霊さまを通して祈りの中で私たちに語りかけてくださっています。
信仰による歩み
(7節)私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。
今、私たちはイエスさまと直接交わることはできません。しかし、私たちには信仰があります。信仰は、実際に体験していないことをそうだと受け止めることです。私たちは、たとえ死んでも必ず栄光の体が与えられ、イエスさまと直接お目にかかれると信じています。
使徒ペテロは、第一の手紙の中で、迫害に苦しむクリスチャンたちに励ましの言葉を贈っています。将来、イエスさまが来られるとき、称賛と栄光と誉れが与えられると言いました。そして、次のように語りかけます。
(第1ペテロ1:8-9)あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
飛行機が濃い霧に包まれて、まったく前が見えなくても、パイロットはレーダーなどの計器を見ながら飛行機を無事に目的地まで届けます。私たちにとって信仰は、パイロットにとっての計器のようなものです。
私たちは、現状の苦しさに心が折れそうになっても、神さまから引き離そうとするさまざまな誘惑があっても、それでも信仰によって希望を奮い立たせます。やがて、私たちはイエスさまの元に到着するという希望です。
主に喜ばれる生き方
主のみもとに住みたい
(8節)私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。
信仰は、私たちの心に勇気を与えます。それでも、今の肉体を離れてイエスさまの元に行く方がずっとすばらしいとパウロは言います。それは、現状がつらくて不満があるからではなく、イエスさまのみもとに行くことが、あまりにもすばらしいからです。
まるで、海外に長期出張に行っていた人が、愛する家族の待つ我が家に早く帰りたいと願うようなものでしょう。
私たちの願い
(9節)そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。
パウロは、将来私たちに与えられる祝福のすばらしさを語ってきました。しかし、現実逃避を勧めているわけでは決してありません。つらい現実を忘れるために、ゲームや仕事に没頭するように、理想的な未来というファンタジーの世界に閉じこもることを良しとしません。
将来与えられる祝福の希望を抱きつつ、聖書は私たちにしっかり現実に根を下ろすことを求めています。将来新しい栄光の体が与えられたとき、私たちは罪の性質から解放されて、イエスさまが喜ばれる生き方が完全にできるようになります。
では、今はどうせ赦されるのだからと自己中心的な生き方をしていいかというと、そうではありません。今の地上の生涯にあっても、私たちはイエスさまに喜んでいただくことを願って生活し、イエスさまのみこころにかなう生き方を目指し続けなければなりません。
キリストのさばきの座
(10節)私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。
私たちが地上でイエスさまのみこころにかなう生き方をすべき理由は何でしょうか。もちろん、私たちのことを命がけで愛してくださっているイエスさまのことを、私たちも愛しているからです。
そして、別の理由もパウロはここで挙げています。それは、私たちが将来「キリストのさばきの座」に立たされることになるからです。そこで、私たちは地上生涯がどれほどイエスさまのみこころにかなうものだったか評価されます。
このさばきは、私たちクリスチャンが携挙されて後、天のパラダイスにおいて行われると考えられています。
と言っても、このさばきは私たちに罰を与えるための裁判ではありません。イエスさまの十字架と復活を信じたとき、私たちの罪は、過去も現在も未来もすべて完全に赦されたからです。
キリストのさばきの座は、私たちが千年王国でどれほどの追加の祝福を味わえるかを査定するためのものです。
(第1コリント3:12-15)だれかがこの土台(註:キリスト)の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。
だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。
たかだか100年間の快楽のために、本来なら与えられるはずだった千年間の祝福をいただき損ねるのは、損得勘定から言ってもあまりにももったいない話です。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.将来の復活の希望を持ちつつ、みこころにかなう生き方をしよう
地上生涯は一時的なものだと知ろう
パウロは、今のこの体をテントにたとえました。テントは、いつか役割を終えてたたまれる、一時的な住まいです。
皆さんが、家を豪華に建て替えるために、一時的にアパートを借りて住むとします。その際、高価な家具などを買いそろえて、一時住まいのアパートに運び込んだりするでしょうか。もちろん、仮住まいでも必要最低限の家具は必要ですが、それでも大切なお金は、将来完成する大豪邸のための準備に宛てるはずです。
私たちの人生が地上生涯で終わるものなら、今をどれだけ面白おかしく生きるかが大切になるでしょう。しかし、今の人生は仮住まいのようなものです。私たちの限られた時間やエネルギーは、永遠に続くもののために使いたいものです。
すなわち、イエスさまが喜ばれる生き方をすることに、もっぱら時間とエネルギーをかけたいですね。
聖霊さまによって希望をいただこう
パウロは、聖霊さまの存在が、私たちに将来与えられる祝福の保証、手付金だと言いました。では、私たちは、聖霊さまが確かに内に住んでおられるという実感があるでしょうか。
もちろん、福音を信じたときに聖霊さまが住んでくださるようになったというのは聖書の約束です。たとえば、
(ヨハネ14:16)そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
ですから、実感のあるなしにかかわらず、聖霊さまが私たちの内におられるのは真実です。
別に、あのペンテコステの日に弟子たちが体験したような不思議な現象や高揚感を味わわなくても、聖霊さまは私たちと共にいてくださいます。実感と聖書に基づく真理とは別だということを知っておきましょう。
聖霊がおられる証拠
とはいえ、聖霊さまが手付金だと言うからには、「確かに聖霊さまが共にいてくださっている」という実感を伴う体験がクリスチャンには与えられるということでもあります。聖書だけでなく、聖霊さまが内に住んでくださっている何かしらの証拠があるのです。たとえば、
- イエスさまの福音を信じようとしたこと
- 罪に対する感受性が増し、罪を離れたいという思いが与えられていること
- むしろ、イエスさまに喜ばれる生き方がしたいという思いが与えられていること
- 神さまに依り頼む思いが与えられていること
- 聖書の言葉や祈りによって導きが与えられていること
- 信じる前よりも、成長していること
- 他の人を愛したい思いが与えられていること
- この世の楽しみでは満足できなくなっていること
たとえ恍惚状態にならなくても、奇跡を行う力が与えられていなくても、こういったしるしがきっとあなたにも与えられているはずです。
よりはっきりと、聖霊さまが共にいてくださることを確信させてくださるように、そしてそれによって勇気が与えられて、イエスさまが喜ばれる生き方をしたいという思いが強められるようにと祈りましょう。
具体的にみこころにかなう生き方をしよう
願望と目標の違いは何でしょうか。それは、具体的であるかどうかです。
たとえば、「英語が話せるようになりたい」とか「もっと痩せたい」とかいう思いは、まだ願望に過ぎません。目標は、その願望を実現するために、いつまでに何をどれくらい行うかを明確にしたものです。
たとえば、「英語で会話ができるようになるために、週1回駅前の英会話教室に通う」とか、「毎日10分間縄跳びをする」とか。そのように、願望を目標に変えて初めて、願望に近づいていくことができます。
「イエスさまに喜ばれる行いをする」という、今回聖書から教わった目当ても同じです。今ここでその「イエスさまに喜ばれる行い」とは何なのか、それを具体的に考えて実行する必要があります。
ここにおられる皆さん、お一人おひとり、「イエスさまに喜ばれる行い」の中身が違います。それぞれに、聖霊さまに教えていただきながら明確にして、実践していきましょう。今のあなたにとって、「イエスさまに喜ばれる行い」とは、具体的に何をいつまでにどれくらい行うことですか?
聖霊さまがそれを知る知恵を与え、意欲や勇気を与え、実際に行動に移せるよう私たちを助けてくださいますように。