(2026年7月5日)
人に何かをして欲しいとき、あるいはやめてほしいとき、どうすればいいでしょうか。人との和解を願われた聖書の神の謙遜さから、効果的な方法を学びましょう。
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イントロダクション
「言うことを聞いてほしいのに、うまく伝わらない」——そんな悩みを抱えたことはありませんか? 人を動かしたいときどうすればいいでしょうか。恐怖や不安や罪責感といった嫌な感情を使って無理やり動かすのは悪手です。本日は、人との和解を願われた聖書の神さまの謙遜さから、効果的な方法を学びましょう。
1.パウロの謙遜さと神の謙遜さ
行動の動機
パウロの動機
(11節)そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかしそれが、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。
「人々を説得する」とは、この場合、福音宣教を指すだけではありません。コリント教会の人たちに正しい行動をするよう指導したり、その根拠として自分が使徒であることを受け入れてもらおうとしたりすることも含みます。
パウロが使徒とされたのはイエスさまが選ばれたからですから、当然天の父なる神さまもそのことをご存じです。しかし、コリント教会のすべての人にもそのことを知っていてほしいとパウロは願っています。
そして、自分が伝道したり、人々を指導したりするのは、主を恐れることを知っているからだとパウロは言います。この場合の恐れとは、イエスさまによるさばきに対する恐怖ではありません。畏怖の念、畏敬の念と訳せる言葉です。
イエスさまの圧倒的なきよさや権威、そしてご自分のいのちさえも惜しまない愛と恵みを思うとき、私たちの心には思わず膝をかがめて礼拝したくなる思い、この方には従わなければと感じる思いが湧き上がっていきます。この感覚が、ここで言う恐れです。
パウロだけでなく、私たちクリスチャンみんながイエスさまのみこころにかなう行いをしようとするのは、罰を恐れていやいやながらではありません。イエスさまに対する畏怖の念からです。
自己推薦ではない
(12節)私たちは、またしてもあなたがたに自分を推薦しているのではありません。むしろ、あなたがたに私たちのことを誇る機会を与え、心ではなくうわべを誇る人たちに応じられるようにしたいのです。
パウロが、自分は使徒であるとことさらに主張するのは、自分を宣伝してコリント教会の人たちからの尊敬を集めたいからではありません。
当時のコリント教会には、いわゆる偽教師・偽使徒と呼ばれる人たちが入り込んでいました。
彼らは、自分たちの外側を誇っていました。たとえば社会的な有力者からの推薦状とか、雄弁さとか、見た目の華やかさなどです。そして、彼らは教会の人たちから尊敬され、ほめたたえられることを願っていました。
しかし、パウロはコリント教会の人たちがそのようなものに惑わされず、本当に大切なものを見分けられるようになることを願っています。そして、うわべを誇る偽教師たちを拒否できるようになってほしいと訴えます。
パウロにとって、自分自身が人々から尊敬され、ほめたたえられることなどどうでもいいことです。大切なのは、主を正しく恐れ、それを動機として行動することです。
熱心さと冷静さの動機
(13節)私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。
後にパウロは、エルサレムで捕らえられて、裁判を受けるためにカイサリアに送られます。その際、総督であるフェストゥスに、
「パウロよ、おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わせている」(使徒26:24)と言われてしまいました。
パウロが伝道にかける熱心さは、時に気がおかしくなったと誤解されるほどでした。偽教師たちや、彼らに惑わされている一部のコリント教会員たちも、パウロの頭はおかしいと非難していたのでしょう。
しかし、パウロの熱狂は、神さまを恐れ神さまに従いたいという動機から出ているものです。
一方で、パウロは冷静で知的な言動もできました。
コリント教会は聖霊の賜物(聖霊がクリスチャンに与える、特別な奉仕の能力)、特に異言の賜物(習ったことのない言語を語れる力)を重んじていました。そして、礼拝中にあちこちで熱狂的に異言で語ったり賛美したりしていました。
そんな彼らにとって、パウロの理性的な態度は、どこか冷めていて面白みがないと感じたことでしょう。しかし、パウロが冷静に教えを語るのは、コリント教会の人たちを愛しているからであり、彼らを正しい方向に導きたいという思いから出ていることです。
クリスチャンの動機とキリストの愛
身代わりに死んでよみがえったキリストの愛
(14-15節)というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。
パウロが、気がおかしくなったと誤解されるほど熱心に伝道するのも、冷たいと誤解されるほど理性的に行動できるのも、イエスさまへの愛がそうさせていました。
イエスさまは、十字架にかかって亡くなりましたが、それはすべての人の身代わりでした。そのことに対する感謝が、イエスさまへのあふれる愛となり、パウロを伝道や教育に駆り立てています。
私たち人間はみんな生まれながらの罪人です。すべての人が神さまを無視して、自分勝手に生きてきました。たとえ神さまに従おうとしたとしても、神さまが要求なさる水準は「完璧」ですから、誰も「自分には罪がない」とは言えません。
神さまは正義ですから、罪人をさばいて、永遠の苦しみという罰を与えなければならないはずです。しかし、愛と恵みに満ちた神さまはそれを喜ばれず、御子イエスさまが人となって地上に来られ、私たちの代わりに完璧な人生を送られました。
そして、イエスさまは私たちの代わりに罪の罰を引き受けてくださいます。これが十字架の死です。イエスさまが私たちの身代わりに死なれたので、私たちが罪を償って死んだと見なされました。ですから、イエスさまが私の罪を赦すために死なれたと信じた人は、本当に罪の罰を受けることがなくなりました。
それだけではありません。イエスさまは死んで3日目に復活なさいました。これもまた私たちのための身代わりです。イエスさまが死んで復活なさったので、罪人だった私たちは死んで、新しく神さまの子どもとして生まれました。
死んで新しく生まれた私たちは、もはや古い生き方を離れます。すなわち、神さまを無視した自分勝手な生き方をやめて、私たちのために死んで復活なさったイエスさまのために、イエスさまの喜ばれる行いをするようになりました。
少なくともパウロはそのような思いで行動していましたし、コリント教会や、今ここにいる私たちにもそのような生き方をしてほしいと願っています。
世俗的な知り方はしない
(16節)ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
かつてのパウロは、イエスさまの愛や、それ故の身代わりの死や復活のことを知りませんでした。ですから、イエスさまのことを偽キリストとして憎んでいました。
また、偽キリストであるイエスを信じているクリスチャンどもを、愚かどころか神さまに逆らう罪人として憎み、迫害していました。
しかし、イエスさまの恵みを知った今、パウロはもはやイエスさまを偽キリストだとは思いません。また、クリスチャンたちのことも人間的な基準で評価したりしません。
キリストのうちにある人
(17節)ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
「キリストのうちにある」とは、イエスさまの恵みの福音を信じて救われているという意味です。
恵みの福音とは、「この自分の罪を赦すためにイエス・キリストが十字架にかけられたこと、死んで葬られたけれど、3日目に復活なさった」ということです。この福音を本当のことだと信じ受け入れたとき、イエスさまと一つになりました。
すなわち、イエスさまの死と復活が、私たちの死と復活として神さまに受け止められるようになったのです。
イエスさまが死なれたので、イエスさまと一つになった私たちはもう罪の罰を受ける必要がなくなりました。イエスさまが復活なさったので、イエスさまと一つである私たちは、神さまの子どもとして新しく生まれました。
かつての罪人の私たちは死んでいなくなりました。ここにいるお一人お一人は、たとえ見た目は変わったように見えなくても、以前とはまったく違う存在、すべてが新しくされた存在です。
キリストの全権大使である伝道者
和解の務め
(18-19節)これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。
イエスさまの死と復活、そしてそれを信じる人の救いは、すべて父なる神さまのご計画に基づきます。それ故に確かなものです。
パウロは、ここで救いのことを神さまと私たちの「和解」と表現しています。聖書が教える救いとは、病気が治ることでも、人間関係のトラブルが収まることでも、社会的に成功することでも、経済的に潤うことでもありません。
結果的にそのようなものが与えられることはありますが、それらが救いそのものなのではありません。聖書が教える救いは、神さまとの和解、仲直りです。
全知全能である神さまが、私たちの敵ではなく味方、それどころか天のお父さまになってくださったというのは、私たちにとってどれほど勇気づけられる事実でしょうか。
さらに父なる神さまは、ご自身と人間とが和解し、永遠に仲良くすることができるように、パウロたち伝道者を「和解の務め」に任命なさいました。すなわち、救いをまだ知らない人たちに福音を宣べ伝えるよう任命なさったのです。
キリストの代理である使節
(20節)こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。
パウロは、自分たち伝道者のことを、キリストに代わる使節と呼びました。神の国の全権大使です。
パウロが人々に向かって「救われて神さまと仲直りしてほしい」と願い、「そのために福音を信じなさい」と勧めるとき、実はイエスさまご自身が「福音を信じて救われ、私と仲直りしてほしい」と語りかけています。伝道者はイエスさまの使節、すなわち代理人だからです。
罪は神さまを無視したり軽く扱ったりして、神さまのみこころに逆らうことです。罪の被害者は神さまです。罪人である私たちに怒り、ひどい罰を与える権利が神さまにあります。
しかし、そんな神さまの方から、まるで膝をかがめて懇願するかのように、「わたしと仲直りしておくれ」と願われています。何という謙遜、何という自己犠牲、何という恵みでしょうか。
私たちの責任は、差し伸べられている神さまの救いの御手を取って仲直りするために、福音を信じることです。
私たちはすでに福音を信じ、神さまと仲直りしました。ですから、神さまと仲良しであるという祝福についていつも意識し、感謝しましょう。そして、その喜びを原動力として、イエスさまのみこころに従い続けましょう。
神の義となるため
(21節)神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。
パウロは、救いの本質をまとめます。イエスさまは、ご自分は罪を犯したことがないのに、私たちの身代わりに罪人として罰を引き受けてくださいました。その結果、私たちは「神の義」となりました。
神の義となったというのは、きよいイエスさまが父なる神さまに完全に受け入れられるように、イエスさまの恵みの福音を信じた私たちも罪のない者と見なされ、神さまの子どもとして受け入れられることを指しています。
福音を信じた私たちは、今もこれからも、永遠に神さまと仲良しです。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.神の謙遜さに学ぼう
神というモデル
子どもは親の背中を見て育ちます。また、私たち人間は、いつも一緒にいる人の言動の影響を受けます。
三位一体の神さまも、私たちの生き方に影響を与え、その考え方や言動を造り変えてくださっています。
- 天の父なる神さまは、私たちの新しい親です。ですから、私たちは父なる神さまの影響を受け続けます。
- 人として来られたイエスさまは、私たちの目標です。 聖書は、聖霊なる神さまが私たちをイエスさまに似た者に変えてくださると約束しています(3:18)。
- 聖霊さまは、私たちの内に住み、私たちに影響を与えて日々造り変えてくださっています。私たちは24時間聖霊さまと一緒にいるのです。
私たちは三位一体の神さまをモデルとして、この地上を生きる指針としなければなりません。そして、モデルである神さまは、謙遜なお方です。
- 私たちの天の父なる神さまは、偉大なお方です。それにも関わらず、罪を犯して神さまを傷つけた私たちに、ご自分の方から仲直りを申し出てくださった、謙遜なお方でもあります。
- 私たちの主人であるイエスさまは、ご自分は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たとおっしゃいました(マタイ20:28)。
- 聖霊さまも、ご自分のことをアピールするよりも、むしろ陰に回って、イエスさまの栄光を現すことを優先しておられます(ヨハネ16:14)。
神さまに救っていただいた私たちは、神さまに倣って謙遜でありたいですね。
支配的な関わりをやめよう
コリント教会にはさまざまな問題がありました。その解決のために、パウロは使徒としての権威を使って、高圧的に何かを命じ、逆らう者たちに処罰を与えることもできました。彼にはそうする権限がイエスさまから与えられています。
しかし、パウロはあえて支配的な関わり、相手をコントロールして無理やり動かそうとするやり方を避けました。コリント教会の人たちが自ら間違いに気づき、その間違いを修正することを期待し続けたのです。
それは、罰をちらつかされて恐れ、いやいや従うのは意味がないこと、自発的に喜んで従うことをイエスさまは願っていらっしゃることをパウロが知っていたからです。そして、それと共に、パウロが三位一体の神さまの謙遜さを見習っていたからでもあります。
支配的な関わり方
支配的な関わり方、人をコントロールしようとする関わり方とはどのようなものでしょうか。
神さまは、私たちに罪をやめてほしい、ご自分を信頼し、愛し、従ってほしいと思われました。私たちも、他の人に何かをしてほしいとき、あるいは今の言動をやめてほしいときがありますね。特に、相手の言動に困っているときには、相手に変わってほしいと思います。
そんなとき、どのような伝え方をするでしょうか。人を動かすのによく使われるのが、嫌な感情です。相手を嫌な気持ちにさせて、それによって動かそうとするのです。
たとえば、痛みや恐怖心を使うやり方。典型的には暴力ですね。また、相手の心に痛みを与える暴言です。 痛みや恐れを感じた相手は、こちらの思う通りに行動してくれるかもしれません。
そして、不安感を使うのが脅しです。思い通りにしないと罰として殴るとか、追い出すとか言って、不安感をあおるわけです。そんなことになるのは嫌だから、相手は思い通りに動くかもしれません。
また、羞恥心を使うのが、嫌みです。「専業主婦のくせに料理も満足に作れないのか」などと馬鹿にすることで、相手から「なにくそ」という反発を引き出し、こちらの思い通りに動かそうとします。
あるいは、涙や悲しい顔。相手の心に「この人を悲しませるなんて、なんてひどいことをしてしまったんだ」という罪責感を植え付けます。その結果、償いとしてこちらの思い通りに動いてくれるという寸法です。
これらは、いずれも相手を嫌な気持ちにさせ、無理矢理相手を動かそうとする方法です。誰も嫌な気持ちになりたくはありませんから、あるいはこちらの思い通りに動いてくれるかもしれません。しかし、動かされた相手は決してこちらを信頼したり尊敬したりはしてくれないでしょう。
場合によっては、こちらに反発し、反撃したくなるかも知れません。すなわち、こちらが願っていることはしてくれず、むしろ嫌がるようなことをするのです。それでは逆効果ですね。
パウロは、このような支配的な、相手を無理矢理コントロールするようなやり方を控えました。代わりに、神さまに倣って謙遜なやり方を採用しました。そのやり方とは……?
お願いという伝え方をしよう
20節でパウロは、「私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい」と語りました。ということは、イエスさまが私たちと仲直りしたくて、イエスさまの方から「仲直りしておくれ」とお願いしておられるということです。
私たちが他の人に何かをしてほしいとき、あるいは何かをやめてほしいときにはどうすればいいでしょうか。私たちは、神さまを行動のモデルにしています。先ほど申し上げたような嫌な感情を使う方法は避けましょう。相手を無理やり動かそうとするのではなく、イエスさまがなさったようにお願いをしましょう。
神さまの謙遜さに学び、実践できる一週間でありますように。