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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

恵みを無駄にしない生き方

コリント人への手紙シリーズ37

コリント人への第二の手紙6章1節~13節

(2026年7月12日)

神の恵みを無駄にしない生き方とは何でしょうか。苦難の中で信仰と愛を実践し、実を結ぶ道を学びます。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

神さまの恵みは、キリスト教の本質を表す言葉です。私たちは恵みによって救われ、恵みによって生かされています。しかし、その恵みを無駄にしてしまう生き方があるとしたら、それはどのようなものでしょうか。逆に、恵みをいただいた私たちは、どのように生きればいいのでしょうか。

1.コリント教会に対するパウロの愛

神の恵み

神の恵みを無駄に受けないようにとの勧め
(1節)私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。

パウロは、コリント教会の人々に向かって、「神の恵みを無駄に受けないように」と勧めています。この「無駄に」と訳されている言葉は、空しい」「実を結ばない」「目的を果たさない」という意味を持ちます。

コリント教会の人々は、イエスさまによる恵みの福音を信じ、神さまと和解して救われました。本来なら、内に住む聖霊さまによって日々聖められ、神さまの子どもにふさわしい実を結ぶ、すなわち円満な人格やそこから出てくる良い行いができるようになっていくはずです。

ところが、教会の一部の人たちは、偽教師の影響を受けて、神さまの子どもにふさわしくない生き方を続けていました。それでは、生活の中で本来生み出されるはずの実を結ばないことになります。
今は恵みの時、救いの日
(2節)神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。

パウロは、イザヤ49:8の言葉を引用しています。イザヤ49章では、神さまが救い主を通してイスラエルを回復するという預言が語られています。パウロはこの預言を、イスラエルだけでなく全世界の人々に適用しました。

今は恵みの時であり、救いの日であるという宣言は、今この時、神さまの恵みが私たち人間に注がれていることを表します。

本来なら、罪のゆえに永遠の苦しみという罰を受けなければならなかったはずの私たちを、神さまは赦して救い出し、それどころか神さまの子どもとして永遠に祝福しようと考えてくださいました。

私たちは、何の償いをしなくても、また良い行いをしてアピールしなくても、ただ福音を信じるだけで罪を赦され、神さまの子どもとされます。

福音とは、「この私の罪を赦すためにイエス・キリストは十字架にかけられた。そして、死んで葬られ、3日目に復活なさった」ということです。それが本当のことだと信じ受け入れるとき、人は救われます。

ただし、「今は」という言葉が2回繰り返されていることに注目しましょう。今は、福音を信じるだけで救われるという恵みの時代ですが、この時代は永遠には続きません。将来のある日あるとき、恵みの時代は終わりを告げます。

救い主であるイエスさまが、もう一度この地上に戻ってこられるとき、福音を信じなかった人たちへのさばきが行われるのです。その人たちは、神さまの赦しを受け取らなかったため、自分の罪の罰を受けて、永遠に苦しむことになってしまいます。

恵みを伝える者の心構え

つまずきを与えない
(3節)私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、

使徒パウロやその同労者である伝道者たちは、イエスさまを通して表された神さまの恵みを伝える働きをしています。実は、この勤めはプロの伝道者だけの使命ではありません。すべてのクリスチャンが、他の人にイエスさまを紹介し、福音を伝える使命を帯びています。

福音を伝える者として、パウロは心構えを語ります。まず、人をつまずかせないように努めていると語ります。つまずきとは、人が信仰を持ったり、それを成長させたりするのを邪魔するという意味です。

自分の言動によって、他の人が救われるのを邪魔していないだろうか、あるいはすでに救われた人が神さまの子ども、またイエスさまのしもべとして成長するのを邪魔していないだろうか。そのことを注意しながら自分の行動を選んでいるとパウロは言います。

第一の手紙の中で、偶像にささげた肉の話をパウロはしました。

本来偶像など存在しませんから、いったん偶像の神殿にささげられた肉をクリスチャンが食べても、まったく問題ありません。

しかし、その知識のない人の前で肉を食べてしまうと、その人が「こんな汚れた連中と一緒にはやっていけない」と感じて教会を離れてしまうかもしれません。それはつまずきを与えることです。その危険があるなら、自分は偶像にささげた肉を肉を食べないとパウロは語っています。
神のしもべとして推薦している
(4節前半)むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。

パウロは、人につまずきを与えないよう注意するという消極的な生き方をしているだけではありません。積極的に、自分を神さまのしもべとして推薦していると言います。

しかし、その推薦の方法は、偽教師たちが行っているものとはずいぶんと異なっていました。偽教師たちは、雄弁さ、外見、有力者からもらった推薦状、神秘的な体験などをアピールして自分たちを推薦していました。

パウロたちの方法はそれとは違っていました。その内容が4節後半から語られます。
自己推薦の方法1
(4節後半-5節)すなわち、苦難にも苦悩にも困難にも、 むち打ちにも入獄にも騒乱にも、疲れ果てた時も眠れない時も食べられない時も、大いなる忍耐を働かせて、

パウロたちの自己推薦の方法、その第一は忍耐でした。

パウロたち伝道者は、ユダヤ人や異教徒たちによって、様々な苦しみを与えられています。たとえば、これまでもむちで激しく打ちたたかれたり、牢に入れられたり、暴動に巻き込まれたりしました。また、さまざまなストレスで肉体的精神的に疲れ果てたり、食べるものがなかったりもしました。

そんな中でも忍耐を働かせているのが、本物の伝道者、教師である証拠だとパウロは言います。

ここで言う忍耐とは、ただ我慢して苦しみが過ぎ去るのを待つという意味ではありません。苦しみがあっても、踏みとどまって自分に与えられている使命を全うしようと努力し続けることを指します。
自己推薦の方法2
(6節)また、純潔と知識、寛容と親切、聖霊と偽りのない愛、

この節では、苦難の中で示されている内面的な性質が列挙されています。

「純潔」は、姦淫を犯さないというだけでなく、動機や行動全体が誠実であるということを指します。

「知識」は、神さまの真理に関することです。しかも、ただ単に情報を持っているというだけでなく、その情報を元に行動し、体験的に知っているという意味です。

たとえば、聖書は神さまが祈りを聞いてくださると約束しています。パウロは、実際に祈ることでその約束が真実だと何度も体験してきました。

「寛容」は、当然怒りを感じてもよいはずの場面でも、すぐに感情を爆発させることなく、穏やかな接し方を続けることです。

「親切」は、相手の最善を願い、そのために自分にできることをしようとする態度です。コリント教会に対して、パウロはたびたび厳しい言葉を投げかけました。しかし、それは彼らの信仰を守り、成長させたいという思いから出たものです。

そして、「聖霊」をパウロは挙げています。6節の前半で語ってきたよい性質は、人間の意志や努力だけで生み出されるものではありません。クリスチャンの内に住んでくださっている聖霊さまのお働きによります。パウロは、その聖霊さまのお働きを実感していました。

「偽りのない愛」は、演技ではない愛です。人は愛を装いながら、本当は自分のために行動することがあります。

イエスさまの時代のパリサイ人たちは、施しや祈りなどさまざまな良いわざに励んでいました。しかし、わざわざ人目に付くようなやり方でそれを実行しているのをイエスさまにとがめられています。彼らは、偽りのない愛でそうしていたのではなく、自分が褒められるためにやっていたのです。

また、 以前あるお母さんからこんな話を聞きました。それまで、お子さんが何かをしようとすると、「大丈夫なの?」「危ないからやめなさい」「ちゃんと準備したの?」と転ばぬ先の杖を突いていたそうです。しかし、それが我が子のためというよりも、自分自身の不安解消のためだったと気づいた、と。
自己推薦の方法3
(7節)真理のことばと神の力により、また左右の手にある義の武器によって、

パウロたち本物の教師の働きの中心は、人間の思想を伝えることではありませんでした。人間が自分の理性を使って作り上げた哲学でもありません。神さまがくださった真理のみことばを伝えることでした。

そして、パウロたちがみことばを伝えることを通して、神さまはさまざまな力を見せてくださっています。それは、奇跡だけではありません。福音を信じた人の人生が具体的に変化しています。その事実が、神さまの力が働いていることを表しているのです。

一方、偽教師たちの教えは、人々を良い方向に変化・成長させるどころか、平気で罪を犯して悔い改めない方向に引き下げてしまったり、逆に自由を奪ってさまざまな掟に縛られるような生き方に追いやったりしています。

「左右の手にある義の武器」とは、あらゆる方向の敵に対して、攻撃の面でも防御の面でも十分に備えているということを指します。

エペソ書6章で、パウロは「敵」とは人ではなく悪魔や悪霊たちのことであり、その攻撃に対抗するための神さまがくださる武器について書いています。

(エペソ6:11-17)悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。
そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。


神さまがくださる武器は、いずれも神さまのみことばと関係しています。神さまの約束の言葉を信じ続け、神さまの命令を守り続けることが、敵である悪魔に対抗する手段です。パウロはそれを実践しようと努めてきました。
自己推薦の方法4
(8節前半)また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

パウロについての人々の評価は一定していません。ある人たちはパウロをほめて、別の人たちはけなしました。

しかし、人々の評価が、パウロが本物の教師であるかどうかを決めるわけではありません。パウロが神さまのしもべであるなら、最終的に良いしもべなのか悪いしもべなのかを評価なさるのは神さまです。
見た目と真実の姿
(8節後半-10節)私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。

ここでは、悪評の一部が挙げられ、それに対して神さまがご覧になっている真実の姿が対比されています。

パウロたちは、偽教師や一部の教会員たちから、人をだまして金をむしり取る詐欺師呼ばわりされていました。しかし、神さまはパウロの誠実さをご存じです。

また、パウロたちは世間的には無名で、価値のない者のように扱われていました。しかし、諸教会に名が知られ、何より神さまに知られています。これは単に有名であるという意味でなく、神さまと教会からその存在や働きの価値を認められているということです。

それから、パウロたちは絶えず死の危険にさらされていましたが、神さまによって守られ、生かされてきました。「見よ」という言葉は、死んでもおかしくない状況で、それでも守られたことへの驚きと感動を表しています。

しかも、「懲らしめられているようでも、殺されておらず」。これは、パウロたちの苦しみが自分の罪の自業自得ではないことを表します。

苦しみがすべて神さまからの罰であるわけではありません。信仰があれば危険や苦痛を経験しないということでもありません。大切なのは、順境でも逆境でも、神さまに従い続けることです。

そして、パウロたちは悲しみを味わっているように見えますが、実は神さまがくださる喜びを味わっています。貧しく見えますが、物質的なものではなく霊的なもので多くの人を富ませています。何も財産を持っていないように見えますが、やがて千年王国で豊かな祝福を味わうことが決まっているので、実は多くの財産を持っているのと同じです。

多くの人たちが評価するパウロたちの見た目と、神さまがご覧になっている実態はこのように異なっていました。

コリント教会員への訴え

コリント教会への呼びかけ
(11節)コリントの人たち、私たちはあなたがたに対して率直に話しました。私たちの心は広く開かれています。

「コリントの人たち」とパウロは呼びかけます。この言葉には、パウロのあふれる想いが込められています。パウロは、彼らを大切に思い、その成長を心から願っていました。

しかし、一部の教会員たちがパウロを批判しています。それはとても悲しいことです。自分が拒否されたり馬鹿にされたりすることが悲しいのではなく、人々がパウロに逆らうことでイエスさまからも心が離れてしまっていることを悲しんでいるのです。

パウロを批判する人たちはパウロに対して心を閉ざしていました。しかし、パウロの側では常に心を開いています。すなわちパウロの愛は消え去ってはいません。彼らがパウロの方を向いてくれるなら、いつでも親しい交わりが再会できます。

それはちょうど、神さまの側では救いに必要な準備をすべて整えてくださっているのと同じです。イエスさまはすでに十字架にかかり、復活なさいました。あとは人が自分の罪を認め、福音を信じるだけで救われ、神さまとの親しい交わりが回復します。
心が狭くなったのはコリント教会の方
(12節)あなたがたに対する私たちの愛の心は、狭くなってはいません。むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです。

パウロたちまことの教師たちとコリント教会の関係がギクシャクしているのは、パウロたちが心を閉ざしているからでも、愛が乏しいからでもありません。

コリント教会の人たち(もちろん全員ではなく一部に過ぎませんが)が心を閉ざし、反発し、パウロの愛が小さいと誤解しているからです。
心を広くしてください
(13節)私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください。

コリント教会は、パウロの伝道によって誕生しました。ですからパウロは、コリント教会の一人ひとりをまるで我が子のように感じ、愛していました。そして今、父親が子どもたちに愛情をもって語りかけるように訴えかけます。

それは、自分たちがあなたたちを愛しているように、あなたたちも私たちを愛してほしいということです。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.恵みを無駄にしない生き方をしよう

恵みを無駄にしない生き方とは?

恵みの福音を信じ、信じ続けること

パウロは「今は恵みの時、今は救いの日」であると言いました。救いは神さまの恵みによって私たちに与えられています。しかし、偽教師たちは「恵みではないもの」を宣べ伝え、コリント教会の人たちを惑わしていました。

恵みによって救われた私たちは、恵みではないものに心を奪われて、救いの喜びや平安を失うようなことがあってはなりません。
  • 人は律法を守ることによって救われるわけではありません。クリスチャンになってから罪を犯したとしても、それで救いが取り消しにはなりません。罪を告白して悔い改めれば、ただちに神さまとの関係は回復します。
  • 哲学や心理学や処世術は良いものですが、それが人を救うわけではありません。
  • 神秘的な体験は、救いの保証にはなりません。たとえ奇跡を体験していなくても、異言や幻や体の震えなどがなくても、ただ福音を信じているだけで、立派な神さまの子どもです。
私たちは、自分が一方的に神さまによって愛され、一方的に選ばれ、一方的に祝福されていることを信じました。それをこれからもずっと信じ続けましょう。そして、感謝し続けましょう。

苦難の中でも神に従い続けること

苦しみは、神さまに嫌われ、呪われている証拠ではありません。

確かに、罪を犯して悔い改めないでいると、間違いを教えて悔い改めに導くために、苦しみがやってくることがあります。しかし、それは神さまの愛のムチであって、私たちが神さまに嫌われ、呪われている証拠にならないのです。むしろ、愛されている証拠です。

ですから、たとえ苦しみに遭っていたとしても、希望を失うことなく、神さまのしもべとして神さまのみこころを実践し続けましょう。

パウロも、ペテロたち十二使徒も、また名も無い歴代のクリスチャンの先輩たちも、みんな苦しみの中で神さまのみこころを実践しようと奮闘してきました。

今、あなたは苦しみの中にあるでしょうか。その中でも、それでも神さまに求められている言動はどういうものでしょうか? 聖霊さまが力と知恵を与えてくださり、それを実践できるよう祈りましょう。そして、実際に行動に移しましょう。

愛を実践すること

神さまが望まれる行いの中で、特に大切だと言われているのが愛です。パウロは、自分を批判する人たちに対しても、怒りで応答しようとはしませんでした。

第一の手紙と第二の手紙の間の時期に、パウロは「涙の手紙」と呼ばれる手紙を書いています。その手紙は、今は残っていませんが、かなり厳しい調子でコリント教会の問題を責める内容だったと考えられています。

しかし、それは自分が批判されて頭にきて、怒りをぶつけるために書かれた手紙ではありません。コリント教会の人たちを心配し、彼らが成長して本来味わうことができるはずの神さまからの祝福を味わえるようになってほしいという、愛の動機で書かれたものです。

私たちは恵みによって、神さまの一方的な愛を味わいました。そして、罪を赦されて罰を免れただけでなく、神さまの子どもにしていただきました。

恵みを無駄にしない生き方を目指す私たちは、神さまが私たちを愛してくださり、イエスさまが自分を捨てて愛を実践してくださったように、他の人に対して愛を実践しましょう。あらゆる行動の土台に愛を据え、愛を動機として行動しましょう。

目の前にいるその人に愛を実践するとは、一体何をどう語り、何をどう行動することなのか。それを考えながら実践する一週間でありますように。

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