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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

つり合わないくびき

コリント人への手紙シリーズ38

コリント人への第二の手紙6章14節~18節

(2026年7月19日)

聖書が語る「つり合わないくびき」の真意とは? この世の価値観に惑わされず、神の子どもとして愛に生きる具体的な歩み方を解説しています。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません」という14節のみことばは、時に「クリスチャンは未信者と関わってはいけない」という意味に受け取られることがあります。しかし、聖書は本当にそのようなことを教えているのでしょうか?

今回の箇所を前後の文脈や旧約聖書の背景とともに読み解くと、まったく異なる世界が見えてきます。クリスチャンではない人が99%以上のこの国で暮らす私たちに、今回の箇所は大切な原則を教えてくれています。

1.不信者とつり合わないくびきをともにしてはならない

1~13節の振り返り

心を広くしてください
直前の箇所で、パウロはコリント教会の人たちに向かって訴えかけました。

(13節)私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください。

パウロたちまことの伝道者たちは、コリント教会の人たちを愛し、仕えてきました。ところが、一部のコリント教会員たちはそんなパウロたちを見下し、批判し、その教えを素直に聞こうとしません。

それは、コリント教会に入り込んでいた、偽教師たちの影響を受けていたからです。パウロに対抗しようとする偽教師たちは、パウロたちを批判し、悪い噂を教会内に広めようとしていたのでしょう。

そこでパウロは、私たちの心はあなたがたに向かって広く開け放たれているのだから、あなたがたも偽教師たちの教えに惑わされず、心を広く開け放って私たちを受け入れてほしいと願っています。

今回の箇所は、そんな状況を背景として語られています。ですから、「不信者とつり合わないくびきを共にするな」という教えも、偽教師たちによる惑わしに対する警告という文脈で読み解かなければなりません。

偽教師の影響への警告

つり合わないくびき
(14節 その1)不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。

くびきとは、横に並んだ2頭の牛の首をつなぐ横木で、鋤や車を引かせるために用いました。

「つり合わないくびきをともにする」と訳されているギリシア語は、ヘテロズゲオーです。これは「異なる」という言葉と、「つなぐ」という言葉の合成語です。ですから、元々は「異なる種類の家畜を一つのくびきにつなぐ」という意味を持っています。

実は、つり合わないくびきに関して、モーセの律法には次のような教えがあります。

(申命記22:10)牛とろばとを組にして耕してはならない。

牛とロバとでは、大きさも歩幅も力も違います。そんな異なる種類の家畜を組みにして、くびきにつないで鋤を引かせても、まっすぐに進むことができません。

パウロはこの箇所で、牛とロバを信者と不信者に置き換えて語っています。信者と不信者が、心を一つにして大切な神さまの働きを行うことはできません。そして、この場合の不信者とは、先ほど申し上げたとおり特に偽教師たちのことを指しています。
正義と不正義
(14節 その2)正義と不法に何の関わりがあるでしょう。

ここからパウロは、くびきをともにする牛とロバのように、2つのものを対比させていきます。

まず、正義と不法です。「正義」は、神さまのみこころに従って生きる姿勢を表します。一方、「不法」は単なる法律違反のことではなく、神さまの支配を拒否して、自分の思い通りに行動しようとする生き方を指しています。

信者と不信者が一緒の職場で協力しながら働くことはできます。しかし、両者の霊的な行動原理は異なります。よって、神さまのみこころを実現しようとする大切な働きを共に行うことはできないのです。
光と闇
(14節 その3)光と闇に何の交わりがあるでしょう。

聖書において光は神さまご自身、あるいは真理や聖さ、いのちといったものを象徴しています。一方、闇は罪、偽り、死、神さまへの反逆を表しています。

パウロは、信者が未信者より人間的に優れていると言っているのではありません。私たちクリスチャンも、元々は闇の側にいました。パウロもそうです。彼が書いたエペソ書には次のように書かれています。

(エペソ5:8)あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。

私たちも、かつては闇の中にいました。しかし、イエスさまによって光の領域に移されたのだから、その新しい身分にふさわしく生きていこうとエペソ書は求めています。

この箇所でパウロが言いたいのは、私たちクリスチャンは、自分の願いや欲望は大切にしながらも、それ以上に神さまのみこころに従う生き方を大切にしなければならないということです。そして、そのことを、信者の少ないこの世界で生きていく際に注意しなければならないということです。
キリストとベリアル
(15節前半)キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。

「ベリアル」とは、「価値がない」という意味の言葉です。転じて、イエスさま時代のイスラエルでは、サタン(悪魔)の別名として用いられていました。

信者はイエス・キリストの支配の下にあります。一方、不信者は、本人が自覚していなくても、サタンの影響の下で暮らしています。

そして、「調和」と訳されている言葉(シュンフォーネーシス)は、シンフォニーの語源となった言葉で、音楽の和音の響きを表しています。キリストの支配の下にある人とサタンの影響下にある人とは、美しい曲を合奏できない、すなわち大切な神さまの働きを共に行うことはできないとパウロは言っています。

もちろん、これはすべての未信者を「サタンの手先」として扱うよう命じる表現ではありません。まだイエスさまを信じていない人も、神さまのかたちに造られた神さまの大切な作品であり、神さまがイエスさまの命と引き換えにしても惜しくないほどに愛しておられる存在です。

ただ、救いを受け取る前の人間は、自覚しているかどうかにかかわらず、暗闇の力の下にあるという現実を、パウロはここで明確にしています。
信者と不信者
(15節後半)信者と不信者が何を共有しているでしょう。

「共有」と訳されている言葉(メリス)は、「分け前」を意味します。

信者と不信者には、人間として共通する部分がたくさんあります。そして、家族、仕事、文化、地域社会などで行動を共にすることもあります。しかし、最終的に与えられる「分け前」は異なります。

私たちクリスチャンの分け前は、神の国、そして永遠のいのちです。永遠のいのちとは、ただ永遠に存在し続けるという意味ではなく、三位一体の神さまとずっと共にいて、親しく交わることができるということです(ヨハネ17:3)。

しかし、不信者はまだその分け前をいただくことが決まっていません。イエス・キリストの恵みの福音、「この自分の罪を赦すためにイエス・キリストが十字架にかけられ、死んで葬られ、3日目に復活なさった」と信じない限り、神の国も永遠のいのちも与えられないのです。
神の宮と偶像
(16節前半)神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。

コリントの町には、ギリシア神話・ローマ神話の神々やローマ皇帝を礼拝するための神殿や宗教施設がたくさんありました。

こうした異教の神殿は、宗教活動だけでなく、食事、商取引、社交、地域行事とも密接に結びついていました。そこで、コリントのクリスチャンが社会生活を送る際、偶像礼拝との境界が曖昧になりやすい環境でした。しかし、パウロは、その点を曖昧にしてはならないと教えようとしています。

そして、私たちは神の宮だと言います。第1コリント6:19でも、パウロは私たちクリスチャン一人ひとりの体が聖霊の宮だと教えています。しかし、ここでは「私たち」という複数形が用いられていて、教会という共同体全体が神の宮なのだという面が強調されています。

教会の建物が神の宮なのではありません。聖霊さまによって私たちがイエスさまと一つとなり、聖書の神さまを礼拝し、従うとき、私たちの共同体が神の宮となります。

旧約聖書の教え

神との親密な交わり
(16節後半)神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

ここでパウロは、信者と不信者が決定的に異なる存在だということを示すために、旧約聖書の2箇所を組み合わせて引用しています。

(レビ26:11-12)わたしは、あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。わたしの心は、あなたがたを嫌って退けたりはしない。わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

(エゼキエル37:27)わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

特にエゼキエル書の言葉は、ずっと神さまに逆らい続け、たびたびさばきを経験してきたイスラエルが完全に回心して、神さまにつながって永遠の祝福を受けるようになることを預言したものです。

そして、この祝福の約束はイスラエルだけでなく、全世界の人たちにも開かれています。イエス・キリストを信じるとき、ユダヤ人でなくても神さまの民に加えられ、イエスさまを信じるユダヤ人と同じように永遠の祝福を味わうことができるようになります。
汚れたものからの分離
(17節前半)それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。

私たちには、神さまの民、それどころか神さまの子どもという新しい身分が与えられました。ですから、神さまが嫌われる汚れたものから離れなければなりません。そのことを、パウロは旧約聖書のあちこちに命ぜられている「分離」の教えを引用して語っています。

(イザヤ52:11)去れ、去れ。そこから出て行け。汚れたものに触れてはならない。その中から出て行き、身を清めよ。【主】の器を運ぶ者たちよ。

イザヤの預言は、バビロン捕囚から解放されて約束の地に戻ってくる人たち、特に礼拝で用いる器を運ぶ人たちに向かって、汚れたものに触れないように命じています。

汚れたものから離れるというのは、神さまを信じていない人と一切の接触をしないという意味ではありません。その影響を受けないように注意するという意味です。繰り返しますが、パウロの念頭にあったのは、コリント教会に悪い影響を与えていた偽教師たちの存在です。
与えられた神の子としての身分
(17節後半-18節)そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」

イエス・キリストの恵みの福音を信じた人は、神さまの子どもとされました。

(ヨハネ1:12)しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

ここで特に注目したいのは、パウロが「息子」だけでなく「娘」も挙げているということです。古代社会では、相続権や家の継承はもっぱら息子に与えられるものでした。

しかし、神さまとの親子として親しく交わることができ、将来神の国に入ることができるという祝福は、男女問わず与えられます。

先ほどの箇所で、パウロは汚れたものから分離しなさいと命じました。それは、不信者と交わりを持たないという否定的な意味ではなく、神さまの子どもとして神さまを愛し、神さまとの交わりを保ち、神さまのみこころにかなう生き方をするという積極的な意味です。

私たちが神さまのみこころにかなう生き方をしようとすれば、悪魔の支配下にあるこの世の悪い影響力、特に偽教師がもたらす間違った教えの影響力から結果的に守られることになります。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.聖書的な分離を実践しよう

反聖書的な影響力を受けないようにしよう

「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはならない」という命令は、不信者の価値観、すなわち聖書的ではない価値観、罪の生き方に影響されてはいけないということです。
森永太一郎
和菓子ばかりだった日本に本格的な西洋菓子を持ち込んだのは、明治32年(1899年)に横浜で菓子工場を開業した、森永太一郎という人です。

森永さんは、ある時小売店の組合から、お菓子の箱を上げ底にして欲しいと依頼されます。当時のお菓子はすべて上げ底にすることで、正当な値段よりも高く売って利益を上げようとしていたのです。そして、上げ底にしてくれたら、仕入れの値段も高くしてやると店主たちは森永さんに言います。

ところが、クリスチャンである森永さんは、お客さまをだまして利益を上げるようなことはできないと断わります。そのため、誰も森永さんのお菓子を仕入れてくれなくなりました。

しかし、森永さんは「不信者と、つり合わないくびきをともにしない」生き方を貫きます。そんな誠実な生き方に共感した小売店主が現れるようになり、やがて森永さんの菓子は評判になっていきました。こうして誕生したのが日本を代表するお菓子メーカーである森永製菓です。

日本には、クリスチャンは1%もいないと言われています。周りはクリスチャンではない人たち、聖書的な価値観で生きていない人たちがたくさんいるということです。私たちが何も考えずに生活していると、いつの間にかこの世の価値観に影響され、罪を犯してしまうかもしれません。

聖書は、この点をコリント教会の人たちだけでなく、この私やあなたにも警告しています。そして、森永さんのように、聖書的な生き方を貫いていこうと励ましています。
物理的な分離
ただ、どれほど気をつけても、それでも反聖書的な価値観に巻き込まれ、影響を受けてしまうこともあるでしょう。そのような場合には、物理的に距離を取る判断も必要です。

以前、ついポルノビデオを見てしまうとおっしゃる方のカウンセリングをしたことがあります。会社から家に向かう途中にビデオ店があって、そこにふらふらと引き寄せられてしまうというのです。そこで申し上げました。「帰り道を変えましょう」。

仕事においても、友だちづきあいや恋愛、結婚生活においても、近所づきあいにおいても、クリスチャンではない人とまったく接触しないのは不可能です。 それでも、いやそれだからこそ、神さまのみこころにかなわないものの影響を受けないよう、細心の注意が必要です。

周りの人の目を気にして、家庭や職場で祈ることをやめてしまったり、周りに合わせて良くない噂話に参加したり、仕事上のちょっとした不正に加担したり……そういった間違った行動に巻き込まれないようにしましょう。

積極的に聖書の教えに従おう

今回の箇所は、ただ単に悪い価値観や生き方から離れるというだけでなく、より積極的に、イエスさまのみこころにかなう生き方をしようと勧めています。

大切なのは、聖書的ではない生き方の影響を受けないこと。そして、それ以上に大切なのは、みこころにかなう行き方をすることです。
捨てるもの
アメリカのサム・ジョーンズ師は、南部で行なわれたキリスト教の大会で、特別に「やめる人の集い」という集会を持ちました。これは、具体的な罪の行為を悔い改めて、神さまとの新しい人生に踏み出すための、決意の集会です。

この集会に参加するに当たって、人々は自分の罪の象徴になるものを持ってくるように、そしてそれを集会場の前のところに捨てていくようにと言われました。

講壇には、ギャンブルの道具や、ドラッグ、不倫相手の写真などがぞくぞくと積み上げられました。

そして、みんな今までの間違った生活を悔い改めて、イエスさまを信じ、新しくクリスチャンとして生きることを決意しました。誰の顔も希望に輝いています。

そこに、ジョーンズ師のよく知った女性が進み出てきました。サラというとても信仰深い婦人でした。ジョーンズ師はびっくりして、「サラ、あなたは何を捨て去りたいのですか?」

するとサラは答えました。「私、何もしていないのです。そのことを悔い改めたいんです」。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
以前も紹介しましたが、となみ野聖書教会の横山幹雄先生が、おっしゃった言葉が心に残っています。先生はおっしゃいました。「何が罪かを考えるよりも、どうしたらイエスさまに喜んでいただけるかを考える方がいいですよ」。

罪を避けることは大切です。しかし、罪のことばかり考えて生きるのは窮屈です。そして、「罰を受けずに、できるだけ自分の思い通りに生きるにはどうしたらいいか」といった、何だか神さまの目を盗むような生き方になりかねません。

私たちを愛し、守り、本当の幸せへと導いてくださっている神さまに感謝しながら、喜んでそのみこころを行う生き方を目指しましょう。今、聖書を通してイエスさまがあなたに求めておられる行動は何ですか?

信者でない人にイエスさまがなさっているように接しよう

ユダヤ人は、神さまに選ばれた特別な民族です。しかし、イエスさま時代のユダヤ人たちは、その選民思想が行きすぎて、自分たちだけが神さまに愛された特別な存在で、異邦人どもは呪われているという間違った考え方に凝り固まっていました。

しかし、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約には、ユダヤ人を通して全世界の人たちが祝福されるという約束が伴っています。異邦人は呪われた民ではなく、初めから愛すべき対象だったのです。

私たちクリスチャンも、過去の教会の歴史を振り返ると、間違った選民思想に凝り固まってしまって、自分たちの仲間ではないと判断した人たちを攻撃したり迫害したりしたことがあります。

例を挙げれば、魔女裁判や異端審問、ガリレオ裁判、十字軍などです。ナチスドイツやロシアなど世界中の国々が行ったユダヤ人に対する迫害もそうです。
不信者への神の愛
聖書は、不信者とつり合わないくびきを共にするなと言いますが、それは悪い価値観の影響を受けないようにせよということであって、不信者自身を邪悪なものとして攻撃したり排除したりせよということではありません。

神さまは私たちがイエスさまを信じ、神さまに従うようになったから、私たちを愛してくださるようになったわけではありません。私たちが神さまを無視して、神さまに逆らう生き方をしていたとき、すでに私たちのことを愛してくださっていました。

(ローマ5:8)しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

ですから、私たちも、まだイエスさまを信じていない人を憎んで排除するのではなく、神さまが愛された大切な宝物として接しましょう。今、イエスさまがあなたに望んでおられるのは、誰に対してどんな行動をして愛を表すことですか?

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