本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

肉体のとげ

コリント人への手紙シリーズ43

コリント人への第二の手紙12章1節~10節

(2026年8月23日)

パウロを苦しめた「肉体のとげ」とは何だったのでしょうか。第二コリント12章から、苦しみがもたらす神さまからの祝福を学びます。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

「この苦しみさえなくなれば、もっと幸せに生きられるのに」。そう願ったことはないでしょうか。パウロにも、何度祈っても取り除かれない「肉体のとげ」がありました。

しかし神さまは、それを取り去る代わりに、「わたしの恵みはあなたに十分である」と語られます。なぜ神さまは、愛する者から苦しみを取り除かれないことがあるのでしょうか。

今回はパウロの経験を通して、弱さや苦しみの中だからこそ知ることのできる、神さまからの祝福について考えます。

1.肉体のとげによる弱さを誇るパウロ

10章から11章の概要

パウロは、10章からコリント教会に入り込んで人々を惑わしていた偽使徒・偽教師たちの問題を取り上げてきました。

偽教師たちは、自分たちのすばらしさを挙げて誇っていました。たとえば、哲学的な知識、雄弁さ、見た目の良さ、権力者たちからの推薦状などです。そして、それらを持ち合わせていないパウロを見下し、パウロこそ偽使徒であると批判していたのです。

パウロが使徒であることを否定すると、彼が伝えた福音のメッセージも受け入れられないことになります。そこでパウロは、10章以降でこの問題を取り上げて弁明しています。
キーワード
10章以降に繰り返し出てくる言葉があります。それは「誇り」です。

パウロは、「何を誇るのか」「誰によって評価されるのか」という問いを軸に、偽使徒の「自己推薦的な誇り」と、パウロの「主にある誇り」を対比しています。
10章の概要
10章では、偽教師たちの自己推薦・自己評価を批判しています。偽教師たちは、勝手に自分たちで評価基準を作って、その基準で互いを比較し、自分を高く評価していました。パウロは、それを愚かなことだと切り捨てます。

一方パウロは、自分たちまことの伝道者について、 「私たちは限度を越えて誇ることはしません」(13節) と言います。

パウロにも誇るものはあります。しかし、それは自分で獲得した名声や能力ではありません。イエスさまが自分に割り当ててくださった働きを忠実に行っているという点なのです。
11章の概要
今回のシリーズでは細かい解説をしませんでしたが、11章になると、パウロはあえて偽使徒たちのやり方に付き合います。彼らが、 自分たちが勝手に決めた基準で自分のことを誇っているので、パウロも、「その基準で言うなら、私にも誇るものがある」 と語ります。

パウロ自身は、そのようなことで誇るのは愚かなことだと分かっています。しかし、あえて偽教師たちと同じ土俵に立って誇ってみせるのです。

最初は、自分も彼らと同じようにヘブル人、すなわちイスラエル人であること、信仰の父であるアブラハムの子孫であると語ります。そして、彼らが自分たちのことをそうだと主張しているように、パウロもキリストのしもべです。

しかし、急に話のトーンが変わります。その後パウロが誇りの種として列挙していくのは、パウロの強さを著すエピソードではなく、弱さを著すエピソードでした。投獄・むち打ち・石打ち・難船 飢え・渇き・危険・教会への心遣いなどです。

自分たちの強さを誇る偽教師たちや、彼らを信奉する一部の教会員に対して、パウロは宣言します。

(11:30)もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。
ダマスコでつり下ろされた経験
そして、パウロは11章の最後で、ダマスコで迫害に遭って命を狙われたときのエピソードを語ります。ダマスコ教会の兄弟たちによって、パウロは夜中にこっそりカゴに乗せられ、城壁の上からつり下ろされて、命からがら逃げ出したのです。

この城壁からつり下ろされた体験は、一般的な感覚では、勝利のエピソードではなく敗北のエピソードです。しかし、12章に入ると、パウロは天に引き上げられたという驚くべき経験について語り始めます。

第三の天に引き上げられた経験

主の幻と啓示の話の始まり
(1節)私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。

パウロは、ここでも偽教師たちと同じ土俵に立って、誇りの種になりそうなすばらしい経験について語ろうとします。それは、「主の幻と啓示の話」です。啓示とは、神さまが人間に真理について教えてくださることです。

コリント教会に入り込んだ偽教師たちは、神秘的な霊的体験を味わったことについて誇っていたのでしょう。そこでパウロは、「霊的体験を使徒であるかどうかの基準にするなら、自分にも語るべき経験がある」と応答します。

もちろん、パウロはそのようなことを誇りの種にするのは無益だと分かっています。が、あえてそうするというのです。
第三の天に引き上げられたパウロ
(2節前半)私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。

パウロは、自分自身が体験した「主の幻と啓示」について、「ある人」の体験として語り始めます。もちろん、この「ある人」とはパウロ自身のことです。

14年前、パウロは「第三の天」に引き上げられるという驚くべき体験をしました。第一の天が空中、すなわち鳥が飛ぶ空間のことで、第二の天は天体が運行している宇宙空間を指します。そして、第三の天は、神さまや天使たちが住まう領域、いわゆる天国のことです。

14年前というのは、この手紙が書かれたのが紀元55年か56年だとされていますから、第三の天に引き上げられたのは紀元41年か42年ということになります。

パウロがダマスコで救いを体験したのが33年頃で、その後パウロは故郷のタルソで過ごし、紀元43年頃にアンティオキア教会に教師として招かれたと考えられています。ということは、第三の天に引き上げられたのは、パウロがタルソにいた頃の出来事だということですね。
肉体のままか魂だけか不明
(2節後半-3節)肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。

パウロは、自分が天に引き上げられたのは、肉体のままであったのか、一時的に肉体と魂が分離して魂だけの状態で行ったのか、自分自身は分からないと言います。これを2度繰り返して語りました。同じ内容を2度繰り返すのは、それだけ大事だということです。

パウロにとって、神秘的な体験の有無は誇りの種になりません。ですから、自分が味わった神秘的な体験について、話を盛ったり余計な装飾を加えたりしません。また、推測したことと事実とを混同するような真似もしません。起こった出来事を淡々と証言するのみです。

私たちも、他の人に自分が味わった神さまからの祝福について証しするときには、同じような姿勢で語りたいですね。
パラダイスで聞いたことば
(4節)彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。

「パラダイス」とは、元々は王の庭園を現すペルシャ語から来た言葉で、第三の天、いわゆる天国が祝福に満ちた場所であることを表しています。ルカ16章や当時のユダヤ教の文書では「アブラハムのふところ」という名前でも呼ばれています。

第三の天、パラダイスに引き上げられたパウロは、人間の言葉ではうまく表現できないことばを聞かされました。また、その内容について、他の人に話すことを禁じられました。

使徒ヨハネも、後に同じような体験をしています。ヨハネはパトモス島に流刑になっていたとき、さまざまな幻を見せられました。その中に、7つの雷が語る言葉を聞いたというエピソードがあります。ヨハネがその内容を書き留めようとすると、神さまはそれを禁じました(黙示録10:4)。

また旧約聖書の預言者ダニエルも、啓示を受けた内容の一部について、封印して語るなと命ぜられました(ダニエル12:4)。

弱さを誇る

弱さ以外は誇らない
(5節)このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。

パウロは天に引き上げられた「このような人」と、「私自身」を区別して語っています。「このような人」は、偽教師たちと同じ土俵に立って誇って見せた自分のことです。

パウロ自身は、そのようなことで誇るのは無益だと分かっています。だから、まるで別人の体験談を代弁しているかのような書き方をしたのでしょう。

パウロが誇りの種にするのは、多くの人たちが評価する強さではなく弱さです。先ほど紹介した11:30でも同じことを語っています。
過大評価されないために
(6節)たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを語るからです。しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。

パウロが自分の体験を語っても、嘘や誇張になりません。真実を語っているのだからです。しかし、真実だからといって、すべて語ればよいわけではありません。なぜなら人々が、「驚異的な霊的体験、神秘体験をした人物」としてパウロを過大評価する危険があるからです。

人は神秘的な霊的体験ではなく、「私について見ること、私から聞くこと」、すなわちその人の実際の言動によって評価されるべきです。すなわち、その人の生き方が評価の対象なんだということです。
肉体のとげ
(7節)その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。

神秘体験をしたパウロが傲慢にならないように、神さまはパウロに肉体のとげを一つお与えになりました。そのとげはパウロを苦しめ悩ませました。

日本語で「とげ」と聞くと、魚の骨や鉛筆の芯などの小さなものを想像しますが、ここで使われている言葉は杭のような太いものです。イエスさまが十字架につけられたとき手足に打ち付けられた、あの太い釘を想像してみましょう。

つまりパウロに与えられた悩み苦しみは、相当ひどいものだったということが想像できます。

では、「肉体のとげ」とは、具体的に何をさしているのでしょうか。聖書自身は沈黙していますが、古今東西さまざまな説が出されました。たとえば、目の病気、マラリア、てんかん、迫害、過去味わった苦しみについて思い出して味わう精神的苦痛、悪霊による攻撃などです。

ただ、繰り返しますが、聖書自身は沈黙しています。ここには神さまのご計画があるのではないかと私は想像します。具体的に書かれていないことによって、私たちはそれぞれ自分自身が味わう苦しみを当てはめることができます。

パウロは、自分に与えられた肉体のとげ、すなわち苦しみを「サタンの使い」と呼びました。

パウロが味わった苦しみは、サタンが投げ込んできたものです。しかし、すべてを支配していらっしゃる神さまは、サタンの攻撃をご自分の目的のために利用なさいました。ヨブ記のヨブがひどい苦しみを体験したことに似ていますね。

パウロに与えられた苦しみは、すばらしい体験をしたパウロが傲慢にならず、むしろ謙遜になって神さまをますます信頼して依り頼むようにさせました。

あなたにも「肉体のとげ」が与えられているでしょうか。その苦しみには、神さまのどんなご計画が込められているのでしょうか。
去らせてくださいという願い
(8節)この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。

パウロは、自分に与えられた激しい苦しみについて、取り除いてくださいと神さまに祈りました。三度というのは、何度も何度も徹底的にという意味です。

苦しみの背後には、神さまのご計画があります。だからといって、苦しみが取り除かれることを願い、祈ることは罪ではありません。イエスさまも、十字架を前にしたゲツセマネの園で、「この杯を取り除いてください」と祈られました。
恵みは十分
(9節)しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

神さまは愛ですが、それは常に私たちの願いがその通りにかなうということではありません。子どもが夕食の直前にお菓子を食べたいと願っても、まともな親なら断るでしょう。夕食が食べられなくなり、栄養バランスが崩れることを心配するからです。

神さまは、パウロの苦しみを取り除いてくださいという願いを退けられました。それはパウロを愛しておられないからではなく、深く愛しておられるからです。

神さまは、拒否の理由として「わたしの恵みはあなたに十分である」とおっしゃいました。ギリシア語の原文を読むと、「十分である」という言葉が強調されています。それを生かして訳すとこうなります。「十分なのだ。あなたにとって、私の恵みは!」

さらに神さまは、ご自分の力が人間の強さではなく、弱さのうちに現れるとおっしゃいました。パウロに与えられた激しい苦しみは、パウロを傲慢にさせないだけでなく、パウロに神さまの力強さを教えました。

自分の限界を思い知らされ、弱さを味わうとき、人は謙遜に神さまに助けを求めます。すると神さまは、私たちが願ったとおりの方法ではないかもしれませんが、確かにご自分の力を私たちに理解させてくださいます。

苦しみを味わっているとしても、神さまの愛や恵みが削り取られたと考える必要はありません。むしろ、私たちに対する神さまの愛と恵みは十分に注がれています。
弱いときほど強い
(10節)ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

パウロはさまざまな苦しみを喜んでいると言いました。決して苦しみそのものが喜ばしいわけではありません。パウロが喜んだのは「キリストのゆえに」です。

苦しみはイエスさまに従うがゆえに味わう苦しみです。苦しみは、パウロが忠実にイエスさまのしもべとして生きていることを証拠立ててくれます。また苦しみは、パウロ本人ではなく、イエスさまの力強さ、イエスさまのすばらしさを現します。

パウロは、様々な苦しみを味わい、祈ってもそれを取り除いていただけませんでした。しかし、それによりパウロは自分の才能や力により頼むのではなく、ますます神さまにより頼むようになりました。

その結果、パウロは人知を越えた神さまのお力を何度も体験することになります。むしろ、苦しみによって自分が弱くなればなるほど、神さまの力強さがより現れるということを悟りました。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.苦しみに新しい意味を与えよう

苦しみは私たちを謙遜にさせる

パウロは、肉体のとげ、肉体の杭と表現するほどの激しい苦しみが、パウロを傲慢の罪から守り、謙遜さを身につけるようにしてくれたと言います。

私たちも、病気になったり、誰かに意地悪をされたり、馬鹿にされたり、失敗して落ち込んだり、「ああしておけば良かった」と後悔の念を覚えたりして苦しめられることがあります。

それはつらいものです。苦しいものです。ですから一刻も早く、この苦しみから解放してくださるよう祈っていいのです。

しかし、苦しみがすべて悪であるかというと、そうではありません。苦しみは私たちを謙遜にします。すなわち、「自分一人だけでは世の中のさまざまな問題に立ち向かうことはできない」「自分一人だけでは、正しく生きることはできない」「自分一人だけでは、価値あるものを生み出すことはできない」という限界を知らされるのです。
謙遜が祝福の鍵
聖書は、謙遜であることが神さまからの祝福を受け取る鍵であると教えています。

(ヤコブ4:6)神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。

苦しみを味わうとき、私たちは自分には何でも分かっている、何でもできるという傲慢な考えを捨てて、自分は神さまの助けがあってはじめて力を発揮できるという考えに立ち返りましょう。

苦しみは私たちを神に近づける

苦しみは嫌なものです。場合によっては、「神がいるなら、なぜこのようなことが起こるのを赦すのか。なぜすぐに助けてくれないのか」と感じて、心が神さまから離れてしまう危険もあります。

一方で、苦しいために、必死で神さまの守りや導きを求め、ますます祈りをささげるようになる場合もあるのです。
増田の証し
私は大学時代、実家を出て東京で暮らしながら、私立の学校に通っていました。仕送りはほぼ学費に消えます。その上、厳しいゼミに入って勉強が忙しかったもので、十分アルバイトができませんでした。そのようなわけで、毎月カツカツの生活だったのです。

毎日、いや一瞬一瞬「今日の糧が与えられますように」と祈りながら生活したものです。すると、一転してお金持ちになって贅沢三昧の暮らしが待って……はいませんでした。相変わらず経済的に厳しい暮らしが続きましたが、月末にはちゃんと家計簿の帳尻が合います。

何よりも、いつもイエスさまがそばにいて自分を守り支えてくださっているという感覚を味わっていました。それは、クリスチャンになりたての私にとって、大きな恵み、すばらしい祝福だったと思えます。

皆さんも、苦しみ弱ることによって、神さまをもっともっと信頼してより頼むようになったという経験、その結果毎日の生活の中で神さまの臨在がより強く味わえるようになったり、苦しみそのものは取り除かれなくても、他の面で神さまのすばらしさを知らされたりといった経験をなさっているのではないでしょうか。
神のヨブへの信頼
ヨブ記のヨブについて、サタンは神さまに「あいつが苦しい目にあえば、必ずあなたを呪って従うのをやめる」と言いました。しかし、神さまはヨブはそれでも自分に従い続けてくれると信頼なさいました。

神さまは、私たちも苦しみの中で神さまを恨んで離れるのではなく、ますます神さまに近づいてくれることを期待し、また信頼してくださっています。その信頼に応えたいですね。

苦しみは私たちを神の愛に導く

苦しみを取り除いてくださいという祈りの中で、パウロは神さまの恵みは十分だという神さまからの語りかけを聞きました。パウロは、神さまに愛されていないから苦しんだのではありません。むしろ、深く愛されているからこそ、苦しみを賜りました。

苦しみに遭うとき、私たちは神さまに愛されているのだということを、改めて自覚しましょう。たとえ罪を犯したり注意深さを欠いたりした結果として苦しみを味わったとしても、です。

私たちは自分の失敗のせいで、自業自得の苦しみを味わうことがあります。たとえば、無責任な噂話に加わった結果、当事者から憎まれて攻撃されるとか。あるいは、スピード違反の結果、反則金を払うことになったとか。

それでも、そのような苦しみも神さまが私たちを見放されたしるしではなく、見放されていない、むしろ深く愛されているという証拠です

(ヘブル12:5-6)わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。

苦しみに遭うとき、私たちは自分が子どもとして深く愛されているのだと、自分自身に向かって宣言しましょう。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com