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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

聖なる者となろう

ペテロの手紙シリーズ2

ペテロの第一の手紙1章10節~16節

(2026年9月13日)

第一ペテロ1章10~16節から、預言者や御使いが注目した救いの恵みのすばらしさと、その救いを受け取った者が目指すべき生き方について学びます。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

「聖なる者となりなさい」と聞くと、「もっと立派なクリスチャンにならなければ」と身構えてしまうかもしれません。しかしペテロは、いきなり努力を求めたのではありません。まず、預言者たちが熱心に調べ、御使いたちさえ関心を寄せるほどすばらしい「救い」について語りました。

私たちは、きよい生き方をしたから神さまの子どもになったのではありません。神さまの子どもとされたからこそ、父である神さまの子どもにふさわしい生き方へと変えられていくのです。それはどんな生き方でしょうか? ペテロの言葉から教わりましょう。

1.救われた者の生き方

1~9節の内容

10節で、ペテロは「この救いについては」という言葉で書き出しています。すなわち、その前の内容を受けて語っているということです。今回の箇所の解説に入る前に、1-9節の内容を復習しましょう。

この手紙が書かれたのは、皇帝ネロによる迫害が始まった時期です(紀元64年から65年頃)。ペテロは、苦しみの中にある小アジアのクリスチャンに対して励ましの手紙を書きました。

1-9節をまとめると、次のようなメッセージです。
  • あなたがたは今、苦しみの中にいる。
  • しかし、神さまに選ばれ、キリストによって新しく生まれ、神さまの力に守られ、将来の完全な救いへ向かっている。
  • だから、あなたがたは試練の中でも希望と喜びを持つことができている。
(8-9節)あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

救いの大きさ

預言者たちが尋ね求めた救い
(10節)この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。

ペテロは、1-9節で語ってきた救いが、今の時代に突然降って湧いてきたものではないと言います。旧約聖書の時代に、預言者たちによって神さまから教えられてきたものです。預言者たちは救い主の到来と救い主がもたらす救いについて、神さまからのメッセージを語りました。

ただし、預言者たちは、神さまから受けた啓示の内容をすべて理解していたわけではありません。

たとえば、今の私たちは救い主であるイエスさまが、二度地上に来られることを知っています。福音書に書かれている時代の初臨と、未来の時代に起こる再臨です。しかし、預言者たちはしばしば初臨と再臨が一つの時代に起こることのように語っています。例を挙げましょう。

(イザヤ61:1)【神】である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、【主】はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

(同2節)【主】の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。


預言者たちは、自分が神さまのご計画のすべてを知らされているわけではないことを理解していましたから、自分や他の預言者たちが語った預言について「熱心に尋ね求め、細かく調べました」。
キリストの苦難とそれに続く栄光
(11節)彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。

「キリストの御霊」とは、聖霊なる神さまのことです。聖霊さまが、預言者に預言の言葉を授けました。ここでは特に、地上に現れる救い主が苦難と栄光を味わうという預言が挙げられています。

イエスさまは、地上で迫害を受けて苦しみ、最後に十字架にかけられて殺され、葬られました。しかし、その3日目に復活し、召天なさいました。そして、やがて地上に戻ってこられ(再臨)、地上の悪を滅ぼして神の国を打ち立て、王として世界をお治めになります。

預言者たちは、この救い主がどなたなのか、そしていつそれらの出来事が起こるのか知りたいと思い、熱心に調べました。
預言者たちは私たちのために奉仕した
(12節)彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。

旧約時代の預言者たちが語った預言の言葉は、その当時の人たちに対する励ましや戒めや警告です。しかし、語った預言者本人も理解できない内容も含まれていましたから、当時の人たちはもちろん意味不明でした。

それでも預言者は、聖霊さまが示されたとおりの言葉を語りました。今の自分たちには理解できず、意味が無いように思えたとしても、後の時代の人々のために語らなければならないということも示されていたからです。

その後の時代の人々とは、あなたがたのことだとペテロは言います。昔の時代には意味が分からなかった預言も、今や福音を語る人々、すなわち使徒や新約時代の預言者たちによって意味が明らかにされました。

救いのご計画の全貌は、天使たちも関心を示しているとペテロは言います。天使たちは罪を犯していませんから、自分たち自身が救われる必要がありません。しかし、人類の救いの成り行きをじっと見つめています。それは、彼らが仕えている神さまをほめたたえるためです。

預言者たちが知りたいと願い、天使たちも関心を持っている救いの全貌が、今の時代には明らかにされました。なんと幸いな時代に生かされていることだろうかと、ペテロは読者に訴えかけようとしています。

救いを受けた者の生き方

恵みを待ち望め
(13節)ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

ここで内容が大きく転換します。12節までのところで、ペテロは私たちに与えられている救いについて語ってきました。それは、天使たちも関心を示すほどにすばらしいものです。そんなすばらしい救いを体験した私たちが、どんな生き方をすべきかペテロは語り始めます。

「イエス・キリストが現れるとき」とは、将来起こる携挙や再臨のことです。その時が来ると、私たちは今の罪の性質を宿した肉体から解放されて、朽ちることのない栄光の体に復活します。そして、イエスさまが治める理想的な王国、神の国(千年王国)に住むようになります。

さらにその千年後には、今の宇宙に代わって創造される新しい天地、千年王国よりさらにすばらしい世界で永遠の時を過ごすことになります。

その時が来るまで、私たちは心を引き締め、身を慎まなければなりません。 「心を引き締め」という言葉は、長い着物の裾を帯に挟み込んで、走ったり仕事をしたりできるようにする様子を表しています。

要するに、「精神的にだらしならず、いつでも神さまのみこころにかなう行動ができるよう、心を整えておきなさい」 ということです。
従順な子どもとして
(14節)従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、

ペテロは読者たちを、 「従順な子ども」 と呼びます。これは神さまとの関係を表す表現です。クリスチャンは単に「正しい規則を守る人」ではありません。神さまの子どもにしていただいた存在です。

私たちの救いは、ストリートチルドレンが王さまの子どもになったようなものです。その恵みは一方的に与えられました。ストリートチルドレンは、テーブルマナーも知らないし、言葉遣いは汚いし、乗馬もダンスもできません。それでも、そのままの姿で受け入れられ、王子・王女というすばらしい身分を与えられました。

ただ、そのままではお城での生活を十分楽しめませんし、他の人々を不快にさせてしまうかもしれません。王さまは、子どもたちに王さまの子どもとしてふさわしい生き方ができるよう、教育訓練を施してくれます。

同様に、神さまの子どもとなった私たちは、神さまを知らなかった頃の、自分の欲望に忠実な生き方をやめて、神さまのみこころに従順に従う生き方を目指すことが期待されています。

救いとは、単に罪の刑罰から免れることではなく、 生活の支配者が自分の欲望から神さまに変わることでもあります。その結果、生き方全般が変化するのです。
聖なる者となれ
(15節)むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。

欲望ではなく神さまに従う生き方を目指す私たちに対して、生活すべてにおいて聖なる者となれとペテロは言います。

「聖なる」とは、「他のものから取り分けられる」という意味です。神さまは、悪魔や罪から完全に離れておられます。その神さまによって救われた者も、罪から離れ、この世の価値観やライフスタイルから離れて、神さまのために生きることが求められます。

しかも、変えられなければならないのは、生活の一部だけではなく「生活すべてにおいて」です。教会の集会の時だけきよくあればいいのではありません。家庭生活、仕事、人間関係、お金の使い方、言葉の使い方、感情の扱い方など生活全体において、私たちは神さまのみこころに添った生き方が求められます。

そして、私たちの聖なる生き方のモデルは、あなたがたを召された聖なる方、すなわちイエス・キリストです。他の人と比較して、どちらがきよいか比べるのは意味がありません。イエスさまに似た者になることが私たちの目標です。
神が聖だから私たちも聖であるべきだ
(16節)「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。

私たちが聖なる者となるべきだという教えについて、ペテロはレビ19:2の言葉を引用して根拠を示します。私たちが聖なる者として生きるのは、父である神さまが聖なるお方だからです。

神さまに属する民は、神さまのご性質を反映して生きていきます。この原則は、神の民であるイスラエルだけでなく、教会に属する私たち異邦人信者にも与えられています。

ここで誤解してはならないのは、きよい生き方をすることが神さまの子どもとされる条件ではないということです。

イスラエルに律法が与えられたのは、まず出エジプトの奇跡が起こった後でした。同様に、私たちに「きよいものとなれ」という命令が与えられたのも、イエスさまの恵みの福音を信じて救われた後です。

私たちは、「きよくなることによって神の子になる」のではなく、「神さまの子どもとされたので、父である神さまのご性質にふさわしい生き方をする」 という順序です。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.神さまの子どもとしてふさわしい生き方を目指そう

救いのすばらしさに感動しよう

ペテロは、1章の前半で救いについて語り、それからきよい生き方を目指そうと勧めました。この順番が大切です。

私たちは、きよい生き方をしたから、ごほうびとして救われて神さまの子どもにされたのではありません。救いは恵みです。神さまが一方的に私たちを選び、与えてくださったものです。だから、私たちは神さまの子どもにふさわしい生き方をしようとするのです。

今回の箇所で、ペテロは救いのすばらしさについて語りました。私たちがきよい生き方を目指す原動力は、救われていることへの感動と感謝だからです。

自分がいかに神さまに愛されているか、自分を救うためにイエスさまがどれほどの犠牲を払ってくださったか、自分が救われる背後にいかに神さまの緻密な導きがあったか、これから先に用意されている祝福がいかにすばらしいか。

それらを知れば知るほど、私たちの心は感動に打ち震えます。感謝が満ちあふれてきます。そして、現状への不平不満や、将来に対する不安が影を潜め、代わりに「何があっても大丈夫だ」という平安が心を支配するようになります。

救いに伴う感動や感謝、喜びや平安を味わった私たちは、そんなにもすばらしい救いを与えてくださった神さまの思いに応えたいと思うようになります。そうして、生活が少しずつ神さまのみこころにかなう方向に変えられていくのです。
現代版カナの婚礼
この話をお読みください。
ある大工さんが教会に通い始め、洗礼まで受けたという話を聞いた仕事仲間たちが、その真偽を確かめました。クリスチャンの大工さんは本当だと答え、新約聖書を手渡して、ぜひ読んでみてくれと言いました。

ヨハネの福音書の最初の方にざっと目を通した仲間の一人が、「水が酒になったなんて話、信じられるけぇ!」と言いました。すると、クリスチャンの大工さんはこう答えました。「俺は信じられるよ。だって、イエスさまは俺の酒をタンスに変えてくれたんだもの」。

この大工さん、かつては仕事や人間関係でおもしろくないことがあると、ついつい酒に逃げていました。やがてアルコール依存症となり、ろくに働きもしないで飲んでばかりいるようになります。当然収入は激減し、反対に酒代は鰻登り。やがて奥さんの嫁入り道具まで質に入れてしまいました。

さすがにこれではいけないと感じた大工さん、助けを求めて教会に足を運びます。そして、イエス・キリストを救い主と信じたのでした。すると、心の内側に不思議な平安や喜びがやってきました。

教会では別に禁酒を命じられたわけではありませんが、おもしろくないことが起こっても、もう酒に逃げなくてすむようになりました。気分もすっきりして、仕事も以前にも増してバリバリこなすようになり、収入も増えていきました。そして、奥さんのためにすてきなタンスを買ってあげることができたのでした。イエス・キリストは「酒をタンスに変えてくれた」のです。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
自分がどのように行動すべきかを考える前に、自分がどれほど神さまに愛されているか、そしてそのためにどれほど素晴らしいことをしてくださったかに思いを向けましょう。

人との比較をやめよう

他の人をモデルとして、「あの人のようになりたい」と願い、「こんなふうに行動すればいいのか」と生き方の教材にすることは良いことです。

しかし、他の人と比較して、「あの人たちに比べたら、自分はマシだ」と安心して努力を怠るようになったり、「自分はあの人たちのように立派ではない」と落ち込んで、成長したいという意欲を損ねてしまったりするのはよくありません。

他の人の生き方を参考にするにしても、その人を救い、生かし、導いておられるイエスさまに目を向けましょう。イエスさまが比較対象なら、私たちは「もう自分は十分だ」と気を抜いて成長をやめてしまうことはありません。また、イエスさまがすばらしすぎて、比較して落ち込む余地もありません。

私たちの新しい生き方のモデルは、人として来られたイエスさまです。ただし、私たちは自分一人の力でイエスさまのような聖なる者になることはできません。聖書は次のように語っています。

(第2コリント3:18)私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

聖なる御霊が、私たちを内側からきよめて、今日も少しずつイエスさまに似た者に造り変えてくださいますように。そのような祈りを積み上げていきましょう。

生活のすべてをささげよう

イエスさまはあるとき、継ぎ当てのたとえをなさいました。

(マタイ9:16)だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。

イエスさまがくださる救いと、それに伴う生活の変化は、破れたところにパッチを当てるような、生活の一部にだけ及ぶものではありません。着物全体を新しいものに取り替えるように、私たちの存在そのものが新しくなりました。

神さまを無視して逆らってきた罪人の私たちは、十字架にかけられたイエスさまと共に死にました。そして、復活なさったイエスさまと共に新しく神さまの子どもとして誕生しました。

私たちは、人生の一部ではなく、全体を神さまに明け渡さなければなりません。神さまは、私たちの一部を救われたのではなく、全存在を救ってくださったのだからです。

仕事のことだけは神さまに口を出されたくない。恋愛のことだけは自分の好きなようにしたい。あの人への恨みだけは絶対に手放したくない……そのように、生活の一部を自分が抱え込んではいないでしょうか。

すべてを神さまに明け渡しましょう。生活のあらゆる領域で、神さまのみこころにかなう方を選びますと宣言しましょう。そして、聖霊さまが、あらゆる領域を好きなように造り変えてくださいますようにと祈りましょう。

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