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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

主のことばは永遠に立つ

ペテロの手紙シリーズ3

ペテロの第一の手紙1章17節~25節

(2026年9月20日)

第一ペテロ1章17~25節から、変わりやすい感情や環境ではなく、確かな土台に支えられている救いについて学びます。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

私たちの気持ちは、状況によって大きく揺れ動きます。昨日まで安心していたのに、思いがけない出来事一つで不安になり、「本当に大丈夫だろうか」と心細くなることもあります。

しかし、私たちの救いや将来の希望は、変わりやすい感情や環境に支えられているのではありません。では、何によって支えられているのでしょうか?

1.聖なる者の2つの生き方

直前の箇所

今回の箇所の前(1~16節)に何が書かれていたか復習しましょう。

ペテロは、小アジア(今のトルコ)に住むクリスチャンたちに向けて手紙を送りました。彼らは皇帝ネロによる迫害に苦しんでいましたが、同時に大きな喜びに満たされてもいました。それは、彼らがイエス・キリストによって救いを体験していたからです。

そんな彼らに対して、ペテロは語りかけます。

(13-15節)ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。

では、生活すべてにおいて聖なる者となるとは、一体どういうことでしょうか。ペテロは、今回の箇所で2つの生き方を示します。それは、神さまを恐れること、そしてクリスチャンが互いに愛し合うことです。

神を恐れる

恐れつつ過ごそう
(17節)また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。

救われた私たちは、神さまの子どもとされました。神さまは私たちの天のお父さまです。父なる神さまは、恵みと愛に満ちておられます。しかし、同時に直前の箇所で語られているとおり、聖なる方、きよさに満ちたお方でもあります。

きよい神さまは、人間をその行いに従って公平にさばかれます。私たちはそのことを恐れなければなりません。

といっても、それは救いを取り消されて、永遠の苦しみという罰を受ける不安にさいなまれるということではありません。

私たちはイエス・キリストの恵みの福音を信じて、あらゆる罪を赦されました。この救いは、私たちの良い行いによってではなく、福音を信じる信仰によって与えられました。そして、赦された罪は、福音を信じる前のものだけではありません。将来死ぬまでの間に犯すであろう罪もすべて含まれています。

ですから、クリスチャンが罪を犯したからといって、それで救いが取り消しになることはありません。

ここで語られている「恐れ」とは、神さまが愛に満ちた方だからといって、軽く扱わないようにということです。むしろ、神さまがいかに偉大でいらっしゃるかを正しく認識して、その御前でへりくだり、その命令に忠実に従いなさいということです。

また、ペテロが今のこの時を、「寄留の時」と表現しているところにも注目しましょう。寄留という言葉は、1:1にも登場しました。

私たちクリスチャンがこの世に所属する者ならば、この世の価値観に従い、この世の欲望を満足させることをもっぱら求めて生きても問題ありません。しかし、私たちは天の御国、すなわち神さまの支配なさる王国に所属する者であり、この地上は一時的に滞在しているだけの寄留先です。

この自己理解が、一時的な欲望を満たすだけの生き方を離れて、神さまのみこころにかなう聖い生活を目指そうという動機になります。
むなしい生き方から贖い出された
(18節前半)ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、

ここからペテロは、なぜ聖く生きるべきなのかという理由を、キリストによる救いに求めます。

「先祖から伝わったむなしい生き方」とは、神さまから離れていた昔の生活全体を指しています。この手紙の読者には、ユダヤ人のクリスチャンも異邦人のクリスチャンもいました。そんな彼らの昔の生き方はどのようなものだったでしょうか。

ユダヤ人が行っていた先祖伝来の生き方は、モーセの律法に込められた神さまの思いを無視して、ただ表面的に命令を守っていればいいという態度でした。さまざまな宗教行事にも、神さまへの愛や正しい恐れが欠けていました。

異邦人が行っていた先祖伝来の生き方は、偶像礼拝です。彼らはまことの神さまを無視して、自分の欲望に忠実に生きていました。

ペテロは、そのような古い生き方はむなしいと言います。「むなしい」という言葉には、目的を達成できない、実を結ばないという意味があります。救われる前の古い生き方は、一時的にプライドや欲望を満足させてくれはしますが、永遠に続く祝福をもたらすものではありません。

しかし、私たちクリスチャンは、そんな古くてむなしい生活から贖われました。聖書は、私たちの救いのことを「贖い」という言葉で表現しています。贖いとは、元々は、代価を払って買うという意味です。

そして、贖いには、代価を払って奴隷を自由にするというイメージがあります。救いとは、単に罪が赦されて罰を受けなくなることだけではなく、かつて自分の生き方を決めていた罪の支配から解放されることです。

救われた後も以前とまったく同じ生活を続けることは、救いの目的と矛盾します。だからこそ、私たちはきよい生き方、すなわち神さまのみこころにかなう生き方を目指します。
贖いの代価
(18節後半-19節)銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

贖いには代価が必要です。私たちが救われるために支払われたのは、実際の金銀ではありませんでした。キリストの尊い血、すなわちイエスさまの命です。

イエスさまは、ご自分の罪のために死なれたわけではありません。イエスさまは、傷もなく汚れもない子羊のようなお方です。モーセの律法では、神さまにささげる犠牲の動物には、怪我や病気があってはなりませんでした。

イエスさまは罪を犯さず、完全にきよい生き方を貫かれました。そのお方が、私たちの身代わりとして罪の罰をすべて引き受けてくださいました。それが十字架です。イエスさまが罪の罰を受けてくださったので、私たちが罰を受けて永遠の苦しみという罰を受けることはありません。

そして、イエスさまの十字架の死のおかげで赦されたと私たちが信じるとき、本当に私たちの罪は赦されます。
神の計画通りキリストが登場した
(20節)キリストは、世界の基が据えられる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。

イエスさまの十字架は、想定外に起こったことではありません。天の父なる神さまが、天地創造の前にすでに計画しておられたことです。そして、神さまが定めた時に、いよいよイエスさまが私たちを救うために地上に来てくださいました。

私たちは、一時の気の迷いでイエスさまを信じたわけではありません。神さまによる永遠のご計画の中で救いをいただきました。それだけ確かなものだということです。

そして、イエスさまが来られ、十字架にかけられた後に復活なさったことによって、「終わりの時」、すなわち終末時代が始まりました。やがてイエスさまは地上に帰ってこられます。そして、悪を滅ぼして、神の国(天の御国、千年王国)を地上に実現なさいます。
信仰と希望は神にかかっている
(21節)あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。

私たちが信じる神さまは、十字架にかけられて死んだイエスさまを復活させました。私たちは、イエスさまの十字架の死だけでなく、復活も信じて救われます。

イエスさまが十字架にかけられて死なれたように、神の敵であった罪人の私たちは死んでいなくなりました。ですから、罪のゆえにさばきを受けて呪われることはありません。

そして、イエスさまが復活なさったように、私たちは神さまの子どもとして新しく誕生しました。私たちは、神さまに子どもとして愛され、守られ、本当の幸せへと着々と導かれています。ゆえに、迫害の中でも、小アジアのクリスチャンたちは喜びに輝いていたのです。

私たちを救いに導く信仰、そして将来さらなる祝福を味わえるという希望は、神さまにかかっているとペテロは言います。

聖書の神さまが、約束を平気で破る不誠実なお方だったらどうでしょうか。あるいは、私たちを守り導きたいという思いはあっても、それを実行する力のないお方だったらどうでしょうか。どんなすばらしい聖書の約束も、私たちに平安や喜びや希望を与えることはありませんね。

また、罪の罰からの解放や将来の祝福が、私たちの信仰深さや行いの正しさに掛かっているとしたらどうでしょうか。私たちは自分の不完全さをよく知っています。やっぱり安心できないということになります。

あるいは、私たちの幸せが、経済、健康、政治的な状況などに掛かっているとしたらどうでしょうか。これまた安心できないでしょう。

しかし、私たちの幸せは、神さまにかかっています。そして、神さまは誠実なお方であり、全知全能のお方です。だから安心なのです。

互いに愛し合う

互いに熱く愛し合いなさい
(22節)あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。

ここでテーマが「きよい生き方」から「兄弟愛」に移ります。しかし、この二つは別々のものではありません。真理に従う、すなわち神さまがくださった福音を信じて救われ、神さまに従うようになった人は、他の人を愛する者に変えられていきます。

しかも、ペテロは「熱く」愛し合えと言いました。「熱く」と訳されているギリシア語のエクテノースという言葉は、元々は「引き延ばす」という意味です。そこから転じて、「力を尽くして」「真剣に」「持続的に」「深く」 というニュアンスが生まれました。

ペテロは、簡単に愛せる人だけ大切にするのではなく、どんな相手であっても大切にしなさいと命じています。そこには忍耐が必要です。根気が必要です。真剣さが必要です。

しかし、そのような熱い愛を実践する力は、私たちの内にすでに備わっています。ペテロは、救いをいただいたあなたがたは、偽りのない兄弟愛を抱くようになったと語りました。だから、よりいっそう熱く愛し合おうではないかと勧めているのです。
神のことばによる新生
(23節)あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。

救いは、罪の罰を受けなくなったという以上のものです。私たちは神さまの子どもとして新しく生まれました。これを「新生」と呼びます。

そして、罪の赦しと新生の根拠は、私たちの良い行いではありません。神さまの約束の言葉です。その神さまのことばは朽ちることがありません。神のことばは生きていて、永遠にその効力が続きます。すなわち、救いの約束が反故にされることは決してないのです。
人の栄光は草花のようにしおれる
(24節)「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

24節~25節で、ペテロはイザヤ40:6-8の言葉を短くまとめて引用しました。

(イザヤ40:6-8) 「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。【主】の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

まず24節でペテロが語ったのは、人間の栄光は永遠には続かないということでした。草がしおれ花が散るように、人間の栄光もいつか消えて無くなってしまいます。

もしも、人間のすばらしさが救いの土台なのであれば、その土台は極めてあやふやなものということになります。しかし、救いの土台はそんなあやふやなものではないとペテロは言わんとしています。
主のことばは永遠に立つ
(25節)しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。

ペテロはイザヤの預言を引用したと申し上げました。

イザヤ書1章から39章で、イザヤはイスラエルの罪を糾弾します。そして、アッシリアやバビロンによる捕囚というさばきがもたらされることを預言しました。

しかし、40章に入ると、預言の雰囲気がガラッと変わります。40:1-5で、神さまは世の終わりの時代に、イスラエルを罪のさばきによる苦しみから救い出し、祝福に満ちた世界に招かれることを約束なさいました。

アッシリアやバビロンに国を滅ぼされ、遠い外国に捕囚され、現在進行形で苦しんでいるイスラエルの民、またその後マケドニアやローマによって支配された時代のイスラエルの民、またローマによって国を滅ぼされ、全世界に散らされて各地で1900年間も迫害され続けた歴史を持つ現代のイスラエルの民は、そんな都合の良い未来が本当に来ると信じられるでしょうか。

しかし、神さまの約束は確かであり、必ず実現するということを、ペテロが引用したイザヤの預言は表しています。

そして、預言を引用したペテロは、終末時代のイスラエル民族の救いと同様に、私たちクリスチャンに与えられている救いの約束も確かなのだとペテロは言おうとしています。

小アジアのクリスチャンたちは、迫害の中にいて苦しんでいました。しかし、将来必ずすばらしい神の国に招き入れられます。そして、与えられた苦しみを補ってあまりあるほどの祝福を味わうことができるのです。日本に住む私たちもそうです。

それでは、今日の話をまとめましょう。

2.救いをいただいた者にふさわしい生き方をしよう

神を正しく恐れて従おう

ペテロは、神さまを恐れて過ごすよう命じました。ただし、神さまからの罰を恐れて、ビクビクしながら過ごすという意味ではありません。

罰を怖がるような恐れ方は、私たちを不自由にします。あるいは、神さまの目を盗んで好きなことをしようというような、不健全な生き方になりかねません。

「エースをねらえ!」の作者として知られる山本鈴美香さんの漫画に、「七つの黄金郷(エルドラド)」という作品があります。その中で、ロマ(移動生活をする民族)のおばばが登場人物の一人に語った言葉が今も印象に残っています。

おばばは言いました。「空に大きな目があると思いなされ」。その目がすべて見ている。だから、その目に見られても恥ずかしくない人、正しい生き方ができる人になりなさいという意味です。

「神を恐れる」という言葉を聞くと、よく私はこのエピソードを思い出します。

私たちは罪の罰から完全に救われています。だから神さまのさばきを恐れる必要はありません。そして、だからこそ救ってくださった神さまが悲しまれる行いは避けましょう。むしろ、神さまが喜んでくださるような行動を選び続けましょう。

それは、今のあなたにとってはどんな行動ですか?

神に愛された者として熱く愛そう

次にペテロは、互いに熱く愛し合おうと勧めました。それは、好きだから愛する愛、実行が簡単だから行う愛ではありません。たとえ困難があっても継続し続ける愛です。

神さまの私たちに対する愛は、そのような愛です。私たちは、かつて神さまを無視して生きてきました。そして、神さまのみこころにかなわない生き方を続けてきました。それは、神さまを侮辱し、神さまを悲しませる行為です。本来の私たちは、罪人であり、神さまの敵だったのです。

にもかかわらず、神さまは私たちを愛することを選んでくださいました。そして、御子イエスさまのいのちという計り知れない代価を支払って、私たちを贖ってくださいました。その後もたびたび失敗したり、分かっていて神さまに逆らうようなことを考え実行してしまう私たちのことを、神さまはあきらめずに大切にし続けてくださっています。

イエスさまを通して表された神さまの忍耐深い愛こそ、私たちの愛の原動力です。聖書を読むとき、祈るとき、教会の交わりに加わるとき、私たちは罪のさばきではなく、神さまの愛に目を留めましょう。そして感動し、感謝し、喜びましょう。それが私たちを他の人への愛に向かわせます。

今、神さまの愛は、あなたを取り囲んでいます。どんな状況に神さまの愛が表されていますか?

神さまのご性質とみことばに信頼しよう

ペテロは、私たちの信仰と希望は、神さまにかかっていると言いました。私たちが救われ、将来考えられない祝福を刈り取るのは、私たちのすばらしさのおかげではありません。神さまのすばらしさのおかげです。

神さまは約束を守られる誠実なお方です。そして、それを実行できるだけの知恵と力をお持ちです。そのことをいつも意識していましょう。

そして、神さまの約束、神さまの知恵と力の偉大さは、聖書の中に記されています。永遠に立つとイザヤやペテロが表現した確かな神さまの言葉です。

自分の救いがあやふやなとき、自分が神さまに愛されている確信が揺らいだとき、自分の将来が大丈夫だと思えず不安になったとき、聖書に立ち返りましょう。

自分の感情が何を訴えているかではなく、周りの人たちが何を言っているかではなく、世間の常識がどうかではなく、聖書の言葉が何を約束しているか、何を保証しているか、何を主張しているかを見るのです。

今、あなたの中に不安がありませんか? その不安に対して、聖書はどんな約束をしているでしょうか?

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