(2026年10月11日)
理不尽な扱いや苦しみに、クリスチャンはどう向き合えばよいのでしょうか。第一ペテロ2章18~25節から考えます。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
この箇所でペテロは、私たちが不当な扱いを受けるとき、どのような態度で苦しみに向き合うかを教えてくれています。それを、当時の奴隷制度をベースに語りました。
1.しもべたちよ
しもべたちへの勧め
主人に従いなさい
(18節)しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。
当時のローマ帝国には、奴隷制度がありました。ペテロの手紙を受け取った小アジアの諸教会にも、奴隷身分にあるクリスチャンがいました。
奴隷の中には農場や鉱山で働く人たちや、剣闘士のように見世物にされる人たちもいましたが、ここで「しもべ」と訳されているのは主に家の中で働く奴隷たちです。
家の中で働く奴隷の中には、細々とした家事労働を行う人たちの他、家庭教師、医師、財産管理者など高度な技術を必要とする人たちもいました。それでも、主人の支配下にあることは変わりません。彼らの待遇は主人次第でした。
善良で優しい主人ならば幸福ですが、中にはひどい主人もいて、鬱憤晴らしで打ちたたかれたり、理不尽な命令をされたりする場合もありました。それでも、そんなひどい主人に対しても、敬意を込めて従いなさいとペテロは命じます。
前回学んだ13節で、ペテロは次のように語っています。
(13節)人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。
別に、ペテロは奴隷制度そのものを理想的なシステムだと言っているわけではありません。ただ、当時の文化的・社会的な背景として奴隷制度は当たり前のこととして存在していました。だから、「主のゆえに」しもべは主人に従うことを求めているのです。
すなわち、主人の命令が明らかに神さまのみこころに反しない限り、忠実に主人に従いなさいというわけです。
神に喜ばれる忍耐
(19節)もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。
「神の御前における良心のゆえに」と訳されている言葉は、「神についての意識のゆえに」と訳すことができます。理不尽な苦しみを受けたとき、神さまを意識しながら忍耐するならば、それは神さまに喜ばれることだとペテロは言うのです。
といっても、単に自分の感情を抑えて我慢しろと命ぜられているのではありません。
- 全知全能の神さまがこの状況をご存じである。
- 神さまは必ず私を守り支えてくださるし、神さまが望まれるなら、いつでもこの状況を変えてくださる。
- だから主人がどうであれ、環境がどうであれ、私は神さまが望まれる生き方をしたい。
そのような思いを持ちながら、苦しみの中でもみこころにかなう正しい態度を保つことが求められています。
意味のある忍耐
(20節)罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。
苦しみそのもの、そして忍耐そのものが良いものだというわけではありません。悪いことをして捕まり、罰としてひどい目にあい、それを耐え忍んだというのでは意味がありません。
正しい生き方をしても、それでも理不尽な扱いを受けることがあります。それでも自分で復讐しないで正しい生き方を貫くこと。それが尊いとペテロは言います。
先日、SNSの書き込みで次のようなものがありました。その人が所属する部署の課長がとても嫌みな人なのだそうです。そこで、部署の人たちにお茶を入れるときに、課長のお茶にだけぞうきんの絞り汁を1滴たらして鬱憤を晴らしているんだそうです。
そういうことをするなよ、と聖書は言うのです。
(ローマ12:19)愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。
理不尽な主人に対しては、神さまが最も良いようにしてくださいます。だからあなたは自分で復讐しようとしないで、神さまが喜ばれる生き方を続けなさい、ということです。
キリストの苦難
キリストの模範
(21節)このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。
「このために」とは、直前の20節を受けています。すなわち、正しい生き方をしているのに他の人から不当な扱いを受けて苦しみ、それを耐え忍びながらなお正しく生き続けることです。
その模範がイエス・キリストだとペテロは言います。イエスさまもさまざまな苦しみを経験し、最後は十字架という当時最も残酷な方法で死刑にされてしまいました。それでも最後まで神さまに従い続け、人々を愛し続けました。
私たちは、イエスさまの恵みの福音を信じて救われ、イエスさまのしもべ、すなわちイエスさまに従う者になりました。その従順の生活の中には、イエスさまのように不当な苦しみに耐えることが含まれる場合があります。
迫害を受けたときのキリスト
(22-23節)キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
イエスさまは、ただの一度も罪を犯したことがなかったのに、神に逆らい、国を危険に導く極悪人だと罵られ、迫害を受け、最後には罪をでっち上げられて殺されてしまいました。
イエスさまには、ご自分で抵抗したり復讐する力がなかったわけではありません。自分に理不尽な攻撃を加える者たちを、天から火を下して焼き尽くしたり、荒ぶる天使の軍勢を呼び寄せてイスラエルを国ごと滅ぼしたりしようと思えばできました。しかし、あえてそうなさいませんでした。
むしろイエスさまは、自分を罵り殺そうとする人たちのために、神さまにとりなしの祈りをおささげになりました。
(ルカ23:34)父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。
そんなイエスさまをモデルとして生きていこうと、私たちには勧められています。
キリストの苦難の目的
身代わりとしての苦難
(24節)キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
イエスさまが経験なさった苦しみは、私たちの模範となる以外の目的もありました。それは、身代わりとしての死です。
私たちはみんな生まれながらの罪人であり、生まれたあとも神さまを無視し、逆らい続けてきました。本来なら永遠の苦しみという罰を味わわなければならなかったはずです。
ところが、神さまはそんな私たちを赦し、それどころか神さまの子どもとして永遠に祝福したいと願ってくださいました。
しかし、神さまは正義ですから、罪をなかったことにはできません。罪は必ずさばかれなければならないのです。そこで、罪のないイエスさまが罪人である私たちの身代わりとなってくださいました。すなわち、十字架にかかることで、本来私たちが受けるはずの罪の罰を引き受けてくださったのです。
それは、一生掛かっても返しきれないほどの莫大な借金を、イエスさまが代わりに返済してくださったようなものです。そこで、私たちにはもう負債は残っていません。罪の罰を恐れる必要がなくなったのです。これが「その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」と書かれていることの意味です。
ただし、私たちが一方的に罪を赦されたのは、もうさばきを受けることがなくなったからと安心して、その後も好き勝手な罪深い生活を続けるためではありません。「義のために生きるため」とここに書かれています。
すなわち、一方的に愛され、赦されたことを感謝しながら、神さまに喜ばれる生き方をするためです。
牧者・監督者の元への回帰
(25節)あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。
最後にペテロは、救われる前の状態と救われた後の状態を、羊をたとえにして対比しています。
救われる前の私たちは、羊飼いを見失ってさまよう羊のような存在でした。長い間に家畜化された羊は、野生で生きる力や知恵をすっかり失ってしまいました。一人では餌場や水場を見つけられませんし、木の枝に引っかかったり穴に落ちたりして身動きができずに餓死したりしますし、野獣や盗人に襲われても我が身を守ることができません。
そんな危機的状況にあった羊が、自分を探しに来てくれた羊飼いと再会するならば、安心安全を取り戻すことができます。それが、私たちが救われた状態に似ているというのです。
イエスさまは私たちを守り養ってくださる羊飼いであると共に、監督者でもあります。この言葉は、私たちが正しい生き方をするよう見守り、指導してくださるイエスさまの側面を強調しています。
理不尽な苦しみを味わい続けると、私たちは神さまに従おうという意欲まで削り取られそうになります。それでも、私たちは羊飼いであり監督者であるイエスさまに従って、イエスさまが喜ばれる生き方を続けていこうとこの箇所は私たちに教えています。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるかまとめてみましょう。
2.どんな状況でも正しい生き方をしよう
不当な苦しみの中で神を意識しよう
私たちが信じている神さまは、創造主であり全知全能です。この宇宙全体を動かす支配者であり、何でも知っておられ、不可能が何一つありません。
そのようなお方が、私たちがイエスさまを信じたとき、私たちの天のお父さまになってくださったというのが聖書の教えです。つまり、私たちの味方だということです。
しかも、御子イエスさまは、私たちと同じように、いやそれ以上の苦しみを地上で経験してくださいました。だから、私たちの痛み苦しみはイエスさまにとって人ごとではありません。イエスさまは私たちの苦しみを体験的に理解し、共感してくださいます。
ブーム姉妹の獄中体験
コーリー・テン・ブームさんとその家族は、第二次世界大戦中、オランダでたくさんのユダヤ人をナチスの手からかくまっていました。しかし、やがてナチスによってブーム一家は逮捕され、強制収容所に送られ、ひどい虐待を受けました。結局、父も姉も収容所の中で亡くなります。それらの様子は、自伝「わたしの隠れ家」で紹介されています。
ある時は、服を全部はぎ取られ、裸で寒い屋外に立たせられました。女性にとって、それは惨めで耐え難い屈辱ですが、それを7度も経験しました。あまりの惨めさと寒さで、コーリーさんは、そばにいたお姉さんに「もうこんなこと、耐えられない」とつぶやきました。
するとそのとき、突然、十字架にかかったイエスさまのイメージが脳裏に浮かびました。イエスさまは、ローマ兵に着物をはぎ取られ、裸で十字架につけられていました。イエスさまが、自分と同じ苦しみを味わってくださったということを知ったとき、コーリーさんの心に、言いようもない喜びがわき上がってきました。
その後も、イエスさまはコーリーさんやお姉さんと、いつも一緒にいてくださり、彼らがイエスさまに語りかけると、不思議な声が答えるのを確かに聴くことができました。地獄のような苦しみの中で、まるで天国にいるかのような喜びを味わわせてくださったのです。
見捨てられてはいない
自業自得ではない理不尽な苦しみを味わったときには、その苦しみにばかり目が向きがちです。そして、自分がいかにかわいそうかということばかり考えがちです。
しかし、私たちは見捨てられているわけではありません。私たちを命がけで愛してくださったイエスさま、全知全能の神さまが共にいてくださることを意識しましょう。そして、神さまに従う方を選び続けましょう。
自分で復讐せず神にゆだねよう
ここで間違ってならないのは、別に聖書は、家庭での虐待、学校や職場でのいじめ、ブラック企業での不法な労働環境、あるいはさまざまな差別を認めているわけではないということです。
今回の箇所は、奴隷制度が当然のこととして存在していた時代背景を前提として読む必要があります。当時のローマ帝国における奴隷は、主人から離れる自由も法的保護も大きく制限されていました。
今の日本は法治国家であり、民主国家です。法令に基づいて自分の権利を主張して、理不尽な扱いをやめるよう求めたり、場合によっては警察や弁護士や行政機関などの力を借りたりすることもできます。
むしろ、私たちはイエスさまが命をかけて救い出してくださったほどに大切な存在なのですから、理不尽な扱いを黙って受け続けるのは良くありません。
イエスやパウロの例
イエスさまも、自分を打ち叩く者に抗議していらっしゃいますし、まだ十字架にかかるべき時ではないときに殺されようとしたときには、その場を離れて難を逃れたこともあります。
パウロも、ローマ市民に認められている裁判抜きでむち打ち刑を受けたときには、責任者に抗議しています。また、この総督の下ではまともな裁判を受けられそうにないと感じたとき、皇帝に上訴して我が身を守りました。
自分で復讐しない
今回の箇所が教えているのは、苦しみをただただ我慢しろということではなく、法令や聖書の教えを逸脱するようなやり方をして、自分で相手に復讐するのはだめだということです。
どうしても復讐が必要ならば、神さまが代わりにやってくださいます。むしろ、神さまは苦しみの中でも私たちと共にいてくださり、必要な助けを与えてくださることを意識し続けましょう。
神が喜ばれる生き方を選び続けよう
バイオリンの胴体には木材が使われています。聞くところによると、温かく快適な環境で育った木よりも、高山など寒くて厳しい環境で育った木の方が良い材料になるのだとか。
寒い場所で育った木は、なかなか生長することができません。しかし、それゆえに年輪が均一に詰まっています。これがバイオリンの胴体に加工されたとき、良い音色を出すのに重要な要素なのだそうです。
ふてくされないで従い続ける
苦しみが続くと、ふてくされた気分になって、自分をこんなつらい目にあわせて放置している神さまを恨んで、「もう従ってなんかやらないぞ」と自分勝手な生き方をしたくなるかもしれません。
しかし、私たちは見捨てられているわけではありません。むしろ、イエスさまはご自分の命を捨てても惜しくないと思われるほど、私たちのことを大切にしてくださっています。全知全能の神さまが私たちを苦しみの中にとどまらせ続けるとしたら、そこには積極的な意味があります。
苦しみが続くとしたら、それは私たちのためです。私たちがさらに良い音色を出せるようにとの、神さまの格別のご計画の内です。
ですから、苦しみの中で神さまを恨んで逆らう道ではなく、神さまに従う方を選び続けましょう。