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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

夫婦への訓戒

ペテロの手紙シリーズ7

ペテロの第一の手紙3章1節~7節

(2026年10月18日)

聖書が教える理想の夫婦関係とは? 第一ペテロ3章1~7節から、夫婦にとどまらず、あらゆる人間関係を豊かにする秘訣を学びます。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

今回の箇所は、妻が夫に対して、また夫が妻に対してどのように接するべきか教えています。しかし、人類で最初に創造された二人、アダムとエバが夫婦であったように、夫婦関係はあらゆる人間関係の基本です。

今日はここから、夫婦のあり方だけでなく、人間関係全般について教わりましょう。私たちの人間関係が祝福されたものとなり、社会生活が潤いに満ちたものとなるために、私たちはどんなことに気を配れば良いでしょうか。

1.妻たちよ、夫たちよ

前後の文脈

この世においていかに生きるべきか
2章11節以降、ペテロは私たちクリスチャンがこの世でどのような生き方をすべきか語っています。
  • 2:11-12:異邦人の中で立派に振る舞うこと
  • 2:13-17:社会的権威に従うこと
  • 2:18-25:しもべが主人に対して取るべき態度
  • 3:1-6:妻が夫に対して取るべき態度
  • 3:7:夫が妻に対して取るべき態度
  • 3:8-17:すべての信者が取るべき態度
ここには共通したテーマがあります。クリスチャンは、この世の人々との関係の中で、神さまを信じる者にふさわしい生き方をするよう求められているということです。特に、次のみことばに注目しましょう。

(2:12)異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。

異邦人、すなわちここではイエスさまを信じていない人たちの中で立派にふるまうことによって、神さまの栄光が現されるとペテロは言います。この教えは、今回の箇所にも引き継がれています。

この文脈(話の流れ)に沿って、今回の箇所の意味を読み取っていきましょう。

妻たちへの訓戒

妻が夫に従う理由
(1節)同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。

「従いなさい」と訳されている言葉は、「下に」という言葉と「配置する」という言葉の合成語です。下の位置に着くという意味から、「従う」というニュアンスが生まれました。

「同じように」とは、その前に書かれている、奴隷が主人に対して取るべき態度についての教えを指しています。

(2:18)しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。

もちろん、妻は夫の奴隷ではありません。エバはアダムの奴隷としてではなく、アダムの助け手、すなわち対等のパートナーとして創造されました。しかし、あえて自分の意思で、従う立場を取るのだということです。

しかもペテロは、奴隷が意地悪な主人にも敬意を込めて従うように、「たとえ、みことばに従わない夫であっても」従うようにと言います。「みことばに従わない夫」とは、ここではイエス・キリストを信じていない未信者の夫という意味です。

1世紀のローマ帝国では、昔の日本と同じように夫が家庭内で強い権限を持っていて、妻には夫の権威を尊重することが期待されていました。信仰についても、妻が夫の宗教的慣習に従うことが当然と考えられていたのです。

そのような社会で、妻だけがキリストを信じるようになると、家庭内に緊張が生じる可能性がありました。そんな妻たちへの処方箋として、ペテロは「夫に従え」というのです。その目的は、妻の行動によって夫が変えられて、キリストを信じて救われるようになるためです。

では、未信者である夫に信者である妻が見せる「無言のふるまい」とは、どういう行動でしょうか?
見せるべき無言のふるまい
(2節)夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。

夫に見せるべき妻の行動は、「神を恐れる純粋な生き方」です。

まず「神を恐れる生き方」です。妻は夫に従うようにとペテロは言いますが、権威の順番として、夫より上に神さまが位置しています。

イエスさまはおっしゃいました。

(マタイ10:28)からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

神を恐れるとは、神さまからの罰を恐れてビクビクしながら生活せよということではありません。神さまの偉大さ、そしてその愛の大きさに、恐れにも似た感動や感謝を覚え、自発的に従うようになることです。

ですから、たとえ夫が罪を犯すよう妻に強要したり、イエスさまへの信仰を捨てるよう命じたりしても、それに従う必要はありません。

むしろ、神さまを正しく恐れ、神さまのみこころに忠実に従う生き方を選び続けていかなければなりません。

さらにペテロは、「純粋な生き方」を夫に示すよう命じています。これは道徳的にきよい生き方、誠実な生き方を指します。そのような生き方もまた、神さまが私たちに望んでおられることです。
価値のない外面的な飾り
(3節)あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。

当時のローマ社会では、特に裕福な女性たちの間で、凝った髪型や金の装飾品、高価な衣服などが社会的地位や富を示す手段になっていました。しかし、クリスチャンはそのようなものを誇りの種にしてはならないとペテロは言います。

もちろんこれは、クリスチャンがおしゃれを楽しんだり化粧したりすることそのものを禁じる命令ではありません。外面的な美しさを、人の価値の中心に置くことが問題にされています。クリスチャンとしての価値は、財産や身分、容姿によって決まるものではないのです。

では、私たちの価値を決めるものは何でしょうか?
価値のある内面的な飾り
(4節)むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。

私たちが求めるべき飾り、すなわち本当に価値のあるものは、「心の中の隠れた人」です。これは、人間の内面的な性質を指しています。

外面的な飾りは直ぐに人の目を引きます。しかし、内面的な性質は普段の行動の中で少しずつ相手に伝わっていくものです。

特にここでは2つの性質が取り上げられています。「柔和さ」と「穏やかさ」です。

「柔和さ」は、言動に角がなく、温かみがあって穏やかに人と接する様子を表わす言葉ですが、「謙遜」というニュアンスも持っています。部下や店員さんに横柄な態度を取る人は、間違いなく相手より自分の方が偉いと考えていますね。

妻が夫に接するときも、自分の方が偉い、自分の方が正しいと思って横柄な態度、攻撃的な態度、責めて追い詰めるような態度を取らないようにとペテロは言います。むしろ、感情的にならず「穏やかさ」を保たなければなりません。

私たちは外面的なものを追い求め、そこに価値を見出すのではなく、謙遜で穏やかに人に接し続けていくことが大切だということです。
信仰の先輩たち
(5節)かつて、神に望みを置いた敬虔な女の人たちも、そのように自分を飾って、夫に従ったのです。

ペテロは、これまで語ってきた教えを、聖書の女性たちの模範によって裏づけます。彼らは、決して罪のない完璧な人物ではありませんでした。しかし、「神に望みを置いていた」人たちです。

彼らは、自分たちが神さまによって赦され続け、愛され続けていることに感動と感謝を覚えていました。そして、自発的に神さまに従う生き方をしました。その結果、夫に対しても謙遜で穏やかな接し方をしたのです。
アブラハムの妻サラ
(6節)たとえば、サラはアブラハムを主と呼んで従いました。どんなことをも恐れないで善を行うなら、あなたがたはサラの子です。

アブラハムの妻サラは、ユダヤ人だけでなく異邦人にとっても、信仰を持つ女性の代表のような存在です。

夫であるアブラハムも、1節に書かれているような「みことばに従わない夫」ではなく、信仰の父と呼ばれるにふさわしい信仰者です。しかし、彼もまた罪人であって、不完全な存在でした。

たとえば、飢饉から逃れるために一時的にエジプトに下ったとき、サラが美しい女性だったため、自分が殺されてしまうことをアブラハムは恐れました。そこで、サラのことを妹だと偽ったのです。そのため、サラはエジプト王の後宮に召し上げられてしまいます。

このときは神さまが介入なさったので、サラの純潔が汚されることはありませんでした。しかし、このときのアブラハムの行動が、神さまに対してもサラに対しても不誠実だったことは間違いありません。

それでもサラはアブラハムを見限らず、夫として尊重し、従い続けました。

もしも、ペテロの手紙を受け取った小アジアの諸教会でも、妻たちが恐れずに夫に従うなら、彼女たちはサラの娘だとペテロは言います。これはサラの肉体的な子孫になるという意味ではなく、サラと同じような信仰を持つ存在だと認められるという意味です。

しかも、ここでは「どんなことをも恐れないで」と書かれています。ペテロが妻たちに求めているのは、夫を恐れていやいや従うのではありません。本当に恐れるべきお方は三位一体の神さまです。

聖書が教える神さまのみこころにかなう生き方を実際に行った結果、夫に従う、すなわち謙遜に穏やかな接し方をするということです。たとえ相手が、イエスさまを信じようとしない夫であったとしても、です。

では、クリスチャンである夫たちに求められているのは、どんな生き方でしょうか。

夫たちへの訓戒

理解しなさい
(7節a)同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。

また「同じように」という言葉が出てきました。奴隷が主人を敬いながら従うように、また妻が夫に対して謙遜で穏やかに接するように、という意味です。

夫が偉そうにして妻だけが苦労するというのは、聖書が教える夫婦関係ではありません。夫にもまた責任が与えられています。むしろ、夫に求められている責任は、妻よりさらに重いものです。

(エペソ5:25)夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

柿谷正期牧師の当時3歳の息子さんが、この箇所について「妻は夫に従うだけでいいけれど、夫は妻のために死ななくちゃいけない」と解説しましたが、まさにその通りです。命をかけて妻を愛することが夫に与えられている使命です。

その命がけの愛の一環として、ペテロは妻が自分より弱い器だと理解するようにと命じます。

ここでの「弱い」は、女性が男性より知的・道徳的・霊的に劣っているという意味ではありません。身体的な力の違いを指しています。

また、当時の社会において、女性が働ける場がほとんどありませんでしたから、男性より弱い立場に置かれていました。夫に捨てられると、途端に貧しい生活を強いられることになります。

しかし、そういった力の差を利用して夫が妻を支配することを聖書は認めていません。むしろ、逆らえない立場にある妻に配慮を示して、大切に扱うようにとペテロは言います。
尊敬しなさい
(7節b)また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。

1章で、ペテロは私たちクリスチャンが新しく生まれた存在であり、神の国の資産を受け継ぐことを読者に思い出させています。

(1:3-4) 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。

この祝福に男女の違いはありません。家庭内での役割に違いがあったとしても、夫も妻も神さまによる救いの恵みにおいては対等な立場なのです。

ゆえに、妻が夫を敬い従うように、夫も妻を尊敬し仕える立場を取らなければなりません。夫婦関係は、どちらが相手を思い通りに動かすかという、主人の立場を巡るライバル関係ではないということです。夫も妻も、互いに仕え合い、支え合うのが聖書の教える夫婦像です。
目的
(7節c)そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。

夫が妻を理解し、尊敬しながら仕える目的は、祈りが妨げられないためだとペテロは言います。といっても、妻を大切にしないと、妻が怒って夫を攻撃するようになり、祈りが邪魔されるという意味ではありません。

妻に対して横暴に振る舞いながら、神さまに敬虔な祈りをささげることは不可能だという意味です。いや、表面上敬虔「そうな」祈りをささげることはできるでしょう。しかし、そのような祈りは、本当の意味で神さまに認められるものではありません。

ペテロは妻たちに対して、表面的な飾りではなく、内面的な飾り、すなわち聖書に基づく行動に心を配るよう命じました。それと同様、夫たちもまた神さまのみこころに従った生き方が求められています。

そもそも神さまに忠実な生き方を目指しているクリスチャンは、相手が妻や夫でなくても、誰かと争ったり誰かを恨んだりしている状態だと、平安のうちに祈りをささげることなんかできません。

だからイエスさまも、礼拝の前に争っている人との和解を優先せよと勧めておられます。

(マタイ5:23-24)ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。夫婦だけでなく、あらゆる人間関係に適用できる原則を導き出しましょう。

2.神のみこころに従おう

信仰と行動を一致させる

今回の箇所が私たちに教えていることの第一は、私たちの信仰と実際の行動が矛盾しないようにするということです。

私たちは神さまの存在やその偉大さを信じており、神さまの命令は守らなければならないと信じています。では、神さまとその教えを信じている私たちには、どんな行動をするのが当然でしょうか? それを考えて実践しましょう。

ある人は、何かいやなことがあるとすぐ愚痴をこぼしたり、不平不満を周りの人にぶつけたりしていました。しかし、イエスさまが自分を命がけで愛してくださったこと、そして神さまがすべてのことを益に変えてくださることを改めて意識したとき、愚痴や不平不満の代わりに感謝をささげるようになりました。

しかも、神さまに対してだけでなく、人に対しても感謝を素直に表すようになったのです。その結果、多くの人がこの人の周りに集まってくるようになりました。さらに、この人が困ったときには積極的に助けてくれるようになったのです。

今、イエスさまがこの私に望んでおられるのは、どのような行動をし、どのような言葉を使うことだろうか。それを考え、実践していきましょう。

謙遜になる

柔和さと謙遜さは表裏一体です。謙遜な人は、他の人に優しく接することができます。

人と人との争いでも、国と国との戦争でも、およそ人間同士の争いは、どちらが正しいかという正義と正義のぶつかり合いです。自分の方が正しく、相手は間違っているという傲慢な態度は、争いを引き起こしてしまったり、相手を攻撃して潰してしまったりします。

聖書は、私たちクリスチャンが謙遜であることを求めています。
謙遜と卑屈は違う
ただし、謙遜と卑屈は違います。以前一緒に働いていた同僚の一人が、やたらと「ごめんなさい」を繰り返す人でした。別に悪いことをしていないのに「ごめんなさい」と謝るのです。

それが繰り返されるうち、私の心の中に、その人をいじめたい気持ちが湧き上がってくることに気づきました。

もちろん、実際には私はその人をいじめませんでした。しかし、その人は子どもの頃からいじめを受けてきたとおっしゃっていました。卑屈さも傲慢と同様、人間関係をおかしくしてしまいます。
聖書が教える謙遜
自分一人で謙遜さを身につけることは困難です。

それでも、神さまの偉大さを知れば知るほど、私たちは自分の罪深さや不完全さを思い知らされます。そして、そんな私たちがイエスさまの尊い犠牲によって一方的に赦され、愛されているのだということを知れば知るほど、私たちは感謝と喜びに満たされます。

こうして、私たちは謙遜さを学ばされるのです。 そして、謙遜にさせられた分だけ、私たちは他の人のことも赦し、受け入れ、そのままで愛することができるようになっていきます。

相手に仕えるつもりで接する

アダムとエバは、元々は対等なパートナーとして助け合っていました。しかし、彼らが罪を犯したとき、神さまとの関係だけでなく互いの関係もおかしくなってしまいました。そのことを、神さまはエバに対する罪の宣告の中で語っておられます。

(創世記3:16)あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。

この「恋い慕う」という言葉は、「相手を支配しようとする」という意味です(創世記4:7も参照)。すなわち、アダムとエバは、助け合う同格のパートナーから、どちらが家庭の中で主導権を握り、思い通りに動かすかを巡って争うライバルになってしまったのです。

アダムに対する罪の呪いは子孫である全人類に及びました。この夫婦関係が支配合戦になってしまうという呪いもまた、私たちは引き継いでいます。そして、夫婦関係にとどまらず、あらゆる人間関係が支配合戦になってしまっています。
罪の赦しと新しい生き方
しかし、イエス・キリストの恵みの福音を信じたとき、私たちはあらゆる罪が赦されました。私たちは他の人を支配して、思い通りに動かそうとする主人ではなく、相手の最善を願い、そのために努力するしもべとして接するようになります。

世界の王であるイエスさまでさえ、この地上では仕えられる生き方ではなく仕える生き方を選ばれました。だから、イエスさまを信じて従う私たちもまた、仕えるしもべとしての生き方をしたいですね。

あの人に仕えるとは、具体的にどのように振る舞うことだろうか。今週もそれを考えて実践しましょう。

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