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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

逆転勝利の神

ペテロの手紙シリーズ9

ペテロの第一の手紙3章18節~22節

(2026年11月1日)

神に従うと損や苦しみを味わうように思える時、どう考えればよいのか。ペテロの手紙第一3章18〜22節から、苦しみの中でも従い続ける力について学びます。

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

正しいことをしたのに、かえって損をしたり、苦しい思いをしたりした経験はありませんか? そんなとき、正しいことをするのが馬鹿らしくなってしまうかもしれません。

しかし、聖書は私たちに、目先の損得だけで判断しないよう教えています。イエス・キリストは十字架で敗北したかのように見えましたが、復活によって勝利なさいました。この逆転勝利は、私たちの人生とどのような関係があるのでしょうか。

1.逆転勝利をしたキリストによる祝福

キリストの苦難

苦しみを受けたキリストという模範
(18節)キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。

18節は、日本語訳では明確には訳されていませんが、「なぜなら」という言葉(ギリシア語のホティ)から始まります。すなわち、前の17節の内容を説明するための文だということを表しています。

(17節)神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。

イエスさまは、神さまのみこころに従って苦しみを受け、十字架にかけられました。それは、私たちの身代わりとして罪の罰を引き受け、その結果私たちの罪が赦され、神さまとの親しい交わりが回復されるためです。

十字架につけられて殺されたイエスさまは、一見敗北したかのように見えます。しかし、復活して死と罪に対して勝利なさいました。これが「肉においては死に渡され、霊においては生かされて」という言葉の意味です。

苦しみを味わうことは、それ自体が敗北ではありません。「だからあなたがたも、苦しみを受けそうだからと恐れて正しいことをやめるのではなく、積極的に神さまのみこころに従っていこう」と、ペテロは読者である私たちを励ましているのです。

悪霊たちへの勝利宣言

捕らわれている霊たちへの宣言
(19節)その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。

「その霊において」というのは、イエスさまが十字架につけられて亡くなった後のことを指しています。死んで肉体から分離したイエスさまの魂は、他の死んだ人の魂と同じようによみに下りました。ヘブル語で「シオール」と呼ばれている場所です。

聖書全体を読んでいくと、どうやらシオールは死んだ人間の魂が送られる場所と、一部の悪霊が閉じ込められている場所に分かれているようです。さらに、人間の魂のための場所は、さらに2つに分かれています。ルカ16章のラザロと金持ちの話の中に登場する、「アブラハムの懐」と「ハデス」です。
アブラハムの懐、別名パラダイスは、神さまによる救いを受け取った人たちのための場所で、慰めと安らぎに満ちています。
  • ちなみに、この図は旧約と福音書の時代のシオールを表しています。今の時代、アブラハムの懐はシオールの中にはありません。イエスさまの昇天の時、一緒に天に挙げられました(エペソ4:8-9)。ですから、今私たちクリスチャンが死ぬと、魂は天のパラダイスに送られます。
もう一方のハデス、別名アバドンは、苦しみの場所です。イエスさまは父なる神さまに忠実に従いましたから、当然アブラハムの懐の方に送られました。

その場所から、捕らわれている霊たちに対して宣言なさったというわけですが、次の20節を見るとこの霊たちは神さまに逆らった者たちですから、彼らがいる場所はアブラハムの懐ではありません。

ここで「宣言された」と訳されている言葉は、他にさまざまに訳されています。たとえば新改訳第三版「みことばを語られた」、口語訳「宣べ伝えることをされた」、新共同訳「宣教された」。英語訳では「preached」すなわち「説教を語った」と訳されています。

すると、救いを受け取らずに死んで、ハデスで苦しんでいる人たちにイエスさまが伝道して、もう一度救いのチャンスをお与えになったのだと解釈する人もいるかもしれません。

ただ、元のギリシア語(ケリュッソー)は単に「告げ知らせる」「宣言する」という意味で、内容が福音だと限るわけではありません。内容は、この霊たちが誰を指しているのかによります。では、一体誰なのでしょうか?
ノアの時代に従わなかった霊たち
(20節前半)かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。

結論から言うと、イエスさまが宣言なさった相手は、創世記6章に登場する「神の子ら」です。創世記6章には、神さまが大洪水(ノアの洪水)によって、一度地上を滅ぼされることを決意なさった経緯が書かれています。

(創世記6章)
1 さて、人が大地の面に増え始め、娘たちが彼らに生まれたとき、
2 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした。
3 そこで、【主】は言われた。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」
4 神の子らが人の娘たちのところに入り、彼らに子ができたそのころ、またその後も、ネフィリムが地にいた。彼らは昔からの勇士であり、名のある者たちであった。
5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。
6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
7 そして【主】は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」


ここに出てくる「神の子ら」は天使を指します。神さまに逆らう行動を取っていますから、堕落天使、すなわち悪霊たちですね。彼らは、人間の女性と交わって、子孫を生み出します。これがネフィリムという存在で、悪霊と人間の性質を受け継いでいます。その結果、地上には急速に悪が広がり、収拾がつかなくなってしまいました。

さて、人を罪の呪いから解放する救い主は「女の子孫」、すなわち人間の子どもとして誕生します。

(創世記3:15)わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。

救い主が誕生したら、サタンは滅ぼされてしまいます。そこで、サタンはそれを回避するために、配下である悪霊たちに命じて、人間の女性を誘惑して交わらせたのです。このまま放置していると、地上には純粋な人間が一人もいなくなってしまうでしょう。そうすると、神さまの救いの計画が頓挫してしまうことになります。サタンの狙いはそこにあったのです。

そこで、神さまはネフィリムや神さまに逆らう人間たちを滅ぼして、ノアたち家族から新たに人間の歴史をスタートさせようとなさいました。これがノアの洪水です。

そして、神さまは人間の女性と交わった悪霊たちにもさばきを下されました。彼らが落とされたのが、シオールの中のタータラス(地獄と訳されています)という場所です。そのことが、ペテロの第2の手紙とユダの手紙に記されています。

(第2ペテロ2:4)神は、罪を犯した御使いたちを放置せず、地獄に投げ入れ、暗闇の縄目につないで、さばきの日まで閉じ込められました。

(ユダ6-7)またイエスは、自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められました。その御使いたちと同じように、ソドムやゴモラ、および周辺の町々も、淫行にふけって不自然な肉欲を追い求めたため、永遠の火の刑罰を受けて見せしめにされています。

このタータラスに閉じ込められている悪霊たちに向かって、イエスさまは宣言なさったというわけです。ですから、その内容は、勝利宣言です。

大昔から、サタンと悪霊たちは神さまの救いの計画を台無しにしようとして活動してきました。創世記6章の事件もその一つです。彼らの努力にもかかわらず、イエスさまは人類の身代わりとして十字架にかかり、罪の赦しをもたらしてくださいました。

この先も、サタンや悪霊たちは悪あがきを続けるでしょう。しかし、最終的に勝利なさるのはイエスさまです。

そして、そのことを読者に伝えることによって、迫害に苦しんでいる人たちをペテロは励ましているのです。最終的に勝利するのはイエスさまなんだから、迫害を恐れず、神さまに従い続けよう、と。

バプテスマの意味

水を通って救われたノア一家
(20節後半)その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。

大洪水によって、すべての人間が滅ぼされたのではありません。ほとんどの人が神さまに逆らう中、まことの信仰を保ち続けたわずかな人たちがいました。それがノアとその妻、そして3人の息子たちとそれぞれの妻たちの、合計8人です。

彼らは神さまの命令によって箱舟を作り、大洪水を生き延びました。そのことをペテロは、「水を通って救われた」と表現しています。
バプテスマの型
(21節)この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。

ここに出てくる「型」という言葉は、旧約時代の出来事、人物、儀式などが、新約時代の真理を前もって表しているものです。たとえば、過越の祭りで殺されて血を流す子羊は、十字架の血によって救いをもたらされたキリストの型です。 ここでは、ノアたち8人が水を通って救われたというあの出来事が、私たちに救いをもたらすバプテスマの型であるとペテロは言います。

といっても、バプテスマそれ自体に人を救う力はありません。「バプテスマは肉の汚れを取り除くものではない」と言われているとおりです。私たちが救われるのは、「この自分の罪を赦すためにイエス・キリストが十字架にかけられた。そして、死んで葬られ、3日目に復活なさった」と信じる信仰によります。

ペテロは、バプテスマとは、神さまに対する誓約だと言います。「神さまに逆らって自分の思い通りに生きてきた古い生き方を捨てて、これからは神さまに従う生き方をする」という約束です。

しかも、その誓約は、さばきを恐れていやいやするものではありません。20節で、神さまがノアの洪水の際に、忍耐して待っておられたと書かれています。神さまは喜んで人を裁かれるのではありません。

ノアたちが箱舟を作っている間、神さまはさばきを留めて待っておられました。何を? ノアたち以外に悔い改めて箱舟に乗り、救われる人たちが現れることです。

私たちがイエスさまを信じて救いをいただき、新しい人生にうつったことの表現としてバプテスマを受けるのは、この神さまの愛に触れたからです。

キリストによる支配

キリストへの万物の服従
(22節)イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです。

愛に満ちたイエスさまは、同時に力と権威に満ちたお方でもあります。復活し昇天なさったイエスさまは、今は神さまの右の座についておられます。

古代の王宮などにおいて、王の右側の席に座る者は、王に次ぐ権力と信頼を与えられた特別な存在でした。聖書に書かれている「右の座」や「右手」という表現も、力や権威を表します。

ですから、イエスさまが父なる神さまの右におられるというのは、イエスさまが力と権威を持っておられ、万物を従わせている様子を現しています。御使いたち、すなわち聖なる天使や悪霊たちも、人間の権威者・権力者たちも、イエスさまの前ではひれ伏すばかりです。

やがてイエスさまが再臨なさり、千年王国が実現すると、イエスさまの支配はより強力に全世界に及びます。そして、最後の審判が行われると、イエスさまに逆らう者はサタンや悪霊たちを含めて一人もいなくなって、イエスさまの支配が完成します。

苦しみの末に死んでしまって、それで敗北して終わったかのように見えるイエスさまが、復活して死と罪に勝利し、今は神さまの右の座についてすべてを支配しておられるのだから、そのことを踏まえて……17節に戻ります。

(17節)神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.苦しみが予想できても、神さまに従う方を選ぼう

神に従った結果、損することがあると覚悟する

ペテロが手紙を書いた宛先は、皇帝ネロによる迫害で具体的な苦しみを味わっていた小アジアのクリスチャンたちです。彼らに、それでも信仰を捨てず、ますます熱心にイエスさまに従っていこうと励ましているのが、この第一の手紙です。

今の日本では信教の自由が保障されていて、当時のクリスチャンたちのような激しい迫害を経験することはほぼありません。しかし、神さまに従った結果、一見損をするようなことは何度も経験します。

たとえば、
  • こうして礼拝式に参加することは、休みの日にゆっくり休息したり、遊びや買い物に行ってリフレッシュしたりする権利を放棄することです。
  • 伝道や慈善事業や教会の運営のために献金すると、自分の財布のお金が減ります。
  • 職場や学校で、友だち同士でする噂話や陰口に加わらないと、偽善者呼ばわりされたり、今度は自分が陰口の対象にされたりするかもしれません。
  • パウロがそうだったように、神さまに忠実に従おうとすればするほど、自分の不完全さを思い知らされて落ち込む場合があります。
イエスさまに忠実に従っていれば、悩みも苦しみも味わうことはないと思っていると、必ず幻滅します。聖書はそんなバラ色の人生を約束していません。むしろ、悪魔もこの世も、全力で私たちが神さまに従うのを邪魔しようとします。

まずは、イエスさまに従った結果、損をすることがあることを覚悟しましょう。

私たちが従う神は、勝利者だということを意識する

神さまに従うと、損をするように思える場合があります。しかし、私たちが信じ従っている神さまは、逆転勝利の神です。

イエスさまは、ユダヤの指導者たちとの戦いに敗れて、不当な裁判によって有罪とされ、十字架につけられ敗北したかのように見えます。しかし、イエスさまは負けたままで終わりませんでした。その後復活し、今は神さまの右の座についておられます。そこは勝利者の席です。

しかも、イエスさまの死そのものも、敗北ではなく勝利でした。イエスさまの十字架は、私たちに永遠の命をもたらしました。罪が赦されて、私たちは神さまの敵の立場から子どもの立場へと変えられたのです。

サタンや悪霊たちは、創世記の時代から今に至るまで、救いの計画を邪魔しようとあの手この手を尽くしています。しかし、勝利者であるイエスさまは、神さまの救いの計画を着々と進めてこられました。そして、これからも完成を目指して進んで行かれます。

私たちが神さまに従うとき、一時的に損をしたり、苦しい目にあったりすることがあるかもしれません。しかし、逆転勝利の神さまは、イエスさまを通して私たちにも逆転勝利を与えてくださいます。

たとえこの地上で逆転勝利を味わえなかったとしても、天のパラダイス、千年王国、さらにその後に登場する新しい天と新しい地において、私たちは考えられないような祝福を味わうことになります。この世の苦しみを補ってあまりあるほどの、圧倒的な祝福です。
ですから、たとえ損をするとしても、あるいは苦しみを味わうことになりそうでも、イエスさまに従う方を選び続けましょう。

意識して、神に従う方を選ぶ

私たちは、一日に非常にたくさんの行動を積み重ねます。その行動の多くは、無意識に行っています。歩くとき、いちいち「右足出して、左足出して……」などと意識したりしません。

ただ、もちろん意識することもできます。最近、夫婦で観たテレビ番組で、正しい歩き方を特集していました。背筋をまっすぐにし、腕は前ではなく後ろに振ることを意識し、足は左右に広がらないよう一直線上に踏み出すのが大事だということでした。

その日から、私も家内も、歩き方を意識するようになりました。ただ、ボーッとしていると、ついつい前の歩き方に戻ってしまいます。家内は内股になるし、私は落ちている100円玉を探すかのように猫背になってしまうのです。

長い時間をかけて身につけた間違った歩き方を修正するには、いつも意識し続けることが必要なのですね。

イエスさまに従う行動も、意識が必要です。今、自分がすべき行動は何だろうか。それを考え、意識して選び取るのです。最初のうちはしっかり意識して選ばないと、私たちの歩き方のように、いつものやり方になってしまいます。それがイエスさまのみこころにかなうものならいいのですが、そうでないことも多いですね。

歩き方を変えるのはしんどいし、苦痛が伴うこともあります。私たちも、新しい歩き方を実践したところ、左右にふらふら揺れてしまったり、変なところに力が入って疲れてしまったりしました。

同じように、イエスさまに従う行動は何だろうかと、いちいち考えるのは面倒です。それもまた、神さまに従った結果もたらされる損、苦しみの一つでしょう。

しかし、今回学んだように、その損や苦しみの先には、イエスさまがくださる逆転勝利が待っています。面倒くさくてもしんどくても、イエスさまに従う行動を具体的に考え、選び取りましょう。そして、それを続けましょう。

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