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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

エルサレム、エルサレム

イエス・キリストの生涯シリーズ83

マタイによる福音書23章37節〜39節

(2024年6月16日)

イエス・キリストが、パリサイ人やエルサレムの民の不信仰を嘆いている箇所です。しかし、私たちはその厳しい言葉の中に、神の溢れる愛を見出すことができます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

23章では、「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人」、あるいは「目の見えない案内人たち」というフレーズを使って、イエスさまがパリサイ人たちの偽善的な行動を繰り返し非難しています。

「エルサレム」(37節)はイスラエルの首都。

「預言者」(37節)は、神さまのことばを聞き、それをイスラエルの人々に伝えた人。その語る言葉は、人々、特に指導者たちの不正を糾弾し、悔い改めを迫るものが多かったため、迫害されたり、殺されたりする預言者も多くいました。

38節の預言の通り、紀元70年にローマ軍の攻撃を受けたエルサレムは陥落し、神殿も破壊されてしまいました。

39節の引用部分は、詩篇118:26です。

イントロダクション

聖書の神は愛と恵みの神です。厳しいさばきが描かれている場面にも、私たちは神さまの愛と恵みを見出すことができます。今回の箇所もそうです。神さまの愛と恵みによって、慰めと励ましを受け取りましょう。

1.糾弾と嘆き

パリサイ人への非難

(37節)エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
罵詈雑言
マタイ23章でイエスさまは、律法学者やパリサイ人たちに対する批判の言葉を語っておられます。たとえば、
  • 「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない」(13節)。
  • 「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ」(15節)。
  • 「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている」(23節)。
  • 「目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる」(24節)。
  • 「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ」(27節)。
よくぞここまでと思うほどの罵詈雑言ですね。
律法遵守運動
パリサイ派というのは、ユダヤの宗教的グループのひとつです(他に祭司たちが属していたサドカイ派や、聖書には登場しませんが、荒野で隠遁生活を送ったエッセネ派の存在が知られています)。

かつて、イスラエルは、神の教えであるモーセの律法をないがしろにし、様々な不正や偶像礼拝にまみれました。神さまはたびたび預言者を使わして戒めましたが、王たちも民も悔い改めようとしませんでした。そのため、バビロンによって国が滅ぼされてしまいます。そして、多くの国民がバビロンに捕らえ移されました(捕囚といいます)。

バビロン捕囚が始まってから70年後、エレミヤの預言通り、神さまの憐れみによってバビロンから解放されたユダヤ人たちは、イスラエルの国を再興しました。そのとき、今度こそ神の教えを忠実に守ろうという気運が盛り上がりました。そして、律法学者エズラや総督ネヘミヤらによって、律法が民衆に分かりやすく解説され、それを忠実に行なうよう指導されました。
運動の変質
もともとは良い動機で始まった律法遵守運動でしたが、エズラやネヘミヤがいなくなると、その後だんだんと変質していきます。モーセの律法を分かりやすく解説し、人々に律法を守るよう勧めるという目的が忘れられ、研究のための研究が行なわれるようになりました。

その結果、聖書には書かれていないような様々な細かい教えを作り上げ、それを守るように人々を教えるようになったのです。たとえば、「安息日には仕事をしてはいけない」という律法の規定から、何が禁止されている「仕事」に当たるのかということが研究されましたが、最終的に1500もの新しい戒律(してはいけないことリスト)が作られることになりました。

パリサイ派は、この伝統を受け継いで紀元前2世紀頃に誕生しました。イエスさまの時代の律法学者も、神学的にはパリサイ派に属しています。

イエスさまは、彼らが表面的には立派な言動をしているけれども、心が伴っていないと非難なさいました。前回のメッセージで取り上げましたが、イエスさまはモーセの律法は2つの命令(神への愛と他の人への愛)に要約されると教えておられます。ところが、パリサイ人たちは表面的な行動にばかり注目して、愛の心を忘れてしまっていました。

たとえば、「安息日には仕事をしてはいけない」という律法の教えに対して、パリサイ人たちは「安息日には、病気や障がいの人を治療してはいけない」とか、「安息日に、道ばたの麦の穂を取って食べてはいけない」とかいう戒律を定め、弱者を助けることを尊ぶ律法の精神をかえってないがしろにしていたのです。
イエスの嘆き
イエスさまは、こうしたパリサイ派の教えに対して、正面から反対を唱え、それらの教えをわざと破るような行動さえなさっています。また、イエスさまは、人々の尊敬を集めるために、わざと人目につくように善行をするパリサイ人たちの偽善的な態度を、激しく攻撃なさっています。

その結果、ほとんどのパリサイ人たちはイエスさまのことを救い主だとは信じませんでした。そして、イエスは悪霊の力を借りて奇跡を行っているだけだと公に決定し、民衆にイエスさまを信じないよう命じました。

そのような現状に対して、イエスさまは「エルサレム、エルサレム」と呼びかけ、嘆かれました。

エルサレム滅亡の預言

(38節)見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。
イスラエルへのさばき
そのようなパリサ人たちの不信仰に対して、神さまは罰としてのさばきを用意なさいます。そのさばきの対象はパリサイ人だけでなく、イスラエルの指導者である祭司たちや、指導者たちの言葉を受け入れてイエスさまを救い主だと信じなかったイスラエルの民も含みます。

具体的には、エルサレムが徹底的に破壊されてしまうということでした。

この預言は40年後に実現します。ローマ帝国に対してエルサレムで起こった反乱がイスラエル全土に拡大し、ユダヤや近隣のシリアに駐屯していたローマ軍では鎮圧できなかったため、3個軍団が派遣されます。そして、紀元70年にエルサレムは陥落してエルサレムの街が破壊され、神殿も焼かれて崩されてしまいました。

デビッド・ロバーツ「エルサレムの包囲と破壊」1850年
(画像引用:Wikipedhia)
イエスの悲しみ
しかし、そのような未来がエルサレムとその住民に訪れるという事実は、イエスさまの心を深く悲しませます。「エルサレム、エルサレム」という呼びかけは、イエスさまの深い悲しみを表しています。

以前、「マタイの福音書」というDVD(ライフ企画)を視ました。その中に今回の箇所も登場します。イエスさまはパリサイ人・律法学者たちを激しく非難なさいました。そしてその後、イエスさまは、地面に倒れ込んで大声で泣き叫びます。「ああ、エルサレム、エルサレム! めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか!」 文字通りの号泣でした。
愛ゆえに
イエスさまは、激しい言葉でパリサイ人たちを非難しました。しかし、同時にイエスさまは、あのパリサイ人たちのことを本当に愛しておられたのでした。イエスさまは、パリサイ人たちにも本当の幸せを知って欲しかったのです。

パリサイ人は、本当の内面の自分を見られるのを恐れて、一生懸命に表面を着飾って良い人間を演じようとしていました。イエスさまは、その心の奥底にある恐れを知っておられました。そして、何とか彼らに、神さまにそのままで受け入れられる平安を味わって欲しかったのです。だから、何とか気づいて欲しくて、厳しい言葉を投げかけもしたのでしょう。

再臨に関する預言

(39節)わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」
再臨の条件
そして、イエスさまは重要な預言をなさいました。これは、イエスさまがユダヤの指導者達によって逮捕され、不当な裁判の末に死刑を宣告され、十字架にかかり、3日目に復活し、その後天にお帰りになった後に起こることの預言です。

イエスさまはもう一度この地上に戻って来られます。いわゆる再臨です。その時、イエスさまは神さまの敵をすべて地上から取り除き、理想的な王国、神の国を建設して王として世界を統治なさいます。

その再臨の条件が39節には記されています。その条件とは、その時生きているイスラエルの民がすべてイエスさまのことを救い主だと信じることです。このことは旧約聖書でも預言されています。

(ホセア5:15)わたしは自分のところに戻っていよう。彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求める。」
さばきの背後にある恵み
イエスさまを拒否した紀元1世紀のイスラエルは、神さまのさばきによって滅びを招いてしまいます。しかし、神さまはイスラエルを見捨ててしまわれたわけではありません。

かつてイスラエルの国は、不信仰のゆえにアッシリア帝国やバビロニア帝国によって滅ぼされ、多くの国民が外国に連れ去られてしまいました。それでも神さまは、ユダヤ人の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブと交わした契約に基づいて、イスラエルの民を外国から約束の地に呼び戻し、国を復活させました。

同様に、紀元70年にエルサレムが滅ぼされてから約1878年後、紀元1948年にイスラエル共和国が誕生しました。
個人的な救いの道
国としてはさばきが決定し、もうそれを回避することはできなくなりました。しかし、ユダヤ人個人の救いの道は、エルサレム滅亡の前も後も開かれ続けています。イエス・キリストの恵みの福音を信じるなら、いつでも誰であっても救われて、神さまとの永遠に続く親しい関係に入ることができます。

実際、パリサイ人であるニコデモもパウロも、イエスさまを信じて救われました。

パリサイ人は、偽善的な生き方をして神さまを悲しませました。それどころか、イエスさまを亡き者にしようとしています。それでもイエスさまはパリサイ人たちのことを愛し、救いを願っておられます。

それではここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.パリサイ人と自分を置き換えよう

自分の中の不信仰に気づこう

今回のような箇所を読んだとき、あるいは聖書の中に出てくる不信仰な人たちについての記事を読んだとき、私たちは外側から彼らのことを批判してはいけません。彼らが抱えていた問題のある性質や不信仰、そして偽善的な生き方は、私たちの中にも存在しています。

私は、イエスさまを信じた後も、数限りなく罪を犯してきました。悔い改めれば赦されるからと、わざと神さまが悲しまれるようなことを行なうことさえあります。そして、表面的には信仰的なふりをして生きています。

私たちもまた、イエスさまが糾弾なさったパリサイ人なのです。

そのことを認めて、自分の中の不信仰や罪深い行い、そして偽善を悔い改めましょう。

神の愛を意識しよう

自分の中の罪を認めることは、痛いことです。しかし、それができるのは、私たちが神さまからこよなく愛されているからです。愛され、赦されていることを知っているからこそ、私たちは素直に自分の過ち、自分の罪深さを認めて悔い改めることができます。

イエスさまはパリサイ人たちを激しく非難なさいました。そして、やがてイスラエルに神さまのさばきが下ることを預言なさいました。しかし、イエスさまはパリサイ人たちやイスラエルの民を愛し、なんとか救われてほしいと願われました。

私たちもまた、いい加減で罪深いにも関わらずイエスさまに愛され、赦され、永遠の祝福が約束されています。
置換神学の誤り
ある人たちは、イスラエルはイエスさまを信じず、十字架につけて殺してしまったので、神さまから見捨てられた。代わりに教会が新しいイスラエルになったと言います。

そうではありません。神さまは、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約、「あなたとあなたの子孫を祝福する。そして、あなたを通して全世界の国民を祝福する」という約束を決して反故になさいません。

使徒パウロもそのことを明言しています。

(ローマ11:1)それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。

(ローマ11:26)こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。
異邦人信者への保証
だからこそ、私たち異邦人信者も安心なのです。私たちは繰り返し繰り返し罪を犯しますが、それでも赦され続け、将来神の国に招き入れられ、さらには新しい天と新しい地において永遠の祝福を味わいます。

もしも、イスラエルが不信仰のゆえに見捨てられたのなら、私たちだって不信仰のゆえに捨てられてもおかしくありません。神さまがイスラエルを見捨てず、最後は必ず救ってくださると知っているからこそ、私たちは自分の救いも絶対確実だと信じることができます。
愛を受け取ろう
ですから、私たちは神さまに愛されていることをいつでも意識していましょう。そして、感謝しましょう。

この話をお読みください。
シンガポールで活躍しておられる、牧師であり心理学者であるジョセフ・オザワ先生の話を聞きました。

ある夜、オザワ先生の夢の中に、神さまが現れたそうです。先生は思わずひれ伏し、こう叫びました。「ごめんなさい!」

すると、神さまは先生にこうおっしゃいました。「あなたは、大切なことを一つ忘れてきたね」。

オザワ先生は、やらなければと思いながらできなかったあることを思い出しました。そして、「申し訳ありません。あのことですね」と言うと、神さまは「そんなことではない」とお答えになりました。

「それでは、あのこと?」「違う」「それでは、このこと?」「違う」……。オザワ先生は、思いつく限りの罪や失敗を並べ立てましたが、神さまは「そんなことではない」とおっしゃいます。

「では、私が忘れてきたこととはいったい何なのですか?」と尋ねると、神さまはこうお答えになりました。「あなたは、私の愛を受け取ることを忘れてきたね」。

罪を悔い改めることは大切なことです。しかし、それは私たちの罪が赦され、神さまにそのままの姿で愛されているという前提で行なわなければならないことです。もしかしたら、私たちも神さまの愛を受け取ることを、どこかに忘れてきてはいなかったでしょうか。
(当サイト「ショートエッセイ」より)

喜びを伝えよう

自分が今あるがままの姿で、全知全能なる神さまに愛されていることを知るとき、そして喜びに満たされるとき、私たちの生き方は変わります。神さまの愛を深く知れば知るほど変わります。
どうしたら、私は自分が神さまに愛されていることを、もっともっと確信できるでしょうか。どうしたら、私の家族や、私の友だちや、私が出会うすべての人に、このことを伝え、もっともっと確信してもらえるでしょうか。

この話をお読みください。
仲が悪い夫婦がいました。妻は、近所に住む友人の誘いで教会に行くようになりました。そして、教会の静かな雰囲気や、教会員の優しさに触れ、すっかり教会が気に入りました。教会の建物の中にいる間は、むしゃくしゃした気分から解放されるのでした。

しかし、家庭での生活は相変わらずでした。妻は夫に対して、がみがみと小言とグチばかりぶつけていたのです。ある日、妻はこんなことを口にしました。「あんたのような男こそ、教会に行って、牧師さんの話を聞いて、悔い改めるべきよ!」

もちろん、夫は妻がそう言いたくなるようなことをしていました。しかし、こんなことを言われて面白いはずがありません。日曜日になると、夫は毎週のように釣りやゴルフに出かけるようになりました。もちろん教会の礼拝に出かける妻への当てつけです。そういうわけで、ますます二人の仲は険悪なものになっていき、離婚するのも時間の問題という状態になってしまいました。

ある日、教会で伝道集会が開かれました。説教者は、単純明快にキリストの十字架のメッセージを語りました。そして、「悔い改めて、罪の赦しを信じなさい。そして、キリストを主とし、心の王座に座っていただきなさい」。説教者はそう結びました。

妻は、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けました。今まで、自分は夫を責めるばかりで、夫こそ悔い改めなければならないと思っていた。そして、自分のことは、正しい人間だと思っていた。しかし、夫がではなく、まず自分自身が悔い改めなければならなかったのだ。まず自分こそがキリストの赦しをいただかなければならなかったのだ……。

妻は、その日、イエス・キリストを救い主として受け入れました。心いっぱいに、神さまの愛が満ちあふれてきました。喜びと平安が心を支配していきました。

その日を境に、妻の態度は一変しました。不平やグチの代わりに感謝が、小言の代わりにねぎらいの言葉が、彼女の口から流れ出てきます。いつもしわの寄っていた眉間が広がり、いつも笑顔がこぼれるようになりました。そして、台所仕事をするときには、いつも賛美歌を口ずさんでいます。

すると、やがて夫も教会に出席するようになり、間もなくイエス・キリストを受け入れてクリスチャンとなりました。洗礼準備会のとき、夫は牧師に語りました。「私が救われたのは、先生の説教はもちろんですが、我が家の台所で、イエスさまが輝いた顔をして、いつも歩いていたからです」。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
この一週間、イエスさまの愛についてたくさん考え、感謝し、喜びましょう。そして、その喜び、感動を周りの人たちに伝えましょう。

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