(2024年7月21日)
イエス・キリストが、使徒たちと共に過越の食事をしています。いわゆる最後の晩餐です。この箇所は、キリスト教会の聖餐式のベースになっています。
礼拝メッセージ音声
参考資料
14節の「使徒」は、イエスさまによって直接選ばれ、任命された特別な弟子のこと。ペテロ(シモン)とその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブ(大ヤコブ)とその兄弟ヨハネ、ピリポ、バルトロマイ(ナタナエル)、取税人マタイ(レビ)、トマス、アルパヨの子ヤコブ(小ヤコブ)、タダイ(イスカリオテではないユダ)、熱心党員シモン、イスカリオテのユダの12人。
イスカリオテのユダが死んだ後は、マッテヤが教会と聖霊によって後任に選ばれました。また、パウロとバルナバも使徒と呼ばれています。
16節の「過越」とは、ユダヤ人が毎年行なっていた例祭の1つ、過越の祭りのことで、ユダヤの宗教暦の1月に当たるニサンの月の14日の夜に行なわれました。今の太陽暦だと3月下旬から4月中旬で、紀元30年の場合は4月6日木曜日の夜です。この祭りは出エジプトの時の奇跡を記念して行われます。
なお、過越の祭りの翌日から7日間(ニサンの月15〜21日)は「種なしパンの祭り」が続きます。この2つの祭りは連続して祝われるため、8日間全部を「過越の祭り」あるいは「種なしパンの祭り」と呼ぶことがあります(1節参照)。
16節の「過越が神の国において成就するまで」とは、18節の「神の国が来る時」までと同じ意味です。その時、イエスさまが再臨なさることによって神さまが私たちに与えてくださる救いが完成します。
16節の「過越の食事をすることは、決してありません」は、18節の「ぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません」と同じ意味です。
イントロダクション
教会が行なう様々な儀式の中で、イエスさまが行なうよう直接命じたものを聖礼典と呼びます。それは洗礼と聖餐です。今回の箇所は、聖餐式の原型になったものです。私たちの教会では毎月第1木曜日と第1日曜日の礼拝式の中で聖餐を行なっています。
聖餐に込められた神さまからの祝福のメッセージを改めて読み取り、慰めや励ましをいただきましょう。
1.聖餐式の元になった過越の食事
使徒たちとの最後の晩餐
過越の食事の開始
(14節)その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った。
過越の祭りのメインイベントである食事会がスタートしました。この過越の食事は、モーセに率いられたイスラエルの民がエジプトを脱出した出エジプトの故事を記念しています。
(出エジプト12:5-8)あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。 あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。そして、その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。
イエスさまの時代には、過越の食事は儀式化されていて、食べ物の種類も多くなっていました。
- 現在のユダヤ人クリスチャンが行なっている過越の食事の式次第を見つけましたので、興味のある方はご覧ください(→ PDF形式のファイル)。
過越についてのイエスの思い
(15節)イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。
イエスさまは、弟子たちと一緒に過越の食事をとることができるのを喜んでいらっしゃいます。
イスラエルにおいて食事は単におなかを満たすだけのものではなく、深い交わりを表しています。人と人との交わり、そして神さまとの交わりです。イエスさまは、十字架という苦しみを味わう前に、愛する弟子たちそして天の父なる神さまとの交わりを楽しもうとしていらっしゃいます。
これまでもイエスさまは弟子たちと一緒に過越の食事を楽しまれました。しかし、今回のものは特別でした。それは、イエスさまが十字架にかけられる直前の過越の食事だったからです。
この食事が終わるとイエスさまは指導者たちによって逮捕され、十字架にかけられます。そのとき、イエスさまは弟子たちに見捨てられ、そればかりか天の父なる神さまから罪人として交わりを絶たれてしまいます。
もちろんその後、イエスさまと天の父なる神さまとの交わりは回復されますし、イスカリオテ・ユダを除く弟子たちとの関係も回復します。しかし、一時的にでも愛の交わりを絶たれてしまうことはイエスさまにとって大きな苦しみです。その前に、弟子たちや父なる神さまとの交わりを味わうことは、イエスさまにとって大きな慰め、励ましだったのです。
神の国での過越 その1
(16節)あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません。」
神の国とは、救い主が地上に実現する理想的な王国のことです。そこでは過越の祭りが祝われますが、その時が来るまでは過越の食事をしないとイエスさまは宣言なさいました。
感謝の杯
(17節)そしてイエスは杯を取り、感謝の祈りをささげてから言われた。「これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。
福音書時代の過越の食事では、儀式的食事の中で4回ぶどう酒が飲まれました。それぞれ�@感謝の杯、�Aさばきの杯、�B贖いの杯、�C喜びの杯と呼ばれています。
- 途中でいったん儀式を中断して自由に食べる食事の時間がありますが、その時に飲まれるぶどう酒はこれとは別です。
17節の杯は第1の杯(感謝の杯)です。なお、前回取り上げた「
洗足」の出来事は、この第1の杯の後に起こったと思われます。
神の国での過越 その2
(18節)あなたがたに言います。今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません。」
これは、16節で語られたことと同じ意味です。2回繰り返されているということは、それだけ大事な内容だということです。
さて、第1の杯を飲んで手を洗いきよめたら、苦菜を塩水につけて食べます。これは、イスラエルの民がエジプトでひどい苦しみに遭ったことを記念しています。その際、イエスさまはユダの裏切りを預言なさいました。
(マタイ26:23-25)イエスは答えられた。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。
おそらくユダはイエスさまの隣の席に着いていて、同じ塩水の鉢を使っていたのでしょう。
イエスの体であるパン
(19節)それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
その後、エジプトに下った10のさばきを象徴する第2の杯を飲み干すと、もう一度手を洗いきよめてから、マッツァーと呼ばれる種なしパンを食べます。
イエスさまは、このパンのことをご自分の体にたとえられました。それは十字架の上で引き裂かれるイエスさまの体です。
なお、過越で食べられる種なしパン(マッツァー)には、不思議な特徴があります。それについてユダヤ教の教師たちは説明していませんが、このパンがイエスさまの体を記念しているということと考え合わせると、納得できるものがあります。
- マッツァーにはパン種(イースト菌)が入っていません。ユダヤでは、パン種はしばしば罪の象徴として用いられました。イエスさまには罪がありません。
- 表面にはしっかりと焦げ目がついていて、それは筋状に並んでいます。イエスさまは十字架にかけられる前、激しいむち打ち刑を受けて、背中にはひどい傷がありました。
- あちこちにフォークで突き刺してできたような小さい穴が開いています。イエスさまの手足には釘、脇腹には槍、頭にはいばらの冠による刺し傷があります。
- 過越で食べられるマッツァーのうち、3枚が袋の中に入れられます。そして、真ん中のマッツァーが半分に割られ、家のどこかに隠されます。食事の後で、子どもたちが隠されたマッツァーを探します。イエスさまは三位一体の第二位格である子なる神です。そして、イエスさまの体は十字架にかけられた後、墓に納められて見えなくなり、その後復活して再び弟子たちの前に現われました。
この種なしパンを割いて食べる儀式の後、子羊の肉、そして苦菜を種なしパンに挟んだサンドイッチに、ハロセットと呼ばれるリンゴ、クルミ、シナモン、赤ワインなどで作るペーストをつけて食べます。
最後の晩餐では、この時イエスさまは、ユダが裏切ることをもう一度預言なさいました。
(ヨハネ13:26)イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。
ユダはイエスさまからサンドイッチを受け取ると、その部屋を出て指導者たちの元に向かいました。
イエスの血である杯
(20節)食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。
サンドイッチを食べた後、いったん儀式的な食事は中断となり、普通の食事会になります。
食事が終わると第3の杯が飲まれます。これは、神さまがイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放してくださったことを記念し、感謝を表すためのものです。
この第3の杯について、イエスさまは「わたしの血による、新しい契約」とおっしゃいました。19節のパンについては「わたしのからだです」とおっしゃったのですから、ここでも「わたしの血です」とおっしゃってもよかったはずですが、おもしろい言い回しですね。
この「新しい契約」という言葉は聖書に登場する専門用語です。神さまはイスラエルと、モーセの律法とは別の新しい契約を結ばれました。
(エレミヤ31:31-34)見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
すなわち、
- 神さまは、ご自分の命令をイスラエル人の心に書き記し、ただ命令の内容を知っているだけでなく、実際に守ることができる力を与えてくださる。
- 神さまとイスラエル人の間に親密な関係が結ばれる。
- 神さまはイスラエル人の罪を完全に赦す。
イエスさまはここで、「この新しい契約は、わたしの血によって実現する」とおっしゃっているのです。
ただ、この時点ではまだイエスさまは十字架にかかって血を流しておられません。まだ弟子たちの心には神さまの律法が書き記されていません。それはイエスさまが復活し、天に戻られ、聖霊なる神さまが下ってこられるまでまたなければなりません。
この時点での弟子たちはまだ不完全でした。 第3の杯の後、イエスさまは弟子たちがみんなイエスさまを見捨ててしまうこと、特にペテロが3度イエスさまのことを知らないと言ってしまうことを預言なさいました。そして、それは間もなく実現してしまいます。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.信仰によって聖餐に参加しよう
聖餐と過越の食事
今回の箇所は、現在教会が行なっている聖餐式の元になってます。この箇所で命ぜられているように、私たちは定期的に聖餐式を行ない、イエスさまの十字架の死を記念してパンを食べ、ぶどう酒を飲みます。
ただ、1世紀の聖餐式が、イスラエルの過越の食事の中で行なわれたということを、私たちは忘れないようにしましょう。
イスラエルの過越の食事の形式が長い時間が経つうちに変わっていったように、1900年の時が流れて、聖餐式も姿を変えていきました。そもそも、教会の中で過越の食事をみんなで食べるという習慣がほとんど無くなってしまいました。
もちろん、ユダヤ人が多い教会では今でも過越の食事を行なっています、また、正式なマッツァーでなくても、聖餐式では発酵していないパンを用いるという教会もあります。
しかし、多くの教会では、聖餐式は過越の食事とはまったく別の儀式になっています。アルコールに弱い人や未成年、あるいはドライバーに配慮して、ぶどう酒ではなくぶどうジュースを用いる教会も多いです。
それでも、1世紀のやり方と違っていたとしても、原点はイスラエルの過越の食事です。そのことを意識しながら聖餐式に参加してみましょう。
- 過越の食事で食べられたパンには、罪を象徴するパン種が入っておらず、傷を象徴する焼き目や穴が空いており、一時見えなくなってから捜し出されるということを知っていて、それを思い起こしながら聖餐式のパンを食べるなら、どれほど感動が深まるでしょうか。
- 過越の第3の杯が、奴隷状態から解放されたことを記念しており、自分もまた罪の奴隷状態から解放されたのだということを思い起こしながら聖餐式のぶどう酒をいただくなら、どれほど感謝と喜びが深まるでしょうか。
聖餐と新しい契約
イエスさまの十字架の血は、神さまとイスラエルの間に結ばれた新しい契約の実現をもたらしました。
この新しい契約は、本来は神さまとイスラエルの間に結ばれたもので、私たち異邦人には無関係のはずでした。しかし、新約聖書は私たち異邦人も、新しい契約の祝福にあずかることができると約束しています。
(エペソ2:11-13)ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。
すなわち、イエスさまの十字架と復活を信じた私たちも、
- 罪が完全に赦されます。赦された罪を神さまはもう思い出されません。
- 神さまと親密な関係になります。私たちはただ赦されるだけでなく、神さまの子どもとして愛されているのです。
- 聖霊さまが私たちの内に住んでくださり、これまで実行できなかった神さまの命令を守ることができるように造り変えてくださいます。
そのことを改めて確認しましょう。
聖餐と神の国の実現
イエスさまは2度に渡って、神の国が実現するまではもう過越の食事をしないと宣言なさいました。いわゆる最後の晩餐は、十字架の死を記念すると共に、将来実現する神の国の希望も表しています。
今のこの世界には矛盾がたくさんあります。悲しみがあり、争いがあり、病気があり、空しさがあります。しかし、やがて実現する神の国は、愛と正義が支配する理想的な王国です。そこに私たちは招かれます。
そして、神の国が実現して1000年たったら、新しい宇宙が創造されて、神の国よりさらに素晴らしい世界に私たちは招き入れられて、永遠の時を過ごします。
私たちの未来は輝きに満ちています。今はつらいこと、苦しいことがありますが、将来に希望を持ち、喜びながら生活していきましょう。