(2024年9月8日)
イエス・キリストが逮捕される場面です。
礼拝メッセージ音声
参考資料
2節の「その場所」とは、オリーブ山にあるゲツセマネの園。
3節の「一隊の兵士」は、ギリシア語でスペイラといいます。ローマ帝国の言葉であるラテン語では「コホルス」で、ローマ軍の歩兵部隊のことを指します。
ローマ軍の基本的な構成単位は「レギオン」(軍団)で、1つのレギオンには約4,000〜6,000人の兵士が所属していました。このレギオンの中に10個の「コホルス」が含まれ、それぞれ約480人の兵士で編成されていました。
さらに1つのコホルスは6つの「センチュリア」(百人隊)に分けられていて、それぞれセンチュリオン(百人隊長)が80人ほどの兵士を指揮しました。
9節の引用元は、イエスさまの言葉です。
(ヨハネ6:39)わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
(ヨハネ17:12)彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。
イントロダクション
自分が生かされている意味、人生の使命をしっかりと理解し、その使命に基づいて行動している人は、一本筋が通っています。どんなことが起こっても揺るがされない安定感を持っています。そんな強い心を持つ人に成長するには、どんなことを意識すればいいでしょうか。
1.イエスが逮捕される場面
捕り方の接近
イスカリオテ・ユダについて
(2節)一方、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられたからである。
最後の晩餐の途中で席を立ったイスカリオテのユダが、再び姿を現します。イエスさまの逮捕を助けるためです。
イスラエルの宗教的指導者たちはイエスさまのことを憎んでいて、殺してやりたいと思っていました。ところが、イエスさまが民衆から尊敬されていたため、公衆の面前で逮捕してしまうと暴動が起こりかねません。そこで、密かにイエスさまを逮捕できないものかと考えていました。
そこにユダが現われて、自分がイエスさま逮捕に協力すると申し出ました。そして、その報酬として、銀貨30枚を手に入れます。
この箇所に「ユダもその場所を知っていた」と書かれていますが、これはゲツセマネの園のことです。エルサレムの東にあるオリーブ山の、エルサレム側の麓にあったオリーブ園です。
ルカ22:40には
「いつもの場所」と書かれています。イエスさまと弟子たちは受難週の間、夜はエルサレム市内で過ごさず、ゲツセマネの園で野宿なさったのでしょう。これまでも、過越の祭りや仮庵の祭りなどを祝うためにエルサレムに来られたときに、ゲツセマネの園で野宿してこられたのかもしれません。
ユダは、自分も一緒に野宿してきたので、イエスさまが今日もそこにいることを知っていました。
捕り方について
(3節)それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。
ユダは、イエスさまを逮捕しようとする人々を連れてゲツセマネの園にやってきました。
「一隊の兵士」と書かれていますが、ギリシア語でスペイラといいます。これはローマ軍の歩兵部隊のことを指していて、参考資料にも書いたとおり、通常480人ほどの歩兵で構成されています。
ユダヤの指導者たちが、「祭りに乗じて反乱を起こそうとしている者たちがいる」とでも通報して、ローマ軍から兵士を出してもらったのでしょう。
これらのローマ兵と共に、ユダヤの指導者たちが送り込んだ人たちも同行しましたから、500人前後の大人数でやってきたということです。なんとしてもイエスを逃さないという覚悟の程が見て取れますね。ところが……
イエスの態度
自ら進み出るイエス
(4節)イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。
イエスさまは逃げ出すことなく、自分の方から逮捕しようとする人たちの前に姿を現しました。イエスさまはご自分の方から捕まりにいっておられます。
別の福音書を見ると、ユダもイエスさまに気か付いてきて、「先生、こんばんは」とあいさつして口づけしました。これが「こいつがイエスだ」という捕り方の人たちに対するサインでした。
満月に近い明るい月明かりや、たくさんの明かり、松明があっても、真夜中に個人を見分けるのは非常に困難です。しかも、写真もありませんから捕り方の多くはイエスさまの顔を知らなかったでしょう。そこで、ユダはイエスさまを特定する合図を決めていたわけです。

カラヴァッジョ作「キリストの捕縛」(画像引用:Wikipedia)
そしてイエスさまは「だれを探しているのか」と尋ねました。
わたしがそれだ
(5節)彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。
「ナザレ人イエスを」と人々が答えると、「わたしがそれだ」とイエスさまは返します。この言葉は、ギリシア語では「エゴー・エイミ」、英語に訳すと「I
am」です。この言葉は、ユダヤ人にとっては特別な意味を持っていました。
昔、モーセが舅であるイテロに仕えて羊飼いをしていた時、神の山ホレブで燃える柴を見つけて近づきます。そして神さまから、エジプトからイスラエルの民を導き出せと命ぜられます。その際モーセが、「イスラエルの民は、きっと私に『お前を遣わした方の名前は何だ』と言うでしょう。自分はどう答えたらいいですか」と尋ねると、神さまは次のようにお答えになりました。
(出エジプト記3:14)神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
つまり、この場面でイエスさまは「わたしはある」とおっしゃって、自分が神であることを宣言したことになります。
倒れる人々
(6節)イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。
イエスさまの宣言を聞いた人たちは、後ずさりして倒れてしまいました。イエスさまの、子なる神としての栄光に圧倒されてしまったのです。
2度目の問答
(7節)イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。
イエスさまと捕り方の人々は、また同じやり取りをしました。イエスさまは、なぜ2度も「だれを探しているのか」とお尋ねになったのでしょうか。それは……
弟子を去らせようとするイエス
(8節)イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」
イエスさまは、誰を逮捕しようとしているか尋ねることで、彼らが求めているのがご自分の身柄だということを彼らの口から言わせました。それによって、弟子たちまで一緒に捕らえられないよう、彼らを守ろうとなさったのです。
預言の成就
(9節) これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。
参考資料に書いたとおり、これ以前にイエスさまがおっしゃった言葉が実現したと、この福音書を書いたヨハネは記しました。
ペテロの抵抗
斬りかかるペテロ
(10節)シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
この時の弟子たちの手元には、2振りの剣がありました(ルカ22:38)。ペテロはそのうちの1振りを取って、マルコスという名の大祭司のしもべに斬りかかります。その結果、マルコスの右耳が切り落とされてしまいました。

フラ・アンジェリコ作「イエスの捕縛」(画像引用:Wikipedia)
マルコスという名前が分かっているのは、この福音書を書いたヨハネが大祭司と知り合いだったので(15節)、マルコスとも面識があったからでしょう。あるいは、後にマルコスが救われてヨハネたちの仲間になったからかもしれません。
とにかく、ペテロはイエスさまを守ろうとしたわけです。しかし……
ペテロをたしなめるイエス
(11節)イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」
イエスさまはペテロを止めました。イエスさまが弟子たちに剣を用意するようおっしゃったのは、あくまでも自衛のためです(
7月28日のメッセージ参照)。この場面では、イエスさまが弟子たちまで逮捕されないよう配慮してくださったので、ペテロは自分の身を守る必要がありません。ところが、自分の方から攻撃してしまったわけです。
これではイエスさまの命令を逸脱しているだけでなく、イエスさまが弟子たちを守ろうとしていらっしゃる配慮も台無しです。
ルカ22:50によると、イエスさまはすぐにマルコスの傷をいやしてやりました。それは敵であるはずのマルコスに対するあわれみであると共に、斬りつけてしまったペテロを守ろうとする行為でもありました。
それからイエスさまはペテロをたしなめます。「杯」という言葉が、ユダヤでは神さまのさばきを象徴しているという話は
前回もいたしました。イエスさまは、ゲツセマネの園での祈りの戦いを通して、十字架にかかる決意を定めておられます。それを邪魔しないようにとペテロにおっしゃったのです。
別の福音書を読むと、イエスさまは次のような言葉もペテロに語っていらっしゃいます。
(マタイ26:52-54)そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」
ローマ軍の1軍団は、約4千人から6千人の兵士で構成されています。平均5千人とすると、12軍団は6万人の大兵力です。
旧約聖書の第2列王記19:35には、エルサレムを包囲していたアッシリア兵18万5千人を、1人の天使が一晩のうちに打ち殺してしまったという記事が載っています。そんな強力な天使が6万人も呼び出されたら、目の前の500人の捕り方どころか、世界全人類が瞬殺されてしまいます。
そんな荒ぶる天使の軍団を、イエスさまはすぐにでも呼び寄せて身を守ることができました。しかし、あえてそうなさらなかったのです。それは、ここで我が身を守って十字架から逃れてしまえば、人類の罪を赦すという神さまのご計画が台無しになってしまうからです。
ですから、イエスさまはご自分に関しては自衛の手段を封じ、弟子たちにもイエスさまが逮捕されるのを邪魔しないようお命じになりました。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.与えられた使命を全うしよう
イエスを模範として
イエスさまは、神さまの人類救済計画には、ご自分が十字架にかかることが絶対に必要だということを知っておられました。
十字架刑は、数日掛けて罪人を苦しめて死に至らしめる残酷な死刑です。その上、イエスさまが十字架にかかるのは、父なる神さまから罪人として呪われ、関係を断ち切られることです。永遠の昔から父なる神さまと共にいて離れたことがないイエスさまにとって、父なる神さまから切り捨てられることはとんでもない痛み、悲しみ、苦しみです。
そんな肉体的・精神的・霊的な痛みが待っているにもかかわらず、イエスさまはご自分の方から逮捕されに行き、自分のことを守ろうとするペテロの行動もお止めになりました。イエスさまは十字架に「掛けられた」のではなく、ご自分の意志で十字架に「掛かった」のです。
神さまは私たちにも使命を与えてくださっています。
矢部登代子先生
先週のメッセージで、矢部登代子という先生のお話をしましたね。両足が動かなくなって、車椅子にも座れない体になってしまった矢部先生は、人生に絶望して死にたいと思いました。しかし、自分一人では死ぬことさえできません。
そんな矢部先生にもう一度生きる希望を与えたのは、たまたま別の人の病室と間違えてやってきた牧師の言葉でした。
「矢部さん。人は生きているのではなく生かされているのです。そして、生かされている以上、その人には生きる意味があります。使命が与えられているということです。矢部さん、あなたに神さまによって造られ、生かされています。あなたにも生きる意味があり、人生の使命が与えられています」。
立ち直って信仰を持った矢部先生は、自分を救ってくださったイエスさまを他の人にも宣べ伝え、「どんな人にも生きる意味がある」ということを知らせることが自分の生きる意味だと気づかれて、生涯それを実践し続けました。

(画像引用:フォートラベル)
あなた
このメッセージを聴いているあなたも同じです。人生全体を通して実現する大きな使命が与えられています。そして、その時々に神さまが望んでいらっしゃる小さな使命が与えられています。それはイエスさまのように人類の救いのために十字架にかかるということではありませんし、矢部先生に与えられたものとも違うかも知れません。それでも、あなたには生きる意味があり、あなたならではの使命が与えられています。
聖書を読み祈ることによって、またクリスチャンの仲間たちと交わることによって、そして「自分の使命は何だろうか」と意識しながら生活することによって、神さまが私たちに生きる意味、人生の使命を教えてくださいますように。
そして、イエスさまが命をかけてその使命を全うされたように、私たちも何があってもその使命を果たしていこうと決意しましょう。
愛を実現するために
そして、その使命は愛に基づくものでなければなりません。
イエスさまは、常に弟子たちを守り、成長を願って行動なさいました。今回の箇所でも、弟子たちを逮捕から守ろうとして行動なさています。そして、人類の救いのために、私たち人間が本当の幸せを手に入れるために、十字架に自ら進んで掛かられました。
使徒パウロは言いました。
(第1コリント13:1-3)たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
自分の欲望を満足させるためだけの行動になっていたり、自分のすばらしさをひけらかすためになっていたりするなら、その結果、愛を実現しない行動になってしまったとしたら、その行動には意味がありません。
自分がしようとしていることが、他の人への真実の愛に基づいているかどうか、いつもチェックしましょう。そして、愛を実現する行動を選び取りましょう。
自分の生きる意味、人生の使命は何だろうか、それがたとえ明確に分からないという方もいらっしゃるでしょう。しかし、愛を実現しよう、他の人にこの世が与えるのとはまったく違う本当の幸せを体験してもらいたいという思いで行動するなら、それはあなたの人生の使命に沿ったものとなります。
自分が愛を体験することで
イエスさまの生前、弟子たちはイエスさまの教えや行動についてほとんど理解できませんでした。しかし、イエスさまが復活し、昇天し、その後聖霊なる神さまが降ってこられて弟子たちの内に住むようになります。すると聖霊さまは、弟子たちにイエスさまの教えや行動の意味を理解させてくださいました。
弟子たちは、まず自分たち自身がイエスさまに深く愛され、守られ、導かれてきたのだということに改めて気づきました。そして、イエスさまの愛を実感しました。その喜びが原動力となって、弟子たちはイエスさまの愛を多くの人々に宣べ伝え始めます。
単なる決意、単なる使命感では行動が長続きしません。私たちにも、聖霊なる神さまがイエスさまの愛、父なる神さまの愛をもっともっと実感させてくださいますように。そして、感動によって自分に与えられている使命を知り、それを実践できるようにしてくださいますように。
私が今のところ自覚している人生の使命は、「あなたは素晴らしい存在です」ということと「あなたの人生、何があっても何がなくても大丈夫」ということを他の人に伝えることです。なぜなら、「あなたは神さまによって創造された作品であり、イエスさまが命をかけて罪をきよめてくださって、神さまの子どもになったのだから」。
そして、それを知ったのは、私自身がさまざまな失敗の中で落ち込み、それでもそのたびに神さまがイエスさまの十字架の赦しを示してくださり、私のことを愛してくださっていることを確認させてくださったからです。
何度も失敗しましょう。何度も壁にぶつかりましょう。何度も罪責感や無力感や空しさや不安や絶望を味わいましょう。そして、それを通して聖霊さまによってイエスさまの愛、父なる神さまの愛を再確認させていただきましょう。それから、その喜びを原動力として神さまが望まれる生き方を続けましょう。