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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ペテロの否認

イエス・キリストの生涯シリーズ97

ルカによる福音書22章54節~62節

(2024年9月22日)

使徒ペテロが、イエス・キリストのことを「知らない」と3度否認してしまう失敗を犯した場面です。

礼拝メッセージ音声

参考資料

4つの福音書にそれぞれ書かれている、ペテロを問い詰めた人たち。
マタイ マルコ ルカ ヨハネ
1 召使いの女 召使いの女 召使いの女 門番をしていた召使いの女
2 別の召使いの女 同じ召使いの女 ほかの男 人々
3 立っていた人たち 立っていた人たち 別の男 マルコスの親類

イントロダクション

今回取り上げるのは、ペテロがイエスさまのことを三度「知らない」と言ってしまった失敗についての記事です。

ここから、私たちもペテロと同じように弱い存在であり、失敗をしてしまうということ、そしてそんな弱い私たちにイエスさまがどんなふうに接してくださるということを学んで、慰めと励ましを受け取りましょう。

1.ペテロがイエスのことを知らないと3度言う

ペテロが大祭司邸の中庭に行く

イエスについて行ったペテロ
(54節)彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。

ゲツセマネの園で、イエスさまが逮捕されました。この場面については先々週のメッセージで取り上げました。

イエスさまが逮捕されると、弟子たちは逃げ出してしまいましたが、逮捕する人たちは弟子たちには目もくれず、イエスさまを大祭司の官邸に連れて行きました。

そこで、ペテロはイエスさまの後について行きました。ただし、逮捕されることを恐れたのでしょう、距離を取って追跡します。ヨハネの福音書を見ると、もう一人の弟子もついて行ったことが分かります。

(ヨハネ18:15-16) シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入ったが、 ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。

この「もう一人の弟子」というのは、ヨハネの福音書を書いた使徒ヨハネのことだと考えられています。
中庭の火の回り
(55節)人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろした。

腰を下ろしたと書いてありますが、ヨハネ18:18では「立って暖まっていた」と書かれています。この一見矛盾に思える記述はどう考えればいいでしょうか。

現代のテレビなどのニュースや新聞記事でも、事件を紹介する場合に起こったことや登場人物のセリフをすべて紹介したりはしません。何を最終的に訴えたいかという編集方針や、記事の長さによって、紹介する内容を取捨選択しますね。4つの福音書もこれと同様で、同じエピソードについて取り上げても、それぞれ取捨選択が成されています。

以下は私の解釈です。最初ペテロは中庭の焚き火の周りで座って暖まっていました。そして、(後ほど解説しますが)ペテロは後で入口近くに移動します。そこにも焚き火があって、そこではペテロは立って暖まったのでしょう。

ペテロがイエスを否認する

1回目の詰問
(56節)すると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。「この人も、イエスと一緒にいました。」

召使いの女性がペテロを見ました。この女性は、ヨハネ18:17では「門番をしていた召使いの女」と呼ばれています。別の人と門番の役目を交代して中庭にやってきた時、明かりに照らされたペテロの顔を見て、あの人も弟子だと気づいたのでしょう。

そしてこの女性は、「この人もイエスと一緒にいた」と言い始めました。
1回目の否認
(57節)しかし、ペテロはそれを否定して、「いや、私はその人を知らない」と言った。

自分がイエスさまの弟子だと分かれば、自分も逮捕されてしまうかもしれません。そこで、ペテロは慌てて否定します。「私はその人を知らない」。別の福音書では、

(マルコ14:68)ペテロはそれを否定して、「何を言っているのか分からない。理解できない」と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。

慌ててとぼけようとしているペテロの様子が見えるようですね。ペテロは前庭、すなわち入口の近くまで移動しました。

そして、この時鶏が鳴いています。最後の晩餐の時、イエスさまはペテロがご自分のことを「知らない」と三度言うと預言なさいました。それが起こるのは、その夜、鶏が二度鳴く前です。

(マルコ14:29-31)すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」 ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。
この時聞こえた鶏の声は1回目です。この時点で、ペテロはイエスさまの預言を思い出して悔い改めることができました。しかし、ごまかすのに必死だったペテロは、預言を思い出して悔い改めることができませんでした。
2回目の詰問と否認
(58節)しばらくして、ほかの男が彼を見て言った。「あなたも彼らの仲間だ。」しかし、ペテロは「いや、違う」と言った。

入口の近くに移動したペテロは、そこでも男の人から疑いを掛けられました。この場面でペテロに疑いを掛けた人はほかにもいます。別の福音書を見てみましょう。

(マルコ14:69)召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。「この人はあの人たちの仲間です。」

(マタイ26:71)そして入り口まで出て行くと、別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました。」

(ヨハネ18:25)さて、シモン・ペテロは立ったまま暖まっていた。すると、人々は彼に「あなたもあの人の弟子ではないだろうね」と言った。ペテロは否定して、「弟子ではない」と言った。

最初の召使いの女性は、入口近くに移動したペテロを追いかけてきました。そして、そこにいた人たちに「この人はイエスの仲間だ」と言います。すると、近くにいたほかの召使いの女性や男性たちが「確かにそうだ」と同意したり、「弟子ではないか?」と尋ねたりしました。

ペテロはなおも「違う」「弟子ではない」「そんな人は知らない」と必死で否定しました。

(レンブラント作「聖ペテロの否認」)
(画像引用:Wikipedia)
3回目の詰問
(59節)それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」

2回にわたる詰問を何とかごまかしたペテロでしたが、1時間ほどするとまたもやピンチが訪れます。今度は別の男性が現われて、ペテロがイエスさまの弟子だと強く主張しました。そう主張した男性は一人ではなく、複数人いたことが別の福音書から分かります。

(マタイ26:73)しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」

私は週日スクールソーシャルワーカーの仕事をしています。以前、ある発達障がいのお子さんに、いろいろな職種の人たちと協力したときのことです。ある方が、標準語をしゃべっているのですが、ちょっと独特のイントネーションや発音でした。

私は愛媛県の生まれで、大学進学までそこで暮らしていましたが、どうもその方のしゃべり方に瀬戸内海の香りを感じたのです。つまり、愛媛、香川、岡山、広島あたりの雰囲気です。そこで、「もしかして、ご出身は瀬戸内地方ですか?」と尋ねてみると、案の定愛媛県だとおっしゃるではありませんか。

皆さんも、関西地方出身の方と話をすると、「ああこの人、関西人に違いない」とすぐに分かりますよね? イスラエルでも、ガリラヤ地方には独特のなまりがあって、別の地方の人たちにはすぐに分かりました。そこで、人々は「あなたもガリラヤ出身のイエスと同じなまりだから、仲間に違いない」と言ったのです。

そして、この男性たちの中の一人は、イエスさまが逮捕された時にペテロが剣を振るって耳を切り落としたマルコスの親戚でした。

(ヨハネ18:26)大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言った。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」

この親戚の男性も逮捕の現場にもいました。深夜の逮捕劇で、松明の明かりに照らされただけとはいえ、そんな衝撃的な場面でしたからペテロの顔は印象深く覚えてたのです。

これはなかなかのピンチですね。
3回目の否認と鳴いた鶏
(60節)しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。

ペテロはここでも自分がイエスさまの弟子であることを否定しました。マタイやマルコの福音書を読むと、「嘘なら神さまにのろわれてもよい」と誓ってさえいます。これは「もし嘘だったら、神によって殺され、永遠の滅びを受けてもいい」という意味です。それだけ必死だったわけですね。

ただ、この誓いは偽りです。モーセの律法では、神さまを引き合いに出して偽りの誓いをしてはならないと教えられています(レビ19:12)。ペテロはイエスさまのことを知らないと嘘を言った罪だけでなく、この律法に違反する罪も犯してしまいました。

すると、また鶏が鳴きました。この夜2回目の鳴き声です。

ペテロがイエスに見つめられる

振り向くイエスと預言を思い出すペテロ
(61節)主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。

鶏が鳴いた直後、イエスさまがペテロの方を振り向き、ペテロをじっと見つめました。

(カール・ブロッホ作「ペテロの否認」)
(画像引用:光の色彩を求めて)
もしここで「私の言ったとおり、嘘をついて私を否定したな」とペテロに声をかけて叱責したり、自分を尋問している人たちに「ほら、あそこに私の弟子がいる」と声をかけたりすれば、ペテロは捕らえられていたかもしれません。

しかし、イエスさまは何も語りませんでした。ただペテロを見つめただけでした。

ペテロはイエスさまのまなざしを見た途端、最後の晩餐の席でのあの預言を思い出しました。イエスさまは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは私を知らないと三度言う」とおっしゃいました。

しかし、その時自分は何と言ったでしょうか。「たとえ殺されるとしても、そんなことは絶対しません。ほかの弟子があなたを裏切っても、私だけは絶対あなたを裏切りません」と豪語したではありませんか。それなのに、何と言うていたらくでしょう。
泣くペテロ
(62節)そして、外に出て行って、激しく泣いた。

ペテロは、自分の弱さと傲慢さを思い知らされました。そして、自分がやってしまったことを後悔して、外に飛び出すと激しく泣きました。

(ロバート・レインウェバー作「ペテロの否認」)
(画像引用:光の色彩を求めて)
ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.イエスの赦しを味わいながら生きていこう

イエスが私たちの罪を知っていることを確認しよう

今回のペテロの物語は、私たちの物語でもあります。ペテロはイエスさまを愛していました。また、イエスさまに従うことによって困難がやってきても、自分はイエスさまに従い通すと決意もしていました。その思いに嘘はありません。

その証拠に、イエスさまが逮捕されようとした時、ペテロは捕り方の一人に剣で斬りかかりました。また、イエスさまの身を案じて後をついていきました。
湖上歩行
イエスさまが嵐の湖の上を歩く奇跡を起こされたときの話です(詳しくはこちらのメッセージをご覧ください)。ペテロは自分も歩きたいと思い、イエスさまに読んでくださるよう願いました。そして、最初は湖の上を歩けましたが、途中で恐ろしくなって沈みかけてしまいます。

その時もペテロは失敗しました。一方、ほかの11人は失敗しませんでした。船の上にとどまって歩こうとしなかったからです。まさに「失敗しない最も良い方法は、何もしないこと」ですね。

ペテロが失敗したのは、ガリラヤ湖上でも大祭司邸でも、イエスさまに従おうとして行動した証拠です。
両面を持つペテロと私たち
このように、ペテロはイエスさまに対する愛と従う思いを持っていました。それでも彼は、面と向かって「あなたはイエスの弟子だろう」と問われると、恐れのあまり「違う。あんな奴は知らない」と口にしてしまいます。

私たちもペテロと同じように、イエスさまを愛し、イエスさまに従っていこうという思いと共に、弱さも抱えています。

私はクリスチャンになってしばらくは、友だちや学生寮に住む人たちにそのことを言えませんでした。そんなことを言うと、馬鹿にされたり、いじめられたりするのではないかと思ったからです。

というのも、同じ寮に住むクリスチャンの友だちのことを、かつての私やほかの同級生は、「教師になる人間が、進化論を信じないで、神が世界を創造したなどという作り話を信じるのはおかしい」と非難していたからです。

それだけではありません。救われてから今日に至るまで41年4か月17日ですが、その間数え切れないほどの罪や失敗を繰り返してきました。大祭司邸の中庭で慌ててイエスさまを否定したペテロは、私です。
イエスの預言
そして、イエスさまはこの先ペテロが裏切ることを知っておられ、それを預言なさいました。しかも、ペテロが立ち直るようにとりなしの祈りをささげてくださっていました。

(ルカ22:31-32)シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

イエスさまは、ご自分を否定するペテロを、それでも愛し、慈しまれました。ですから、2回目に鶏が鳴いた時にペテロを振り向かれたイエスさまのまなざしは、ペテロを責めるものではなく、慈しみに満ちたいたわりのまなざしでした。

イエスさまは私たちの弱さをご存じです。それでも私たちを愛し、大切に思ってくださっています。私たちは強いからイエスさまに愛されるわけではないし、立派だから愛されるわけでもありません。この弱さや不完全さ、罪深さを抱えたままの姿で愛されています。大切にされています。それを忘れないでいましょう。

私たちが赦されていることを確認しよう

では正義の神さまがどうして、罪深く弱い私たちをそのままの姿で愛してくださるのでしょうか。それは私たちの罪を赦してくださったからです。

本来なら、罪深い私たちには神さまの罰として永遠の苦しみが与えられるはずでした。しかし、その罪の罰をイエス・キリストが身代わりとして負ってくださいました。それが十字架刑です。

そして、「この自分の罪が赦されるために、イエスさまは十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活した」と信じる人は、その赦しを自分のものにすることができます。

それどころか、神さまは私たちをご自分の子どもにしてくださり、永遠に祝福される者としてくださいました。
後悔に終わらない再出発
ペテロは外に飛び出して激しく泣きました。自分の弱さを思い知らされたからです。同様に、ユダもイエスさまが逮捕された後、自分がやってしまったことを後悔しました。2人の違いは、後悔した後の行動です。ユダは絶望して首をつって死にましたが、ペテロは死にませんでした。そして、イエスさまが復活すると、イエスさまに従う人生を再開しました。

聖書が教える悔い改めとは、単に罪や失敗を後悔することではなく、罪を認めて告白したら、イエスさまに従う道に再出発することです。

私たちが罪を犯したことに気づいたとき、すなわちしなければならないことを実行できなかったり、してはならないことを行なってしまったりしたときには、すぐに自分がイエスさまのおかげで赦されていることを思い出して、その罪を告白して赦しを求めましょう。そして、改めてイエスさまが喜ばれる生き方を始めましょう。

それでも私たちは罪を犯し失敗します。しかし、そのたびに繰り返し悔い改めて再出発しましょう。

私たちに赦しを伝える使命があることを確認しよう

イエスさまは、ペテロの失敗の預言の中で、ペテロが立ち直った後の行動についても触れておられます。(ルカ22:32後半)「ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

自分の罪を自覚して悔い改め、イエスさまの赦しを受け取って再出発したペテロには、兄弟たちを力づける使命が与えられました。ほかの10人の弟子たち、そしてそれ以外の約110人の弟子たち、さらにはその後で救われる新しい弟子たちです。

ペテロは手紙の中で次のように語っています。

(第2ペテロ1:13)それを思い起こさせて、あなたがたを奮い立たせることを、私は地上の幕屋にいるかぎり、なすべきだと思っています。

「それ」とは、イエス・キリストによって罪が赦されていること、そしてだから永遠の御国に入ることができるということです。

神さまは伝道の使命を、決して逆らわず失敗もしない天使ではなく、不完全な人間におゆだねになりました。それは、天使は罪を犯したことがないため救いも体験していないからです。

人間だけが、自分の体験として救いについて語ることができます。そして、「私もこのようにあわれみを受け、救っていただき、永遠の祝福を味わう特権を与えられたのだから、あなたの人生も何があっても大丈夫」という励ましを語ることができます。

私たちは自分の弱さと、それを覆い尽くすイエスさまの愛を知っています。ですから、ほかの人の弱さを見たとき、上から目線で批判するのではなく、寛容なまなざしで見つめることができます。ちょうど、あの時イエスさまがペテロをご覧になったように。

聖霊なる神さまが、イエスさまによる赦しの確信と神さまの愛に対する実感を深めてくださいますように。そして、ほかの人を慈しみに満ちた目で見つめ、また救いと将来の希望を語ることができるようにしてくださいますように。

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