本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

十字架 後半

イエス・キリストの生涯シリーズ102

マルコによる福音書15章33節〜39節

(2024年10月27日)

イエス・キリスト十字架にかけられて亡くなるまでの場面のうち、後半の場面です。

礼拝メッセージ音声

参考資料

34節のイエスさまの言葉は、詩篇22:1からの引用です。「エロイ、エロイ」(我が神、我が神)は、当時のイスラエルで語られていたアラム語。マタイの福音書はヘブル語で「エリ、エリ」と記し、詩篇からの引用だということをより明確にしています。

35節の「エリヤ」は、紀元前9世紀にイスラエルの北王国で活躍した預言者です。アハブ王とその妻イゼベルがもたらした異教礼拝に反対して、正しい信仰を取り戻すよう国民に訴え続けました。その過程で、さまざまな奇跡を行ないました。

36節の「酸いぶどう酒」は、ブドウの果汁から作ったワインビネガーを水で割った飲み物です。十字架刑を受けている罪人は、食事はできませんでしたが、水分は適宜与えられました。

38節の「神殿の幕」は、神殿の聖所と至聖所を分けていた分厚い垂れ幕。長さ18メートルで、厚さは10センチもありました。

イントロダクション

イエスさまは、過越の祭りの日の午前9時に十字架にかけられました(25節)。前回のメッセージでは、午前中3時間の出来事を紹介しました。今日は、午後3時間の出来事を解説します。

私たちは過去も現在も未来も、全知全能の神さまによって愛され、守られ、導かれています。ですから、自分は呪われているのではないか、将来大変な目にあうのではないかと恐れる必要がありません。イエスさまの十字架は、そのことを保証しています。

1.午後の出来事

苦しみの最終段階

全地を覆う闇
(33節)さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。

イエスさまが十字架にかけられて3時間後、正午になると闇が全地を覆いました。これが午後3時まで続いたとマルコは書いています。

通常の皆既日食は4分ほどしか続きませんし、天文学的な研究ではこの時(紀元30年4月7日)にエルサレムで日食は起こっていません。ですから、これは超自然的な現象です。

なお、この暗闇については、イスラエルに近いエジプトや小アジアでも報告されています。
わが神、わが神
(34節) そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

十字架にかけられて6時間が経過して、午後3時になりました。

この時のイエスさまは天の父なる神さまに見捨てられた状態です。罪がないにもかかわらず、本来なら全人類が受けなければならない罪の罰を、身代わりにお一人ですべて背負っておられます。

神さまの怒りがイエスさまに注がれ、イエスさまは父なる神さまと切り離され、肉体的にだけでなく霊的にもひどい苦しみを味わっておられます。しかしながら、34節のイエスさまの叫びは、絶望や神さまに対する恨み言ではありません。

このイエスさまの言葉は、ダビデ王が書いた詩篇22:1から引用されたものです。この詩の中でダビデは大変な困難に遭っています。もしかしたら、サウル王または王子アブシャロムに命を狙われて放浪していたときのことを歌っているのかもしれません。

ダビデは、大変な苦しみの中で神さまに助けを求めています。その苦しみは祈っても祈っても解消されることがなく、自分が神さまに見捨てられているかのような感覚に襲われます。

それでも、最終的にダビデは神さまへの信頼を手放しませんでした。この詩篇22篇は、最後は神さまが助けの手を差し伸べてくださるという信仰と、神さまへの賛美で締めくくられています。

イエスさまも、神さまに見捨てられるというひどい苦しみを味わいながら、最終的に父なる神さまが自分との交わりを回復してくださるという希望を捨てておられません。34節は絶望の叫びではなく、イエスさまの信仰告白です。
周りの人たちの誤解
(35節)そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。「ほら、エリヤを呼んでいる。」

周りの人たちは、イエスさまの叫びを誤解しました。エリヤというのは、旧約聖書に登場する預言者の一人で、さまざまな奇跡を行ないました。そんなエリヤに助けを求めているのだと、周りにいた人たちは思いました。
わたしは渇く
(ヨハネ19:28)それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。

イエスさまは、渇きを訴えました。これは単なる肉体的な喉の渇きではありません。神さまに捨てられ、神さまの愛の交わりを失った霊的な渇きです。
差し出された酸いぶどう酒
(36節)すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした。

「わたしは渇く」という言葉を聞いた人が、イエスさまに酸いぶどう酒を差し出しました。酸いぶどう酒というのは、ワインビネガーを水で割った飲み物です。

ヨハネの福音書によれば、この人はローマ兵です。彼は、先ほどユダヤ人たちが「イエスはエリヤを呼んでいる」と話しているのを聞いて、「そのエリヤとやらが助けに来るか見てやろう」と言いながら、飲み物を差し出しました。つまり、なおもイエスさまのことをバカにしているわけです。
完了した
(ヨハネ19:30)イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

イエスさまは、差し出された酸いぶどう酒を飲まれました。これは喉を潤して、残る2つの言葉をはっきりと口にするためです。そして、まず「完了した」と語られました。

この「完了した」と訳されているギリシア語の「テテレスタイ」は、借金の返済が完了して法的な義務がなくなったことを表す言葉です。実際、古代ギリシアの遺跡から、テテレスタイと書かれた請求書の束が見つかっています。
私たち人間には罪があります。罪とは神さまの存在やすばらしさを否定したり値引いたりすること、そして神さまに従わないで自分勝手に生きることです。神さまに対して罪を犯せば、当然さばきを招きます。神さまから見捨てられ、刑罰として永遠の苦しみを味わわなければなりませんでした。

その罪を、人間は自分の力で償うことはできません。もしも、人の罪を赦すために神さまが良い行ないを要求なさるとしたら、その行ないは完璧なものでなければならないからです。99%のできでもダメです。毛ほどの不完全さもあってはなりません。そんな厳しい基準で判断されるのだとしたら、この世の誰も救われないことになってしまいます。

それは、到底返すことができない何億円もの借金を抱えているようなものです。その霊的な借金を、大資産家であるイエスさまが代わりに支払ってくださいました。十字架は、本来私たちが受けるはずだった神さまの怒り、神さまからのさばきを、イエスさまが身代わりに負ってくださった出来事です。ですからテテレスタイ、支払い完了とイエスさまはおっしゃいました。

いったん借金が支払われたら、もうそれ以上取り立てに会うことはありません。それと同じように、イエスさまによって罪が赦されたなら、その後決して罪の罰を受けて永遠の苦しみを味わうことはありません。

イエスの死

最後の言葉
(37節)しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。

イエスさまは最後に大声を上げました。その内容は別の福音書に書かれています。

(ルカ23:46)イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

イエスさまは、神さまのことをいつも「わたしの父」と読んでおられました。ところが、34節では、イエスさまは天の父なる神さまに向かって「わが神、わが神」と呼びかけておられます。イエスさまが父なる神さまからのさばきを味わい、神さまとの親しい親子関係を断ち切られたことを示唆しているようです。

しかし、ここでは再び「父よ」という呼びかけに戻りました。全人類の身代わりとして神さまのさばきを受けるときが完了して、イエスさまは再び神の御子に戻られたのです。

こうして、イエスさまは息を引き取られました。通常、十字架刑にあった人は3日間くらいは生きていました。ところが、イエスさまは一晩中ゲツセマネの園で祈ったり、取り調べや裁判を受けたりしてほとんど一睡もできず、さらには2度に渡ってムチで打たれました。その上、全人類の身代わりとなるというものすごい負担もあって、イエスさまは疲労困憊しておられました。その結果、こんなにも早く亡くなってしまいました。

死の直後の出来事

裂けた神殿の幕
(38節)すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

この「神殿の幕」とは、神殿の中の聖所と至聖所を分けていた垂れ幕のことです。長さは18メートル、厚さが10センチもありました。それが真っ二つに裂けました。
至聖所には神の契約の箱が置かれていて、そこに神さまが臨在を現されました。そして、至聖所に入ることができるのは大祭司だけ、しかも年に1回、「宥めの日」という祭りの儀式を行なうときだけでした。

その幕が裂けたということは、新しい時代がやってきたことを現しています。すなわち、これからは誰でもいつでも神さまと親しく交わることができるようになったということです。

イエスさまが私たちと父なる神さまを結びつけてくださるので、祭司という人間の仲介者はもう必要ありません。私たちは直接神さまに祈ることができます。直接賛美し、礼拝することができます。また、神さまは聖書や祈りを通して、直接私たちに語りかけてくださいます。
地震と聖徒たちのよみがえり
(マタイ27:51-53)地が揺れ動き、岩が裂け、 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。

驚くべきしるしが続きます。まず地震です。この時の地震は、小アジア北西部のビテニアでも観測されており、多くの建物が倒壊したという記録が残されています。

そして、墓が開いてたくさんの信者がよみがえりました。この時は墓から出てこず、イエスさまの復活の後にエルサレムに姿を現しました。この箇所は、2つの解釈が成り立ちます。
  1. 地震が起こって墓が開くと、すぐによみがえり、イエスさまの復活以降に外に出てきた。
  2. 地震が起こって墓が開いたときにはまだよみがえらず、イエスさまの復活以降によみがえって外に出てきた。
どちらにしても、このよみがえりは2日後の日曜日の朝にイエスさまが体験なさった復活や、将来私たちが体験する復活のような、栄光に体に変えられる復活とは異なります。ナインの青年、ヤイロの娘、そしてベタニアのラザロが体験したような元の体への蘇生です。元の体への蘇生ならば、やがてまた死を迎えます。

しかし、将来私たちが栄光の体に復活したならば、二度と死ぬことはありませんし、病気になることもありません。また罪の性質からも解放されます。

今の私たちは罪の罰からは救われていますが、まだ罪の性質が残っています。ですから、失敗したり神さまを裏切ってしまったりします。しかし、復活の体が与えられたら、もう決して罪を犯すことがなくなります。失敗してがっかりしたり、罪責感に苦しんだりすることがなくなるのです。
百人隊長の告白
(39節)イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」

十字架執行を指揮していたローマの百人隊長は、6時間にわたってイエスさまの態度を観察し、さらに天地が暗くなったり地震が起こったりといった現象を体験して、イエスさまのことを「神の子」と評しました。ルカ23:47には「本当にこの方は正しい人であった」と書かれています。
マタイ27:54には「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った」と書かれていますから、他の人たちも同様の感想を持ったということです。

百人隊長が、この時点でイエスさまのことを聖書が教える神の子、すなわち救い主であると信じていたかどうかは分かりません。しかし、少なくともイエスさまが無罪だったということ、そして非常に偉大な人物だったということは認めていました。

そして、おそらく信仰が芽生え始めていたでしょう。勝手な想像ですが、もしかしたら後にクリスチャンになったかもしれません。本当にそうだといいなと思います。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.3つの救いを確信しよう

過去形の救い:もう恐れなくてよい

イエスさまの十字架によって、罪の支払いは完了しました。私たちと神さまを隔てていた罪の壁は取り払われました。神さまは私たちを愛してくださり、祝福してくださっています。私たちは、もう神さまに嫌われるのではないかとか、罰としてひどい目にあうのではないかと恐れる必要がありません。

私が若い頃、何度も何度も同じような失敗、罪を繰り返す自分に、半ば絶望していました。そして、こんな自分は神さまに愛されていない。そのうち見捨てられるかもしれないという恐れにとらわれていました。

そんなとき、関西弁のゴスペルソング「愛はテテレスタイ」という曲に出会いました。「あー、またやってしもうた! それでもあんたクリスチャン?」というフレーズで始まるこの曲は、まさに私のことを歌った歌だと感じました。

この曲の中で、悪魔は主人公に対して「悔い改めたら赦されはするが、そろそろイエスさま、お前なんか嫌いぢゃ!」とささやきます。

しかし、それに対してイエスさまは優しく、そしてしっかりと語りかけます。「嫌いになるはずあらへんで。髪の毛一本さえ覚えて愛してるよ。この世のすべての宝より、お前のいのちが大事やねん。私の十字架はテテレスタイ!」

イエスさまのアイはテテレスタイ。支払い完了です。もう神さまに嫌われ、呪われ、罰を受けるなどと恐れなくてかまいません。ですから……

現在形の救い:すべて神の計画だと信じてよい

今この瞬間、私たちは神さまの愛にどっぷりと浸かっている状態です。私たちは神さまに愛され、祝福されています。

しかし、あなたは、そんなこと信じられないと思えるほど、つらくて苦しい状況に置かれることがありませんか? そんなあなたに向かって、聖書は次のように語ります。

(エレミヤ29:11)わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

この預言は、どんなときに語られた言葉だと思われますか? イスラエルがバビロンによって侵略され、多くの人々が殺され、あるいは奴隷として捕囚されるという大変不幸な状況下で語られた神さまからのメッセージです。

また別の箇所ではこう言われています。

(ローマ8:28)神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
神は、愛以外の動機で事を行なうことはない
今あなたがどんな状況にあったとしても、それは神さまの愛の計画の内です。神さまは愛以外の動機で事を行なわれることはありません。今、この言葉を口に出して語ってみましょう。「神さまは、愛以外の動機で事を行なうことはない」。

今日の礼拝式は、亡くなったメンバーの方を思い起こす、召天者記念礼拝でもあります。2018年に召天なさったYさんは、子どもの頃から色々つらい経験をしてこられました。そんな苦しみの中でイエス・キリストに希望を見いだし、恵みの福音を信じて救われます。
  • 恵みの福音とは「この私の罪を赦すために、イエスさまは十字架にかけられた。そして、死んで葬られたけれど、3日目に復活なさった」ということです。これを真実だと信じ、受け入れることで、本当に罪を赦され、神さまの子どもとされ、永遠の祝福を受ける者とされます。
ただ、クリスチャンになったからといって、問題が消えてなくなったわけではありません。そして、何度も涙を流してこられました。それでも最後には、「自分は全知全能の神さまに愛され、守られ、導かれているのだから大丈夫だ」という所に戻ってこられました。

私たちも、全知全能の神さまによって愛され、守られ、導かれています。ですから、どんな状況でも神さまに感謝し、神さまをほめたたえましょう。

賛美とは、神さまやイエスさまのすばらしさを何かの形で表現することです。必ずしも音楽や歌でなくてもかまいません。たとえば、神さまやイエスさまのすばらしいところを紙にリストアップしてみましょう。そしてそれを読み上げてみましょう。それも立派な賛美です。

逆境の中の賛美や感謝は、あなたを引き上げ、力づけるはずです。

未来形の救い:これからも大丈夫だと期待してよい

神さまの愛は、過去と現在にとどまらず、永遠にあなたを覆います。神さまの救いを受け入れた人は、死んで終わりではなく、永遠に続く祝福された人生を約束されています。

しかも、死んだ後のパラダイスで初めて祝福されるのではなく、この地上生涯においても多くの祝福を味わうことが約束されています。
祝福のリスト
イエス・キリストの弟子たちも、そして後の時代の多くのクリスチャンたちも、イエスさまを信じた後、その人生が全く新しく造り変えられていきました。弟子たちは次のような変化を経験しました。
  • いつも喜びに満たされ、心から神を礼拝していました。
  • クリスチャン同士、一緒に集まり、励まし合い、助け合っていました。
  • 人格が次第に麗しいものへ造り変えられていきました。
  • 単に悪いことをしなくなっただけではなく、良いこと、特に他の人や社会に対する愛を表し始めました。
  • 自分を救ってくれたキリストを、他の人にも積極的に紹介し、キリストによって人生が造り変えられる人々が増え広がりました。
これらは、私たちの教会、中通りコミュニティ・チャーチが世の人々に提供したいと考えている新しい人生でもあります。

神さまは、ホームページでこのメッセージを読んでくださっているあなたの人生も、新しく造り変えて下さいます。ぜひ中通りコミュニティ・チャーチにお越しください。あるいはお近くのキリスト教会においでください。

今週も、イエスさまのテテレスタイの愛が豊かに体験できますように。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com