(2024年11月24日)
イエス・キリストを裏切ったペテロが、復活のイエスによって再び神の働き人として再出発する場面です。
礼拝メッセージ音声
参考資料
イエスさまとペテロの愛に関する問答で、イエスさまが尋ねた最初の2回の「愛する」は、ギリシア語でアガパオー(アガペーの動詞形)が使われており、ペテロの答えと3回目のイエスさまの質問ではフィレオー(フィリアの動詞形))が使われています。アガペーは無条件の愛、一方的な愛を表し、フィリアは家族や友人など親しい者に対する愛を表します。
しかし、イエスさまとペテロはギリシア語ではなくアラム語を話していたわけですから、あまりこの区別に意味はないでしょう。17節の「イエスが三度愛しますかと言われた」の所には、フィレオーが使われていますし。
15節で、シモン・ペテロは「ヨハネの子シモン」と呼ばれています。一方、マタイ16:17では「バルヨナ・シモン」(すなわちヨナの子シモン)と呼ばれています。ペテロの父親の名がヨハネ、あるいはヨナだったということです。当時のユダヤ人が複数の名を持つことは珍しくありません。
イントロダクション
前回、イエスさまがガリラヤ湖で7人の弟子に大漁の奇跡を体験させた記事を取り上げました。大漁の奇跡は、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネがフルタイムの弟子になったときに体験した奇跡と似ています。弟子たちは、イエスさまが逮捕されたときに、イエスさまを見捨てて逃げ出してしまいました。そんな弟子たちにとって、2度目の大漁の奇跡は、弟子として再出発を許された体験でした。
今回はその続きです。イエスさまはペテロと個人的に対話をなさいました。ここから、私たちの人生が成功するための武器を受け取りましょう。
1.イエスとペテロの問答
わたしを愛していますか
1度目の問い
(15節前半)彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」
弟子たちは、ガリラヤ湖で復活のイエスさまと再会しました。イエスさまは弟子たちに食事を用意し、食べるよう促されます。そして、その食事が終わった時、イエスさまはペテロに話しかけました。
20節を見ると、別の弟子がついてきたということが書かれていますから、イエスさまはペテロだけ連れ出し、少し離れたところで話をなさったようです。
イエスさまはペテロに「この人たち(つまり他の弟子たち)以上にわたしを愛しているか」とお尋ねになりました。この言葉は、最後の晩餐の時のイエスさまとペテロのやりとりを思い出させます。
(マタイ26:31-35)そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」
ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。
ペテロは、「他の弟子たち以上に私はあなたを愛していますから、裏切るなんてとんでもないことです」と主張しました。ところがイエスさまの預言通り、ペテロはイエスさまが逮捕され、「お前もあの人の弟子だろう」と詰め寄られると、「あんな奴は知らない」と3度答えてしまいました。
その事実を改めて突きつけられた思いがして、ペテロの心は痛んだことでしょう。
1度目の返答
(15節中盤)ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
ペテロは心を痛めたでしょうが、これはやり直しのチャンスでもあります。イエスさまのことを知らないと言う失敗をしましたが、自分がイエスさまを敬愛していることを改めて示す機会が巡ってきました。そこでペテロは「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。
イエスさまは「この人たちよりも愛するか」と、他の弟子たちと比較して尋ねていらっしゃいます。最後の晩餐で「皆がつまずいても、私だけはつまずきません」と言ったかつてのペテロだったら、「他の弟子より愛しています」と答えたでしょう。しかし、このたびのペテロは他の弟子と比較せず、「はい、主よ」と自分自身の思いを語るだけでした。
しかもペテロは、自分がイエスさまを愛していることについて、「私はあなたを愛しています」と言い切っていません。「あなたはご存じです」と、持って回ったような言い方をしています。自信に満ちあふれていた以前のペテロと違って、謙遜な思いにさせられていることが分かりますね。
1度目の命令
(15節後半)イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
返答したペテロに、イエスさまは命令なさいました。子羊を飼うとは、間もなく誕生する教会に属する人たちを牧会しなさいということです。すなわち、救われたクリスチャンたちを教育、訓練したり、慰め、励ましたりして、その成長を助けるということです。
かつて、ペテロを含む十二使徒、またそれ以外の72人の弟子たちは、イスラエル各地に派遣されました。それは、多くの人々にイエスさまこそ旧約聖書が登場を約束していた救い主だということ、だから神の国の実現も近づいたということを語り広めるためでした。すなわち、人々を救いに導く使命を帯びていました。
ところが今や、ペテロには救われた人たちを養い育てる使命も与えられました。失敗したペテロを元の任務に戻すだけでなく、新たな働きの場を与えてくださったわけです。
2度目の問答
(16節)イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
2度目も同じようなやり取りが繰り返されています。違いは、イエスさまも他の弟子たちと比較して尋ねていらっしゃらないということです。
3度目の問答
(17節)イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
イエスさまは3度同じ質問をなさいました。それでペテロは心を痛めました。3度自分がイエスさまのことを知らないと言ったことが、嫌でも思い出されるからです。
配偶者や恋人に、「ねぇ、私を愛してる?」「ホントに愛してる?」「ホントにホントに愛してる?」と何度も尋ねられたら、自分の愛を疑われているのかと感じて悲しくなりますね。ペテロも、まだイエスさまに信用していただいていないと感じて心を痛めたことでしょう。
しかし、イエスさまはペテロを疑って3度尋ねたのではありません。また、ペテロの過去の失敗を責めるためでもありません。ペテロが3度「知らない」と言ったため、3度やり直しをさせてくださるためです。
ペテロの未来
ペテロへの預言
(18-19節前半)まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。
続けてイエスさまは、ペテロの将来について預言をなさいました。それは、ペテロが年を取った頃、彼は逮捕されてしまうというものです。それはペテロが殉教の死を遂げるということを表しています。
教会の伝承によると、ペテロが亡くなったのは今回のエピソードから37年後、紀元67年のことです。皇帝ネロによる迫害の中で捕らえられ、十字架に上下逆さまの体勢でつけられて殺されたと言われています。
過酷な命令
(19節後半)こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
それからイエスさまは、ペテロに「わたしに従いなさい」とおっしゃいました。迫害と殉教という過酷な未来が待っているけれど、それでも従ってきなさいと。どうしてそのような厳しい命令ができるかと言えば、クリスチャンの将来には希望もまた用意されているからです。
クリスチャンは死んでも、その魂は天のパラダイスに招き入れられ、つらい地上での苦しみを補ってあまりあるほどの深い安らぎを味わいます。それから復活の体が与えられ、イエスさまと共に地上に戻ってきて、千年王国(神の国、天の御国)でワクワクするような充実した生活を送ります。そして、千年の終わりにできる新しい天地に移され、永遠に続く祝福を味わいます。
千年王国では、地上で生きているときに行なった良い行ないがすべて神さまに憶えられていて、報酬として追加の祝福が与えられます。迫害の中で信仰を守り通し、イエスさまに従い続けることもまた、千年王国でのボーナスとなります。たとえば黙示録には次のように書かれています。
(黙示録2:10)あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。
また後に、ペテロ自身が将来に与えられる祝福の希望について語り、迫害のまっただ中で苦しんでいるクリスチャンたちを励ましています。
(第1ペテロ1:13)ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
そうやって他の人を励ますことは、最後の晩餐でペテロが裏切ることを預言なさった時に、イエスさまがペテロに語られたことでもあります。
(ルカ22:32)しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
イエスさまがあらかじめ祈ってくださったことにより、またガリラヤ湖での2度目の大漁の奇跡や、今回の語りかけのおかげで、ペテロは再出発の道を踏み出したのです。

カラヴァッジョ作「聖ペテロの磔刑」(1601年)
(画像引用:)
ヨハネの未来
ついてくる他の弟子
(20節)ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
「イエスが愛された弟子」とは使徒ヨハネのことです。そのヨハネが、イエスさまとペテロの後をついてきていました。
ヨハネについてのペテロの問い
(21節)ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
自分の将来について預言されたペテロは、ヨハネの未来について尋ねてみました。
イエスの回答
(22節)イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
ヨハネについて尋ねたペテロに対して、イエスさまは「仮に、わたしが再び地上に戻ってくる再臨の時までヨハネが生き続けることをわたしが望み、それが実現したとしても、それはあなたには関係ないことだ」とおっしゃいました。
確かに、ヨハネが殉教の死を迎えてもそうでなくても、長生きしても早死にしても、ペテロが迫害に遭って殉教することとは関係ありません。
そしてイエスさまはペテロに、「あなたは、わたしに従いなさい」と命じました。すなわち、「他の人がどうであっても、あなた自身は迫害を耐え忍び、イエスさまに従い通すことに集中しなさい」とお命じになります。
誤解の訂正
(23節)それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。
ここで福音書を書いたヨハネが、おもしろいコメントを残しています。
イエスさまがペテロに語られた言葉を伝え聞いて誤解した人たちが、ヨハネは再臨まで死なないと噂するようになりました。他の使徒たちが次々と殉教していく中で、ヨハネだけは長生きしましたから、ますますその噂が真実味を持って広まったのでしょう。
そのような噂に対して、イエスさまは「仮にヨハネが再臨まで死なないとしても」とおっしゃったのであって、「死なない」とおっしゃったわけではないとヨハネは記しています。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.自信のなさを武器にしよう
力は神から来ることを知ろう
この世の成功哲学は、成功したければ自信を持てと教えます。たとえば、何度も「自分にはできる」と唱えなさいなどと。しかし、十字架と復活以前のペテロは自信に満ちあふれ、「私にはできる」と言いましたが、結局失敗してしまいました。
一方、今回のペテロは、自信を完全に打ち砕かれていました。イエスさまも、3度も「わたしを愛するか」と尋ねて、過去の失敗を思い起こさせ、ペテロの自信のなさをわざわざひどくするようなことをなさっています。実は、ここが重要なポイントです。
この世では自信がないと成功しないのかもしれませんが、信仰の世界においては、自信がないことが成功の秘訣なのです。なぜなら、信仰の世界における成功は、創造主であり全知全能である神さまの力によって成し遂げるものだからです。
イエスさまの復活後、ガリラヤ湖で漁に出かけたペテロたちは、一晩中働いても小魚一匹捕ることができませんでした。しかし、イエスさまの言いつけ通りに網を打つと、153匹の大きな魚をとることができました。このことも、神さまのお働きは神さまのお力によって成し遂げるものだということを表しています。
もしも、私の努力や工夫によって何かすごいことが成し遂げられたのなら、ほめたたえられるのは私です。しかし、私が無力であって、神さまの助けによって何かを成し遂げられたのなら、ほめたたえられるのは神さまです。
クリスチャンの成功とは、私たちがほめられることではありません。私たちが自己実現することでもありません。クリスチャンの成功とは、父なる神さま・救い主イエスさま・聖霊なる神さまの栄光(すばらしさ)が明らかになり、神さまがほめたたえられることです。
パウロの体験
パウロも手紙の中で、自分には弱さがあると語っています。それは体の障がいのことなのか、あるいは迫害の苦しみのことなのかは分かりません。パウロはその苦しみを取り除いてくださるよう祈りました。そして、その弱さについて次のように言いました。
(第2コリント12:9)しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
成功の力は私たちから来るのではなく、神さまから来ることをいつも覚えておきましょう。
神による回復を受け取ろう
自分自身の力や知恵により頼むのではなく、神さまに依り頼む姿勢は、イエスさまのおかげで失敗から回復していただいたという体験から生まれます。
ペテロは3度「イエスなんて奴は知らない」と言いましたが、イエスさまによって赦され、再出発させていただきました。そんな恵みを体験したからこそ、多くのクリスチャンたちを慰め、励まし、育てることができました。
パウロは、教会を迫害し、多くのクリスチャンたちを逮捕したり死刑にしたりしました。しかし、イエスさまによってその罪を赦され、イエスさまのために働く新しい人生をスタートすることを許されました。そんな恵みを体験したからこそ、多くのクリスチャンたちを慰め、励まし、育てることができました。
私たちが他の人を救いに導いたり、弱っている人を慰め、励ましたりできるのはなぜでしょうか。私たち自身が、罪や失敗や不完全さを赦され、何度も何度も再出発させていただく体験を繰り返してきたからです。私たちは弱いからこそ、他の人を慰め、励まし、救いに導くことができます。
かつて非行少年だったAさんは、盗みを働いたり、人を傷つけたり、薬物にはまったりしてきました。しかし、救われてから多くの非行少年を更生させる働きをしています。
かつて離婚を経験したBさんは結婚カウンセラーとなり、聖書に基づく夫婦関係について教えています。
私たちの弱さ、私たちの失敗体験はいらないものではありません。それこそが私たちクリスチャンに与えられている武器です。そのことをいつも忘れないでいましょう。
神による回復を何度も体験しよう
今回このように回復を体験し、新たな使命まで与えられたペテロですが、その後の信仰生活が完全無欠だったかというとそんなことはありません。新たな失敗もしています。
(ガラテヤ2:12-13)ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました。
ケファというのはペテロのことです。割礼派というのは、「異邦人が救われるためには、イエス・キリストの十字架と復活を信じるだけでは不十分で、割礼を受けてモーセの律法に従う誓約をして、ユダヤ人のようにならなければならない」と主張する人たちです。
モーセの律法はユダヤ人と異邦人の接触を厳しく制限していましたから、ユダヤ人は異邦人と一緒に食事をすることを避けました。ところが、イエスさまの十字架によってモーセの律法は役割を終えたため、教会時代にはユダヤ人と異邦人が親しく交わるようになりました。
その先鞭を付けたのはペテロです。イエスさまから幻を見せられたペテロは、ローマ人であるコルネリウスの家に行って彼とその家族を救いに導きました。そして、数日間コルネリウス家に滞在し、食事も一緒にしました。そのために一部の仲間から批判されましたが、このことはイエスさまのみこころであると宣言しています(使徒10-11章)。
ところが、このたびは割礼派の人たちからの批判を恐れたのでしょう。異邦人との交流を控えるようになりました。そのため、パウロから直接その態度を非難されています。
パウロから叱られた際のペテロの反応については記されていません。しかし、ガラテヤ書の後に書かれたペテロの2通の手紙を読むと、彼が悔い改めて、再びイエスさまの教えに忠実に生きるようになったことが分かります。
そして、先ほども申し上げましたが、ペテロは死に至るまでイエスさまに忠実に従いました。
ドミネ・クオ・ヴァディス
これも伝承ですが、ローマで皇帝ネロの迫害が激しくなると、仲間たちの勧めでペテロはローマを脱出しました。ところが、その道中でイエスさまと出会います。ペテロを無視して通り過ぎようとするイエスさまに向かって、ペテロが「主よ、どちらに行かれるのですか?」(ラテン語でドミネ・クオ・ヴァディス)と尋ねると、イエスさまは「私は再び十字架にかかるため、ローマに行く」とおっしゃいます。
そこでペテロは、迫害の中で苦しむ信徒たちを励ますことこそ自分の使命だと再確認して、ローマにとって返します。その結果、捕らえられて殉教してしまいますが、ペテロの励ましによって多くのクリスチャンたちが希望を持って迫害を耐え忍び、また殉教していきました。

アニバレ・カラッチ作「ドミネ・クオ・ヴァディス」
(画像引用:KUADORS)
私たちは弱い者です。失敗する者です。しかし、それこそが私たちクリスチャンの武器です。なぜなら、私たちが弱く、失敗するものだからこそ、イエスさまによる恵みの力が輝くからです。
失敗したなと思ったときは、すぐに悔い改めて赦しを受け取り、再出発しましょう。そのような体験を通して神さまが力を発揮してくださり、神さまのすばらしさに私たちも周りの人たちも感動することができます。
今週も、ペテロのように再出発の感動を何度も味わいましょう。