(2025年1月12日)
ペテロとヨハネが、神殿の美しの門で生まれつき足が不自由な人をいやした記事の解説です。
礼拝メッセージ音声
参考資料
2節の「美しの門」は、神殿の異邦人の庭と婦人の庭を隔てる壁の、東側に設置された門のことだと考えられています。
エルサレムの町に入るための黄金門、あるいは神殿の婦人の庭からイスラエルの庭に入るためのニカノル門のことだという説もあります。
イントロダクション
ペテロとヨハネは、生まれつき歩けない男性をいやしました。その結果、自立することができるようにしました。私たちも、他の人たちをいやし、励まし、慰め、助けたいですね? この箇所から、他の人への真の援助について学びましょう。
1.歩けない人のいやし
舞台
午後3時の祈りの時間
(1節)ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
使徒ペテロとヨハネが、祈りのために神殿にやってきました。今回の記事はここから始まります。
当時のエルサレム神殿では、朝9時と午後3時の1日2回、いけにえがささげられました。そして、この時間に合わせて、イスラエルの人たちは神殿や会堂(シナゴーグ)で祈りをささげました。また、これに加えて、多くのユダヤ人が正午にも祈りました。
初期のクリスチャンたちは、全員ユダヤ人です。そして、自分たちがユダヤ教を離れて新しい宗教を起こしたなどとは考えていません。ですから、明らかにイエスさまの教えに反しない限り、これまで通りの習慣を続けています。毎日の祈りの時間を守ることもそうでした。
いやし前
美しの門
(2節)すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
神殿は何重にも壁が張り巡らされていて、入ることができる人を区別していました。
- 中央の建物は聖所で、祭司が香をたくなどの奉仕のために入りました。特に一番奥の至聖所は、大祭司が年に一度だけ儀式のために入ることが許される場所です。
- その周りがイスラエルの庭で、ユダヤ人の男性だけが入れました。
- その手前が婦人の庭で、ユダヤ人だけが入れました。異邦人は入ることができません。
- 一番外側が異邦人の庭で、ここには誰でも入れました。
今回の舞台である「美しの門」は、異邦人の庭と婦人の庭をつなぐ門だと考えられています。
そこに、生まれつき足が不自由で歩くことができない人が連れてこられました。それは物乞いをするためです。
当時は今ほど福祉が発達していませんから、障がいがあると働き口がほとんどありませんでした。そこで、実家が相当お金持ちでもない限り、障がいのある人は物乞いをして生活していました。
モーセの律法は、生活に困っている人に対しては積極的に助けの手を差し伸べるよう勧めています。たとえば、
(申命記15:11)貧しい人が国のうちから絶えることはないであろう。それゆえ私はあなたに命じる。「あなたの地にいるあなたの同胞で、困窮している人と貧しい人には、必ずあなたの手を開かなければならない。」
そこで、この人は人通りの多い「美しの門」に陣取って、礼拝に来た人たちから施しを受けようとしているわけです。といっても、彼自身は歩けませんから、家族なり友だちなりが毎日運んでやっていました。
ペテロとヨハネへの呼びかけ
(3節)彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
足の不自由な人は、祈るために神殿にやってきたペテロとヨハネを見つけると、施しをしてくれるよう願いました。ただ、たくさんの人たちが門の前を行き来していたはずですから、この人はペテロとヨハネにだけ施しを求めたわけではありません。
ペテロの返答
(4節)ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
ペテロとヨハネの2人が登場していますが、ここではペテロが主役です。ペテロは、自分たちに施しを求めてきた人が歩けないのを見ました。そして、自分たちのことを見るようにと言いました。これは、自分たちがこれから語ることをしっかりと聞くようにということです。
歩けない人の期待
(5節)彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
ペテロとヨハネは、この男性の求めに応じて声をかけてくれました。そこでこの人は、お金をくれるだろうと期待して2人を見つめました。
いやしの宣言
(6節)すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
この時点で、歩けないこの人は、自分が障がいをいやしてもらうなどとは毛ほども期待していません。この人が求めていたのは施し、つまりお金です。 しかし、ペテロは「金銀は私にはない」と言います。この男性はきっとがっかりしたことでしょう。
しかし、続けてペテロは「お金の代わりに、自分が持っているものをあげよう」と語り、さらに驚くべきことを言います。それは「立ち上がって、歩け」という言葉です。つまり、施しをしてくれる代わりに、そもそも施しを受けなくても生活できるように、いやしてくれるというのです。
しかも、「立って歩け」という命令は、「ナザレのイエス・キリストの名によって」行なわれました。これは、いやしをもたらしてくれるのがペテロ個人の能力によるのではなく、イエスさまの権威によってだということを表しています。

ニコラ・プッサン作「ペテロとヨハネ、足の不自由な人を癒す」
(画像引用:光の色彩を求めて)
いやし後
いやされた人の様子
(7-8節) そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
ペテロは、この男性の右手を取ると、それを引き上げて立たせようとしました。この人には生まれつき歩く力が無いのですから、普通ならそんなことをされても立つことなどできません。
しかし、この人は立ち上がりました。立ち上がる力が与えられたからです。しかも、ただ立っただけでなく、この人は歩き出し、飛んだり跳ねたりし始めました。
それから、この人は、ペテロとヨハネと共に門をくぐって婦人の庭の方に入っていきました。一緒に神さまを礼拝するためです。
人々の驚き
(9-10節)人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。
4:22を見ると、この人が40歳を過ぎた年齢だったということが書かれています。ですから、この人はずいぶんと長い間このような生活を続けていたのでした。
そのため、神殿にやってくる人たちにとって、この男性はよく知られた存在でした。
その歩けない人が神さまをほめたたえながらぴょんぴょん飛び跳ねているのを見て、大変驚きました。
5千人の救い
この後どうなったでしょうか。驚いている人たちに向かって、ペテロがメッセージを語りました。ペテロは歩けない人が歩けるようになったのは、自分たち弟子の力によるのではなく、イエス・キリストのお名前によるのだと言いました。そして、あなたたちも悔い改めてイエス・キリストを信じ、罪を赦していただきなさいと勧めます。
その結果、男性だけで5千人がその日救われました(4:4)。もちろんその中には、いやされて歩けるようになった人も含まれます。この人は、ただ体をいやされただけではなく、魂の救いというプレゼントまでイエスさまからいただくことができました。

ラファエロ作「歩けない人のいやし」
(画像引用:Wikipedia)
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.真の援助者となろう
私たちもペテロのように、他の人を助けることができ、共に喜びを分かち合うことができます。6節のペテロの言葉から、私たちが真の援助者になるための心構えを教えていただきましょう。
あるものをあげよう
愛とは、持たないものではなく、持っているものをささげることです。
ペテロは、お金を持っていませんでしたから、お金を上げることはしませんでした。代わりに、いやしの力を持っていましたから、男性をいやしてあげました。
では、いやしの力を持たない人はどうしたらいいのでしょうか。ペテロたちのようにできないことを嘆く必要はありません。他の人と比較して、自分はあんなふうに人を助けることができないと、自分を責める必要はありません。
喜んで行なう気持ち
聖書にはこう書かれています。
(第2コリント8:12)喜んでする思いがあるなら、持っていないものに応じてではなく、持っているものに応じて受け入れられるのです。
大切なことは、喜んで行なう気持ちを持つこと、すなわち神さまや他の人のお役に立ちたいという自発的な思いを持つことです。それがあれば、あとは自分の持っているものを使って、神さまや人のお役に立つことを考え、そして実践するだけです。
ないものでなく、あるものに目を留める
ないもの、すなわち、自分が持っていないもの、不十分な状況、不利な面などに目を向け始めると、援助に限らず、仕事でも勉強でもスポーツでも、何もできなくなります。
自分が持っていないものに目を留め、それを嘆いたとしても、状況が変わるわけではありません。そんな魔法は働きません。その欠けているところをどう補うか、あるいは、とりあえず手持ちの駒で何ができるかを考え、行動していくとき、人生に奇跡が始まるのです。
知り合いで、四つ葉のクローバーを見つける名人がいます。秘密を聞くと、「このエリアに必ずある」と信じて探すのだそうです。あると思って探せば、私たちの中には他の人を助けるための何かが必ずあります。
たとえば
私は内向的な性格なので、出て行って直接人と接するのは苦手ですが、オタク体質という宝を持っています。それを生かしてインターネットで人を勇気づけるような話を発信しています。
ある人は、押し花が趣味です。そこで、押し花に聖書の言葉を添えた栞を作ってたくさんの人に配っています。
別の人は、料理が趣味です。それを生かして、子ども食堂のお手伝いを始めました。
この話をお読みください。
入院中のおばあさんは、ご自分の死期が近いことを知り、すっかり自暴自棄になってしまいました。看護師や同部屋の人たちに対して、横暴に振る舞ったり、医者の指示を無視したり……。自分はもうすぐ死ぬのだ。そう思ったら、生きる意欲がすっかりなくなってしまったのです。
しかし、ある朝病室の窓から何気なく外を眺めていると、何人ものビジネスマンや学生たちが、とぼとぼとうつむいて出勤・登校していく姿が見えました。彼らは体は元気なはずなのに、自分と同じように人生に絶望しているように見えます。
次の朝、おばあさんは看護師さんに頼んで、車いすに乗せてもらいました。そして、病院の門のところに行き、前を通るビジネスマンや学生たちに、「おはようございます」「今日も元気で行ってらっしゃい」と、笑顔で声をかけました。次の日も、また次の日も、おばあさんは門のところであいさつを続けました。最初は怪訝そうに見返すだけだった人たちも、にこにこと笑顔で返事を返してくれるようになりました。
おばあさんの病室での態度は一変しました。すっかり元気を取り戻し、治療にも協力的になり、同室の患者や看護師に対しても優しい心遣いを見せるようになりました。そして、医者の余命予想の2倍も長生きしたのです。
今のあなたにも、あなた自身や他の人を幸せにする力と材料がすでに備わっています。ないと思わないで、あると思って探しましょう。あなたも、すばらしいことを行なうことができます。
イエス・キリストの名によって
時代劇でこんな場面を見たことがありますか? 普段は下っ端の役人で、下座に座るべき人でも、殿様からの書状を読み上げる際には、上座に座って読み上げ、家老など重役一同が平伏してそれを聞く……という場面です。
この場合、人々は、読み上げる役人に頭を下げているのではなく、彼が殿様の代理人として語っているので頭を下げているのです。つまり、役人本人ではなく、殿様の権威に対して平伏しているわけですね。
誰かの名によって語るというのは、その誰かの権威を借りて命じたり、指示をしたりするということです。
ペテロ自身には、障がいや病気をコントロールする力はありませんでした。しかし、イエスさまにはあります。ペテロは、そのイエスさまの代理人として、障がいを縛り、いやしたのです。
あなたも、「〜してください」と神さまに求めるだけでなく、祈りの中で、困った状況に対して、「キリストの名によって、〜せよ!」「〜になれ!」と、大胆に(偉そうかなと思うくらい)宣言してみてください。
キリストが働く余地を残そう
イエスさまは私たちの主なのであって、私たちの奴隷ではありません。ですから、いつでも私たちの期待通りに奇跡が起こるわけではありません。そこで、絶対に奇跡が起こるという前提で人生を計画するわけにはいきません。
しかし、逆に「奇跡などあり得ない」と思いこむのもやめましょう。イエスさまは、いつでも奇跡を行なうことができるし、知恵に満ちた摂理のわざによって、物事を私たちの幸せの方向に導いてくださいます。
いつもイエスさまに祈り、イエスさまの不思議な介入があることを期待し、また一瞬一瞬イエスさまの導きがあることを信じていましょう。
歩きなさい
この話をお読みください。
インターナショナル・ウォーター・プロジェクト(IWP)は、機械を使わない「上総掘り」と呼ばれる井戸掘りの技術を、発展途上国に伝える働きをしています。
他の国による援助では、外国の技術者が機械を使って井戸を掘ります。その結果、きれいな水を汲むことができるようになりますが、メンテナンスをする人がいないために、やがて井戸が使えなくなってしまいます。
しかし、WIPは「井戸を掘ってあげる」のではなく、現地の人たちが自分たちで井戸を掘り、保守管理できるように指導しています。その結果、掘り上がった井戸は持続的に使えるようになります。そればかりか、上総掘りの技術を持った人たちが別の村に出かけて、そこの人たちに技術を伝えるようになっているのです。
「魚を与えるのではなく、釣り方を教えよ」と言われます。もちろん、目の前の人が空腹のあまり倒れそうなら、まず食糧を与える必要があります。しかし、それだけでなく生きるための力を与えるところまで行なってこそ真の援助と言えるでしょう。
「飢えている人に魚をあげれば食べて満腹する。しかし、魚の釣り方を教えれば一生食うに困らない」ということわざがあります。
ペテロも、歩くことができず、そのために物乞いをするしか生きる術を持たない人に対して、魚を与える代わりに魚の捕り方を与えました。すなわち、歩くことができるようにしてもう物乞いをしなくても生活できるようにしたのです。
援助しない援助
もちろん、おなかをすかせて死にそうな人の場合には、当座の助けとして魚を与えることも必要です。
しかし、場合によっては、援助することが相手の甘えを引き出し、かえって自立を邪魔してしまうことがあるということも知っておく必要があります。そのような場合には、安易に助けの手を差し伸べないことがその人のためになることもあるのです。
私はスクールソーシャルワーカーという、学校に出入りする援助職にも就いています。不登校のお子さんがいる保護者と面談する際、よく次のような話をしています。それは、「せっかく休んでいるんだから、家の手伝いをしてもらいましょう」という提案です。
たとえば、家事を分担してもらうとか、農家さんだったら昼間に農作業を手伝ってもらうとか。そうすることで、何かを成し遂げる喜び、誰かに感謝される喜びを知って、精神的に強くなっていきます。
まず自分が自立する
あるお母さんは、ニートの息子さんに悩んでいました。息子さんは高校生の時に不登校になり、その後ずっと働けないでいたのです。そこでお母さんは、息子さん求められるまま小遣いを与えていました。
しかし、あるときこれでは逆効果だと悟りました。自分は、息子に働いてほしいと願いながら、実際には働かなくてすむ環境を整えているじゃないかと気づいたのです。
そこで、意を決して「自分たちの老後の生活が心配だから、もう小遣いはやれない。むしろ、あなたがわずかでも生活費を入れてほしい」と願いました。その結果、息子さんは外に働きに出るようになったのでした。
ただし、決断してすぐにお願いできたわけではありません。いざ息子さんを前にすると、かわいそうになって何も言えず、求められるまま小遣いを渡す日々がしばらく続いたそうです。
そして、ようやく気づかれました。「自立していないのは、息子ではなく私の方だった」と。そこで、自分でも祈り、また教会でも祈ってもらいながら、イエスさまに息子さんと愛を持って対決する力を求めました。そうして、ついに「生活費を入れてほしい」とお願いすることができたのです。
自分の責任を果たせない。そういう甘えが私たちの中にあります。イエスさまは、十字架によってその甘えもすべて赦してくださっています。そして、私たちのうちには聖霊なる神さまが住んでくださっていて、私たちを内側から造り変え、自分の足で歩く力を与えてくださいます。
ペテロの悔い改め
かつて、ペテロにも甘えがありました。
彼は傲慢になって、他の弟子がイエスさまを捨てても、自分だけはイエスさまに従い通すと豪語しました。しかし、実際にイエスさまが逮捕されると、恐ろしさのあまり逃げ出し、「お前もイエスの弟子だろう」と詰め寄られると「あんな奴のことは知らない」と3度も言ってしまいます。
そんなペテロでしたが、復活したイエスさまと出会い、大漁の奇跡を体験し、その後3度「あなたは私を愛しますか?」と尋ねられることによって赦しを確認しました(ヨハネ21章)。その結果、生まれつき歩けなかった人に歩く力を与えるという援助を行なうことができるようになりました。
私たちも自分の中に甘えがあることを認め、悔い改め、自立するための力を求めましょう。そうすることで、ペテロのようにイエスさまと共に他の人を助けることができるようになります。
今週も、私たちを通して、他の方々が自分の足で立ち上がる奇跡を見ることができますように。