(2025年2月9日)
初代教会の執事の一人であるステパノが殉教する場面です。ここから神との平和を維持して、どんな状況でも平安でいられる秘訣を教わりましょう。
礼拝メッセージ音声
参考資料
51節の「心の割礼」とは、神を心から愛し、その教えに素直に従うことを意味します(申命記10:16、申命記30:6、エレミヤ4:4参照)。
56節の「人の子」は、救い主のことです(ダニエル7:13-14)。
58節の「サウロ」は、後の使徒パウロです。
イントロダクション
前回、やもめたちへの配給の問題を解決するため、7人の執事が選ばれたという話を取り上げました。そのうちの一人、ステパノが今回の主人公です。彼は捕えられ、死刑になってしまいました。しかし、彼は死の瞬間まで聖霊なる神さまに満たされ、平安を味わっていました。
私たちもさまざまな問題、トラブルに巻き込まれることがありますが、ステパノのような圧倒的な平安を味わうことができます。そのために知っておくべきことは何でしょうか。
1.ステパノの逮捕と死刑
ステパノの活躍と逮捕
ステパノの活躍(6:8-10)
前回、やもめたちへの配給の問題を解決するため、7人の執事が選ばれたという話を取り上げました。そのうちの一人、ステパノは与えられた任務をこなす一方で、さまざまな奇跡を行なって伝道していました。

ジャコモ・カヴェドーネ作「聖ステパノ」
(画像引用:Wikipedia)
そんなステパノに議論を仕掛けた人たちがいます。クレネ、アレクサンドリア、キリキア、アジアといった外国からエルサレムに来た人たちで、彼らはエルサレムの下町にあったと思われるリベルテンという会堂に所属していました。
ところが、彼らは知恵と御霊に満たされていたステパノに議論で負けてしまいます。
ステパノの逮捕(6:11-12)
議論で勝てなかったリベルテン会堂の人たちは、ある人たちをそそのかして
「私たちは、彼がモーセと神を冒涜することばを語るのを聞いた」と言わせます。その結果、ステパノは逮捕され、最高法院(サンヘドリン)に引っ張って行かれました。
偽の証言(6:13-15)
リベルテン会堂の人たちは、最高法院の裁判の席でも偽の証人を立てて証言させました。偽の証人たちは次のように訴えました。
「この人は、この聖なる所と律法に逆らうことばを語るのをやめません。『あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」
しかし、その時のステパノの顔は、天使のように見えたと書かれています。
ステパノの発言
ステパノの発言1(7:1-43)
大祭司が、証言の通りかと尋ねると、ステパノは堂々と語り始めました。その内容は、アブラハムから始まって、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、さらにはダビデ、ソロモンまでのイスラエルの歴史でした。
ステパノが語る歴史の中で、繰り返し出てくるテーマがあります。それは、イスラエルの先祖たちが、たびたび神さまの命令を無視したということです。しかし、それでも神さまはイスラエルを見捨てませんでした。
- ヨセフのことをねたんだ10人の兄たちは、ヨセフをエジプトに売り飛ばしてしまいました。しかし、それが後にヤコブ一家を救うきっかけになりました。エジプトの宰相となっていたヨセフが、飢饉に苦しむヤコブ一家をエジプトに呼び寄せたのです。
- エジプト王に迫害されるようになったイスラエルを救うため、神さまはモーセを誕生させます。ところが、イスラエル人をいじめていたエジプト人を打ち倒したモーセのことを、イスラエル人は解放者だとは認めず拒絶しました。それでも神さまは、モーセを通してイスラエルを解放するご計画をお捨てになりませんでした。
- モーセによってイスラエルはエジプトから逃れることができました。しかし、民は神さまの命令を守らず、偶像を作って拝み始めました。ところが、神さまは40年間イスラエルを荒野で守り養われ、約束の地に導き入れてくださいました。
こうして、イスラエルの民は神さまに逆らい続けたため、最終的に神さまによるさばきを招いてしまいました。バビロンによって国が滅ぼされて、民が捕らえ移されたのです。
しかし、皆さんもご存じの通り、神さまはペルシャによってバビロンを滅ぼし、イスラエルの民を再び約束の地に連れ戻してくださいましたね。
ステパノの発言2(7:44-50)
次にステパノは、神殿について語り始めます。
まず神さまは、モーセに礼拝のための幕屋を作らせました。この幕屋は持ち運びが可能で、やがてヨシュアに率いられたイスラエルが約束の地に入るときにも、一緒に持ち込まれました。そして、ダビデ王が幕屋をエルサレムに移し、ソロモン王が幕屋の代わりに神殿を建てます。
しかしステパノは言います。神さまは人が手で作った家にはお住みにならないと。そして、彼はイザヤ66:1-2の預言を引用しました。
(7:49-50)『天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのためにどのような家を建てようとするのか。──主のことば──わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったものではないか。』
かつてイエスさまはサマリアの女におっしゃいました。
(ヨハネ4:23-24)しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
別にステパノは、神殿での礼拝を否定しているわけではありません。神さまの住まいであるとして神殿を神聖視するあまり、聖霊さまを無視して、神さまへの真実の愛、真実の礼拝、真実の従順をないがしろにしているのではないかと指摘しようとしているのです。
その指摘がいよいよ始まります。
先祖と同じことをする者たち
(51節)うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。
「うなじが固い」とは、馬やロバをどこかに引っ張っていこうと手綱を引いても、首を反対方向に向けようと突っ張る様子を表します。つまり、自分のやりたいことに固執して、頑固で従おうとしないことです。
「心と耳に割礼を受けていない」とは、神さまを心から愛することをせず、従おうとしないという意味です。
ステパノは、目の前にいる議員や訴える者たちに向かって、あなたたちは先祖が逆らったように、聖霊なる神さまに逆らっていると責めました。
神が遣わした人を殺した者たち
(52節)あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人たちを殺しましたが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
神さまが遣わした預言者たちは、やがて正しい方、すなわち救い主が来ることを預言しました。しかし、先祖たちはそんな預言者たちを殺しました。それと同じように、あなたたちは救い主を十字架につけて殺してしまったのだとステパノは言います。
神の命令を守らない者たち
(53節)あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」
ステパノは、モーセの律法に反することをしているとして逮捕され、裁判を受けています。しかし、律法を無視しているのはむしろ指導者たちや訴えている人たちの方です。
ここに至って、裁判で裁かれているはずのステパノが、裁いているはずの指導者たちを逆に神さまへの反逆者だと指摘して、その罪を糾弾したわけです。さあ、それでどうなったでしょうか?
ステパノの殉教
怒りをあらわにする人々
(54節)人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた。
ステパノの逆糾弾を受けた議員たちは、「はらわたが煮え返る思い」をしました。これは、直訳すると「のこぎりでひかれる」という意味の言葉です。それだけ、心に深い痛みを覚えたわけですね。
私たちは、自分の間違いや足りないところ、罪を指摘されると、それが的を射ていてもいなくても(むしろ、当っていればいるほど)、心が激しく痛みます。
罪を指摘されて心が痛んだ指導者たちは、痛みを与えたステパノに対して腹を立て、歯ぎしりしました。つまり、彼らは自分たちの間違いを認めようとしなかったのです。
イエスさまは、聖霊なる神さまがいらっしゃるとどんなことをなさるか語られました。
(ヨハネ16:8)その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
聖霊さまは私たちの罪を指摘します。それは私たちを悔い改めに導き、イエスさまが与えてくださる罪の赦しを得させるためです。しかし指導者たちは、51節でステパノが語ったように、今回も聖霊さまに逆らったのです。
天を仰ぐステパノ
(55-56節)しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。
ステパノの目は、怒りに燃えるサンヘドリンの人々にではなく、天に注がれていました。聖霊なる神さまに満たされたステパノには、天にいらっしゃる父なる神さまと、その右に立っておられる救い主イエスさまが見えました。
ステパノは、自分が見たものを議員たちに向かって語りました。
ステパノに殺到する人々
(57節)人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。
ステパノの言葉を聞いた人々には、ステパノが神さまとつながっており、自分たちは罪人として神さまに呪われ切り離されていると言われているように聞こえました。そこで我慢の限界を突破して、一斉にステパノに襲いかかりました。もう裁判の体を成していません。彼らは、感情的に行動してしまいます。
石打ちの刑
(58節)そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。
人々はステパノを町の外に連れ出すと、そこで石を投げつけ始めました。石打ちは、イスラエルの伝統的な死刑の方法です。これはこぶし大やそれ以上の大きさの石を投げつけてなぶり殺しにするものです。

レンブラント作「聖ステファノの石打ち」(1625年)
(画像引用:Wikipedia)
その際、人々はサウロという青年の足下に上着を置きました。サウロは次の章から教会への迫害者として活動し始めるので、ここで名前が挙がっているのです。
主を呼ぶステパノ
(59節)こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」
石を投げつけられる激しい痛みの中で、ステパノはイエスさまが自分の霊を天のパラダイスに受け入れてくださるよう祈りました。地上の命はこの後すぐに終わってしまいますが、ステパノには神さまのみもとに行くことができるという希望がありました。
それ故に、心の痛みと怒りに満ちていた指導者たちと違って、ステパノの心は平安に満ちていました。
取りなすステパノ
(60節)そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。
ステパノに与えられた精神的余裕は、石が次々と当たる肉体的な痛みの中でも、「石を投げる人々に罪を負わせないで欲しい」と神さまに取りなす祈りを生み出しました。
こうしてステパノは亡くなりました。しかし、その魂は天のパラダイス、イエスさまと父なる神さまのみもとに挙げられ、今も地上の苦労や痛みをはるかにしのぐ安息を体験しています。そして、安らかに復活の時を待っています。
それでは、私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。
2.神との平和を体験しよう
神との平和とは?
ステパノは平安に満たされていました。それは、ステパノが神さまとの間に平和を体験していたからです。
「神との平和」とは、神さまとの敵対関係が終わって、仲が良い状態にあることです。
私たち人間は、神さまの存在やすばらしさを否定したり値引いたりして、神さまに従わない自分勝手な生き方を続けてきました。それは神さまを侮辱することですから、本来なら神さまの敵として滅ぼされても文句が言えません。
しかし、神さまは敵である私たちの罪を赦して、ご自分の子どもとして大切にしたいと願ってくださいました。そして、イエス・キリストが私たちの罪の罰を身代わりに負って、十字架にかかってくださいました。
そして、
「この自分の罪を赦すためにイエス・キリストが十字架にかかられたということ、そして死んで葬られ、3日目に復活なさった」ということ、すなわち恵みの福音が真実であるということを信じ認めるだけで、本当に私たちの罪は赦され、神さまの子どもとされます。
すなわち、「神との平和」が成立するのです。
神との平和がもたらす祝福
全知全能の神さまが自分の敵ではなく味方だという事実は、次のような祝福を私たちにもたらします。
- 神さまに愛され、この存在が喜ばれているという感動
- 力と知恵に満ちた神に自分の祈りが届いているという確信
- 何があっても大丈夫だという安心感
- 他の人に対して優しく接することができるだけの心の余裕
ステパノが手にしていた神との平和
ステパノが「神との平和」を手に入れて、死に至るまで平安でいられたのは、彼が正しい人だったからではありません。確かに彼は、人間的な基準からすれば高潔で立派な人物です。しかし、神さまが人間に求める正しさの要求水準からすれば、ステパノもまた一人の罪人です。
完璧な人間など誰もいません。ステパノにも罪があるのです。間違いや不完全さ、弱さがあるのです。その意味では、ステパノは指導者たちや私たちと変わることはありません。
そんなステパノが死に至るまでも平安でいられたのは、恵みの福音を信じることによって「神との平和」を体験していたからです。
三位一体の神さまと良い関係にある。神さまが自分を愛し、受け入れ、この存在を喜んでくださっている。ステパノにはそういう確信がありました。ですから、どんな困難がやってきても、大丈夫だと思うことができたのです。
たとえ死んで肉体が滅びたとしても、魂が神さまの身元に引き上げられ、今よりももっと神さまとお近づきになれるから大丈夫、と。
だから彼は、大胆に振る舞うことができたし、精神的な余裕を持っていられたし、自分を殺そうとしている人たちのためにとりなしの祈りをささげることさえできました。
もし、あなたがイエスさまの恵みの福音を信じたことがないなら、今日それを信じて神さまとの平和な関係を手に入れてください。
- 今日信じたよという方は、ぜひ増田牧師までメールをください。これからの祝福を祈らせていただきます。
神との平和を維持するには?
神さまとの平和な関係を手に入れるには、先ほど申し上げたように恵みの福音を信じることです。しかし、その後も私たちは神さまとの平和を維持し続ける必要があります。
私たちはイエスさまの十字架によって、すべての罪の罰から解放されました。しかし、この体にはまだ罪の性質が残っています。そんな私たちは、内に住んでくださっている聖霊さまによって、イエスさまに似た者に少しずつ造り変えていただいています。
(第2コリント3:18)私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
このように、私たちは少しずつ罪の性質から解放されて成長していますが、地上で生きている間は未完成で、まだ罪の性質が残っています。
ですから、福音を信じて救われてクリスチャンになってからも、私たちは神さまに逆らうようなことを考えたり、実行したりしてしまうことがあります。つまり、罪を犯してしまうことがあるのです。
そんなとき、私たちは速やかに自分が罪を犯したことを認めて、神さまに告白しなければなりません。そして、イエスさまによる赦しを再び受け取りましょう。
救いは取り消されない
といっても、罪を犯すたびごとに救いが取り消されるわけではありません。イエスさまによる罪の赦しは永遠に有効で、私たちの罪によって取り消しになることは決してありません。すなわち、神さまの側では常に愛のまなざしで私たちを見つめ、愛の御手を差し伸べてくださっています。
罪は私たちの目を神からそらせる
しかし、私たちが罪を犯して放置している状態は、私たちが神さまの方を向いていないということです。神さまの愛のまなざしを見ず、愛の御手を取っていない状態なのです。ですから、すでに与えられているはずの神との平和を体験的に味わうことができず、心の平安を失ってしまいます。
そこで、すぐに罪を認め、赦しを再確認することで、神さまに愛され、守られ、永遠に続く幸せの方向に導かれていることを信じましょう。それにより、私たちは神さまとの平和な関係を確信して、心の平安を取り戻すことができます。
神との平和を邪魔するものとは?
「神との平和」を邪魔するものは、罪を認めず悔い改めない頑な心です。
自分が赦され、神さまに愛されていることを信じたステパノは、自分が罪人だということも素直に認め、悔い改めることができました。そうして、神さまとの間に平和を体験し、そのために殺される直前まで大丈夫感覚に満たされていたのでした。
しかし、指導者たちは聖霊さまがステパノを通して罪を指摘されたとき、それを無視してしまいました。
人によっては、「罪があったとしても、それ以上に自分は良いことをしているから帳消しになるはずだ」と主張したり、自分を痛めつけて「こんなに苦しんでいるんだから、罪は帳消しだよね」と考えたりして、神さまと取引しようとします。これもまた、結局は聖霊さまの働きを無視して罪を認めない行為です。
自分が神さまの前に罪を犯しているということを認めるのはつらいことです。それこそ、心がのこぎり引きされるような痛みを覚えることでしょう。しかし、ごまかさないでしっかりと罪を認め、赦しを再確認して神さまに従う生き方に戻りましょう。そして、聖霊さまがこの自分を満たして、イエスさまに似たものに変えてくださるよう祈りましょう。
この話をお読みください。
ある高校生が、友だちから足りないところを攻撃されて悩んでいました。そこで、神さまに何とかしてくださるよう熱心に祈っていましたが、攻撃はさっぱりやまないどころか、ますますエスカレートしていく気がしていました。
そんなあるとき、教会の高校生会の集会で、リーダーのメッセージを聴いてハッとしました。リーダーはテトスへの手紙の一節を引用しました。
(テトス3:2)また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。
そして、「私たちが一番近い存在に対して、どんな態度を取っているか振り返ってみよう」という勧めが語られたのです。
この高校生は思いました。自分は、親が自分に対して気に入らない言動をしたとき、強く反発して苦々しい態度を取っていた。妹や弟に対して、年長者だからということであれこれ厳しく指摘をしてきた。友だちからつらく当たられてつらいなんて、いったいどの口が言うのか。
この高校生は悔い改めの祈りを捧げました。そして、両親やきょうだいに対しての態度を改め、「柔和で優しい接し方をしますから助けてください」と神さまに願いました。その後、家族との関係が改善しただけでなく、友だちとの関係も改善したそうです。
今週も、聖霊さまが罪を示されたらすぐに認めて悔い改めたいですね。それが私たちの心に平安、喜び、大丈夫感覚、希望、余裕、他の人への愛などをもたらします。