(2025年4月20日)
復活したイエス・キリストが、エルサレムからエマオに戻ろうとしていた2人の弟子とともに歩いたという記事です。
礼拝メッセージ音声
本日は、礼拝メッセージの音声はありません。
参考資料
13節の「ちょうどこの日」は、イエスさまが復活なさった日。
13節の「エマオ」は、エルサレムから60スタディオン(約11キロ)の距離にあったとされる村。エルサレムの北西方向にあるアル・クベイバであるという説が今のところ有力ですが、決定的な証拠はまだ見つかっていません。
18節の「クレオパ」は、ヨハネ19:28のマリヤの夫クロパとは別人と思われます。もう1人の名は聖書には書かれていませんが、教会の伝承によれば「シモン」。2人ともルカ10章の70人の弟子に含まれていたそうです。
イントロダクション
32節に「内で燃えていた」とありますが、私たちが事をなすときには、情熱が必要です。情熱があれば、どんな困難に直面してもそれを打ち破って前に進むことができます。たとえ最初に考えていた方法では不可能であっても、様々なアイディアを生み出して別の解決方法を見つけることができます。また、一人では無理でも多くの人々を巻き込んでいくことができます。
一方で、皆さんは、
- 良いと分かっているのに、それを実行するやる気がわいてこないでいることがありませんか?
- かつては情熱を持って始めたのに、いつの間にかそれを失って停滞してしまったということがありませんか?
エマオに向かうクレオパともう1人の弟子(ここでは伝承に従ってシモンと呼ぶことにしましょう)は情熱を失っていました。しかし、復活したイエスさまはもう一度彼らの心に火をつけてくださいました。そして、あなたの心にも。どのようにして、イエスさまは、私たちの心に火をつけてくださるのでしょうか。
1.エマオ途上の出来事
2人の弟子のエマオ下り
エマオへの道
(13節)ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。
「この日」というのは、イエスさまが復活なさった日のことです。イエスさまは紀元30年の過越の祭りの日に十字架にかかって亡くなりました。紀元30年の4月7日(金)のことです。そして、復活なさったのは3日目の4月9日(日)、初穂の祭りが祝われる日でした。
この日の午後になって、イエスさまの弟子であるクレオパとシモンは、エルサレムを離れてエマオに向かっていきました。
2人の話し合い
(14節)彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。
クレオパとシモンの2人、歩きながらあることについて話し合っていました。その内容は、今回の記事の前に書かれていることです。それはイエスさまのお墓に関する女性たちの証言と、ペテロとヨハネの証言でした。
イエスさまが十字架で殺された後、女性の弟子たちが墓地を訪れました。
当時のイスラエルでは、人が亡くなるとその遺体は水で洗いきよめられ、香油と防腐効果のある没薬を塗られ、亜麻布で巻かれます。そして、横穴式の墓に納められました。
ところが、イエスさまが亡くなったのが金曜日の午後3時で、日が沈むと安息日が始まります。当時、安息日には遺体を葬ってはならない決まりがありましたので、イエスさまの遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフたちは、十分に遺体の処置をしないまま急いでイエスさまを墓に納めなければなりませんでした。
それを残念に思った女性たちは、安息日が明けた日曜日の朝、遺体の処置をやり直そうと思って墓に行ったのです。ところが墓の入口をふさいであるはずの石が転がされ、中にあるはずのイエスさまの遺体が見当たりません。すると、天使が現われてイエスさまが復活したと女性たちに告げました。
ところが、男の弟子たちはみんなそれを戯言だと言って信じませんでした。ただ、ペテロとヨハネが墓を見に行って、確かに遺体が無いことを確認しただけです。
クレオパとシモンの2人は、これらの出来事についてあれこれと話し合っていました。
復活のイエスとの出会い
イエスの登場
(15-16節)話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。
クレオパたちが話しているうちに、知らない間にイエスさまが現われました。そして、彼らと一緒に歩いていました。ところが、2人にはそれがイエスさまだとは分かりません。

ロバートツン・ザンクト作「エマオ」
(画像引用:光の色彩を求めて)
これはクレオパたちだけではありませんでした。復活の日のマグダラのマリア、また後にガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちも、最初はイエスさまだと気づきませんでした。
イエスさまは復活なさったとき、新しい栄光の体が与えられていました。この復活の体、栄光の体は、元の体の特徴を残しつつも、よく見ないと分からないほど異なっているようです。特に、クレオパたちの場合には神さまによって目がさえぎられていて、イエスさまだと認識できませんでした。
イエスの問いかけとクレオパの返答
(17-18節)イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」
イエスさまが2人に、何を話しているのか尋ねると、クレオパが答えました。「あなただけがご存じないのですか」というのは、少々失礼な言い草ですね。
ただ、「暗い顔をして立ち止まった」と書かれているとおり、2人の心はふさいでいました。それでついつい突っけんどんな物言いになってしまったのでしょう。
望みをかけていたイエスについて
(19節-21節前半)イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。
イエスさまはクレオパの失礼な物言いをとがめず、どんな内容か尋ねました。すると2人はナザレのイエスというお方についての話だと答えました。
クレオパとシモンは、イエスさまのことを力のある預言者と呼んでいます。また、「イスラエルを解放する方」とも呼んでいます。これは、地上に神の国を実現する世界の王、救い主のことです。2人はイエスさまのことを預言者、それどころか救い主だと信じて希望を抱いていたのです。
しかし、「預言者でした」「望みをかけていました」と、それぞれ過去形で語られていることに注目しましょう。イエスさまが指導者たちによって死刑にされたことで、彼らの希望はしぼんでしまいました。
こうして希望を失った2人は、故郷に帰ろうと考えてエマオに向かっていたわけです。
復活に関する伝聞
(21節後半-24節)実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、 仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
クレオパたちの話はまだ続きます。女性たちが天使と出会い、イエスさまの復活について聞いたという話、そしてペテロとヨハネが墓を見に行って、確かに遺体がなかったことを確認したという話をします。
ただ、クレオパとシモンが女性たちやペテロたちの証言について語るとき、どことなく人ごとのような響きを感じます。実際、2人は女性隊の証言、すなわちイエスさまの復活のことを信じていませんでした。だからこそ、絶望してエルサレムを離れたのです。
イエスの叱責
(25-26節)そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
イエスさまはクレオパたちを叱りました。女性たちの証言だけでなく、預言者たちが旧約聖書の中でキリストの死と復活について教えているし、イエスさまも何度もご自分が殺された後で復活すると弟子たちに語ってこられました。それなのに2人が信じなかったからです。
イエスによる聖書の解説
(27節)それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
イエスさまは叱っただけでなく、クレオパたちに救い主に関する聖書の教えを解説なさいました。
エマオでの出来事
イエスへの同宿の願い
(28-29節)彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
3人はエマオに到着しましたが、イエスさまはまだ先へ行こうとしておられました。そんなイエスさまに、クレオパとシモンはこの村に泊まってほしいと強く願いました。
それは夕方になっていたため、この先の村に行く頃には夜になってしまいます。夜の旅は危険ですから、今日はここに泊まってほしいと願いました。
それだけでなく、イエスさまの聖書解説を聞いて感動したからでもあります。まだクレオパたちの目はふさがれたままで、相手がイエスさまだと気づいていません。しかし、話を聞いてこのお方は優れたラビ(聖書の先生)だと思いました。
そこで、一緒に泊まってもっと聖書の話を聴かせて欲しいとリクエストしたのです。
食前の祈り
(30節)そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
家に入ると、食事が用意されました。通常は、一家の主人が代表して食前の祈りをささげます。しかし、ラビがいる場合にはラビに祈りをお願いしました。イエスさまのことを優れた教師だと認めたクレオパたちは、イエスさまに祈りをささげてもらいました。
日々の食事を与えてくださる神さまへの賛美の祈りをささげた後、イエスさまはパンを割いて2人に手渡しました。

カール・ハインリッヒ・ブロッホ作「エマオでの夕食」
(画像引用:光の色彩を求めて)
イエスだという認識とイエスの消滅
(31節)すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
パンを受け取ったとき、クレオパとシモンの目が開かれました。そして、これまで話をしてくださった方、そして食卓に一緒についておられる方がイエスさまだと気づきます。もしかしたら、パンを手渡す際に、手首にある十字架の釘の跡が見えたからかもしれません。理由はともかく、イエスさまだと気づきました。
すると、次の瞬間、目の前にいたはずのイエスさまの姿が見えなくなってしまいました。
燃えていた心
(32節)二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
不思議なことを体験したクレオパとシモンは、自分たちの心が燃えていることに気づきました。しかも、それは目の前にいたお方がイエスさまだと気づいた今だけでなく、気づかなかったエマオまでの道中も心が燃えていました。
この後、間もなく日が暮れようとしていましたが、クレオパたちは急いでエルサレムにとって返しました。そして、他の弟子たちのところに行くと、ペテロが復活のイエスさまに出会ったという話をしていました。クレオパたちも自分たちが体験したことを話しました。
すると、その最中にイエスさまが現われて「平安があるように」と祝福なさいました。この続きは、イエス・キリストの生涯シリーズ104「
キリストの復活とトマスへの顕現」以降をご覧ください。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.イエスは私たちの心に情熱の火をともされる
共にいることによって
二人の弟子と同行することになったイエスさまは、彼らが落ち込んでいるわけを聞きます。すると彼らは言いました。
「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした」(19節)。「私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました」(21節)。
彼らは、確かにイエスさまこそ救い主だと望みをかけていました。そして、イエスさまと共に旅をするのは、それはそれは驚くべき経験、わくわくするような経験でした。イエスさまの話を聞いたり、イエスさまが奇跡をなさるのを目撃したりしたとき、彼らの心の内は熱く燃えていたのです。
クリスチャンになるということは、退屈な生活を送ることではありません。クリスチャンになるということは、イエスさまが共にいてくださるようになるということです。そして、イエスさまが共にいてくださると、
- 一人ではできなかった価値のあることができるようになります。
- 一人ではどう解決していいか分からなかった問題が、イエスさまによって解決していきます。
- どうしようもないむなしさとか孤独感とかがあったのが、イエスさまによって慰められ、喜びに満たされていきます。
それはわくわくするような毎日です。
ただし、クレオパたちにとって、それらの心が燃えるような毎日は過去形で語られるもの、すなわちすでに失ってしまったものでした。ところが、復活したイエスさまは彼らに近づき、一緒に歩き、話をなさいました。それによって、クレオパたちの心は再び燃え上がりました。
イエスさまが復活なさったということは、今も生きておられるということです。そして、イエスさまはあなたと共にいてくださいます。あなたの調子がいいときも、悪いときも、イエスさまのことを信頼しているときも、その信仰が揺らいでいるときも、どんな時にもイエスさまは一緒です。そして、あなたの心に新しい情熱を与えようとしてくださっています。
イエスさまが私たちと一緒にいて、わくわくするような経験を与えてくださるのだと信じましょう。そして、「イエスさまが共におられるという確信をお与えください。イエスさまの臨在で心を満たしてください」と祈りましょう。
聖書の約束を示すことによって
イエスさまは、歩きながら聖書(当時は、まだ新約聖書は書かれていませんでしたから旧約聖書です)に書かれている、救い主(メシア、キリスト)に関する預言を一つ一つ解説なさいました。何百年も前から「救い主は一度苦しみを受けて死に、復活する」ことが預言されていたのだということを、イエスさまはクレオパとシモンに示されたのです。
後に二人は、イエスさま(この時はまだイエスさまだとは気づいていません)が聖書を解説してくださっている間、心の内側が燃えていたと語っています(32節)。
自分の状態や、目の前の状況を見たら、私たちは落ち込んだり希望を失ったりしてしまうかもしれません。
しかし、私たちの喜び、情熱の源は聖書の約束です。どんな状況に置かれても、自分自身がどんな精神状態であっても、どんな信仰の状態であっても、それでも大丈夫だと思えるのは聖書が大丈夫だと約束しているからです。
復活し、今も生きておられるイエスさまは、私たちに語りかけてくださいます。その語りかけは、私たちを慰め、あるいは励まし、あるいは勇気づけ、あるいは正しい道に導き、あるいは知恵を与え、あるいはいやし、あるいは奇跡を引き起こします。
そして、イエスさまは私たちに聖書を通して語ってくださいます。心の中に響く強い印象や幻や天使などを用いて語られることもありますが、最終的には聖書によって裏付けられなければなりません。
この話をお読みください。
クリスチャンの友人、Kさんから聞いた話です。
Kさんの友だち(この方もクリスチャンです)が、ちょっとした誤解から、上司との人間関係が悪くなってしまったそうです。そうしたら、出勤するのがたまらなくつらくなってしまいました。朝起きると「ああ、またあのつらい職場に行かなきゃならないのか」と思ってどんより。出勤途中も「今日も嫌みを言われるんだろうな」とか「今日もこんな嫌な気持ちでずっと過ごさなきゃいけないのかな」とか、次々と否定的な思いがわいてきます。
そういう話をKさんにしたところ、Kさんは「感情というのは、置かれた状況が直接生み出すのではなくて、状況をどう捉えるかという考えから生まれる」と語り、否定的な言葉を自分に向かってかける代わりに、聖書の言葉を自分に読み聞かせたらどうかとアドバイスしました。
友だちはさっそく実行しました。まず、神さまが自分を愛し、守っていてくださることを思い起こすことができるような聖句をカードに書き写しました。そして、起きて最初に目に入る目覚まし時計にそれを貼り付けました。次に洗面所にも、トイレにも、玄関のドアの内側にも。そして、ポケットにもカードを入れ、職場で怒鳴られたり嫌みを言われたりするたびに、それを取り出して読みました。
今まではどんより気分で出勤していましたが、今では「今日はどの洋服に、どのみことばカードを入れていこうか」と、まるで洋服の色を合わせるように楽しみながら朝の準備をしているということです。
聖書の言葉は、私たちを励まし、慰め、冷えてしまっていた情熱を再び燃え上がらせてくれます。いつも聖書の言葉に触れ続けましょう。そして、「どうぞ、お語りください」と祈りつつ、聖書の言葉を味わいましょう。
教会の交わりによって
イエスさまがよみがえって、しばらくの間自分たちと一緒に行動してくださったということに気づいたクレオパとシモンは、間もなく夜になろうというのにエマオを離れてエルサレムに向かいました。そして、弟子たちの隠れ家に行きました。
すると、ペテロが復活のイエスさまに会ったと他の弟子たちが話してくれます。クレオパたちも、自分たちがイエスさまに会ったと言うことを話しました。そして、そこにイエスさまが現われ、彼らは大いに喜ぶことになります。
そればかりか、120人ほどいた弟子たちは、その後聖霊さまによって満たされることになります。その結果、多くの奇跡が行なわれ、愛のわざが行なわれ、教会が爆発的に成長します。クレオパやシモンのように、心燃やされ、喜びと平安と感動に満ちた人生を手に入れる人が何千人と誕生したのです。
後に、エルサレムには迫害の嵐が吹き荒れます。たくさんのクリスチャンが投獄され、殺されました。生き残ったクリスチャンたちも、仕事を失い、生活に困窮することになります。それでも、彼らの心は燃えていました。喜びと平安と感動が満ちあふれていました。
復活し、今も生きておられるイエスさまは、私たち個人に語りかけて情熱を与えてくださいます。しかし、イエスさまを信じる人たちの群れ、教会にも働きかけてくださいます。私たちがこうして教会の集まりに集って、一緒に礼拝をささげたり、一緒に祈ったり、互いに自分の体験を話したりすることによって、私たちは今も生きておられるイエスさまと出会い、ますますイエスさまとの関係を深めることができます。
この話をお読みください。
アメリカに留学した女性の話です。彼女は、異国の地で寂しい思いをしていた時に、近所に住む牧師夫妻と出会い、大変にお世話になりました。そして、牧師宅で開かれていた聖書の学びの集会にも顔を出し、聖書を熱心に学ぶようになりました。
ところが、そのうちにだんだんとその情熱が冷めてゆき、やがて全く集会に顔を見せなくなりました。代わりに、週末になると友だちと夜通し遊び回るようになり、やがてボーイフレンドと同棲するようになったのです。
しかし、そんな生活も、ボーイフレンドが他に女性を作って帰ってこなくなったことにより、破局を迎えました。彼女は深い悲しみに落ち、食事ものどを通らなくなりました。そんなどん底気分の時、ふと本棚の聖書に目が留まりました。彼女は、無性に牧師夫妻や教会の人々が懐かしくなりました。あそこには温かく、優しい交わりがあった。そうだ、もう一度やり直そう。彼女は牧師に電話をかけました。ところが、不在だったので、留守電に「久しぶりに明日の集会に行きます」とだけメッセージを残しました。
次の日、彼女は牧師宅の前を何度も行ったり来たりしました。あんなに親切にしてもらったのに、その恩を忘れて飛び出したのは自分だった。その結果惨めなことになったからといって今さら戻っても、図々しいと思われるだけじゃないのか……。そんな思いが心に浮かんできて、なかなか踏ん切りがつかなかったのです。
どれくらいそんなふうに悩んだでしょうか、やがて彼女は思いきって呼び鈴を押してみました。すると、すぐに牧師が玄関口に現れて、昔と同じようににこにこしながら、「おかえり、待ってたよ」と優しくハグしてくれました。
牧師に導かれて居間に入ると、そこには教会のメンバーがいて、「おめでとう!」と口々に声を上げました。そして、テーブルには大きなデコレーション・ケーキ。そう、その前の日、すなわち彼女が牧師に電話をかけた日は、彼女のバースディだったのです。自分でも、悲しみのあまり、そんなことすっかり忘れていたのに、教会の人たちは忘れないでいてくれたのでした。
私たちの神さまは、そのように、ご自分の元に帰ってこようとする人を、ただ受け入れるだけでなく、熱烈歓迎してくださいます。
薪は一本でも燃えますが、キャンプファイアーのように組み合わさると大きな炎が燃え上がります。私たちが教会として交わりを保つことによって、私たちの心の内にある情熱も、ますます大きく燃え上がります。これからもこの交わりを大切にしましょう。
まとめ
復活して今も生きておられるイエスさまは、私たちの心の内を情熱の炎で満たしてくださいます。ますますそうなるようにと祈りましょう。