(2025年5月11日)
パウロが第2回伝道旅行に出発しました。そして、リステラでテモテをチームに加えましたが、その際パウロはテモテに割礼を施しました。
礼拝メッセージ音声
今回、うまく録音できていませんでした。
参考資料
15:36の「それから」は、エルサレム会議後にアンティオキア教会に来ていたユダ(あだ名はバルサバ)とシラス(ラテン語名シルワノ)が、エルサレム教会に戻っていったことを指しています。エルサレム会議では、「割礼を受けていない異邦人も、恵みの福音を信じるだけで救われる」ということを確認しました。ユダとシラスはそのことを記した手紙をアンティオキア教会の人たちに届け、預言者として多くの励ましの言葉を語りました。
15:37の「マルコ」は、後に「マルコによる福音書」を書きました。
15:38は、第一回伝道旅行でのエピソードについて語っています。マルコはパウロとバルナバの助手として旅に同行しましたが、小アジアのパンフィリア地方にあるペルゲという町に着くと、一行から離脱してエルサレムの実家に帰ってしまいました。
16:3の「割礼」は、男性器を覆う包皮の一部を火打ち石のナイフで切り取る儀式です。割礼はユダヤ人であるというしるしです。ユダヤ人の男子は皆、生まれて8日目に割礼を受けます。また、ユダヤ教に正式に改宗した異邦人も割礼を受けました。そして、宗教的にはユダヤ人として扱われました。
イントロダクション
私たちは、行ないによらず、ただイエスさまによる恵みの福音の内容を信じるだけで救われ、クリスチャンとなりました。では、努力は一切必要ないのでしょうか。聖書を読むと、様々な命令や勧めが描かれていて、努力が必要にも思えます。
今回は、無条件の救いと努力の関係について教えていただきましょう。それによって、私たちは「何があっても、何がなくても大丈夫」という安心感や将来に対する希望を得ることができるようになります。
1.第2回伝道旅行の始まり
パウロとバルナバの意見の相違
パウロの提案
(15:36)それから数日後、パウロはバルナバに言った。「さあ、先に主のことばを宣べ伝えたすべての町で、兄弟たちがどうしているか、また行って見て来ようではありませんか。」
まずは、
前回のメッセージの振り返りをしましょう。パウロやバルナバが指導していたアンティオキアの教会に、偽教師たちがやってきます。そして、「異邦人は恵みの福音を信じるだけでは救われない。割礼を受け、モーセの律法に従う生活をしなければならない」と教え始めました。いわゆる律法主義の教えです。
- 恵みの福音とは、 「この私の罪を赦すためにイエス・キリストは十字架にかけられた。そして、死んで葬られたけれど、3日目に復活なさった」という良い知らせのことです。この恵みの福音を「本当のことだ」と信じ受け入れるだけで、人はすべての罪を赦され、神さまの子どもとされ、永遠に祝福されます。
この律法主義の教えに危機感を抱いたパウロとバルナバは、この問題をエルサレムにいる使徒やエルサレム教会の長老たちと話し合うことにしました。いわゆるエルサレム会議です。この会議で、割礼を受けておらず、モーセの律法に従う生活をしてこなかった異邦人も、ただ福音を信じるだけで救われるということが確認されました。
そして、その1年前の紀元48年、パウロとバルナバはキプロス島と小アジア中央部の地方を旅しました。もちろん観光旅行ではなく、そこにある町々で伝道してユダヤ人や異邦人を救いに導き、教会を生み出すためです。これを第一回伝道旅行と呼びます。
律法主義の問題が一段落したところで、パウロはバルナバに、第一回伝道旅行で新しく誕生した教会のクリスチャンたちにもう一度会いに行こうと提案します。おそらく次のような目的のためです。
- 生まれたばかりのクリスチャンたちを教育・訓練するため。
- 特に小アジアはユダヤ人からの迫害が激しかったので、堅く信仰を保つよう励ますため。
- 律法主義の教えに毒されている人がいないか確認するため。
この後のバルナバの行動から、バルナバもパウロの提案を受け入れたことが分かります。第2回伝道旅行の開始です。
マルコに関するバルナバの意向
(15:37)バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。
バルナバは、伝道旅行の助手として、マルコと呼ばれるヨハネを同行させようと考えました。マルコはバルナバのいとこです。
助手の仕事は、宿の手配や食料の調達、人々が多く集まったときの交通整理などの細々した雑用です。そして、病院の研修医と同じように、伝道者としての実地訓練を受ける立場でもあります。
ところがこのマルコ、前回の伝道旅行にも助手として参加していたのですが、旅の途中で脱落してしまいます。理由は聖書に書かれていませんが、キプロス島の伝道を終えて小アジア(今のトルコ)の南部、パンフィリア地方に渡ったところで、突然実家のあるエルサレムに帰って行ってしまったのです。
バルナバは、そんなマルコにもう一度チャンスを与えようとしました。「バルナバ」というのは、実はあだ名で、本名はヨセフと言います(使徒4:36)。バルナバというあだ名には、「慰めの子」という意味がありますが、そのあだ名通りバルナバは失敗者であるマルコに優しく接し、慰め、「もう一度やってごらん」と励ましました。
マルコに関するパウロの意見
(15:38)しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。
パウロはマルコの同行に反対しました。
パウロの手紙を読んで分るとおり、彼は自分の考え、自分の信念をはっきりと口にするタイプです。相手にとって耳が痛いことでも、それが必要だと思えば躊躇なくストレートに伝えます。
そして、彼は伝道に命をかけていました。伝道旅行は物見遊山の旅ではなく、神さまに与えられた重要な任務だという自覚がありました。だからこそ、マルコの甘い認識や無責任な態度が許せなかったのでしょう。
もちろん、バルナバも伝道に命をかけていましたし、その任務の大切さは十十理解していました。それでも諦めないで、マルコが変化・成長する可能性を信じ、励まし支え続けてやるべきだと考えました。
こうしてマルコを巡るバルナバとパウロの意見は対立します。
激しい議論
(15:39前半)こうして激しい議論になり、
パウロとバルナバは話し合いますが、結局議論は平行線をたどりました。
では、パウロとバルナバ、どちらの主張が正しかったのでしょうか。どちらも、です。この対立に、神さまは介入なさいませんでした。そして、後で見ますが、結果的に祝福が拡大します。
パウロもバルナバも、二人とも神さまに忠実であろうとしました。そして、どうすることが神さまの栄光を現し、教会の健全な成長に役立つことになるかを真剣に考えて結論を出しました。だからこその議論の対立でした。
それぞれの第2回伝道旅行
バルナバの行き先と同行者
(15:39後半)その結果、互いに別行動をとることになった。バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、
マルコを連れて行くかどうかという話し合いは結論が出ませんでした。しかし、パウロもバルナバも、第2回伝道旅行に行くべきだという点では一致していました。そこで、二人は伝道チームを2つに分け、それぞれ違う場所に行くことにしました。
バルナバは、自分の出身地でもあるキプロス島に向かいました。もちろん、彼の願い通り、マルコも連れて行きます。
この後、バルナバは使徒の働きには登場しません。しかし、パウロの手紙の中にはその後も名前が出てきます(第1コリント1:9、ガラテヤ2:1,9,13、コロサイ4:10)。それらの手紙を読むと、二人の友情はこの後も続いたことが感じ取れます。マルコに関する意見は対立しましたが、2人は人間的に反目し合ったわけではなかったのです。
そして、マルコは見事に成長しました。バルナバの優しさによって自信とやる気を取り戻したと共に、パウロの厳しい意見によって自分の甘さを痛感したからでしょう。それによってマルコはバルナバからの訓練に真剣に取り組み、人としてクリスチャンとして伝道者として成長していきました。
後にマルコはパウロの働きを支えたり、一緒に活動したりするようになります。パウロもマルコとのことを伝道者として高く評価するようになりました(ピレモン24、コロサイ4:10、第2テモテ4:11)。また、ペテロもマルコのことを「私の子」と呼んでいます(第1ペテロ5:13)。
詳しくは、
2022年8月28日のメッセージをご覧ください。
パウロの行き先と同行者
(15:40-41)パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。そしてシリアおよびキリキアを通り、諸教会を力づけた。
バルナバがキプロス島に向かうことになったので、パウロは小アジアの方を担当することになりました。こうして、働きが2つのルートで行なわれることになりました。それぞれの地域で、より時間をかけてていねいに弟子訓練を行なうことができるようになったのです。
バルナバの代わりにパウロが同行者として選んだのは、エルサレム教会の預言者であるシラスでした。エルサレム会議の後、シラスは一時アンティオキア教会を訪問していました。その時、シラスのすばらしい人柄と伝道の力を実感したからでしょう。
このときシラスはすでにエルサレムに帰っていましたが、パウロの依頼を受け入れて同行してくれることになりました。
パウロたちがいたアンティオキアの町はシリア地方にあります。そこから陸路で小アジアのキリキア地方に向かいました。前回の伝道旅行ではキリキア地方を訪問してはいませんが、シリアやキリキアではすでに伝道が進んでいて、あちこちに教会が存在していました。パウロはそこを訪れてクリスチャンたちを励ましました。

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(画像引用:聖書 新改訳2017)
テモテへの割礼
リステラのテモテ
(16:1)それからパウロはデルベに、そしてリステラに行った。すると、そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人であった。
キリキア地方を離れると、パウロとシラスはデルベに向かいました。ここは、前回の伝道旅行の折り返し地点です。それからパウロたちはリステラに入りました。
このリステラの町で、パウロは一人の青年に目を留めます。3節で語られていますが、この青年を助手として伝道旅行に連れて行きたいと思ったのです。
このテモテは、ユダヤ人女性とギリシア人男性の間に生まれた子どもで、名をテモテと言います。ギリシア語で「神に愛された者」という意味の名前です。年齢はまだ若く、多くの研究者は20歳前後だっただろうと考えています。
そして、テモテは、先に救われたお母さんとおばあさんを通して、自分も福音を信じるようになりました。
(第2テモテ1:5)私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています
テモテの評判
(16:2)彼は、リステラとイコニオンの兄弟たちの間で評判の良い人であった。
このときのパウロは、マルコの途中脱落のことがあって、助手候補生に対する評価の目はかなり厳しくなっていたと思われます。しかし、パウロはテモテを助手に選ぶことになります。それは、リステラや近くのイコニオンのクリスチャンたちは、テモテのことをほめていたからです。
事実、後のテモテは、最もパウロに愛された弟子と言っても過言ではないほどに、パウロにとって大切な伝道者仲間となります。

(画像引用:Wikipedia)
テモテへの割礼
(16:3)パウロは、このテモテを連れて行きたかった。それで、その地方にいるユダヤ人たちのために、彼に割礼を受けさせた。彼の父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。
テモテを伝道旅行に同行させたいと思ったパウロは、テモテに割礼を受けさせました。テモテは、母親はユダヤ人ですが父親がギリシア人です。そこで、ユダヤ人であるというしるしの割礼を受けていなかったのです。
先ほど、エルサレム会議について触れました。異邦人が救われるために、割礼を受けることやモーセの律法を守ることは必須の条件ではないことが確認されたはずですね。それなのにパウロはなぜわざわざテモテに割礼を受けさせたのでしょうか。
これは、テモテが本当には救われておらず、その救いを完成させるためではありません。テモテはイエスさまの恵みの福音を信じて、すでに救われていました。
パウロが彼に割礼を受けさせた理由として、「その地方にいるユダヤ人たちのため」と書かれているところに注目しましょう。ユダヤ人に伝道する際、テモテが無割礼のままだとそれが問題とされるかもしれません。そして、「異邦人であるテモテなんぞに、信仰や聖書の話をしてもらう必要はない」と最初から壁を作られて、福音の話を聞いてもらえない可能性があります。
どれほど配慮しても、ユダヤ人のすべてが福音を信じてくれるわけではありません。それでも、取り除くことができる壁は取り去るべきだとパウロは考えました。そして、福音を聞こうとしているユダヤ人たちの心を開くため、あえてパウロはテモテに割礼を受けるよう求めました。
パウロは、救いの条件として割礼を受けようとしたり、そうすることを他人に求めたりすることに対しては、強硬に反対しました。しかし、伝道のために役立つなら何でもするという柔軟な考え方をする人でもあります。
(第1コリント9:23・新共同訳)福音のためなら、わたしはどんなことでもします。
それでは、ここから私たちは、無条件の救いと努力について何を学ぶことができるでしょうか。
2.無条件の救いと努力
恵みにとどまり続けるための努力
救われるのに努力は不必要
まず確認しておきたいことは、パウロは終始一貫、救われるために必要な条件はイエス・キリストの恵みの福音を信じることだけであって、それ以外神さまに認められるための行ないは必要ないと教え続けているということです。
アンティオキア教会で、「異邦人が救われるためには、モーセの律法に従って割礼を受け、ユダヤ人にならなければならない」と教えていた偽教師たちにパウロは激しく反発しました。また、エルサレム会議でもそう主張しました。
そして、手紙の中でもたびたびそのことを教えています。たとえば、エルサレム会議の直前に書いたと思われるガラテヤ書で、パウロはこう語っています。
(ガラテヤ5:1-4)キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。
パウロがマルコのことを責めたのは、マルコの救いを疑ったためではありません。マルコの、伝道者としての覚悟のなさを問題にしただけです。
あなたがある日あるとき恵みの福音を本当のことだと信じたのなら、あなたは誰が何と言おうとクリスチャンです。すべての罪は、未来に犯すであろう罪も含めてすべて赦されており、それどころか神さまの子どもとして永遠の祝福を受けることが決まっています。
割礼に限らず、救われるのに良い行ないをするための努力は必要ありません。また、救いを取り消しにならないようにするための努力も必要ありません。勝手に、神さまに愛されるための条件を作り出して、自分や他の人に押しつけてはいけません。
恵みにとどまり続けるための努力
恵みの福音を信じた私たちに必要なのは、救いを取り消しにならないようにする努力ではありません。私たちを一方的に愛し、救ってくださった神さまの恵みにとどまり続けるための努力です。
クリスチャンの信仰を理解するためのキーワードの一つは「すでに」です。私たちが神さまを信じ、神さまのみこころにかなう生き方を始める前から、私たちはすでに神さまに愛されています。イエスさまはすでに十字架にかかり、復活して、救いに必要な条件をすべて整えてくださっています。私たちはすでに永遠の祝福をいただくことが決まっています。
この世、そして悪魔や悪霊たちは、私たちがすでに救われており、永遠に神さまの愛から外されることはないという事実から私たちの意識をそらせようとします。ですから、私たちは神さまの恵みにとどまり続ける努力が必要です。
マルコは一度失敗してしまいました。しかし、バルナバからの励ましを受け止め、あきらめず真剣に再チャレンジしました。その結果、パウロだけでなくペテロからも認められるようなすばらしい伝道者に成長しました。
私たちも、自分がすでに愛され、すでに救われており、すでに幸せに向かって着々と前進しているという事実を忘れないようにしましょう。そして、その事実を自分や周りの人に向かって語り続けましょう。
それによって、私たちは神さまに愛され、本当の幸せに向かって守り導かれていることを確信できるようになります。そして、「何があっても、何がなくても大丈夫」という安心感を得ることができるようになります。
神のみこころに従う努力
私たちのクリスチャンとしての人生は、罪を赦されて神さまの子どもとされたら終わりではありません。イエスさまのしもべとして、イエスさまのみこころにかなう生き方、イエスさまを悲しませるのではなく喜んでいただけるような生き方を積み重ねていく必要があります。
先ほど確認したように、神さまの愛は常に私たちに注がれています。しかし、私たちが神さまの方を向いていなければ、せっかく神さまが差し出してくださっているさまざまな祝福を受け取り損ねてしまいます。
しかし、私たちが神さまを愛し、神さまにお仕えするならば、私たちと神さまの間の愛のパイプはますます太く強くなります。そして、私たちはより神さまからの祝福を実感できるようになっていきます。
この世や悪魔、悪霊たちは、私たちが神さまに従うのを邪魔してきます。損な生き方は大変だぞと脅したり、代わりに自分勝手な生き方をした方が得だぞと誘惑したりするのです。実際、イエスさまに喜ばれる生き方を続けるのは大変です。救いを手に入れるのに努力は必要ありませんが、イエスさまに従い続けるのには努力が必要なのです。
しかし、テモテはイエスさまのみこころに従う努力を実行しました。テモテが住んでいたのは、迫害の激しい地域でした。にもかかわらず、テモテはこの世と妥協したり、自分の欲望を最優先にしたりせず、努力してイエスさまに従うことを選び続けました。
そのため、周りの人たちから高評価を得、それがパウロに同行してワクワクするような体験をするきっかけとなりました。
また、マルコもパウロからの叱責を真剣に受け止め、イエスさまのみこころを実践するようになりました。それによって、マルコは神さまからのさまざまな祝福を体験できるようになります。
今、イエスさまがあなたにやめてほしいと願っておられる行ないは何でしょうか。そして、代わりに実行してほしいと願っておられる行ないは何でしょうか。それを実行するのは大変かもしれません。しかし、勇気を奮い立たせて実行しましょう。
福音を伝えるための努力
パウロはテモテに割礼を受けさせました。それは救われるのに必要だからではなく、テモテがユダヤ人に伝道できるようにするためです。
私たちは神さまのみこころを実践するための努力が必要だとお話ししました。特にここでは、人の救いに関する神さまの思いに注目しましょう。
聖書の神さまは、できるだけ多くの人たちがイエスさまの恵みの福音を信じて救われることを望んでいらっしゃいます。
(第1テモテ2:4)神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。
パウロは、自分は福音を伝えるためなら何でもすると言いました。彼は命がけで福音を宣べ伝えました。バルナバもペテロモテモテもそうです。
マルコも、一度は失敗しましたが、それでもまた戻ってきて命がけで伝道し続けました。教会の伝承では、マルコは復活祭の礼拝をしているときに捕えられ、首を縄で縛られて町中を引きずり回された挙げ句に殺されたといいます。

ヤコポ・パッサーノ「聖マルコの殉教」
(画像引用:feeltheart)
皆さんはプロの伝道者ではないかもしれません。しかし、他の人がイエスさまに一歩でも近づくことができるよう、自分にできることを考えて実践しましょう。今より、ほんの少しの努力を付け加えて。
ある人は、習字が得意でした。そこで、押し花が趣味の教会の仲間と一緒に押し花と聖書の言葉を添えたしおりや絵はがきを作って、いろいろな人に配っています。
別の人は、私が毎週教会の公式サイトに上げているショートエッセイを、メールで友だちに紹介しておられます。
さらに他の人は、社員食堂を利用する際、以前よりほんの少しだけ長く食前の祈りをするようにしました。すると、それを見て興味を持った他の人に、自分の信仰について自然と会話できるようになったそうです。
私たちが神さまのみこころにかなう生き方をする努力、特に福音を伝えるための努力をし続けるとき、神さまは初代教会のクリスチャンたちが体験していたような、ワクワクするような人生を味わわせてくださいます。